陣内博士
五章開始です。
ここからが本番。やっとこれた。
一人の男がドアを開け、家から出てきた。背広を着た、四十台半ばくらいの男性だ。男性の出てきた家の表札には、久坂と書いてあった。
その家は一軒家で、周囲には同じデザインの家が並んでいた。
男は道路を少し歩き、自らが出てきた家を振り返った。二階の窓を見る。そこには、男の息子の部屋があった。カーテンが邪魔をして、外から部屋の中を確認する事はできない。
男は辛そうなまなざしでそれを見つめ、踵を返した。そして歩き出す。一軒家の立ち並ぶ住宅街を複雑に入り組んだ道を歩いていく。
「お久しぶりです、陣内博士。いや、今は久坂啓示さんでしたね」 突然、男は声をかけられた。
「二週間ぶりですか。少し、痩せました?」
声の主は、白衣を着ていた。住宅街に白衣とは、風景から浮いていてしょうがなかった。
やせこけた頬に巨大な隈、そして無造作に伸ばされた髪と髭が、さらに風景との一体化を拒んでいる。男は研究室に篭りきりの、世俗から切り離されたような風貌であり、傍から見れば背広の男に声をかけている姿は、奇妙としか言いようがない。
「……一ノ宮か」
背広を着た男は、声をかけてきた人物に言葉を吐き捨てるように言った。
一ノ宮と呼ばれた男は、嬉しそうに笑う。
「名前、覚えていてくれていたんですか!嬉しいなあ。まさか、陣内博士が僕なんかの名前を覚えてくれているなんて」
「政府の人間が何の用だ。俺はもう、君らと係わり合いはないはずだ」
久坂啓示は一ノ宮の発言を無視し、問う。
一ノ宮は言葉を無視されたにもかかわらず、上機嫌に答える。普段の一ノ宮なら顔をしかめている所だが、今回はそんな様子はない。
「そんな事ないでしょう。検体A01078は今や、人類の救世主となりえるかもしれないのに。とまあ、本音を言うとですね、報告ついでにを世間話でもしようかと思いまして。少しお時間、よろしいですか?」
久坂啓示はそれに頷きはしなかったが、断りもしなかった。
「貴方は覚えていないでしょうが、僕と貴方は昔、こうして話したことがあったんですよ」
二人は住宅街の一角にある、公園のベンチに座った。その公園は小さく、ブランコと鉄棒、そして砂場しかない。
「あの時は天月博士もご一緒でしたね。施設に来たばかりだった僕は、あの時、必死でしたよ。天才と言われるお二方に気に入られようと、自分の知識と研究を語った。今にして思えば、恥ずかしい。あの程度の事であなた方の気が引けるはずかない」
一ノ宮は懐かしそうに語る。そして笑っていた。上機嫌、と言ってもよかった。
「……覚えている。あの頃の君の目は純粋だった。印象に残っているよ。すごく」
久坂啓示は静かに口を開いた。その表情に僅かな陰りが見える。
「だが今の君の目は、暗く淀んでいるように見える」
一ノ宮は、それに対して答えなかった。
一羽の鳩がやってきた。続けて二羽、三羽とやってくる。
エサがないかと地面を観察するように、歩いている。一ノ宮それを見ながら話を始める。
「検体A01078は最高の数値を示しています。あなたが打ち立てた理論どおりの、いや、それ以上の力を秘めている。従来のヴァリアント・システムではその力の十分の一も引き出せやしない」
主婦が公園を通りかかった。その手にはリードを握っている。犬の散歩の途中なのだろう。いつもは公園で愛犬を遊ばせている。だが、白衣と背広の二人を見ると、不快そうに顔を歪め、あからさまに公園から離れていく。
静かだった。公園には二人の話し声しか聞こえない。
「あなたが検体A01078を持ち出して施設を去ってから十年以上が経っている。なのに、あなたは今なお私達の遥か上にいる」
久坂啓示は無言だ。どこか遠くを見ている。
その視線の先には自らの家が、そしてカーテンの締め切られた息子の部屋がある。
「あなたは最高の科学者だ。俗物どもに紛れて才能を無駄にするには惜しすぎるほどの。私ができるかぎりの事をします。報酬だって何だって、望むだけの物が手に入るように。だから、私たちと一緒に」
「俺はもう、政府と係わり合いはないんだ」
一ノ宮の言葉を遮って、久坂啓示が声を発する。
二人の間に沈黙が流れる。
数分間、お互いに何もしゃべらず、動かなかった。
「なぜ、英志を巻き込む?」
口を開いたのは久坂啓示だ。
「あいつは普通の子供だ。普通の人間だ。それなのに何故お前たちは、あいつを闘いの世界に巻き込もうとする?」
それを聞いた一ノ宮は、心底意外そうに言う。
「彼は特別ですよ。それは、あなたが一番よく知ってるでしょう?彼は、エニティレイターを超える力を持っているんだ。変異種を殲滅させるために、そのためにあなたが創り上げたんだ。検体A01078は、ただそのためだけに存在している。違いますか?」
「違う……あいつは……」
「あなたもわかっているはずだ。特異種が施設を脱走してから、もう二十年になる。僕は直接には特異種を知りません。ただ、その恐ろしさはわかる。話を聞いただけでも十分に。そして、特異種を直接に知っているあなたなら、その脅威を僕以上に知っているんじゃないですか?特異種を殲滅する。そのための、検体A01078じゃないんですか?」
「違う。あいつは、英志は、俺の息子だ……」
久坂啓示の身体は震えている。
両手を組んで、いつの間にか視線は地面に向いていた。
「道具に情が移ったんですか?あなたらしくもない」 一ノ宮が立ち上がった。
仰々しい動作で、久坂啓示の正面に立つ。
目の前の男の手を掴んだ。自らの手でそれを包み込み、そして言う。
「あなたはすばらしい科学者だった。目的の為なら手段を選ばない。どんな犠牲も厭わない。何百、何千という命を犠牲にしても、顔色一つ変えない。思わず目をそらしたくなる非人道的な実験も、瞬きせずに観察する。あなたは科学者のあるべき姿だった。あなたが科学者の完成系だった。自らの定めた唯一つの事の為に、全てを犠牲にできる。僕の憧れですよ、あなたは」
「やめろ。やめてくれ。俺はもう、あの世界には戻れない。戻りたくない」
久坂啓示は手を振りほどいた。力強く、無理矢理に。
「……そうですか。残念です。あなたの才能があれば、より確実に計画を実行することができるのに」
一ノ宮は大袈裟に肩を落とした。ため息をいた。
先程までは純粋に笑っていた一ノ宮の顔に、負の感情が入り交じる。
落胆、苛立ち、そしてある種の憎悪。
「状況は動いています。変異種同士は引かれ合う。脱走から二十年も経過した今、特異種がどれだけの仲間を集めているか、わからない。現在はかろうじて日本だけに止まっているが、世界規模で変異種が目覚めれはじめば、もう手遅れになる」
「だから、英志なのか?」
「ええ。先程も言いましたが、あなたの研究は私達の遥か上の領域にある。あなたは施設を離れる際に、研究所データの一部を持ち去ってしまいましたから、私達はあなたの技術を完全に模倣することができないんですよ」
一ノ宮はなおも喋り続ける。
「もう時間がないんです。変異種は年々増加している。確実に増え続けている。『大変異』の予兆かもしれない。それを対処することができなければ、人類はあの突然変異種共に滅ぼされるでしょう。そのためには力が必要だ。エニティレイターを越え、変異種を圧倒し、特異種と同等以上の力を持つ、エヴォリューターである彼の力。それが人類に不可欠なんですよ」
久坂啓示は無言だ。眉を寄せられ、瞼が閉じられている。歯を食い縛り、苦痛に耐えるように表情を歪ませる。
一ノ宮はそれを蔑むように見る。笑顔はもう消えていた。剥き出しの負の感情を目の前の男にぶつけている。
「これでいいと思っているのか?」
声の主は久坂啓示だ。
「変異種も生きているんだ。俺たちと同じように、泣いて笑って悲しんで、精一杯に生きているんだ。俺たちは闘い以外の道を選んでもいいはずだ。選べるはずなんだ」
「……変わりましたね、貴方は」
一ノ宮の落胆の表情が、さらに強くなる。
「完成されたあの姿が見る影もない。今の貴方は俗物以下の存在だ。自らにできることをしようとせず、解決策もないままに偽善を掲げている。理不尽に立ち向かおうとせず、理不尽を綺麗事で受け入れようとしている。何が貴方をそうさせてしまったか。天月博士の死?久坂真由理の影響?どちらにせよ、もう貴方は自分では何もできない、哀れな男になってしまった」
鳩はもう、いなくなっていた。逃げ出してしまていった。
「久坂の名前を使って、罪滅ぼしのつもりですか?そんなことをしても彼女は帰ってこないし、意味はない。あなたを守って死んだ天月博士も、本望じゃないはずです。見損ないましたよ。本当に。あなたはあんなにも完成されていたのに」
「完成?人を人と思わず、自分の自己中心的な知識欲のままに、罪もない命を奪う事がか?」
「しかし、そうしなければヴァリアント・システムは完成しなかった。また、仮想空間も実現せず、変異種の存在を一般人に知られていたことでしょう。あなたの行いは世界を救っている。言わば、正義のため、ですよ」
「正義だと」
「ええ、そうです。正義とは万人を救う事でしょう?あの検体達は正義のための尊い犠牲なんですよ。誰かがそうしなければならなかった。貴方が心を痛める必要はない。貴方の心を縛っている久坂真由理の言葉は、ただの偽善です。『誰も泣かない世界』でしたっけ?そんなもの、創れるはずがない。創れるとしたら神だけだ。そして神は、傍観者として遥かなる高みから僕らを見下ろすだけだ。無理なんですよ。そんなことは。人類が生き残るためには、変異種を殲滅するしかない。これは生存競争なんだ。ヒトと突然変異種、どちらがこの星の支配者にふさわしいか。どちらかが滅びるまでは終わらない。なら、ヒトが生き残るために正義を行うのは当然でしょう」
「そして殺すのか。何の罪もない人間を」
「人間じゃないですよ。変異種です。彼らは人を殺す。だったら先に殺すしかないでしょう」
一ノ宮は久坂啓示に背を向ける。
「昔のあなたなら、それができたはずです。僕の言葉も理解できるはずですよ、久坂啓示さん。いや、陣内博士」
一ノ宮は去った。公園には久坂啓示だけが残される。
「すまない、英志……」
そう呟いた背広を着た男の目には、涙か浮かんでいた。
三人称が苦手だという事を改めて痛感しました。
でも少なくとも、後一回やらないといけないという。