1節
Act 1.0 log no.11
第一話 百年後に素敵な夢を
- Letter for 100 years -
1
夢を見ていたような気がする。何となくそんな感覚だけを残して、目を覚ました。
夢の内容は覚えていない。いつも通り。今回は覚えているのではないか、と少しは期待をしてみても、そんな事を考えた途端に、霧よりも早く散っていく。本当は、夢なんか見ていなかった確率が高い。
目覚めて始めに見た光景は白い天井。室内に漂っている鼻につく消毒液の匂いに混じって、微かな甘い香り。
続いて覆い込むような影。見慣れた黒曜石みたいな瞳と目が合う。
「あら、おはよう。良い夢は見られたかしら?」笑顔のアオイ。
「おはよう。最高の夢だったけど、今忘れた」
寝起きで恋人の顔を拝めるのは悪くはないけれど、上から覗かれている時は、大概が悪戯をしようとしている時なので、あまりいい気がしない。
ベッドから身体を起こして、アオイとはベッドを挟んだ反対側で枕元の花瓶に水をやっているリンネに声を掛ける。
「おはようリンネ。今日も見舞いに来てくれたんだな」
「暇だからな。タクマが入院していれば、私達は先に進めない」
「悪いな」
「大丈夫だ。気にしていない」
作業を止めることなく冷静にリンネは応えた。腰まで伸びた栗色の髪に、夏の晴天時に雪が降っているかのようなデザインのワンピースがよく似合う。初めて見る服装だが、いつの間に買ったのだろう。
リンネは花に水をやり終えると向きが気になるのか、その北方系独特の碧い瞳を微動だにさせない程真剣な表情で、花や花瓶の位置をずらしている。
出会った当初に比べれば格段に話しをするようになったが、それでもリンネの表情の動きは小さい。九歳の子供にして既に省エネルギーなのだから、彼女の未来は明るい。
「リンネは気を使って気にしてないなんて言ってるけど、たかだが全身打撲くらいで入院するなんて、タクマ君少しだらしがないんじゃないの?」
「車が中破する程の事故で全身打撲だったら御の字じゃないか?」
「どうかしら」アオイは呆れたように溜息をつくと腰に手を当てる。「それにしたって入院なんて、やっぱり日頃から怠けている所為だと思うんだけど?」
「いや、それについては後頭部をしこたま打っている影響もあると思うのだけどね……」普段から聞き慣れたアオイの小言に、思わず苦笑する。
アオイはリンネとは対照的に、耳が軽く隠れるほどのショートヘア。髪の色は俺と同じく漆黒だが、日系の俺とは違い、彼女は大陸系だ。また、引き締まった足のラインを強調するかのようなパンツルックは、身長の高さと、腰に手をやっている立ち姿も相まって、まるでファッションモデルのような威圧感を感じる。
彼女はリンネのように省エネにするつもりはないらしい。『はつらつ』と言えば聞こえはよいが、捉え方によっては、その有り余ったエネルギーによって今回の事故が起こったのだから、怪我をして入院をしている身からすると、つい考えてしまう。そもそも、齢二十四にして『はつらつ』も何も無いだろう、とも個人的には感じる。
「なに? なんか言いたそうな感じね」不満そうに目を細めるアオイ。
「いや、それはアオイの考え過ぎじゃないか?」
「どうせ今回の怪我も私の所為だとか考えてるんじゃないの?」
「いえ全然」
「ウソばっかり」
そう言ってアオイは俺の頬を指で突く。思えばこの指が事故を起こしたかと思うと、つい視線に出てしまう正直な自分が恨めしい。
アオイは俺の視線で意図を察知したのか、無言でさらに強く、捻りも加えて捻り込む。爪が食い込んで少々痛い。
「この前の事故なら、運転中にじゃれ合っていた二人が悪い」リンネは改善作業の手を止めずに一瞬だけ視線をこちらに向ける。「それに、タクマは私達を庇って怪我をしたのだ。感謝をしても、責めてはいない」
「おお、そうだよ。リンネは素直だな。素直な女の子は男子にモテるぞ」
「だが」リンネはすぐさま視線を花瓶に戻す。「それを差し引いても、三日間の入院はだらしがない。鍛錬不足を指摘されても文句は言えないな」
「ああ、そうだな……」
リンネの容赦のない言葉に、一瞬心が砕かれそうになった。彼女の純粋な感想は、なまじ九歳とは思えない頭脳を持っている分、筋が通っていてタチが悪い。
二日前。追跡する車をまいたその直後に俺達は事故を起こした。車は中破。走行不能に陥っていた車で最初に気が付いたのはアオイで、彼女は気を失った俺とリンネを引きずり出して、そのまま近くの街に救助を求めた。幸い事故現場から二キロにも満たない場所に小さな街があり、俺達は現在、その小さな街、『エリカ』にいる。
車は中破していたが修理が可能な範囲であり、目下街の工場で修理中。俺は軽い全身打撲と足の捻挫程度だったが、後頭部を打って気を失っていた為、検査も兼ねて三日間の入院となった。
アオイは口ではだらしがないと言ってはいるものの、その実、病院に搬入される時は自分の怪我もそっちのけで俺に付いていたらしい。これはリンネにこっそり教えてもらった事だが、今後俺の口からは漏れる事はないだろう。こういう話は墓まで持って行く事に決めている。
「けどさ、それにしてもこの街って何にもないのよ。申し訳程度の観光施設だけ。それもプライマリの子が行くような資料館とか。ホント滅入るわぁ」大袈裟に溜息をつくアオイ。
アオイのいう娯楽施設というのは、主にVR系のアミューズメントスポットの事を指しているのだろう。だとすれば、大型都市や、主要ターミナルでもない限り、どの街もそんなものなので仕方がない。
「だからホテルの部屋で、しりとりをしようと言ったんだ。アオイが暇そうにしているから」とリンネ。
「やあよ。アンタ、放っておいたら一日中でもしりとりしてるじゃない」
「いくらリンネでもそれはないだろ」
アオイとリンネの会話に笑いながら参加する。リンネも俺の言葉を聞いて、小さく頷く。
「そうだ。いくら私でも睡眠や食事、それにシャワーや身の回りの事もあるから、仮に暇な時間が出来たとしても、最大でせいぜい五時間が限度だ。アオイの言う一日中というのは、少し大袈裟だぞ」真剣な表情のリンネ。
「五時間なら平気なんだ……」アオイと顔を見合わせる。
無傷だったアオイとリンネは、二人で街のホテルに泊まっているという。昨日のうちに街中は殆ど見て回ったようで、アオイはこの街の娯楽施設の希薄さに、既に辟易としている。だからといって特別にやるような事も無いので、暇というのは事実のようだ。
俺はこのように入院していて、まだ街の中を散策してはいない。しかし、窓から眺める街の様子から悪い印象は受けない。
街の規模からみる人口は千未満といったところだろうか。西の地方によく見られる煉瓦作りの家屋に石畳の街道。中継都市として作られたのか、病院の前を走るメインストリートを中心に建物が並んでいる。これは街よりも先に道があった証拠だ。三階の窓からは道行く人々の表情までは読み取ることは出来ないが、少なくとも皆急いでいる感じはしない。多くの人々、多様な人種が行き交う大都市には無い穏やかな雰囲気だ。一言でいえば牧歌的。牧歌的というのは、とても素敵な響きの言葉だと思う。
俺が入院している病院は、エリカの街でただ一つの総合病院になるらしい。この病院は街の規模から考えると考えられないほどに大きく、Hの両端を太らせたような建物は、設備もしっかりとしていて、新都や主要ターミナルの大型都市に引けをとっていない。
しかし、これだけの設備だと運営資金は何処から出ているのだろうか、と考えてしまう。大人として金銭の事をすぐに考えてしまうのは気恥ずかしいが、その点は非常に気になってくる。俺もアオイ達と同様に、暇を持て余してはそんな事を考えていた。
この街だけで賄っているとは到底思えない。なぜなら、大部屋に入院しているが、六つあるベッドは俺を含めて二つしか埋まっていない。他の部屋もほぼ空き部屋らしく、外を眺めて、道行く人々を観察しても、ここまでの病院が必要だとは到底思えない。
「あら、お二人とも今日もお見舞い? タクマさん、両手に花ね」
部屋のドアが開く音がして、看護婦が部屋に入ってくる。俺を担当している看護士のリーゼロッテ。入院してまだ二日だが、病院の職員にしては落ち着きがない。歳は案の定アオイの一個下だという。
「あ、リーゼロッテさん。検温の時間ですか?」
アオイがリーゼロッテの声に振り返る。見事に社交用に整えられたその声と雰囲気には、つい感嘆の息が漏れてしまう。
人懐っこい顔をしたリーゼロッテは、そんなアオイの姿に片えくぼ付きの笑みを浮かべながら、頭を振る。
「ううん。検温はもう少し先。暇だからね、遊びに来ちゃった」手を後に組んで身を捩る。「それと昨日も言ったけど、私の事はリーゼで良いわよ」
「そんな事をしていると、また婦長に怒られるぞ」とベッドを回り込んでアオイの隣に来たリンネの忠告。彼女は誰にでも物怖じしない。どうやら改善作業は終わったようだ。
「ご忠告ありがとう。でも、大丈夫よ」リーゼはそういうと、リンネの頭を撫でた。昨日見ていた限りでは、彼女の大丈夫はあまり当てにならない。「それに、婦長は今日の午前中は、特別棟の担当だから、こっちの一般病棟にはまず来ないのよ」
「特別棟? そんなのがあるんですか?」
「そうよぅ。今私達のいるこの場所が一般病棟。そいでもって、ここの裏側にある、年代物の建物が特別病棟。その名の通り、特別な患者さんが入院してるの」
「特別な患者さん……、感染症とか?」アオイの質問。
「いいえ。そういう感じの特別じゃないの。まあ、ワケありって言うのは確かなんだけどぉ……聞きたい? 聞きたぁい?」
楽しそうに身を捩りながら俺達に尋ねるリーゼ。これは明らかに彼女自身が話したがっている様に見える。というより、これは「話すから聞いてね(はーと)」という決意表明である事は間違いないだろう。
そんなリーゼの心中を察してか、俺達は三人とも同時に頷いた。うちの女性陣は皆察しがよい。
「実はね、うちの病院って、大戦前からここにあるらしくて、元は企業の研究所だったのよ」
「へえ。この街って、そんな昔からあるんですか? それにしては、そんなに古い感じはしないけど」とアオイ。
彼女の疑問はもっともで、その話が本当なら、この街は三世紀近く昔からある事になる。
俺もその点には疑問を感じたので視線を向けると、リーゼは小さく頭を振る。
「違うの。この街がそれだけ昔からある訳じゃなくて、この街自体が研究所のあった場所に建造されたのよ。だから、この街の歴史はせいぜいその三分の一くらい。これは街のデータベースでも確認出来る史実よ」
「そっか。じゃあ、さっき言ってた特別病棟ってのが、元々の研究所だった施設ってわけね?」
「そうそう。それでね、面白い事に、その研究所では不老不死の研究をしてたらしいの」両手を握り、祈るように天井を見上げる。「信じられる? 今の技術でも不可能な不老不死なんていうのを、三世紀近く前から研究してたのよ?」
「それで、成果はあったんですか?」
「残念! その辺は知らな〜い」握っていた手を離し、脱力したように手を下ろす。「なんせ古い話だからね、当時の資料や研究データなんて殆ど残ってないの。あ、もちろん私が知らないだけで、今も院長室とかに資料があるのかもしれないけど。でもでも、その研究成果の一つが特別病棟には関係があるのよ」
「まさか、不老不死の人が入院しているのか?」リンネが話しに食いつく。彼女からしてみれば当然の反応だろう。彼女の捜し人もまた、不老不死と言われている女性なのだ。
不老不死の話しが出た時にも感じた事だが、これでもし本当に不老不死の人間が入院していれば、それも女性だったのなら、俺達の旅は目的地を待たずして、完遂する可能性がある。
アオイも同様の事を感じているのか、表情に若干の真剣みが加わっている。
「あら、リンネアちゃんはそういうのに興味があるの? でも残念、そんなビックリトンデモ人間さんは入院してないわ。特別病棟に入院してるのは、もっと別の人達」
「そうか……、違うのか……」
目に見えて肩を落としたリンネに「ごめんねぇ」と声を掛けるリーゼ。事情を知らない彼女からすれば、他愛のない子供の興味だ。
「それだったら、特別病棟に入院している人達っていうのはどういった人達なんですか?」話の先を促す。
「うん。平たく言えばコールドスリープをしていた人達、及び今もしている人達ね。ウソか本当かは知らないけど、さっき言った不老不死研究の副産物らしくて、一番古い方で、200年くらい前らしいわ」
「200年! そりゃ凄い」
現在のコールドスリープは比較的メジャなものだが、それが本当なら、間違いなく最長クラス、記録物だ。
コールドスリープはあくまで目覚める事が前提だ。あまり長期に渡ると、細胞劣化等の問題があるようで、実際、飲み友達であるコールドスリープ帰りの爺様がコールドスリープしたのは、ざっと五十年くらいの期間らしい。
「でしょでしょ? それでね、まあ、そこまでとはいかないにしても、この病院ではそういった方の管理や、アフターケアなんかもやってるの。こんなんでも、実はこの病院って、ワイズ インダストリアルの傘下なんだよぅ。だからもしかして? とか想像しちゃったりするじゃな〜い」
なるほど。ワイズ インダストリアルが親会社なら、この病院の規模や施設も納得する。
軍需産業から家庭用一般生活品まで幅広く扱っているワイズ インダストリアルは、世界でもトップクラスの資本を持った大企業だ。ネットの噂では、系列会社全てをまとめた現在の資本は、実に主要国を三つほど買えるという。もちろんネットの情報など誇張膨張しているのが定説なので、その全てを信じる訳にはいかないが、周りにそうまで言わせる資金力は本物だ。病院の一つ、いや、街の一つくらい賄うのは訳がないだろう。加えて、ワイズ インダストリアルの前身となった会社は、話しによると大戦前から続いている会社だというので、その不老不死研究の話しも、あながちデマというわけでも無さそうだった。
俺がこの病院の規模についての疑問を解消していると、アオイは肘を抱えるように腕を組んで眉間にしわを寄せている。
「どうかしたのかアオイ?」
「ん? いやね、どんな理由があるにしても、私だったら100年や200年も未来の世界で生きたくはないかなぁ、とか思ってさ」
リーゼも「そうよねぇ」とアオイの言葉に同意する。
「なぜだ? 一般的なコールドスリープは延命というより、治療が目的だろう? 健康になるのは良い事だ」とリンネ。
「リンネアちゃん良く知ってるわねぇ。そうよ、確かにここに入院している方々も、治療の為に眠っているけど、実際にはそんな単純な事じゃないの」諭すようなリーゼ。
「どういうことだ?」
「いいかリンネ、考えても見ろ。夜寝て朝起きたら、全く別の世界にいる。知り合いは誰一人もいない。もちろん両親はおろか、自分が住んでいた家だって無い。そんな状態に、自分がいきなり放り出されてしまったら、リンネだったらどう思う?」
俺の問い掛けに、リンネは大きな瞳を殊更大きくして、ハッとした表情を浮かべた。その瞳は、この場にいる大人達の言葉を理解して影を落とす。
「そうか……、そういうことか……。確かに、身体が元気になっていても、それではツライな……」
「そういうことだ」
ベッドから手を伸ばし、リンネの小さな頭に軽く乗せる。
「そうねぇ、私もそういう状況になった事がないから分からないけど、実際本人は相当キツイみたいよ。この前だって、特別棟で自殺騒ぎがあったばかりだし……」リーゼは組んだ手を頬に添えて、思い出すように漏らした。
「自殺? 随分と穏やかじゃないですね?」
俺の問い掛けに、リーゼは口に手を当ててそっぽを向いた。どうやらあまり言ってはいけない事だったようだ。
「ま、まあ……、い、今の話しは置いておいて……、つ、つまりは特別棟はそういった場所なの。100年単位でアフターケアまでしている施設なんて、新都にだって無いんだから。凄いでしょ?」
あからさまに誤魔化された。隣のアオイに視線を送ると、軽く肩を竦める。その意味は「なんだかね」だ。俺も全くの同感だった。
「あ、そうそう、そういえばこの前…」とリーゼは強引に話を切り替えた。アオイもリーゼの心情を察して先程の話題を追求することなく応じている。単語を拾うと映画の話のようだが、あいにく俺は娯楽関係には疎い為、彼女達の話は左から右へベルトコンベアみたいに流れていた。
— それにしても、百年の眠り、か……。 —
百年の眠り。自分ではせいぜい睡眠の延長程度にしか想像する事は出来ないが、一体どんな気分なのだろうかと思案する。夢は見るのだろうか。だとしても、それは百年分の夢? それとも、一瞬?
きっと同じだ。
例え夢を見ていたとしても、それがどんなに長い夢でも、起きた時には霧散している。忘れている。夢はいつだって覚えてはいないのだ。
アオイ達が来た時、換気の為に少しだけ開けた窓の隙間から、緑の香りをした風が流れ込んでくる。大気中にイオンをたっぷりと含んでいそうな空気の流れは、清潔な白いカーテンを優しく揺らす。
病室の窓から景色を眺めた。外は馴染みのない街だが、隣にいるアオイやリンネを見ると、ここが自分の場所だと思える。
土地が重要なわけではないのだ。人は己の場所を相対評価でしか把握出来ない。例え住み慣れた土地を離れても、自分と記憶を共有出来る人物と一緒にいれば、または周囲に誰もいなくても、思い出に残る景色さえ残っていれば、人はそこに己の場所を感じる事が出来る。いずれにしても、欠伸が出るほど簡単で、それでいてとても難しい問題だ。
思考を中断して、隣で女性特有の話しに花を咲かせているアオイとリーゼに視線をずらすと、彼女達の後方、開け放ったままの扉から、部屋の外で慌ただしく職員が走っていくのが見えた。一人ではない。複数人は脇目もふらず走っていく。
「何だか廊下が騒がしいな……」
「言われてみればそうね。何かあったのかしら?」
「そうですねぇ。私、ちょっと同僚に聞いてきます」
その様子にアオイ達も気付いたらしく、リーゼは部屋から廊下に顔を覗かせ、引き留めた同僚に話を聞いている。ベッドからでは距離があって、会話の内容までは聞き取れない。
そうこうしている内に、リーゼが小走りで戻ってくる。
「ゴメン! なんか問題起きたみたいだから、私もう行くね。明日またゆっくりお話しをしましょ」
そう言ってリーゼは勢いよく両手を合わせて謝罪する。アオイは「気にしてないから」と笑顔で応対した。リンネは特に変化無し。彼女はリーゼがいてもいなくても、あまり関係はないらしい。
「リーゼロッテ! リーゼロッテ ブラウン! 何処にいますか! いたら返事なさい!」
部屋の外、廊下から腹部に響くような大きな声が聞こえる。先程はリーゼと同僚の会話が全く聞こえなかったにも関わらず、それでも聞こえるという事は、彼女を呼ぶ声の大きさを物語っている。加えてリーゼの表情。そこから導かれる声の主は一人しかいない。
廊下から入ってきた小柄な女性。この病院の看護婦長のドリス シュミット女史その人だ。
「ここにいましたかリーゼロッテ ブラウン。緊急でシフトが変更になっています。大至急センターでシフトを確認しなさい」
「シュミット婦長! 私もさっき聞いたばかりでして、これから確認しに行こうと思ってたんですが……」
シュミット女史はリーゼの慌ただしく並び立てる言葉を静かにあげた片手で制する。「言い訳は結構ですから直ちに行動へ移しなさい。私もすぐに向かいます」
「あの……やっぱりそれって、S棟のエリカ バイ……ですか?」
不安そうなリーゼ。恐らくS棟というのは特別病棟の事だろう。スペシャルのSだ。
「口を慎みなさい、リーゼロッテ ブラウン。他の患者さん達の前で軽率ですよ」先程と同じように静かに、しかし迫力のあるシュミット女史の声。そう言うと彼女は、そのまま俺達に向き合った。「お騒がせして申し訳ございません。リーゼロッテも私もすぐに失礼させて頂きますので」
「いえ気にしていません。それより何かあったんですか?」
俺の問い掛けにシュミット女史が答えるよりも早く、廊下から聞こえる他の患者達や従業員の声が騒ぎの内容を伝える。聞こえてきたのは『屋上』『飛び降り』『自殺』という言葉の欠片。アオイ達にも聞こえたらしい。そんな俺達の様子を見て、シュミット女史は諦めたように溜息をつく。
「そうです。特別病棟の患者さんが、先程無断で屋上に上がりまして。もともと問題のあった患者さんなのですが、ちょっとした騒ぎになっているようです。今職員が説得をしている最中ですので、心配は無いとは思うのですが……」
「屋上って、それじゃあもしかして……」
そう呟いたアオイの言葉の続きは、言わなくとも全員に伝わっていた。