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神様だ! 神力ゼロですが  作者: 狛猫
第1章「ひのひの村」
8/11

#01-08「バレねーよ、ビビってんじゃねーよ」

翌朝、最初に神使の意識を引っ張り上げたのは、小鳥の声だった。


駐車場の端に身を寄せて眠ったせいで、背中は固く、肩も腰も妙に痛い。ちゃんと眠ったはずなのに、身体のどこかがずっと地面を覚えているような目覚めだった。


「朝……ですか」


半分寝ぼけたまま身じろぎすると、すぐそばで布の擦れる音がした。


ごそごそと、何かを探るような気配。


神使が重たい頭を持ち上げると、神様はもう起きていた。駐車場の隅にまとめて置いていた荷物を漁りながら、朝から妙に機敏に動いている。こんな時間なら、寒さで布団代わりの毛布にくるまっていてもおかしくないのに、その手つきには妙な迷いのなさがあった。


「神様、随分と早いですね」


声をかけた瞬間、その背中がぴくりと跳ねる。


神使の胸に小さな違和感が浮かぶ。何かを隠しているときの神様は、大抵こういう妙な動きをする。


その反応だけで、神使の胸には小さな違和感が浮かんだ。何かを隠しているときの神様は、だいたいこういう分かりやすい動きをする。


「お出かけですか?」

「買い物」


返事はあまりにも短く、そしてあまりにも早かった。


探るような視線を向けると、神様はそれに気づかないふりをした。だが、目だけがわずかに泳いでいる。間違いなく何か企んでいるときのそれだった。


「私も準備しますので少しお待ち下さい」


そう言って起き上がりかけたところで、神様は慌てるように首を振る。


「いや、私一人で行ってくる」


その拒み方が、かえって怪しい。


神使は目を細めた。


「まさか、うご山神社じゃないでしょうね?」


図星を突かれた子供みたいに、神様の目が一瞬だけ逸れる。それで十分だった。分かりやすさだけは、昔から変わらない。


「うごうごは……明日の朝に行く」

「明日なんですか?」

「明日なんですわ」


そう言いながら、もじもじと身体を揺らす。落ち着きなく袂を触り、荷物の辺りに視線をやっては外し、また意味もなく足元を見下ろす。さっきまでの妙な機敏さが、今度は露骨な挙動不審へ変わっていた。


神使はそこでようやく確信する。


神様が探していたのは、荷物の中身ではない。もっと別の、そして大方ろくでもないものだ。


「ではどちらへ?」

「ん? あぁ〜」


説明する気のなさがたっぷり詰まった返事だった。


じっと見つめられていることに居心地の悪さを覚えたのか、神様は少しだけばつが悪そうに鼻を掻く。


「大丈夫だ。うごうごに渡すお土産を見繕ってくるだけだ」

「お土産?」


ここまでの流れで大半を察した神使は、深く、深くため息をついた。


経験上、神様が嘘をつくときはもっと堂々としている。こんなふうに視線を泳がせたり、体をもじもじさせたりはしない。ということは、たぶん“お土産を買う”こと自体は本当なのだろう。ただ、そのための資金調達方法がろくでもないだけで。


「お金は持っているんですか?」

「うっ……」


その一言で、神様の動きが見事に固まる。


神使は袖の中へ手を入れた。


「もしかして、これを探していたのでは?」


取り出したのは、そこそこ厚みのある長財布だった。


それを見た途端、神様の目がぴくりと動く。


やはり、そういうことだったらしい。万年貧乏の神様が、お土産などを買う手持ちを持っているわけがない。だから早起きして、こちらが起きる前にこっそり財布を失敬しようとしたのだろう。悪知恵だけは無駄に働く。


神使は、ちらちらと財布へ視線を送ってくる神様を見ながら、もう一度ため息をついた。


「何を買うのか知りませんが、これで足りますか?」


財布から紙幣を何枚か抜き取り、すっと差し出す。


神様は一瞬だけ気まずそうにした。ほんのわずかに視線を逸らし、受け取るべきかどうか迷ったような顔もする。


だが、それもひと呼吸ぶんだけだった。


次の瞬間には、まるで最初から当然そうなると思っていたみたいな顔で、ぬるりとそれを受け取る。


「さんきゅ」

「お戻りは?」

「夕方には戻る」


そこまでは、いつもの気安い調子だった。

けれど、次の言葉だけは少し違った。


「私の正装を用意しておいてくれるか?」

「分かりました」


理由は聞かなかった。


聞いても、きっと今はちゃんと答えない。そう分かっていたし、それ以上に、その一言の裏にあるものを神使なりに感じ取っていた。いつもの神様なら「かわゆい服」だの「一番映えるやつ」だの、余計な注文がいくつもついてくるはずなのに、今はただ「正装」としか言わない。その短さが、かえって本気をにじませていた。


満足そうにひとつ頷くと、神様はくるりと踵を返す。


「じゃぁ行ってくる」


そう言い残し、とてとてと駐車場の外へ向かっていく。


小さな背中は、いつもと同じようでいて、どこか違って見えた。慌ただしくもなく、浮ついてもいない。ただ、自分の中で何かを決めた者の足取りだけが、朝の冷たい道へ真っ直ぐ伸びていく。


その背を見送りながら、神使はひとり小さく息を吐いた。


何を企んでいるのか、まだはっきりとは分からない。けれど、神様なりに何かを考え、そのために動き出していることだけは確かだった。



その翌日。


二人は朝早くから、うごうご山の参道を登っていた。


昨日の駐車場とは違い、こちらはきちんと山の神社らしい風格がある。参道の石段はしっかり整えられていて、ところどころに古い石灯籠が立ち、杉の木立がびっしりと立ち並んでいた。とはいえ、見た目の厳かさと登りやすさは別問題である。


「結構急な山道ですね」


周囲を見回しながら神使がそう漏らしたとき、当の神様は返事をする余裕すらなかった。


「はっ、はっ……」


肩で息をしながら、どうにかこうにか石段を上がっている。


今日はジャージではなく、白衣に緋袴という、きちんと巫女服姿だった。しかし、今はその清楚さより、息も絶え絶えに石段へ挑んでいる必死さのほうが勝っている。それでも袴の裾が地面へ擦れないよう、片手でわずかにつまみ上げ、小さな歩幅で足を運んでいくあたり、所作そのものは妙に板についていた。へろへろになっていても、草履で石段を登る動きだけは不思議なくらいこなれている。


「神様、大丈夫ですか? 少し休憩をされては……」


気遣うような声をかけても、返事はない。


聞こえていないわけではないのだと思う。けれど今の神様の意識は、もう“登る”という一点に貼りついていた。苦しげな呼吸のまま、視線だけは前から逸らさず、一段ずつ、意地みたいに石段を食っていく。


その横顔を見て、神使もそれ以上は何も言わなかった。


疲れているのは見れば分かる。けれど、休みたい顔ではない。むしろ最初から休むという選択肢を捨てている顔だった。ここまでしてでも会いに行かなければならない。その思いだけが、足元のふらつきより先に進んでいるように見えた。


そして──

どうにかこうにか登りきり、ようやく山頂の境内へ辿り着く。


そこで初めて、神様は膝に手をついた。


「はぁ〜……ふぅ〜……」

「やっと頂上ですね」


境内は静かだった。


山頂だけあって空気はいっそう澄み、社殿も堂々としている。柱の太さ、屋根の反り、石畳の整い方、そのどれにも“格”があった。


息を整えきる前に、神様は近くにいた巫女へ声をかけた。


「そこの巫女ちゃん」


呼ばれた巫女が振り向く。


「?」

「私は神宮神籍、内宮付きの神・神様」


その名乗りを聞いた瞬間、巫女の顔色がさっと変わった。


「神宮!?」


神宮の名は、それだけでこの場の空気を変える力がある。山の社に仕える巫女にとっても、それは軽く聞き流してよいものではないらしい。


「ここの神に用があって来た。主様に取り次ぎを願いたい」

「は、はい! 少々お待ちください!」


巫女が慌てて頭を下げかけた、そのときだった。


社殿の奥から、ふっと空気が変わる。

人の気配というより、場そのものの重みが一段深くなるような感覚だった。


「だれかと思えばお前か、久しぶりだな」


軽く手を上げるようにして姿を現したのは、この山の主神だった。


「主神様」


巫女がすぐに頭を垂れる。


神様は、息を整える暇も惜しいとばかりに一歩前へ出る。


「お願いがあって来た。話を聞いて欲しい」

「隣は?」


主神の視線が神使へ向いた。


「私の神使だ」


そこで神使も、すぐに頭を下げる。


「はじめまして。神様の使いで狛犬の神使と申します」


主神は一度だけ頷き、それから巫女へ目を向けた。


「巫女よ、下がっていろ」

「はい」


巫女は足早にその場を離れていく。


その背を見送ってから、主神は改めて神様を見た。そして、その格好に気づいたらしく、口元がわずかに緩む。


「その格好……お前、巫女にでもなったのか?」


そんな言葉が漏れるのも無理はなかった。


神は通常、平時であっても祭儀服にあたる装束をまとう。それは、神としての威厳と畏れを示すため。少なくとも、巫女と見紛うような姿で人前に立つことなど、まずあり得ない。

だが、目の前の神様は違った。


神の身でありながら、どう見ても巫女装束を着ている。しかも格調高い絹の誂えなどではなく、化繊で仕立てられた量産品だ。白衣も緋袴も一応は形になっているものの、神がまとうにはあまりにも軽く、あまりにも安っぽい。


その視線を受けて、神様の眉がぴくりと動いた。


「…………」


いらっとしたのが、見ているだけで分かった。


それを見た神使は、なぜか反射的に口を挟んでいた。


「神様は神階がランク外のため礼装が巫女服でして、ご無礼をお許し下さい」

「…………」


横から突き刺さる無言の圧が怖い。

そして次の瞬間には、当然のように神罰と言い張る足蹴りが飛んだ。


「痛っ!」


脛を押さえる神使をよそに、主神はこらえきれないといった様子で大きく笑った。


「ははははっ、これは愉快だな」


笑われた神様は、むっとした顔のまま言い返す。


「神階など私には不要だ」

「ほぅ、相変わらずだな」


主神は面白そうに目を細めた。からかっているようでいて、その奥にはわずかな懐かしさも混じっていた。昔からこういうやり取りを重ねてきたのだろうと分かる目だった。

けれど、その表情はそこで少しだけ引き締まる。


「さて、何用かな?」


軽く水を向けるような口調に対して、神様は真っ直ぐ主神を見返した。


「にょろにょろ神社の宮司を助けてもらいたい」

「ダメだ」


返ってきた答えは、あまりにも早かった。


一切の迷いも、考える素振りもない。まるで最初から取り合う余地など存在しないと決まっていたかのような拒絶だった。


「…………」


神様が黙り込む。

けれどそれは、怯んだというより、来ると分かっていた拒絶を真正面から受け止めたときの沈黙に近い。


そんな沈黙ごと見透かすように、主神はさらに言葉を重ねる。


「人の生死をいたずらに弄るのは規定違反なことくらい、お前も知っているであろうが」


冗談でも比喩でも済まない話だった。『人の生死をいたずらに変えてはならぬ』。神が守るべき規律、神法しんぽうで明確に規定されている。


だが、神様は視線を逸らさなかった。


「そこを理解した上でお願いしている」


その返答に、主神の目がわずかに細くなる。


「お前のその発言自体が神としては重罪だぞ?」

「もちろん承知している」


間を置かず返ってきた声に、迷いはなかった。


主神は黙る。

山頂の空気がひやりと澄み、杉の梢を渡る風の音だけが、わずかに三人のあいだを通り抜けていった。


その沈黙の中で、神様はひとつ息を吸う。


「お願いします!」


勢いよく頭を下げた。


けれど、返ってきたのはやはり首を横に振る仕草だった。


「頭を下げてもダメなものはダメだ」

「神様……さすがにそのお願いは無茶すぎます」


横から小さく差し挟まれた神使の声には、はっきりと焦りが滲んでいた。規定の重さも、この願いの危うさも理解しているからこそだ。


それでも神様は振り向かなかった。

代わりに、懐から一枚の紙を取り出す。


山頂の風に煽られて、それはひらりと揺れた。


「? なんだその紙切れは」


訝しげに眉を寄せた主神へ、神様は指先でそれをつまんだまま、いかにも何でもないことのようにぼそりと言った。


聖騎魔Ⅱ(せいきまつ)、黒ミサコンサート」


その瞬間、主神の眉がぴくりと動いた。


ほんのわずかな反応だった。だが、神様はそこを見逃さない。口元が、にやりと小さく歪む。


「全席死刑ツアー、アリーナ席、前列」


今度は、主神の肩がはっきり揺れた。


神使は黙った。

何が起きているのかは理解していた。理解してはいるが、できれば理解したくなかった。ついさっきまで、神としての規定を盾に厳然と断っていた相手の反応とは、とても思えなかったからだ。


一方の神様は、もはやその揺れを確信へ変えたらしい。さっきまでの懇願とは打って変わって、妙に朗々とした声で言い放つ。


「うご山之主神! もう一度お願いします。宮司をお助け下さい!」


主神はひとつ咳払いをした。

場を整えるためなのか、自分を整えるためなのか、神使には判別がつかない。


「ケーブルカーを使わず、よくここまで歩いてきた。大変だったであろう」


明らかに態度が変わっていた。


神使は口を挟みかけて、やめた。

何かを言ったところで、この流れがもう止まらないことだけは分かる。


「主神様へ謁見するのに、そのような失礼は出来ません!」


ひらひら、ひらひらと、神様の指先でチケットが揺れる。

もはや会話なのか取引なのか、境目は曖昧だった。けれど主神はその揺れを真顔で見つめたまま、やがてゆっくりと頷いた。


「よかろう。褒美だ。その願い、聞き入れよう」

「ありがとうございます!」


神様の顔が、ぱっと明るくなる。

いや、明るくなったというより、どう見てもほくそ笑んでいた。


神使はなおも黙ったままだった。


ついさっきまで「ダメだ」と一蹴していた相手が、紙切れ一枚でここまで変わるのを目の当たりにして、もはや何から突っ込めばいいのか分からない。


だが神様はまだ終わらなかった。


「それと、もう一つご相談が」

「なんだ、これ以上の願いは流石に――」


言い切る前に、神様はもう一枚、別の紙をすっと取り出していた。


今度は先ほどよりもあからさまに、見せつけるような手つきだった。山の風を受けた紙が、ひらりと揺れる。その動きに合わせるように、主神の目が吸い寄せられた。


「?」


神様は、いかにも勿体をつけるように、ゆっくりと読み上げる。


「デモン閣下ディナーショー、S席チケット」

「なんだとっ!?」


主神が思わず身を乗り出した。


その反応は、先ほどの黒ミサチケット以上だった。もはや神威より俗念のほうが前へ出ているのではないかと疑いたくなるほどの食いつきである。


神使は、やはり黙るしかなかった。

ここで何か言えば、自分の中にかろうじて残っている「神とはこうあるべき」という最後の砦まで、音を立てて崩れそうだったからだ。


だが当の主神は、そんな神使の内心など露ほども知らず、すぐさま居住まいを正した。


「失礼。お前との仲だ、何でも言うが良い」


掌を返す、という言葉がこれほど似合う場面もなかなかない。


「ありがとうございます!」


満面の笑みで、神様はチケットをひらつかせる。


神使は心の中でだけ、深く、深くため息をついた。

山頂の風に乗って揺れるその紙切れだけが、妙に神々しく見えるのが釈然としない。


――神への賄賂は重罪ですが。


その一言を口に出さなかったのは、たぶん何を言っても無駄だと分かっていたからだ。


杉の梢がざわりと揺れ、社殿の軒先に下がる鈴緒がかすかに鳴った。

その厳かな音と、目の前で繰り広げられているあまりにも俗っぽいやり取りとの落差がひどい。


その風の中で、神様だけが妙に満足げだった。



うご山神社の境内を離れたあと、二人は帰りのケーブルカーへ乗り込んだ。


往路では死にそうな顔で石段を登っていた神様も、さすがに下りを歩く気はなかったらしい。機械音を低く響かせながら、ケーブルカーはゆっくりと山を下り始める。窓の外では、さっきまで見上げていた杉木立が今度は少しずつ下へ流れていき、冬の山肌が鈍い光の中で静かに遠ざかっていった。


「帰りはケーブルカーなんですね」


窓の外を眺めながら神使がそう言うと、神様は座席へ深くもたれ、いかにも当然だと言いたげな顔をした。


「もうあいつに用はないし〜」


ついさっきまで「主神様へ謁見するのに、そのような失礼は出来ません!」などと、妙に熱のこもったことを言っていた人物と同一とは思えない。あまりの切り替えの早さに、神使は一度だけ目を閉じ、それから静かに本題へ入った。


「賄賂だなんて犯罪ですよ?」

「何のこと言ってんの?」


あくまでしらを切るつもりらしい。声色ひとつ変えずに返してくるあたり、開き直りだけは一人前だった。


神使はじとりとした目を向ける。


「コンサートチケットと交換で宮司を助けるだなんて」

「は? あれは歩いて山頂まで行った褒美だぞ?」


言い切る顔だけは妙に堂々としている。


「バレたらヤバいですよ?」

「バレねーよ、ビビってんじゃねーよ犬ころ」


その軽さに、神使は反射的に言い返しかけた。だが次の瞬間、その言葉は喉の奥で止まる。


「神様?」


ふっと、神様の顔つきが変わっていた。


さっきまでの薄っぺらい調子が、綺麗に剥がれ落ちている。視線は窓の外へ向いていたが、流れていく景色を見ているわけではないと分かる沈黙だった。何か別の、もっと遠いものを眺めているような顔だった。


ケーブルカーの駆動音だけが、ごうん、ごうんと低く車内へ響く。


しばらくして、神様がぽつりと口を開いた。


「なぁ、神使。 神があまり人と接触を持たない理由って知っているか?」


神使は少しだけ目を瞬かせた。


「え?」


唐突な問いだった。けれど、神様は構わず続ける。


「どの神も、なりたての時は積極的に人と関わりを持つんだよ」


その声には、いつものような投げやりな軽さがなかった。


「人が嫌いな神なんかいない」


窓の外へ向けられたままの横顔は静かだった。杉の梢も、遠くの山肌も、その目には入っていないのかもしれない。ただ、長い時間のどこかに残っている“誰か”を思い出しているように見えた。


神使は何も言わなかった。


何か返すより先に、その続きを聞かなければならない気がしたからだ。


「でも……」


そこでいったん言葉が切れる。


「神のくせに、身近な一人の願いすらまともに叶えられない」


その一言は、妙に静かだった。


「何回も、何百回も、何千回も……その繰り返しを味わうんだ。私達は長生きだからな」


神使の喉がわずかに動いた。

返す言葉が見つからないというより、軽々しく返してはいけない気がした。神様の口から出ているのは理屈ではなく、たぶんずっと長い時間の中で積もった経験そのものなのだろうと思えたからだ。


「そして、いつしか人と距離を置くようになる」


そこまで言って、神様は薄く息を吐いた。


「いや、遠くから見守る存在になると言った方が良いか」


神使は黙ったまま、神様の横顔を見ていた。


その横顔は、いつものように不機嫌そうでもなければ、ふざけてもいなかった。ただ少しだけ疲れて見えた。神力ゼロだの、ランク外だの、巫女のバイトだの、そういう俗っぽい顔の奥に、もっとずっと長い時間を生きてきた存在の影が、一瞬だけ覗いている気がした。


「私はそれでもいいと思っている。 神の仕事に正解なんて無いしな」


そこまでは、きっと本心なのだろう。


けれど、そのあとに続いた声は、ほんのわずかに揺れた。


「でも……私は……」


神使は息を止めるみたいにして、次の言葉を待つ。


神様はゆっくりと視線を落とし、自分の膝の上で握った手を見つめた。


「今、私の手の届く範囲で、神として手を差し伸べなければならない者がいる」


その言葉を聞いた瞬間、神使の胸の中にひとりの顔が浮かぶ。


少女の顔だった。


にょろにょろ神社のこと。祖父のこと。お守りを叩きつけたあの声。泣きながら「嘘つき」と叫んだ姿。その全部が、一度に繋がる。


神様の声は、そこで少しだけ強くなった。


「だから私は、その者に全力で手を差し伸べる。神力が使えない分、どんな手を使ってでもな」


そこまで言い切ってから、神様はようやく神使のほうを見た。


「それが私のやるべき事であり、存在できるたった一つの理由だ」


神使は、しばらく何も言えなかった。


賄賂だの、規定違反だの、さっきまで頭の中に並んでいた言葉が、一瞬だけ遠くへ押しやられる。目の前にいるのは、寝起きは悪い、口は悪い、すぐ蹴る、やることなすこと無茶苦茶な神様だ。けれど、その奥に、たしかに神としての意志があるのだと、今はもう否定できなかった。


「神様……」


ようやく絞り出した声は、自分でも少し驚くくらい真面目だった。


けれど神様は、その呼びかけに大げさな反応を返さなかった。ただ、いつものように少しだけ顎を上げる。


「だから、神使よ」

「はい」


神使のほうも、自然と居住まいを正していた。


神様は一拍だけ溜めた。

そして、実に真剣な顔で言った。


「下に降りたら売店で、いか焼きとりんご飴を奢ってくれ」


ついさっきまで車内を満たしていた厳かな空気が、見事なくらい全部吹き飛ぶ。あまりにも神様らしい落とし方だった。


数秒遅れて、深いため息が漏れる。


「シリアスは最後まで続けないと寒いですよ?」

「…………」


言い返せないあたり、多少の自覚はあるらしい。

だが次の瞬間には、ふてくされたように窓の外を向く。


「いいだろ別に。山登って腹減ったんだから」

「そこはせめて、疲れたので労ってください、くらいの言い方があるでしょう」

「結果は同じじゃん」

「過程が大事なんです」


呆れながら神使がそう言うと、神様は鼻を鳴らした。


けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。


ケーブルカーは相変わらずごうん、ごうんと音を立てながら山を下っていく。


窓の外では、さっきまで遠くにあった麓の景色が少しずつ近づいていた。冷たい山の空気も、張りつめた神気も、ゆっくりと背後へ置いていかれる。


それでも神使の胸の中には、さっき神様が言った言葉だけが妙に重く残っていた。


──神力が使えない分、どんな手を使ってでも。


その宣言は無茶で、危うくて、たぶん神としては正しくないのだろう。

それでも、あの神様があそこまで言うのなら。


神使は小さく息を吐いた。


「……りんご飴はともかく、いか焼きは検討します」

「マジ!?」


神様が勢いよく振り向く。


「そこだけ反応早いですね」

「大事なことだからな」


さっきの重苦しい空気は、もうどこにも残っていない。

残っていないはずなのに、それでも神使には分かっていた。


この神様は、間違いなく――自分のお仕えする神様だ。


その本気が、いか焼きとりんご飴の向こうで、まだ何かとんでもないことをやらかそうとしていることまで含めて。


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