#01-07「嘘つき……」
入院している少女の祖父――宮司の見舞いに行ってから、数日が過ぎた。
たった数日で何かが大きく変わったわけではない。けれど、少女の家に流れる空気には、確かに少しずつ変化が生まれていた。神様は相変わらず騒がしく、神使は相変わらず細かい。放っておけばすぐ言い合いになり、片方が騒げばもう片方がため息をつく。静かな家には本来似つかわしくない賑やかさだったが、その不釣り合いな騒がしさがあるおかげで、前まで胸に刺さるようだった家の静けさも、いくらかやわらいでいた。
その日の昼下がりも、居間にはそんな“いつもの空気”が流れていた。
こたつの上には湯呑みが三つ。読みかけの雑誌が一冊、半端にめくられたまま置かれ、その脇には、神様がいつの間に持ち出したのか分からないみかんの皮が無造作に散らばっている。窓の外は薄曇りで、冬らしい鈍い光が障子越しにぼんやりと部屋へ差し込んでいた。明るいとも暗いともつかない、昼と夕方のあいだみたいな曖昧な時間だった。
その静けさを裂くように、不意に電話のベルが鳴り響いた。
じりりり、と少し耳に障る音が、ひっそりした家の中へ思いのほか大きく広がる。
「すいません、ちょっと出てきます」
そう言って少女がすぐに立ち上がり、廊下へ向かっていった。
受話器を取る音がして、間を置かず、小さな声が聞こえてくる。
「はい、もしもし……えっ!?」
その一声だけで、空気が変わった。
それまで部屋の中にあったゆるみが、一瞬でどこかへ消える。神使の表情も、ぴたりと引き締まった。
続いて廊下の向こうから返ってきた声は──震えていた。
「そんな……」
かすれるようなその声に、神使が思わず立ち上がりかける。
ちょうどそのときだった。
玄関のほうから、のんきな鼻歌が近づいてきた。
「燃えろっ! いい女~♪ 燃えろっ! か・み・ちゃ~ん~♪」
どう考えてもこの場には似合わない歌声とともに、神様が買い物袋を提げて帰ってきた。
「んがー! スーパーまで往復一時間って拷問だろ」
誰に聞かせるでもなく文句を垂れながら、がらがらと引き戸を開ける。
「ただいま〜。みんな大好き、かわゆい神様のお帰りですよっと」
いつもの調子で言い切るより早く、廊下の向こうから少女がどたどたと駆けてきて、その横を勢いのまますり抜けた。
まともに避ける間もない。肩と肩がぶつかり、神様の身体がぐらりと揺れる。
「ぐへっ!」
情けない声を上げて、神様は玄関先へ転がった。
少女のほうは息を切らし、ほとんど飛び出すように外へ出ていく。
「少女さん!!」
追いすがるように神使が声を上げる。
床へ手をついたまま、神様はぶつけた頭を押さえて顔をしかめた。
「痛い……」
「神様! 大変です!」
その声には、冗談の入り込む隙がまるでなかった。
神様は痛む頭をさすりながら、なおも不満げに言い返す。
「ほんとだよ……痛つつ」
だが次の瞬間、神使の口から出た言葉に、その表情は一変する。
「宮司さんの容体が!」
「――!」
神様の目が、見開かれる。
居間へ戻ると、さっきまでそこにあったゆるい空気は、もう跡形もなかった。神使は慌てすぎて声を荒らげないように気をつけながら、できるだけ短く状況を伝える。
「先ほど病院から電話があって、宮司さんが危篤状態になったと」
神様は何も言わなかった。ただ、きょろりと周囲を見回し、それからぽつりと呟く。
「……お守りがないな」
「お守り?」
聞き返した神使に、神様は少しだけ眉を寄せた。
「少女ちゃんの鞄に着いていたお守り」
「そういえば、飛び出す前に鞄をゴソゴソしてました」
「…………」
それきり神様は黙った。
きっと持っていったのだろう。あれほど取り乱していても、それだけは忘れず手に取ったのかもしれない。縋るような気持ちだったのか、せめて持っていたかったのか、それは分からない。ただ、少女にとって、その小さな布袋がまだ“何か”であり続けていたことだけは、妙にはっきり伝わってきた。
しばらくして、神使が静かに口を開く。
「私達も向かいますか?」
「ここで待とう」
短い言葉だった。いつものような軽さはどこにもない。
「……分かりました」
神使もそれ以上は食い下がらなかった。
外ではもう、少女が駆けていった気配すら遠くなっている。残された家の中は、妙なほど静かだった。まるで、空気そのものが薄くなったような──そんな気さえした。
危篤。
その言葉の重さは、さすがに軽口ではごまかせない。
神使もまた、何も言わずに立ち尽くしていた。今ここでできることがないと分かっているからこそ、余計に落ち着かないのだろう。何もできないまま立っているしかないことが、その背中をひどく頼りなく見せていた。
居間の柱時計だけが、かち、かち、と妙に律儀に時を刻んでいる。
その音をしばらく聞いてから、神様がふいに目を伏せた。
「……役立たずだな」
小さく漏れたその声に、神使が顔を上げる。
だが、何を返せばいいのか分からなかった。
お守りのことなのか。それとも、神だの何だのと言いながら、結局こういうとき何ひとつできない自分たち全部のことなのか。
たぶん、そのどれでもあるのだろう。そう思えたからこそ、軽々しく慰めることも否定することもできなかった。
結局、神使は何も言わなかった。
その代わり、こたつの縁に置かれていた湯呑みをそっと端へ寄せる。帰ってきた少女がまた勢いよく飛び込んでくるかもしれない、そんなことを考えたのかもしれない。あまりにも小さく、あまりにも無力な動きだったが、この場で自分にできることなど、それくらいしかなかった。
神様はその様子を横目で見てから、白い息を吐くように、かすかに息を漏らした。
家の中は暖かいはずなのに、妙に寒かった。
待つしかない時間だけが、ゆっくり、ゆっくりと重く沈んでいく。
◇
翌日になっても、少女は帰ってこなかった。
家の中は、昨日のあの電話の瞬間から、時間だけがどこかで止まってしまったように静まり返っていた。こたつの上には、夜のうちに手をつける気にもなれなかった湯呑みが、そのまま残されている。障子の向こうでは朝の光がとっくに昇っているのに、部屋の空気は妙に薄暗く、色を失って見えた。
窓際に立っていた神使が、そっと振り返る。
「結局、少女さん帰ってきませんでしたね」
その言葉にも、神様は何も返さなかった。
こたつの縁に肘をついたまま、じっと一点を見ている。昨夜からほとんど動いていないように見えた。いつもなら、こんな重たい空気の中でも何かしら一言は挟んで、無理やりにでも場を動かそうとするはずなのに、今日はその気配すらない。
「…………」
残るのは、沈黙だけだった。
そのとき、玄関の引き戸がゆっくりと鳴った。
がらがら、という音が、ひっそりとした家の奥まで響いていく。
神使の肩がぴくりと揺れる。すぐに顔を上げ、張りつめた目で廊下の方を見た。
「あっ、少女さんが帰ってきたみたいですね」
続いて聞こえてきたのは、重たく引きずるような足音。いつもの少女の足取りとは違う。力が抜けたようで、それでいてどこか急いてもいるような、ひどく不安定な音だった。
襖が開く。
立っていたのは、昨夜よりずっと小さく見える少女だった。
「…………」
顔色は悪く、目の下にはうっすらと影が落ちている。コートも髪も少し乱れていて、病院からほとんどそのまま戻ってきたのだと分かった。泣いたのか、泣けなかったのか、それすら判別できないような顔だった。
「少女さん! 宮司さんの御容体は?」
神使が問いかける。けれど少女は、すぐには答えなかった。
唇がわずかに震えている。鞄の持ち手を握る手だけが、きゅっと強く結ばれていた。何かをどうにか押し留めているのが、見ているだけで分かる。息を吸って、吐いて、それでも言葉が形にならない。そんな短い間があってから、ようやく声が落ちた。
「意識……不明です」
絞り出すような声だった。
その一言で、神使の表情からさっと血の気が引いた。何か言わなければと思うのに、喉元まで上がった言葉は、うまく声にならない。
「そんな……」
ようやく漏れたのは、それだけだった。
そして、その一言を聞いた瞬間、少女の表情が崩れた。
「何が……」
ぽつり、と落ちた声は、怒りとも悲しみともつかないほどかすれていた。
「何が神よ! こんなお守り効きもしないじゃない!」
ばんっ、と大きな音が響く。
少女が握りしめていたお守りをこたつの上へ叩きつけた。小さな布袋が跳ね、湯呑みにぶつかってから、畳の上へころりと転がる。
そのお守りは、ひどく歪んでいた。今ぶつけられた衝撃でそうなったのではない。病院から戻るまでのあいだ――いや、もしかしたら電話を受けたあの瞬間からずっと、祈るみたいに、縋るみたいに、強く握りしめられていたのだと分かる形だった。
神様は何も言わず、ただそのお守りを見つめていた。
「神社は取り壊されて、おじいちゃんは意識不明……なんでよ……」
吐き出した言葉の最後で、声が崩れる。
それでも神様は黙ったままだった。
見かねたように、神使が間へ入ろうとする。
「少女さん、落ち着いて下さ――」
一歩踏み出しかけた、その言葉を、少女の声が真正面から叩き切った。
「出て行って!」
悲鳴にも似た鋭い声だった。
神使の足がそこで止まる。伸ばしかけた手も、行き場をなくしたように宙でわずかに固まった。何か言わなければ、追いかけなければ、そう思っているのに、その目を見た瞬間、それ以上近づいてはいけないと分かってしまう。
少女は息を乱しながら、涙で潤んだ目のまま二人を睨みつけていた。その目にあるのは怒りだけではなかった。どうしようもなく行き場を失った痛みが、そのまま剥き出しになっていた。
「何も守ってくれないじゃない! 嘘つき」
言い切るなり、少女は踵を返した。
たったったっ、と乱れた足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。襖の向こうへ消えるその背中は、もう一度もこちらを振り返らなかった。
「少女さん! 待っ――」
追いかけかけた神使の足を、低い声が止めた。
「一人にしてやれ」
振り返ると、神様が立ち上がっていた。
いつの間にか、こたつの陰から出ている。その顔には、いつもの不機嫌さも軽口もない。ただ、妙に静かな目だけがそこにあった。
「神様……」
神使が戸惑うように呼ぶ。
神様は一度だけ、お守りへ目を落とした。こたつの上に叩きつけられ、畳へ転がった小さな布袋。そこに残っているのは、少女の手の熱ではなく、ぶつけようのない怒りだけだった。
それから神様は、玄関の方へ向き直る。
「行くぞ」
「え? どちらへ?」
問い返した神使へ、神様は当たり前みたいな顔で言った。
「出て行けと言われたんだ」
そう言って、とてとてと玄関へ向かって歩き出す。
「ちょ、神様!」
神使も慌ててあとを追った。
居間には、叩きつけられたお守りと、ぬくもりを失いかけたこたつだけが残された。
廊下の奥からは、少女の押し殺した嗚咽がかすかに聞こえてくる。
「うっ……うっ……」
その泣き声は小さいのに、家じゅうへじわじわ染み込んでくるみたいに痛かった。
玄関へ向かう神様の足が、ほんの一瞬だけ止まる。
けれど、振り返りはしない。
ここで掛ける言葉など、今は何一つ届かない。届かないと分かっているからこそ、今は出て行くしかないのだと、自分に言い聞かせるような背中だった。
引き戸が開く。冬の空気が、容赦なく流れ込んでくる。
それでも、家の中から聞こえてくる少女の嗚咽の方が、ずっと冷たく感じられた。
◇
少女の家を出たあと、二人はしばらく無言のまま田舎道を歩いていた。
冬の空気は冷たく、昼を過ぎても山あいの道にはまだ湿った寒さが残っている。踏みしめるたび、土の下の霜がかすかにきしむような感触があった。来たときと同じ道のはずなのに、今は景色の見え方まで違っていた。家を出たときの少女の声も、叩きつけられたお守りの音も、まだ耳の奥にひっかかったままだった。
「神様?」
少し後ろから歩幅を合わせるようにして、神使が呼びかける。
けれど返事はない。
さっきから、文句ひとつ聞こえてこない。それがかえって不気味なくらいだった。その黙り方が妙に重くて、神使もそれ以上すぐには言葉を継げなかった。
やがて、不意にその沈黙が破られる。
「この近辺で一番神力の強い神はどこにいる」
思いがけない問いだった。神使は少しだけ意外そうな顔をしたが、問い返しはしない。
「確か、うごうご山にある“うご山神社”の主神様かと」
「うごうごか……手強いな」
小さくこぼれた声は、独り言みたいに低かった。
何を考えているのか、表情からはほとんど読めない。ただ、その声音の沈み方だけが、いつもの神様とは違っていた。
「何を考えているんです?」
そう聞いてみても、返事はない。
代わりに白い息だけが、ひとつ、ふたつと冷たい空気へ溶けていく。
それ以上深追いするのをやめて、神使は少しだけ息をつく。
「それより、これからどうするんですか?」
今夜、行く場所はない。少女の家を出てきた以上、また同じ場所へ戻るわけにもいかない――そう思いたかったが、現実には他に当てがあるわけでもなかった。
ようやくそこで、神様が神使のほうを見た。
「疲れた、寝る」
あまりにもいつも通りの答えだったので、逆に一瞬だけ言葉に詰まる。
「どこで寝るのですか?」
「決まっているだろ」
それ以上の説明はなかった。ただ、足が向いた先だけで十分だった。
向かう先は、もう決まっている。
白線の引かれた広い地面。端に置かれた小さな仮設小屋。
二人が戻ってきたのは、あの駐車場だった。
風を遮るものも少なく、立ち止まっているだけで足元からじわじわ冷えが這い上がってくる。
神様は車止めのひとつに腰を下ろすと、それきり何も言わなくなった。
考え事をしているのは分かる。けれど、それが何なのかまでは神使にも読めない。声をかけるべきか迷ったものの、その横顔には今は触れないほうがいいような硬さがあって、結局、神使も少し離れたところへ腰を下ろすしかなかった。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。
夜になるころには、空気はいっそう鋭く冷え込んでいた。
西に傾いていた光が少しずつ薄れ、駐車場の白線も、仮設小屋の輪郭も、夕暮れの色の中へ曖昧に沈んでいった。何かを待っているわけでもないのに、その場を離れる気にはなれなかった。少女の家から追い出され、行くあてもないまま戻ってきたこの場所が、結局いちばん“今の自分たちにふさわしい場所”みたいに思えてしまうのが、なんとも情けなかった。
夜になるころには、空気はいっそう鋭く冷え込んでいた。
見上げた空には雲ひとつなく、星がやけに綺麗に見える。綺麗すぎるせいで、かえって寒さが際立つような夜だった。
「神様?」
呼びかけても、やはり返事はない。
駐車場の車止めへしゃがみ込んだまま、神様は携帯をいじっていた。暗い画面の光が、指先と頬をかすかに照らしている。
ぽち、ぽち、と小さくボタンを押す音だけが続く。
隣へ腰を下ろしながら、神使は首を傾げた。
「携帯なんかいじって何しているんです?」
それにも答えはない。
相変わらず、ぽちぽちと操作を続けている。
何かを調べているのか、誰かに連絡しているのか、それともただ手持ち無沙汰で触っているだけなのか。横からでは画面は見えない。ただ、無言のまま指先だけを動かしているその姿が、かえって声をかけづらくさせた。
風がひときわ強く吹き抜ける。
思わず身を縮めてから、神使は言った。
「今夜は冷えます。寒ければ私を抱いていて下さい。狛犬になればもふもふですよ?」
だが、その言葉にも何も返ってこない。
ただ携帯をいじる指だけが、一瞬だけ早く動いたようにも見えた。
やがて、その手も止まる。
画面の光が消え、あたりはまた夜の冷たさに包まれた。
まだ放っておいた方がいい。
だから、それ以上は聞かなかった。神使は少しだけ身体を丸め、目を閉じる。
「おやすみなさい、神様」
返事はない。
しばらくして、かすかに布の擦れる音がした。
もそもそと誰かが動く気配がして、神使の腕へそっと重みがかかる。
目を開けると、神様が神使の懐へ身を寄せていた。
服越しに伝わる体温は、冷えきった夜の中では驚くほど近い。ぎゅっと遠慮がちな、それでいて妙に必死な力で腕へしがみついてくる。その頼り方は寒さのせいだけではないように見えたが、神使は何も言わなかった。
ただ少しだけ身体の向きを変えて、その重みを受けやすいようにする。
夜の駐車場には、風の音しかない。
冷たく、広く、何もない場所だった。
けれどその隅で、神と神使だけが小さく身を寄せ合っている。
それはあまりにも心細くて、同時に、ひどく不器用なぬくもりだった。
◇




