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4節


 騒々しかった数日がまるで嘘のように、牧歌的で平和な二週間あまりが瞬く間に過ぎ去った。アオイは終始「退屈で死にそうだ」と騒いでいたが、言うほどにはこの街の滞在を嫌っていたわけではないようだった。リンネにしても同様だ。もともと彼女は大人しい子であるので、エリカの街の雰囲気は肌に合っていたのだろう。もちろん、それだけでなく、この街で出来た新しい友達のお陰、という部分も大きい。

 エリカ バイは自らの気持ちに決着を付けると、今まで遅れがちだった分、精力的にリハビリをするようになった。歳が近いこともあってか、アオイやリーゼともすぐにうち解け、暇を見付けては俺の病室に顔を出すようにまでなっていた。また、中でも彼女がリンネとしりとりで遊んでいる所は幾度となく目にした。しりとりは、日系である俺の父親から教わった遊びで、同じ日系の彼女からしてみれば、同郷で馴染みのある遊びだった、ということも理由なのかもしれない。

 三週間近くお世話になった病室で、自分の荷物をまとめる。退院の準備である。足はまだ完治しているわけではないのだが、無理をしないという条件でアイヒマン医師から許可を貰い、予定よりも早めに退院することになった。

 外では、とっくに修理の終わった車でアオイ達が待っている。あまりのんびりしていると小言がうるさいが、こちらは退院するとはいえ怪我人だ。多少ゆっくり向かっても問題ない。

 重みのある荷物は既に車へ運んであるので、簡単な身の回りの品をバッグに詰め込み、杖をついて部屋を出る。

 病室を出た所で、廊下を歩くシュミット女史に出くわした。

「もう準備はよろしいのですか?」と穏やかな表情で尋ねるシュミット女史。

「はい。お世話になりましたミセス シュミット」

「いえ、怪我人をお世話するのは私達の仕事ですので。それに、アイヒマン先生に許可を貰ったといっても、完治はしていないのですから、無理をしてはいけませんよ」

「分かってます」

 すっかり慣れてしまったシュミット女史のお小言に苦笑しながら返答する。

 そこでふと思いついた。入院している間、彼女と接する機会は少なくはなかったが、その都度不思議に思っていた小さな疑問を、この際だから尋ねてみる。

「ところでミセス シュミット。以前から不思議に思っていたんですけど宜しいですか?」

「なんでしょう? 私に答えられることでしたら、何なりと」

 そう落ち着き払って答えるシュミット女史の胸元、彼女の名前が書いてある銀色のネームプレートを指さす。そこには『Doris Schmid』と綴られている。

「変な事を聞いて申し訳ないのですが、そのネームプレート、綴りの最後がディですけど、それだとシュミッドになりませんか?」

 そういうと彼女は自分のネームプレートを眺める。

「そんな事ですか。これは最後の綴りがディでも、濁らずにシュミットと読めるのですよ」

「あ、そうなんですか」これは恥ずかしい。

「もっとも、私のファミリィネームの綴りはディではなく、ティティですけれどね。このネームプレートは事務の手違いです」

 そう言って彼女は片眼を瞑って口の端を上げた。退院の日にして初の彼女のジョークに、不覚にも笑ってしまった。まったく、やってくれる。

 シュミット女史とはもう一度挨拶して別れ、気を取り直して一路ロビーへ。

 異なる二つの音をリノリウムの床に響かせながらロビーへ向かう。通路で擦れ違う入院患者や職員に片っ端から声を掛けられるのは、偏に屋上の一件が大きいのだろう。元もと、俺個人の印象や人付き合いなど、水で割った合成アルコールよりも薄いのだ。

 途中、中庭の連絡通路の脇を通る。立ち寄ることはないが、視界に入った特別病棟に思いを馳せた。あの年代物の建物の中には、まだ幾人もの人達が眠りに就いている。目覚めるその日まで、良い夢を見ていることを願おう。

 混雑しているとはお世辞にもいえない、人も疎らなロビーへ辿り着く。何人かの見知った顔がこちらに気が付き、待合所の席から立ち上がった。

「遅いですよぉ。もう皆さん待ちくたびれてますよう」

「そんなリーゼさん、タクマさんはまだ完治しているわけじゃないんですから……」

 とリーゼとエリカ。彼女達に笑顔で謝罪すると、アオイとリンネも席を立つ。

「そうね。大方、途中でミセス シュミットに挨拶でもしてたんでしょ。」

「怪我人だから、ゆっくり歩いて来ても文句を言われる確率は低いからな」

 うちの女性陣は察しがよくて困る。

 車で待っているかと思っていたアオイ達は、ロビーの待合所で待っていた。彼女達は既に荷物を車に載せ、準備は万端だという。

 リーゼとエリカは見送りだ。以前から見送ってくれるとは話していたが、エリカはともかくリーゼはサボりだろう。

「皆さんは、これからどちらへ行くんですか?」

 連れだって外に駐車している車へ向かう途中、エリカが誰となしに尋ねた。

「私達の旅の終着点は、西にあるテオの街だ」エリカの隣を歩くリンネが答える。

「テオの街? あそこって確か海沿いですよね? 遺跡の有名な。ここからだとまだ三千マイル近くありますよ?」と話しを聞いたリーゼ。

「うん、そうなんだけどね」アオイが苦笑を浮かべながら補足する。「テオの街にね、リンネのお母さんがいるかもしれないのよ」

「いるかもしれない、ではない。テオの街に母さまはいるのだ」

「俺達はもともと、この子を母親の元へ連れて行くことが目的なんです。ここに寄ったのも、道中にちょっとしたトラブルがあって、やむなく」

 そう言った後に、ちょっとしたトラブルである事故を思い出して、つい横のアオイを見てしまう。が、予見していたのかカウンター気味でアオイの指が俺の頬に刺さる。

「あ、そうそう! そういえば、屋上の一件の時、アオイさんは何処にいたの? 始めはいたのにいきなりいなくなっちゃうから、どうしたのかと思いましたよ」

 無言で俺の頬に指を刺し続けるアオイの気を逸らすように、リーゼが唐突に話題を変える。咄嗟とはいえ内容が内容なだけに、エリカが気になってしまったが、別段気にしているような感じはしない。

「あの時なら、私は反対側の一般病棟の屋上にいたわよ」

「そうなんですか? なんでまたそんなとこ?」

「アオイはエリカの注意を逸らす為、反対側からフラッシュグレネードとやらを投げ込もうとしていたのだ」

「ええ!」

「ちょっとリンネ! それだともの凄い凶悪に聞こえるからやめてよね!」

「すまない。配慮が足りなかった……」肩を落とすリンネ。

「ほ、ほら、一般病棟の屋上って、少しだけ高いじゃない? だからそこから、特別病棟にいる皆さんの頭上に注意を引く発光体を作って、そっちに気を引かれているうちに、タクマ君がこう颯爽とエリカをさらう……ていう作戦だったんだけど、やっぱ無理あった?」

「無理あり過ぎじゃないですかねぇ……」

「わ、ワタシもちょっとそれは……」

 呆れたように苦笑を浮かべながら、リーゼとエリカは口々にやんわりとアオイの行動を否定した。当然の反応と言える。

「だから、あの時は俺も必死だったんだ」

 結果的に、俺が彼女の代わりに落下した事によって、アオイが無茶な行動を取るのを防いだことにもなる。仮にあの時の状況でフラッシュグレネードなんかを使っていたら、俺一人の怪我では済まなかっただろう。

 そんな俺の気持ちを知ることなく、アオイは「そっかぁ、やっぱりねぇ」と冗談めかしている。照れ隠しであることは間違いない。

「ねえ、リンネちゃんのお母さんはどんな人なの?」

 笑っているアオイを余所に、エリカは傍らのリンネに尋ねる。

「私自身は母さまに会った事はない。だが……」前を向いたまま質問に答え、詰まった言葉を押し出すようにエリカを見上げる。「とても美しい方と聞いている」

「そう。きっとリンネちゃんと同じ綺麗な髪をした人なんだろうね」

 エリカはリンネに絹のように柔らかい笑顔を向けると、どこか遠くを見つめるように瞳を細める。もしかしたら、自分の母親の事を思い出しているのかもしれない。

 車まで到着すると、持っていた手荷物を後部座席に投げ入れる。修理が終わってから一度も車両の確認をしていないが、修理前よりもむしろ綺麗になって戻ってきていた。受け取りに行ったアオイ曰く、時間があったので壊れる前よりチューンナップしておいたという。元からピーキーな調整のしてあった車だが、それに加えて何やら事故を起こす前よりも巨大化している足回りに、ハンドルを握ることへ一抹の不安を覚える。

「それじゃあ二人とも、わざわざ見送りありがとう」

 車への不安を顔には出さないように努めながら、見送りに来てくれた彼女達に礼を述べる。あまり長居しても、出発しづらくなるだけだ。

「いいんですよぅ。これも私の仕事なんですから。それよりも、あんまり無茶して、アオイさんやリンネアちゃんに心配掛けちゃダメですよ」

「気を付けるよ。リーゼもあまりミセス シュミットに苦労を掛けないように」

 そういうと「あはは」と力無く笑いながら身を捩らせるリーゼ。これでいて彼女は患者からも人気があり、技術もしっかりとしたものを持っている。しかもあの厳格なミセス シュミットが目を掛けているという事は、やはり根は真面目で見込みのある子なのだろう。

 リーゼの隣で、エリカが握手を求めてきたので、快くその手を握る。初めて見た時よりも、いくらかふっくらとしたかもしれない。しかし陶器のような白さは変わらずだ。

「本当にありがとうございました。タクマさんがいなかったら、どうなっていたか分かりません」

「そんな事はない。前にも言ったけど、俺はなにもしていないよ」

「それでも、です。ありがとう」そう言って、俺の手を放した手を、今度はリンネが握る。

「元気でな」

「リンネちゃんも元気で。お母さんと早く会えると良いね」

「うん、ありがとう。全部終わったらまた来るから、それまでにもう少し、勉強をしておくんだぞ。エリカはレに弱すぎるからな」

 どうやらしりとりの話しらしい。エリカはリンネの言葉に微笑みながら了解する。

 彼女が明るくなったのは、両親の手紙や自分の気持ちを整理した事だけではなく、リンネとの交流も要因の一つだったのだろう、と二人を眺めながら想像する。兄妹はいないとの事だったが、彼女にしてみれば、妹が出来た感覚なのかもしれない。

 続いてアオイがエリカを抱きしめる。

「元気でね。新都の方に来る事になったら必ず連絡して。私が美味しい店から面白い雑貨屋まで、隅から隅までばっちり案内してあげるから」

「はい。ありがとうございます。その時は必ず」

 二人の姿を見ていると、今度は先程とは逆に、エリカが妹のように見える。確かにアオイは今居る女性陣の中で最年長だが、それだけではないだろう。アオイはもともと世話好きな面のある女性だ。そこへ行動的な性格も加わって、周りは彼女を頼りにする。さながらアオイが長女。エリカが次女。リンネが三女の三姉妹といった感じだろうか。

「それと、携帯端末を買った時は、用事がなくてもすぐに連絡する事。これは絶対。アドレスは、教えてあるよね?」

「ハイ。もうばっちりです。初任給が出たらすぐに買いますから」

「初任給?」

 思いもしなかった言葉に、つい二人の会話の間に割り込んでしまった。しかし、今から初任給の話しをしているという事は、まるでもう仕事先が見付かっているみたいではないか。そんな話しは聞いていないが……。

「あ、私、来月からこの病院で働かせて貰う事になったんです。見習いですが、シュミット婦長に相談したら話を通して下さいまして」

「さっき待合所で聞いたの。タクマ君はちんたらしてたから知らなかったみたいだけどねぇ」

 俺が感嘆符を口から漏らしていると、思い出したように、エリカは補足する。

「まだ両親が残しておいてくれたお金が残っているので、両親の所在やお墓なんかを捜そうかとも思ったんですが、それよりも、この病院で働いて、私と同じように眠っている人達の役に立ちたいんです」

「へえ。でもそれだと勉強もしなくちゃいけなくないか? リハビリもまだ残っているんだろ?」

「ええ。そうなんですが、頼もしい先輩もいますし、平気ですよ」

 そういってエリカは笑顔のまま後ろのリーゼを一瞥する。なるほど。

「エリカは学習意欲の低いタクマ君とは違うんだから心配しなくても大丈夫よ」とアオイ。

「んっうん……、まあ、俺の話はともかくとしてだ」アオイを牽制するように咳払いをすると、改めてエリカに向き直る。「じゃあ、それが君の夢なのかい?」

「夢? ああ……」俺が尋ねた夢という単語に、彼女は納得したように頭を振る。「そうですね。今の所はただの目標ですけど。だけど、目標を重ねていくうちに、きっと本当の夢を見付けられるって信じています」

 そういって微笑んだ彼女の笑顔には、屋上で感じた不安や孤独は見当たらなかった。これならきっと大丈夫だろう。

「あ、そうそう。忘れる所だった」リーゼと話しをしていたアオイが、思い出したように近づく。「タクマ君がこの前言ってた調べ物、予想通りビンゴだったんだけど……」

「ああ、その件ね。その話しなら車の中で聞くよ」アオイの言葉を遮るようにして、言葉を被せる。

「車の中? 良いの?」怪訝そうに眉を寄せる。

「いいんだ。問題ないよ」

 「あそう。それなら別に良いけど」とアオイが呟いたところで、そろそろ出発する事を周りに伝える。このままでは埒があかない。

 アオイとリンネを車に乗せると、自分も回り込んで運転席に乗り込む。こうしてみると、怪我をしたのが左足で幸いだったのかもしれない。右足さえ動けば運転は出来る。

 運転席のコントローラで窓を下げ、もう一度最後に別れの挨拶をそれぞれにする。いよいよお別れだ。

 エリカはこの街の、この病院で。

 俺達は西のテオの街へ。それぞれの場所へ出発しよう。

 緩やかにアクセルを踏み込み、モーターセルが回り出す。僅かに響く高周波が汽笛だ。

 別れを惜しむように、石畳で舗装された道を、車はゆっくりと進む。

「本当にありがとー! お元気でー!」

「いってらっしゃ〜い!」

 後ろに流れていく景色の中で、二人の姿が徐々に小さくなる。リンネは二人が見えなくなるまで、後ろの窓からずっと手を振っていた。アクシデントが重なったといっても、一カ所にここまでの時間滞在していた事は初めての事だったのだ。名残惜しいのは、何もリンネだけではない。

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