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神様だ! 神力ゼロですが  作者: 狛猫
第1章「ひのひの村」
4/10

#01-04「お願い事リスト」

夕食を終えるころには、家の中の空気はすっかりやわらいでいた。


こたつの上には空になった茶碗や皿が並び、さっきまで立ちのぼっていた湯気ももう薄い。最後の一口まできっちり平らげた神様が、満足げに深く息を吐く。


「……食ったぁ」


その声には、ここ二日分の安堵がまとめて滲んでいた。


空になった器を手際よく重ねながら、神使が半ば呆れたように口を開く。


「飢えた獣みたいな食べっぷりでしたね」

「実際、飢えてたし。こんにゃくは、腹に溜まるが、満たされない」

「内容が情けない一句ですね」


二人のやり取りを聞きながら、少女は食器を盆に載せて立ち上がった。


「洗い物してきます」

「いや、ここは私が」


すぐに神使も立ち上がる。


「食事の支度までしていただいたのですから、それくらいはやらせてください」

「……」

「任せて下さい。こう見えて家事全般は得意です」

「こう見えて、は余計だろうが、くそ犬」


こたつでごろりと転がりかけていた神様が、すかさず口を挟んだ。


だが神使はそれには取り合わず、少女の手から盆を受け取る。少女は少し迷ったものの、結局それを任せることにしたらしい。


「……じゃあ、お願いします」

「はい」


盆を持って台所へ向かう神使のあとを、手持ち無沙汰になった少女も追いかける。結局二人並んで、流しの前に立つことになった。


居間に残った神様は、こたつに足を突っ込んだまま、その背中をぼんやり眺める。


「……ほんと、人んちって最高だな」


また同じことを呟くと、こたつに額を預けるようにして目を閉じる。

うとうとしかけたところで、廊下の向こうから少女の声がした。


「お風呂。落ち着いたらいつでも」

「先に入っても良いの?」

「うん。沸いたばかりだから30分くらいしたら──」

「やっほ~」


少女の言葉を最後まで聞かず、神様は勢いよく廊下のほうへ駆け出していた。


「え!? もう入るの?」


食後からそれほど時間も経っていないのに、本人はまったく気にしていないらしい。そのまま一直線に風呂場へ向かっていく。


「あの! かなり熱いと思うので、水で薄めて下さい!」

「おっけー!!」


あまりの勢いに、少女は呆然とした顔でその後ろ姿を見送った。


「うるさくて申し訳ありません……」


申し訳なさそうに腰を折った神使に、少女は小さく苦笑することしかできなかった。


「なんか、急すぎて私もよく分かんない」

「神様、少し浮かれているようで」

「少し、かな……」


そう言いながらも、少女の表情はどこかやわらいでいた。


その変化に気づきつつも、神使はあえて何も言わずに廊下へ視線を移す。どうせまた服を脱ぎ散らかしているだろうと、そんな事を考えているのが少女にも分かった。


そのとき、ふと思い出したように少女が口を開いた。


「それより、何でこんな田舎に? 次の勤務地とか言ってましたけど」


ぴくりと神使の肩が一瞬上がった。

それから、少しだけ困ったように笑う。


「お恥ずかしい話なのですが、神様が神宮でちょっとしたミスをいたしまして」

「ミス?」


少女が首を傾げる。


「はい。二千円のお守りを三百円で売っていて……しかも三年間も」

「ああ……」


その反応があまりにも率直で、今度は神使のほうが少し気まずそうになった。


「その罰で、他の神社に左遷……いえ、短期出向を命じられたのです」

「その先が、にょろにょろ神社ですか?」


静かに頷きが返る。


「比較的位の高い社の中で、百年以上神の立ち寄りがない神社だったもので」

「そうだったんだ……」


少女は目を伏せた。

その声には、にょろにょろ神社の今を知っている者らしい複雑さが滲んでいた。


それを感じ取ったのか、神使もそれ以上は軽々しく続けなかった。



脱衣所には、沸かし立ての湯気の気配が濃く漂っていた。


古い家らしい少しひんやりした床も、風呂場の戸の向こうから流れてくる熱気のせいで、どこか湿り気を帯びている。


「A CHI CHI A CHI〜 燃えてるんだろうね〜♪」


妙に調子っぱずれな古い節回しが、脱衣所の中でひとりでに弾んだ。


二日ぶりに、まともに湯へ浸かれる。それだけで、もう気分は天にも昇るようだった。景気よくジャージをぽい、靴下をぽい、と脱ぎ散らかし――そこで、ふと動きが止まる。


「……やべっ」


数秒の沈黙。


「替えの下着忘れた」


言った瞬間、神様は風呂場の戸を振り返り、脱衣籠を見て、もう一度自分の手元を見た。ない。どう考えてもない。駐車場生活とこんにゃく生活でいっぱいいっぱいだったせいか、そのへんの準備はきれいさっぱり頭から抜け落ちていたらしい。


次の瞬間には、下着一丁の姿で脱衣所を飛び出していた。


ペタペタと軽い足音が廊下へ響く。


「あれ?この部屋だっけ?」


借りた家の間取りなど、まだまともに頭へ入っていない。風呂の熱気で頬を赤くしたまま、神様は廊下をきょろきょろ見回した。


そのとき、居間のほうから話し声が聞こえてくる。


『正直、神様の相手は疲れます』

『何となく分かるかも……』


ぴくり、と耳が動いた。


「……あの腐れ神使、また私の文句たれてんのか?」


小声でぶつぶつ言いながら、そろりと気配を殺して居間の前まで近づく。


襖の隙間から漏れる灯りの向こうでは、神使と少女が向かい合って座っていた。風呂へ突撃した神様がいなくなったぶん、さっきよりも砕けだ空気が流れている。


僅かに開いた襖の隙間から、神使の声が聞こえてくる。


「まさか、駐車場になってしまっているとは知りませんでした」


神使の声は、先ほどまでの軽い調子からトーンダウンし、核心の質問へと話題を変えていた。


「先月の大雨で、裏の山が崩れて……神殿が潰れちゃったんです」

「え?」


その一言で、場の空気がわずかに止まる。

神使の表情が、はっきりと変わった。いつもの落ち着いた顔からすっと色が抜け、目が大きく開かれる。


目を伏せたまま、少女は続けた。


「こんな田舎だし、修復するお金も集まらなくて……」


さっきまで神様とやり合っていたときとはまるで違う、静かな顔で神使は少女を見ていた。軽口を挟む余地のない話だと、声の調子ひとつで分かる。


「そうだったんですか」

「放置するのも危険だって、取り壊して……先月、仮設の駐車場に」


しばらく、神使は言葉を失っていた。


神社がなくなっていたこと自体は、昨日の時点で目にしている。だが、その理由までは知らなかった。単に寂れたからでも、整理されたからでもない。山が崩れ、社が潰れ、修復もできず、危険だから壊すしかなかった――そういう事情がそこにはあったのだ。


「ちなみに、宮司さんは?」


静かにそう尋ねると、少女は少しだけ間を置いてから答えた。


「土砂崩れに巻き込まれて……今は入院しています」

「そんな……」


こぼれた声には、本気の驚きが滲んでいた。

神使目元がわずかに揺れる。さっきまでの穏やかな聞き役の顔ではもうなかった。


「お見舞いに行きたいのですが、どちらの病院か分かりますでしょうか」


それまで伏せていた視線が、ゆっくり持ち上がる。少女は神使の顔を見てから、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。


「日曜日でよければ、一緒に行きますか?」

「お知り合いなのですか?」


問い返された少女の視線が、少しだけ揺れた。

言うべきかどうか、一瞬だけ迷ったのが分かる。


「私の……祖父です」


その答えを聞いた途端、神使の目がさらに見開かれた。驚きがそのまま表に出た、珍しい顔だった。


その瞬間、廊下の真ん中で聞き耳を立てていた神様が――


「へっくしょい! へっくしょい!!」


豪快に、恥じらいの欠片もない大きなくしゃみを放った。しかも二回。


居間の中で、少女と神使の視線が同時に入り口へ向く。


「……神様?」


神使の眉間に、すっと皺が寄る。

呆れと困惑と、ほんの少しの諦めが混じった顔だった。


一瞬だけ固まった神様は、すぐに開き直ったように襖を開ける。


「下着の替えをくれ」


数秒、居間の空気が止まった。


そして──


「うわっ、神様! 下着姿で何やってるんですか!」

「何って、下着の替えを忘れたんだよ」


悪びれた様子もなく、神様は言い放つ。

恥じらいという概念すら持ち合わせていないと思わせるその姿に、少女は顔を手で覆い、神使は額に手を当てた。


「神宮の宿舎じゃないんですから、そんな姿でうろうろしないでください」

「なんだよその言い方。まるで私が普段から下着姿でうろうろしてるみたいじゃないか」

「違うんですか?」

「してねーし!」


言い返しながらも、風呂の熱気で頬は赤いし、借りた家の廊下に下着姿で突っ立っているしで、説得力はほとんどなかった。


神使は深々とため息をつく。


「今持ってきますから、ちょっと待っていてください」


そう言って立ち上がる神使の横で、少女はぽかんとしたまま神様を見ていた。驚きと呆れが半々、といった顔だったが、やがて口元が少しだけ緩む。


「……可愛い下着だね」


一瞬きょとんとして、それから神様は胸を張った。くねくねとわざとらしく身体を揺らしてみせる。


「照れるなぁ〜」

「褒めてません」


少女が言い切るより早く、神使が戻ってきた。手にはきちんと替えの下着と、寝間着代わりの白の小袖が握られている。


「はい、どうぞ」

「サンキュ〜」


受け取るなり、神様はそのままくるりと踵を返した。ぺたぺたと軽い足音が廊下を走り、脱衣所のほうへ遠ざかっていく。


その足音が完全に消えるのを待ってから、少女がぽつりと言った。


「……本当に大変ですね」


苦笑はしたものの、今度のそれは単なる呆れだけではなかった。


「分かって頂けたようで」


そう返しつつも、神使の頭の中にはさっきの会話が残っている。


神社は大雨で潰れ、祖父はその土砂崩れで入院している。少女は、その両方を一人で抱えながらここで暮らしている。


その重さを、神使は軽く扱わなかった。


「日曜日の件ですが……」


改めてそう切り出した神使に、少女はすぐ顔を向けた。


「はい」

「もしご迷惑でなければ、本当にご一緒させていただけるとありがたいです」


その言い方は慎重だった。興味本位ではなく、本気で見舞いに行きたいのだと分かる声だった。


少女は少しだけ迷うように視線を落とし、それから小さく頷く。


「……分かりました」

「ありがとうございます」


神使が深く頭を下げた、その直後だった。


風呂場のほうから、派手な水音が響く。

ざばーん、と明らかに勢いよく湯へ入った音のあと、


「うぎゃー! 風呂あちーー!!」


夜の家じゅうに響きわたる悲鳴だった。


少女と神使は、同時にそちらの方角を見たまま黙り込む。

言葉が出ない。けれど次の瞬間、少女の肩が小さく震えた。


「……ふふっ」


笑いがこぼれる。

額に手を当てた神使が、深く息を吐く。


「本当に……騒がしいですね」

「返す言葉もありません……」


少女は笑いながら、小さく頷いた。


さっきまで、にょろにょろ神社の話も、祖父の話も、決して軽くはなかった。けれど神様は、意図してなのか天然なのか、その重さの中へ勢いよく飛び込んできて、勝手に空気をひっくり返していく。


迷惑だし、騒がしいし、常識もない。なのに、気づけば少しだけ呼吸がしやすくなっている。


そんな少女の横顔をちらりと見て、神使はわずかに目を細めた。


日曜日に見舞いへ行く約束は、もうこの場で確かに結ばれている。

にょろにょろ神社と宮司、そして少女の事情は、ここから先もう避けて通れない。


それでも今は、その重さをすべて押しつぶすのではなく、少しだけ笑える余白があった。


その空気を追いかけるみたいに、廊下の向こうからぱたぱたと軽い足音が戻ってくる。やがて襖が開き、風呂上がりの神様が姿を見せた。


「もう上がったの!?」

「ちゃんと全部洗ったから無問題」


まだ十分もたっていない。しかし頬はすっかり赤く、髪の先にはまだわずかに湯気が残っている。寝間着代わりの白い小袖をまとった姿は、さっきまでのジャージ姿とはまるで別人みたいだった。もっとも、本人はそんなことなど気にもしていないらしく、居間へ入るなりその場でくるりと一回転する。


「どうよ。清められた私の姿は」


得意げに胸を張る。

が、特に神々しさが増したわけでもなければ、何かが劇的に変わったわけでもない。強いて言うなら、石けんの香りが加わったことと、ぺたっと濡れたままの髪、そしてジャージが小袖に替わったことくらいだろうか。けれど、それだけでもどこか雰囲気は違って見えた。


少女は一瞬だけ目を丸くする。さっきまでジャージで騒いでいた姿との落差に、少し戸惑いながら口を開いた。


「……似合ってます」


その一言で、神様の顔がぱっと明るくなった。


「でしょ!? 和服は得意なの」

「それだけで和服が得意と言われましても……せめて緋袴でも履いてから言ってください。それよりも」


満面の笑みで返す神様の横で、神使は濡れた髪へちらりと目を向ける。


「髪はちゃんと乾かしてくださいね」

「自然に乾くって」

「朝起きたら凍ってても知りませんよ?」


その切り返しに、神様はぴたりと口をつぐんだ。

神様はむっとしたふりをしたものの、どこか嬉しそうでもあった。


「ほら犬ころ、お前もお風呂もらっとき」

「はいはい」


立ち上がった神使が、少女へ軽く頭を下げる。


「では、お風呂をお借りします」

「どうぞ」


神使が廊下の向こうへ消えると、居間には再び神様と少女だけが残った。

ゆらりと垂れる袖を見下ろしながら、神様はそれを少しだけ指先でつまんだ。


「……ありがとね。風呂も、飯も。ほんと助かった」


少女はしばらく何も言わなかった。

それから、やわらかく首を振る。


「……うん」


短い返事だった。

けれど、その短さの中に、最初の頃みたいな強い警戒はもうほとんど残っていなかった。



しばらくして、神使が風呂から戻ってくる。


「お風呂、ありがとうございます」


髪をタオルで軽く拭きながら居間へ入ると、こたつにはすでに神様が深く沈み込み、携帯をいじりながらすっかり弛緩しきった顔をしている。風呂に入って、温かい家の中で、満腹のままこたつに収まる。神様でなくても、ほとんど極楽みたいな状態だろう。


そんな静かな時間の中で、ふいに少女が立ち上がった。


「部屋、準備してきます」

「えっ、もう?」

「そのままだと、こたつで寝そうだから。すぐ戻ります」


そう言い残して居間を出ていく。廊下の向こうへ足音が遠ざかり、襖の閉まる音が静かに響いた。


向かい側へ腰を下ろした神使は、まだ少し湿っている髪を拭きながら神様を見る。こたつ布団に半分埋もれたまま、携帯をいじる手つきだけは妙に機敏だった。


「神様、最近よく携帯を触っていますよね」

「ん~? ああ」


気のない返事をしつつ、少し古い型の携帯を器用に操作している。


「何をやっているんです?」

「ライン~」


その一言に、神使の手がぴたりと止まった。


「え? 神様って友達いるんですか?」


すっと細くなった目が、じろりと向く。


「よーし。腐れ犬ころ、今日という今日は許さないぞ」

「すっ、すいません今のは言い過ぎました」


即座に頭を下げた神使を、神様はじとりと睨んだまま鼻を鳴らした。


「私にだって友達くらいいるわ!」

「誰とやり取りしているんですか?」

「A子ちゃん」


その名前を聞いた瞬間、神使が「ああ……」という顔になる。


「去年、内宮(うちのみや)に入った巫女のA子ちゃんですか」

「そう。あの子とは話が合うんだよね~」


そう言いながら届いたメッセージへ視線を落とす。画面を見ている顔は、さっきまで少女と話していたときともまた少し違っていた。口元が勝手にゆるみ、返事を打つ指先までどこか浮き立っている。神様だの何だのと言い張っていても、その横顔だけ見れば、ただ友達とやり取りしている年頃の少女にしか見えない。


それを眺めていた神使が、小さく肩をすくめた。


「A子ちゃんも結構変わってますからね」

「“も”ってなんだよ!」


すぐさま神様が顔を上げる。だが、神使は涼しい顔で視線を逸らした。


「いえ、別に深い意味は」

「あるだろ絶対」


不満そうに言い返しながらも、視線はすぐまた画面へ戻る。


「あっ、返事来た」

「何と?」

「“ちゃんと働いてますか”だって」


じとりとした目が向けられた。


「的確ですね」

「うるさいな。働いてるだろうが!」


文句を言いながらも、指先だけは妙に機敏に動く。返事を打つたび、表情がころころ変わるのが分かった。


しばらくその様子を眺めていた神使が、ふと思い出したように尋ねる。


「A子ちゃんは、神様の正体をご存じなのですか?」

「さぁ~? 普通に巫女だと思ってるんじゃない?」

「教えていないんですか?」

「別に関係なくない?」


返事はあっさりしていた。


「友達にまで、神とか仕事とか持ち込みたくないし」


いつもの軽い口調だったが、その一言だけは妙に素直だった。


こたつの向こうで、神使は膝の上に置いたタオルを指先で軽く押さえたまま、小さく息をつく。


「……まあ、そのお気持ちは分からなくもありません」

「でしょ?」


神様はようやく携帯から顔を上げ、少しだけ笑った。


「神とか巫女とか抜きで話せる相手って楽なんだよ」


言い方は軽い。けれど、その奥にはきちんと本音が混じっていた。


神使はそれ以上、余計なことは言わなかった。ただ静かに、その横顔を見ている。友達とやり取りしているときの神様は、神宮で見る顔とも、少女の前で騒いでいるときの顔とも少し違っていた。


やがてメッセージのやり取りがひと段落したのか、神様は携帯を閉じて、こたつの上にぽんと置く。


「ふぅ」

「満足されましたか」

「A子ちゃん、お土産送ってだって」

「送ってって……」


そんな他愛もない会話が、風呂上がりのぬるい空気の中へぽつぽつ落ちていく。


そのちょうど途切れ目を見計らったように、廊下の向こうから足音が戻ってきた。襖が開き、少女がそっと顔を覗かせる。


「部屋、準備できました」

「おっ、ありがとう」


案内された先は、八畳ほどの和室だった。

余計な家具はほとんどなく、押し入れと箪笥、それに壁際の低い棚があるだけの、静かな部屋だった。けれど布団は二組、もうきれいに敷かれている。障子越しに夜の気配が淡く滲み、乾いた藺草の匂いがやわらかく漂っていた。


「しばらくこの部屋を使ってください」


その言葉に、神様は中を覗き込んで素直に感心したような声を漏らす。


「おっ、広いじゃん」

「神宮の神様のお部屋は三畳でしたからね」


神使が何でもない顔で言う。


「そうそう、押し入れの方が広い…… ってどんな間取りやねん!」


間髪入れずに神罰――もとい足蹴りが飛んだ。油断していた神使の足に見事に入って、ぱしっと小気味いい音が鳴る。


「痛っ! ちょっと神様、私に八つ当たりしないで下さい」


ふん、と鼻を鳴らすばかりで、神様は悪びれもしない。


そんなやり取りも、少女にはもう少しずつ見慣れたものになりつつあるらしい。襖の脇へ身を寄せたまま、小さく笑う。


「何か足りなかったら言ってください」

「おっけー」


返事だけはやたら早い。


「じゃあ、おやすみなさい」

「おやちゅみ~」


毛布を抱えたまま、神様がひらひらと手を振る。その隣で、神使もきちんと頭を下げた。


「本当にありがとうございます。おやすみなさい」

「……おやすみなさい」


襖が閉まる。


その音がやけにやわらかく響いたあと、部屋には神様と神使だけが残った。


しばらく、どちらも何も言わない。


抱えていた毛布を布団の上へ落とし、神様はその場にすとんと座り込む。神使は障子の隙間を軽く確かめ、部屋の端に置かれた小さな灯りを少し落とした。


明かりが和らぎ、部屋の中に夜の静けさがゆっくり広がっていく。


外では風が木々を鳴らしていた。だが、それは駐車場で聞いていた剥き出しの風音とは違う。屋根の下で、壁越しに遠く聞く音だった。その違いだけで、胸の奥に溜まっていた緊張がひとつ、またひとつとほどけていく。


そんな静けさの中で、神使がぽつりと口を開いた。


「神様、少女さんのこと何か知ってるんですね?」


布団の端をいじっていた手が、ぴたりと止まる。


「なにが?」

「宮司さんの事とか、にょろにょろ神社の事とか」


まっすぐ向けられた視線を受けても、神様は気のない顔のままだった。


「うんにゃ、そこまで詳しくは知らなんだ」

「でも、何か知ってる雰囲気ですよね? 急に少女さんの家にまで来て」


そう問われて、神様は「あ〜」と間の抜けた声を漏らした。

それから袖の中へ手を突っ込み、携帯を一つ取り出す。


「あ〜、これ」

「神様の携帯って、かなり古い機種ですよね」


反射的にそちらへ目をやった神使へ、神様は即座に顔をしかめた。


「そこじゃねーよ。画面見ろよ」

「失礼しました」


小さく咳払いをしてから、神使は居住まいを正す。


神様は器用に携帯を操作し、その画面を神使のほうへ向けた。並んだ文字を見た瞬間、神使の眉がきゅっと寄る。


神宮(かみのみや)お願い事リスト?」

「そっ。神宮にお参りした人の願い事をリストにしたやつ」

「見せて下さい」


すぐさま身を乗り出しかけた神使へ、神様はひょいと携帯を引っ込めた。


「ダメ〜。これは神以外は見ちゃいけないんです〜」


わざとらしく舌まで出してみせる。


神使は無言になった。


その沈黙を見て、神様がにやりと笑う。


「あれ? ちょっとイラッとした? ねぇイラッとした?」

「してませんが」


声だけは平静だった。

けれど、その目は少しだけ冷たい。


満足げに鼻を鳴らした神様は、次の瞬間にはその携帯をぽいと放った。


「ほれ」

「おっとっと」


危ういところで神使が受け止める。


「他のリストは見るなよ」

「分かっています」


短く返してから、神使は画面へ目を落とした。

そして、表示された内容をゆっくり読み上げる。


「おじいちゃんが元気になりますように(69)、お金があつまりますように(51)……」


二つの願いが、数字つきで並んでいた。文字を追っていた指先が、ふと止まる。


「これは?」

「少女ちゃんが神宮に来たときにお参りした内容」


神使の視線が、数字の部分へ戻る。


「この後ろの数字は何です?」

「あぁ、成就指数だね」

「成就指数?」


聞き返す声に、神様は布団へ片肘をつきながら答えた。


「70以上が神にまで上がってくるお願いで、90以上が神力成就」

「それ以下はどうなるんです?」

「祈祷。まぁ、神にまで上がらず目に触れないお願いってこと」


淡々と告げられたその仕組みに、神使は思わず画面と神様の顔を見比べた。


「神宮のシステム化が進んでいることは知っていましたけど、ここまで進んでいるとは……」

「良いんだか悪いんだか、難しいとこやね」


神様はぼんやり天井を見上げながら言う。


もう一度画面へ視線を戻した神使が、ぽつりと呟いた。


「お金が集まりますように、というのは……さすがに低いですね……」

「まぁ、よくある願いだからね」


神様はあっさり頷く。


「普通は成就指数10以下なんだわ」


その一言で、神使の目つきが少し変わった。


「でもこれって、にょろにょろ神社復興のための資金って事ですよね」

「たぶん」

「なんでこんなに成就指数が低いんです?」


問いかけはまっすぐだった。


少しだけ首を傾げてから、神様は肩をすくめる。


「もう少し分かるようにお願いしないと、さすがにこっちも分からんよ」


無情というより、それはただ事務的な現実そのものだった。

しばらく黙り込んでいた神使が、ふと別の疑問を口にする。


「ちなみに成就指数っていうのは、どうやって決まっているんですか?」


顎でしゃくるようにして、神様が画面を示した。


「下に詳細ボタンってあるだろ?」

「はい」


言われたとおりに、神使はその箇所を押す。


画面はすぐに切り替わり、次の瞬間、細かな項目がずらりと並んだ。


「これは……」

「少女ちゃんが神宮に来た回数とか、買ったお守りの種類、その他備考なんか色々」


さも当然のように言われて、神使は画面をスクロールしながら思わず息を詰めた。


参拝日時、授与所利用履歴、祈祷受付履歴、願意傾向、再来訪頻度、備考――。単なるお願い事の一覧ではなく、一人の参拝者に関する情報が想像以上に細かく整理されている。


「こんな細かく調べているんですか?」


その驚きには、少し呆れも混じっていた。


神様は肩をすくめる。


「大変なんだな〜、それ作るの」

「もしかしてこれ、神様が?」

「だって、わたし他に仕事ないし〜」


何とも言えない沈黙が落ちた。


本人はいつもの調子で言っているが、中身は意外なほど地道で骨の折れる作業だと分かる。

そんな空気など気にも留めず、神様はいつの間にか部屋の隅に置かれていた小さな籠からみかんを見つけていた。


「おっ、みかん見っけ」


ひょいと手に取って、爪を立てる。


「成就指数が上がるように書いたんだけど、中々数字が上がらんのよ」


むき、むき、と皮を剥きながら、ぼやくように言う。


そこでようやく神使が画面から顔を上げた。


「全ての参拝者にやっておられるのですか?」

「まさか〜」


神様はみかんの房を一つ口へ放り込む。


「そんなの無理無理」


もぐもぐと咀嚼しながら、さらに続けた。


「たまたま私がお守りを売って、なんとなく気になったからってだけ」


その言い方に、神使はゆっくり目を細める。


「やっぱりここに来る前から全て知っていたんじゃないんですか」

「そんな訳ないじゃんよ」


口をもごもごさせたまま、神様は言い返した。


「神力ゼロの私をなめんなよ」

「威張ることではないと思います」


神使の返しは容赦がない。


それでもまるで気にせず、次の房をまた口へ放り込む。


「ここでお守り持った彼女見た時は、こっちがビックリしたわ」


ぽつりと漏れたその一言だけは、少しだけ本音の響きを帯びていた。


神使は携帯の画面を見つめたまま、しばらく黙る。


少女が神宮へ来た回数。願いの内容。成就指数。神様がそれを見て、わざわざ指数が上がるように書き直していたこと。

全部が、いまこの家で見たものへ繋がっていく。


祖父の入院。神社の崩壊。ひとりで抱えている少女。


静かに、神使は息を吐いた。


「……神様」

「ん?」

「本当に“なんとなく気になった”だけですか?」


問いかける声は静かだった。


返事の代わりに、神様は最後の一房を口へ入れる。

そして次の瞬間、顔をしかめた。


「このみかん、すっぱ!」


思いきり顔をしかめたその姿があまりにも神様らしくて、張りつめかけていた空気が少しだけゆるむ。


神使は思わず目元を押さえた。


「大事な話の締めがそれですか……」

「いや、ほんとにすっぱいんだって」


口をもごもごさせながら、神様が訴える。


けれど、その横顔には、さっきまでみたいな軽さだけではない何かが残っていた。


願い事リストの数字も、備考欄の情報も、それだけでは見えないものがある。

だからこそ神様はここへ来て、少女の家にまで押しかけたのだ。


神使はようやくその輪郭を、少しだけ掴み始めていた。


部屋の外では、夜の風が木々を揺らしている。


その遠い音を聞きながら、神使は携帯の画面をもう一度見下ろした。


日曜日の見舞いは、単なる付き添いでは終わらない。

そう思わせるには十分すぎるものが、もうこの小さな画面の中に並んでいた。


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