#01-05「ジャージはダメです」
翌朝。
障子の向こうから差し込む光は、昨夜よりもずっと白く、はっきりしていた。外では小鳥が忙しなく鳴いている。山あいの朝は冷たい。それでも、夜の底からゆっくり浮かび上がってくるような明るさがあった。
「神様? 朝ですよ」
「ん〜……ふぁ〜……」
布団の中で、神様がもそりと身じろぎする。返ってきたのは、まだほとんど夢の中に片足を残したままの声だった。
その姿を見た神使の眉間が寄る。枕に乗った足。どう見ても、昨夜とは頭と足の位置が逆になっている。
「どんな寝相なんですか……」
呆れを隠しきれない声に、神様は毛布へ頬をこすりつけるようにしながら、眠たげに答えた。
「毛布が気持ちいい〜……神宮の宿舎にも毛布欲しいよな」
「え?」
思わず漏れた神使の声に、神様のまぶたがぴくりと動く。
「……もしかしてさぁ、神使君って宿舎に毛布ある感じ?」
神使は答えなかった。
けれど、その沈黙だけで十分だったらしい。みるみるうちに神様の顔から色が抜ける。
「……そうなんだ……うん、分かってる」
露骨なくらい肩が落ちた。その落ち込み方があまりに分かりやすくて、神使もさすがに少し気まずそうに視線を逸らす。
「あー、ほら神様。今日は良い天気ですよ?」
とっさに話題を変えるように、障子の方へ目をやる。
つられるように神様もそちらを見た。障子越しの光はたしかに明るい。けれど、だからといって毛布格差の衝撃が消えるわけでもないらしい。
「……神宮に帰ることができたら、毛布買ってくれる?」
「……はい」
朝からどことなく気の重い空気をまとったまま、二人は居間へ向かった。
朝の居間には、すでに味噌汁の湯気と焼き魚の匂いが満ちていた。昨夜と同じこたつ、三つの座布団、同じ静かな家の中――なのに、朝というだけで空気の見え方はずいぶん違う。
「おはようございます、少女さん」
「ふぉ〜……ふぁ〜……ふょ〜……」
きちんと頭を下げる神使の横で、神様はまだ寝起きの抜けきらない顔のまま、欠伸まじりの妙な声を漏らしていた。そのあまりの締まりのなさに、少女は一瞬きょとんとしたものの、すぐに小さく笑う。
「おはようございます」
湯呑みにお茶を注ぎながら、少女は二人に挨拶を返した。
「神様。朝の挨拶くらいきちんとしてください」
たしなめる声も、どうやら右から左へ抜けていったらしい。神様はふらふらとこたつの方へ引き寄せられ、卓上に並び始めた朝食を見た瞬間、ぱっと目を輝かせた。
「うひょ〜、見ろよ! 朝ご飯できてる!」
「こんなもんで良いでしょうか?」
「申し訳ございません。本来は居候である私たちの仕事なのに」
神使が頭を下げると、神様がすかさず口を挟む。
「“たち”じゃない。お前の仕事だ、腐れ犬ころ神使」
神使は何も言わなかった。少女は苦笑しながら首を振る。
「気にしないでください。料理するの好きなんで。……さめる前に、食べよ?」
その頃にはもう、神様はこたつに足を入れて背筋を伸ばし、準備万端と言わんばかりの体勢になっていた。
「犬ころも早く座りなさい! 片付かないでしょ!」
納得のいかない顔のまま、神使が腰を下ろす。
「よし、食べるか」
三人そろって、両手を合わせた。
「いただきます」
次の瞬間には、神様の箸がものすごい勢いで動いていた。
「うまい!」
ぱく、ぱく、とほとんど休みなく口へ運んでいく。朝の光、味噌汁の湯気、焼き魚の匂い。そのどれもが、昨夜よりさらに“家の食卓”らしく感じられた。
しばらくして、神使が箸を置きかけながら少女へ尋ねる。
「少女さん、おじいさまが入院されている病院というのは近いのですか?」
「バスで駅まで行って、そこから電車で三十分くらいです」
「結構距離ありますね」
ご飯を頬張ったまま、神様が口を挟む。
「都会?」
「そこまで都会じゃないかな。ここよりはずいぶん栄えているけど」
「ふむ」
何か考えるような顔にはなったが、その思考はすぐ次の一口に追い越されたらしい。もぐもぐと噛みながら頷くだけに留まる。
神使は今度は別のことを思い出したように言った。
「そうだ、銀行に行きたいのですが近くにありますでしょうか?」
「ATMであれば駅前にあります」
「駅前ですか。少し距離がありますね」
「日曜日も空いているんで、病院に行く時に寄った方が良いと思います」
「そうですね」
頷いてから、あらためて少女へ向き直る。
「お家賃の方はそれまでお待ちいただいてもよろしいですか?」
「気にしないでください」
あっさり返されたその言葉の横から、神様がぽそりと漏らした。
「私も少しお金下ろそっかな〜」
「こっちへ来る前に通帳記帳して、600円しか入ってなかったじゃないですか」
ぴたりと黙り込む。
その沈黙があまりに分かりやすくて、少女の口元が緩んだ。神使のほうは、何事もなかったような顔で食事を続けている。
「今日は少女さん学校ですよね?」
「はい。18時頃には帰ります」
その返事を聞いた神様は、味噌汁を飲み干しながら胸を張った。
「留守は任せろ! ちなみに家にゲーム機ってある?」
少女は一瞬だけ考えるような顔をしたあと、申し訳なさそうに首を振る。
「ごめん、ないかな」
「近くに遊ぶ所って……」
「ない」
間を置かない即答だった。
神様は箸を置き、がっくり肩を落とす。
「ですよね〜……はい! 寝てます!」
「神様は他にやることないんですか?」
呆れたような神使の声に、神様はむっと顔を上げた。
「巫女の仕事なら出来るぞ? お守りでも売るか!」
「神社が無いのにお守りを売っても仕方ないかと」
その一言が見事に急所へ刺さったらしい。
神様は「うっ」と言葉を詰まらせ、少女は気まずそうに目を伏せる。
けれど、その重さを長く残さないようにしたのは少女のほうだった。
「あっ、バス来ちゃう。急がなきゃ」
急いで時計を確認し、慌てて立ち上がる。
その隙を逃さず、空になった茶碗を神様が持ち上げた。
「じゃぁ、もう一杯だけご飯を」
「もう食べたの? 早いね」
「かわゆい神ちゃんは食べ盛りなもので」
くねくねと身体を揺らしながら言うその横で、神使が無言になる。
その沈黙が妙に重かった。
神様もぴたりと動きを止める。
「……」
「……」
そして、神様の足がすぱんと神使の脛へ飛ぶ。
「ちょ、何ですか? 何も言ってないじゃないですか」
「言わなくても伝わるっつーの!」
ぷんすか怒る神様を見て、少女はとうとう吹き出した。
朝の食卓には、昨夜よりも確かに、三人分の自然な空気が流れていた。
◇
それから数日後の日曜日。
朝の空気は平日より少しだけゆるんでいたが、それでも山あいの冷たさは健在だった。空はよく晴れている。薄い青の下で、家の前の木々が静かに揺れていた。
支度を終えた神使が、玄関先へ向かう前に部屋を覗き込む。
「さてと神様、そろそろ出ますけど準備は良いですか?」
「おっけ〜」
軽い返事だけは、いかにも準備万端といった調子で飛んでくる。
けれど、その声を聞いた次の瞬間には、神使の眉間にくっきりと皺が寄っていた。
「ジャージはダメです」
神様は片足を上げたまま止まり、自分の格好を見下ろした。神宮で同じ巫女として奉職していたベストフレンズ・A子が、中学生時代に使っていたお下がりのジャージ。譲り受けた時点ですでに年季が入っていたそれは、“使い切る寸前の布”に近い貫禄を漂わせていた。
「やっぱり?」
「あたりまえです」
呆れを隠そうともせず、神使は神宮から送りつけられた段ボールを漁りはじめた。ごそごそと中身を探る手つきには、すでに何度目か分からない諦めの色がある。
「やはり、神宮の神らしくこちらなどいかがでしょうか」
「バカなの?そんなの来て外歩いたら病院じゃなくて交番行きだよ?」
神使が広げたのは、床を引き摺るような単。繊細な透かし模様が施された古式ゆかしい時代装束を思わせる一着だった。
「もっと普通の服を出せよ。私らしいかわゆいのが良いと思うの」
「でしたら……この服などどうでしょうか?」
続いて差し出されたのは清楚なワンピース。柔らかい色合いで、派手すぎず地味すぎず、年頃の少女が着れば素直に似合いそうな一式である。
「おっ、いいね〜。かわゆい」
服を神使から奪い取り、布地を広げて眺める姿は、さっきまでの毛布ショックを引きずっていたのが嘘みたいに上機嫌だった。
その様子を見ながら、神使がふと首を傾げる。
「神様そんな服もってましたっけ?」
「これはA子ちゃんからもらったお下がり〜」
その一言で、神使の肩が露骨に落ちた。
「それもA子ちゃんのですか…… といいますかA子ちゃんの方が年下ですよね? 立場が逆じゃないですか」
数秒の沈黙。
そして次の瞬間には、神罰が飛んでいた。
「痛っ!」
「A子ちゃんをバカにするな!」
どこをどう読んでもA子をバカにした意味など含まれていない。なのに、なぜか怒られる。もはや理不尽という言葉では足りない当て付けに、神使は脛を押さえながら深く息をついた。
その横で、ひとまず憂さ晴らしを終えた神様が、ふんと鼻を鳴らして服を抱え直している。
そうして着替え終わった神様は、少なくともジャージ姿のときよりは、ずっと外出向きに見えた。本人もそれなりに気に入ったらしく、鏡の前でくるりと一回転してから頷く。
「うん、今日の私は休日お出かけ仕様」
「せめて今日くらいは、普通の人に見えるよう努めてください」
「善処します」
その返事の軽さに一抹の不安を覚えながらも、神使はそれ以上深く追及しなかった。どうせ今さらである。
そんな調子のやり取りを挟みつつ、ようやく二人は玄関へ向かった。
先に外へ出ていた少女は、家の前で静かに待っていた。
冬の空気の中、コートを羽織った姿はいつもより少しだけ大人びて見える。けれど、その横顔にはどこか気を張った硬さも残っていた。今日はただの外出ではない。祖父の見舞いに向かう日なのだと思えば、それも当然だった。
「お待たせしました」
神使が軽く頭を下げる。
「じゃぁ、いきましょうか」
「レッツゴー!」
勢いだけは立派に、神様が先頭を切って歩き出しかけたところで、少女が家の前で足を止めた。
「あっ、ここで大丈夫」
神様も神使も、同時にきょとんとした顔になる。
「え? バス停ってもっと先でしょ?」
いかにも不思議そうに首を傾げる神様へ、少女はあっさり答えた。
「休日はバスが予約制で、好きなところで乗せてくれるの」
「まじで! 家の前まで来てくれんの?」
声が一段高くなる。
その驚きに応えるように、遠くから短くクラクションが鳴った。
「本当だ、来ましたね」
神使が道路の先へ目を向ける。
一方の神様は、信じられないものを見る顔になっていた。
「マジかよ……」
やがて小型のバスがゆっくりと近づいてきて、家の前で止まる。空気の抜ける音とともにドアが開いた。
運転席から顔を出した運転手が、少女を見つけてにこりと笑う。
「おはよう少女ちゃん。駅で良いの?」
「はい、おじいちゃんのお見舞いなので」
「そちらさんも?」
少女は一瞬だけ神様と神使のほうを見た。
「はい、祖父の……お知り合いの方達です」
その、やや無理のある説明に、神様が胸を張った。
「我は神宮の神なりや」
どや、と全身で言っているような顔だった。
空気が一瞬だけ、妙に乾く。
それを見た神使は、間髪入れず神様の背を押してバスに乗り込んだ。
「すいません。さっ、面白くない冗談言っていないで早く乗って下さい」
「はぁ〜っ!?」
不満げな声を上げつつも、そのまま神様はバスへ押し込まれていく。運転手は苦笑いのままハンドルを握り直した。
「他に予約無いから駅までノンストップで行くよ」
「お願いします」
低くエンジンを唸らせながら、バスは思ったより力強く走り出した。
その“思ったより”が曲者だった。
山沿いにへばりつくように通された道は、舗装されているはずなのに妙に荒れていて、車体は行くたび細かく跳ね、時おり容赦なく大きく揺れた。速度そのものは決して速くない。けれど、道の悪さがそのまま身体へ響いてくる。上下にも左右にも遠慮なく振り回されて、じっと座っているだけでもなかなかの重労働だった。
神様は早々にビニール袋を握りしめ、目に見えて口数が減っていく。隣では神使も、必死に遠くの山を見つめながら、どうにか酔いをやり過ごそうとしていた。そんな二人をよそに、少女だけは慣れた様子で文庫本を開いている。もはや同じ乗り物に乗っているとは思えない落ち着きぶりだった。
過酷なバス旅である。
当然、駅前へ着くころには、神様はすっかりぐったりしていた。
「うへ〜……気持ちわる」
バスを降りるなり、駅前の空気を吸い込みながら顔をしかめる。
神使も服の裾を整えながら苦笑した。
「遊園地のアトラクションのようでしたね……」
駅前は、この辺りでは十分に栄えているほうなのだろう。いくつかの店もあり、人の姿も見える。とはいえ都会と呼ぶにはまだ遠く、山の町の駅前らしい、どこかこぢんまりとした雰囲気だった。
少女が心配そうに神様の顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「大丈夫」
そう答えはしたものの、神様の眉間にはまだしっかり皺が残っていた。
気持ち悪さがきれいに引いたわけではないらしい。
「犬ころ、コーラ買ってきて」
「お茶とかの方が良いんじゃないんですか?」
即座に返ってきたもっともな言葉にも、神様は真顔のままだった。
「どうせ買うなら、甘くて炭酸入ってる方が得した感じじゃね?」
その理屈はまったく理解できなかったが、神使に議論する力は残っていない。小さく息をついてから、少女へ向き直る。
「……お茶買ってきます。少女さん、銀行は近くにございますか?」
少女が駅前の角を指さした。
「ATMでよければ、そこの角にありますよ」
「電車の時間は大丈夫ですか?」
「はい。まだ大丈夫です」
「では行って参ります。神様、大人しくしていて下さいよ」
そう言い残して、足早にATMのほうへ向かっていく。
神様はその背に向かって声を張った。
「だから、私は子供じゃないっつてんだろーが!」
もっとも、そう言う本人にその場を動く気配はまるでない。
ベンチの端に腰を下ろしたまま、まだ少し気持ち悪そうに肩を落としている。
その様子を見ていた少女が、ふと小さく口を開いた。
「神使さんっていい人ですね」
「騙されちゃダメ。あれは腐れ犬ころだからね? 悪の使いだから。邪犬だから」
「そうは見えないんだけど……」
少女が苦笑する。
神様はむっとしたものの、それ以上その話を引っぱる気にはならなかったらしい。代わりに少しだけ声を落とす。
「それより、おじいさまの具合はどうなの?」
「あんまり良くないかも」
返事は短い。けれど、その短さがかえって重かった。
少女の顔から、ほんの少しだけ笑みが消えていた。
「そっか」
それ以上、神様もすぐには言葉を継げなかった。
駅前には人がいて、車が通って、音だって途切れない。
それなのに二人のあいだに落ちた沈黙だけが、妙にはっきりした形を持っているようだった。
少女は視線を落としたまま、何か言おうとしているようだった。けれど、うまく言葉にならないらしい。胸の内にあるものが、そのまま喉のあたりで引っかかっているような顔だった。
その横顔を見ながら、神様は膝の上で指を組み直す。
「すまない」
不意にこぼれたその一言に、少女が顔を上げる。
「わざわざ神宮まで来てお参りしてもらったのに……」
少女は少しだけ目を見開いたあと、静かに首を振った。
「元々、気休め程度だったし」
「役立たずでごめん」
その言い方には、ふざけも飾りもなかった。
いつもみたいに笑って逃がす余地のない声だった。
少女は返事に詰まる。
責めたいわけではない。そんな気持ちは最初からない。けれど、だからこそ何を返せばいいのか分からなかった。
言葉にしようとして、結局口を閉じる。その迷い方だけで十分だった。
そこへ、慌ただしい足音が近づいてくる。
「お待たせいたしました。はい神様、お茶です」
戻ってきた神使が、ペットボトルを差し出した。
「ありがとう」
神様が素直に受け取る。
その言葉に、神使の動きが目に見えて止まる。
「……どうしたんです? そんなに体調悪いんですか?」
「は?」
「神様が素直にお礼を言うなんて」
「うっさい、犬ころ!」
さっきまで張りつめていた空気が、そこでいきなり音を立てて崩れた。
神使はまだ少し腑に落ちない顔のまま、もう一本のペットボトルを少女へ差し出す。
「少女さんもお茶どうぞ」
「ありがとうございます」
小さく頭を下げて受け取ると、今度は封筒が差し出された。
「それと、これ家賃ですのでお納め下さい」
少女は戸惑ったように目を見開く。
「本当にこんなに……悪いですよ」
お茶をひとくち飲んでから、神様が妙に胸を張った。
「気にする必要ナッシング。正当なお金だし」
少女は封筒を見て、それから二人の顔を見る。
受け取っていいものかどうか、その迷いが手の置き場ひとつにも出ていた。
すると、今度は神様が少しだけ声を落とした。
「受け取ってもらわないとこっちが困る」
押しつけるための言葉ではなく、自分たちがここに居るための最低限をきちんとしたい、という響きがあった。
少女はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……じゃぁ、お預かりします」
神使もそれを確認して、ようやく肩の力を抜く。
「では、駅に行きましょうか」
「はい」
少女が頷く。
三人はそろって、駅舎のほうへ歩き出す。
日曜日の空は高く、風はまだ少し冷たかった。けれど、昨日までとは違う。今日の道の先には、はっきりした行き先がある。
祖父のいる病院。
にょろにょろ神社の宮司。
そして、少女がずっとひとりで抱えてきたもの。
駅へ向かう足取りは軽くない。むしろ、これまでより少しだけ重かった。
それでも三人は歩いていく。ようやく本当に、その核心へ近づこうとしていた。




