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神様だ! 神力ゼロですが  作者: 狛猫
第1章「ひのひの村」
1/10

#01-01「神社がないんですが」

山あいの細い道を、二つの影が歩いていた。


空気は凍りつくように冷たく、足元にはまだ溶け残った雪がまだらに残っている。踏みしめるたび、湿った土と霜がかすかな音を立てた。吐く息は白く、朝の静けさの中でやけに目立つ。


「う〜……さぶっ!」


少女が肩をすくめて身を震わせた。


ラフなジャージ姿で腕を抱え込み、寒さを振り払うようにその場で小さく足踏みする。細い肩がぶるりと揺れるたび、いかにも不機嫌そうな顔がますます険しくなった。冬の山道を歩くには、あまりにも気の抜けた格好である。


「これは氷点下いってますね」


隣を歩く青年が、空を見上げながら呑気にそんなことを言った。


白い着物に鮮やかな浅葱(あさぎ)色の袴、さらに生成りの紋付きを羽織った姿。布地の質も仕立ても明らかに上等で、歩くたび揺れる袖や裾にまで妙な品がある。冬の山の寒さの中でも姿勢ひとつ崩さず、どこか神前に立つ役人めいた空気すら漂わせていた。


そんな青年を、少女はふてくされた顔を隠そうともせず、じろりと横目で睨み上げる。


「そんな事言われなくても分かるわ! 腐れ神使」


尖った声が、しんとした山道に響く。


神使と呼ばれた青年は、慣れたものだと言わんばかりに肩をすくめた。


「神様、一応女性なのですから、もう少し上品な言葉遣いをされた方が」

「うっさい。一応って何だよ」


和装の青年が神使で、ジャージ姿で文句を垂れている少女が神様。朝の山道には、そんな妙にちぐはぐな取り合わせが並んでいた。


少女――神様は、道の両脇に広がる冬枯れの景色を恨めしそうに見回し、あからさまな溜め息を漏らす。


前方の山道はゆるやかに折れ、その先へと続いている。神使が白い息を吐きながら、道の先を指で示した。


「その道を曲がれば次の勤務先、“にょろにょろ神社”です」

「やっとか。神社に着いたらまずは風呂だな」

「宮司様へのお土産は?」

「あるよ」


神様は両手に提げた紙袋を、見せつけるようにばさばさと揺らした。中身の重みが手に食い込んでいるのか、少し持ち直してから顎を上げる。


「大九で買った“どらや”の羊羹」

「第一印象は大切です。優秀な神であることを、しっかりとアピールしてください」

「へいへい。善処しますよ」


面倒くさそうにそっぽを向き、神様は露骨に視線を外す。紙袋だけが、歩調に合わせてかさりかさりと鳴った。


しばしの沈黙が落ちる。


山の奥から吹き降りてきた風が、道端の枯れ葉をかさかさと転がしていった。その音だけが妙に大きく耳につく。


「ここを追い出されたら、私達、本当に行き場がありませんからね」


ふいに神使が言った。

先ほどまでの淡々とした調子と同じなのに、その一言だけは妙に現実味を帯びていた。神様は一瞬だけ口をつぐみ、やがてじとりとした目で神使を睨みつける。


「……分かってるよ」


吐き出すような返事。だが、その声にはさっきまでの刺々しさとは少し違う重みが混じっていた。


二人はそのまま無言で、ゆるく曲がった道の先へと向かう。


そして、角を抜けた次の瞬間。


ぴたりと、二つの足が止まった。


目の前に広がっていたのは、鳥居でも、石段でも、社務所でもない。きれいに白線が引かれた、やけに見晴らしのいい駐車場だった。


「……ねぇ、神使君」

「はい」

「社務所が無いんですけど」


神使は一度瞬きをし、あらためて周囲を見回した。沈黙のあと、どこまでも冷静な声で答える。


「そうですね」


それから一拍置いて、さらに言った。


「というか、神社がありませんね」


あまりにも落ち着き払った口調でそう言われ、神様はしばらく何も返せなかった。


目の前に広がっているのは、どう見ても駐車場だった。山を切り開いて作ったらしい、やけにだだっ広い土地。白線は新しく、地面もまだ真新しい。端の方には申し訳程度に植え込みがあり、片隅には簡素な小屋のようなものがぽつんと置かれている。だが、そこにあるべき鳥居も石段も、社務所らしき建物も見当たらない。


神様は紙袋を提げたまま、ゆっくりと首を巡らせる。左を見ても駐車場、右を見ても駐車場。見渡すかぎり、神社らしい気配はどこにもない。


「……神宮かみのみやに帰る?」


ぽつりと漏れた声は、先ほどまでの刺々しさがどこか抜けた、拍子抜けしたような響きを帯びていた。


「どの面下げて帰るんですか?」


即答だった。


神様はむっとして神使を睨む。だが、睨まれた当人はどこ吹く風といった顔で、淡々と周囲を観察している。そういうところがいちいち癇に障るのだと言わんばかりに、神様は舌打ちした。


「……んじゃ、宿でも探して考えるか」


投げやりにそう言って一歩踏み出しかけた、そのときだった。

神使が何も言わない。しかも、その場から動こうともしない。

不自然なくらいに黙り込んでいるのが気になり、神様は怪訝そうに振り返った。


「……何だよ」


神使はすぐには答えず、ほんのわずかに視線を逸らした。珍しく言いにくそうな顔をしている。こういうときはろくなことを言わないのは、もう三年も一緒にいれば嫌でも分かる。


「宿、とおっしゃいますが」

「あ?」

「この辺りに、そういった便利なものがあるようには……」


神様は眉をひそめた。


「あるだろ、さすがに。ビジホとか、旅館とか。最悪、民宿」

「山の中ですよ?」

「だから?」

「この辺り、見たところ集落もだいぶ離れていそうですが」


確かに、周囲を囲むのは山、山、山である。人家らしいものも見えない。聞こえるのは風が抜ける音と、どこか遠くで鳴いている鳥の声だけだ。


「ねぇ、神使君」

「はい」

「ここって、本当に東京?」


神使は一拍も置かずに頷いた。


「東京ですよ」

「途中に清流あったよね?」

「東京です」

「さっき猿の鳴き声みたいなの聞こえたんだけど」

「都内です」


神様はしばらく無言になった。何か言い返してやりたかったが、どう返しても現実は変わらない気がして、言葉が喉の奥でしぼんでいく。


その沈黙を埋めるように、神使が静かに続ける。


「神様が都内での勤務をご希望でしたので、条件としては間違っていません」

「私が言った都内ってのはさぁ……」


神様は紙袋を持ち直しながら、恨みがましく空を見上げた。


「祥寺とか下北とか、そういうやつのことなんだよね」

「はい」

「はいじゃなくて」


声が低くなる。


「そしたら普通、ここは違うって分かるよね?」


神使は困ったように視線を伏せた。


「申し上げにくいのですが、吉祥寺や下北沢のような勤務地は……その、もう少し位の高い神でないと」


神様はぴたりと動きを止めた。

朝の冷え込みとは別の冷たいものが、胸のあたりをすっと撫でていく。


「……あー、そうだよね」


乾いた声でそう言ってから、力なく笑う。


「私、神階低いもんね。忘れてたわ」

「神様」


神使の声が、思いのほか真面目だった。

顔を上げると、神使はいつになくまっすぐ神様を見ていた。


「神様は最低位なんかじゃありません」


その言い方に、神様の胸がわずかに温かくなる。


「最低位に分類されるなら、まだ救いがあります」

「……は?」

「ランク外です」


数秒の沈黙。


次の瞬間、神様の足がゲシッという音と共に神使の脛にめりこんだ。


「っ、痛っ!」

「神罰だ」

「それ神罰じゃなくてただの足蹴りですよ」


もう一発。軽快な音が駐車場に響く。神使が情けない声を上げ、片足を押さえて飛びのく。その様子に少しだけ気が晴れたものの、状況が一つも改善していないことを思い出し、神様はまた深々と溜め息を吐いた。


「……ったく。それより、これからマジでどうすんだよ」

「おやしろがなければ、別の勤務先を申請することもできますが」

「なら次行こうぜ。はよ神宮に連絡して」


神様は食い気味に言った。今すぐここから離れたい。そんな気持ちが声にまで滲んでいる。


ところが神使は、またしても微妙な顔をした。


「それが……お社はあるんです」

「え?どこに?」


周囲をキョロキョロと見渡す神様に、神使が駐車場の隅を指さした。


その先にあったのは、小さな箱のようなもの。屋根だけはそれらしい形をしているが、遠目に見ても小さい。小さいというより、むしろ心許ない。神様は目を細め、それをまじまじと見つめた。


「あれ、神棚じゃない?」

「そう見えますね」

「ホームセンターで売ってるの見たことあるぞ」

「私もあります」


神様はじっと神使を見た。


神使もじっと神様を見返した。


「……いや、ダメだろ。あれを神社の本殿とか言い張る気か?」

「ですが、御神体らしきものが入っているようですので」

「ネズミも住めないぞあんなの」

「規則ですし、形だけでも少しは滞在しないと」


神様は絶句した。


冬の山の駐車場の隅にぽつんと置かれた、ほとんど神棚みたいな小さな社。そこで滞在しろと言われている。頭の中にその光景を思い浮かべただけで、凍死という二文字がちらつく。


「こんな真冬に何日も野宿なんて、凍死するぞ」

「その前に警察に通報されるかもしれませんね。ははは」

「笑えないんだよ」


吐き捨てるように言って、神様は紙袋を抱え直した。もうこの場から動く気力すら削がれてきている。寒い、眠い、腹も減った。そのうえ勤務先が駐車場で、神社は神棚サイズ。ここまで来ると、もはや神なのに神罰でも当たっているのではないかという気がしてくる。


神使は小さな社へ歩み寄り、しゃがみこんだ。中を覗き込み、何やら真面目な顔をして確認している。その横顔を眺めながら、神様は駐車場の真ん中に取り残されたまま、行き場のない気持ちを持て余した。


風が吹くたび、ジャージの薄い生地の隙間から冷気が容赦なく入り込んでくる。


「……帰りたい」


ぽつりと漏らしたところで、もちろん誰も助けてはくれない。


神使は社の前で立ち上がり、服についた砂を払った。


「やはり御神体があります。最低限の体裁は整っているようですね」

「最低限にも程があるだろ」


神様は紙袋を持ったまま、その場にしゃがみ込みたくなるのをどうにか堪えた。今ここで座り込んだら最後、たぶん立ち上がる気力がなくなる。


そのときだった。


風の音に混じって、かすかな話し声が聞こえてきた。

耳を澄ますと確かに複数人の声がする。しかも、だんだんこちらへ近づいてきているようだった。


神様が顔を上げる。

神使も同じように振り返った。


駐車場の脇を通る細い道の向こうに、制服姿の少女たちの影が見えた。


こんな山の中に不釣り合いなほど、彼女たちは“日常”の匂いをまとっていた。紺色のスカート、冬用のコート、肩に提げた鞄。朝の冷え込みに身を縮めながらも、二人で何か話しているらしく、ときおり笑い声が風に乗って流れてくる。


神様は、そのうちの一人から目を離せなかった。


頭の片隅に引っかかっていたものが、急に輪郭を持ったような感覚だった。うまく説明はできない。ただ、見過ごしてはいけないような気がしたのだ。


隣では神使が、怪訝そうに眉を寄せている。


「どうされました?」

「……いや」


神様は小さく呟いたまま、なおも視線を向ける。


二人の少女はこちらにはまだ気づいていないようで、足早に坂を下りてくる。道端の霜を避けるように歩きながら、どちらかが何かを言い、もう片方が肩をすくめる。その何気ない仕草が、やけにこの土地に馴染んで見えた。


神使はそんな神様の横顔を一瞥してから、再び前方へ目を向けた。


「女子高生のようですね。こんな朝早くから大変で――」


最後まで言い終える前に、神様は紙袋を抱え直して走り出していた。


「お〜い」

「ちょ、神様?」


神使を置いて、神様が駐車場を横切っていく。薄いジャージの裾を風に揺らしながら、ずかずかと人の気配の方へ近づいていくその後ろ姿には、妙な勢いがあった。


「神様! どちらへ!?」


神使も慌てて追いかける。


「ちょっと神様〜、待って下さいよ!」


その声に気づいたのか、道を歩いていた二人の少女が同時に足を止めた。


「……?」


先に振り返ったのは、少し活発そうな印象の少女だった。すぐ隣にいたもう一人も、つられるように顔を向ける。そして、その目を見開いた。


見知らぬ駐車場の片隅から、ジャージ姿の少女と紋付き袴姿の青年が全力で近づいてくるのだから、無理もない。


「おはよう!」


神様は二人の前で立ち止まるなり、妙に明るい声を出した。


唐突すぎる挨拶に、少女たちはそろって戸惑ったような顔になる。


「……お、おはようございます」


控えめにそう返したのは、神様が目を留めていたほうの少女だった。


近くで見ると、どこか静かな印象を持つ子だった。派手さはないが、目を引く顔立ちをしている。冷えた空気の中で頬が少し赤くなっていて、そのせいか表情の硬さが余計に目立って見えた。


神様はそんな彼女をじっと見つめる。


少女のほうは、見知らぬ相手にそこまで真っ直ぐ見つめられて居心地が悪いのか、少し身じろぎをした。


「……あの、失礼ですが」

「神使君、挨拶」


横から割って入るように神様が言う。


「はいはい……」


追いついた神使は肩で息をしながらも、すぐにいつもの調子を取り戻した。袖の中から名刺入れを取り出し、慣れた手つきで一枚差し出す。


「私たち、こういう者です」

「はぁ……名刺?」


活発そうなほうの少女が、半信半疑といった顔でそれを受け取った。隣の少女も覗き込む。

そして次の瞬間、二人の表情が揃って妙なものを見る顔になる。


「特級神使の神使さんと……内宮うちのみや神籍、神宮かみのみや所属、広域特務課、審査係・管理神の神様……」


読み上げながら、活発な少女は眉をひそめた。


「なが!」


隣の少女も、名刺と神様の顔を見比べながら小さく呟く。


「……神?」


神様は待っていたとばかりに胸を張った。


「そう、神! 皆のアイドル、かわゆい神ちゃんとは私のことさね」


どや顔で言い切る。


朝の山道に、一瞬だけ妙な沈黙が落ちた。


活発な少女が、しげしげと名刺を見直す。


「神より神使の方が名刺立派なんですね。紙の厚さも素材も違うし」


その一言で、神様の笑顔がぴたりと固まった。


「……」


よく見れば、神使の名刺は厚手の和紙で、絶妙な透かし模様や箔押しが施されている。一方の神様の名刺は──市販の用紙にインクジェットプリンターで白黒印刷された滲みのある残念な仕上がり。


神使はどこか申し訳なさそうに、しかし事実として補足する。


「神様は神階がランク外ですが、私は神使の中でも最高位ですので」

「お前……何で私の名刺の方が雑なんだよ!」


神様の神罰ーー蹴りが飛ぶ。


「痛っ! ちょ、神様! 痛いですって」

「何で私より付きのほうが目立ってんだよ!」

「支給された物で、私が作ったわけではありませんから!」


朝っぱらから始まった小競り合いに、二人の少女は言葉を失っていた。


活発な少女は露骨に引いた顔をしている。


「……少女ちゃん、行こ。関わらない方がいいって」


隣の子の袖を小さく引っ張りながら、ひそひそ声で言う。


「神とか言ってるし、なんか変だよこの人たち」

「う、うん……」


少女と呼ばれたほうも困ったように頷き、そっと一歩下がった。


その小さな動きを見て、神様は慌てて顔を上げる。


「あっ、ちょっと待って!」


二人が足早にその場を離れようとする。


制服の裾が朝の風に揺れ、靴音が霜の残る地面を軽く打つ。彼女たちにとっては、どう見ても“変な人に話しかけられた朝”でしかないのだろう。


だが、それでも神様は諦めなかった。


「少女ちゃーん!」


びくりと、呼ばれた少女の肩が揺れる。


神様は駐車場の方を指さした。


「私はあそこの駐車場にいるから! いつでも来てねー!」


それが呼び止める言葉として正しいかどうかはともかく、神様は大真面目だった。


少女は立ち止まり、少しだけ振り返る。


戸惑いと警戒が入り混じった目だった。それでも、完全に無視して立ち去ることはできなかったらしい。ほんの一瞬だけ、神様のほうを見る。


神様はそんな彼女に向かって、これでもかというほど大きく手を振った。


「待ってるよー!」


隣の友人が、小声で急かす。


「少女ちゃん、バス来ちゃうよ」

「……うん」


少女は小さく返事をし、今度こそ友人と一緒に駆け出した。遠ざかっていく背中はあっという間に坂の向こうへ消えていき、あとには山の冷たい空気だけが残る。


神様はしばらくその方向を見つめていた。


やがて、隣からじとりとした視線を感じる。


「神様」

「ん?」


振り向くと、神使が呆れた顔で立っていた。


「どういうおつもりですか?」


神様はすぐには答えなかった。


山道の先を見つめたまま、少しだけ目を細める。さっきの少女の姿が、まだ頭の中に妙にはっきり残っていた。


「……別に」


そう言いかけた、そのとき。

どこか軽薄な電子音が、静かな朝の空気を破った。

ぴろりろりん、と間の抜けた音が響く。


神様が反射的にポケットを探る。


「あっ、メールだ」

「いえ、私の携帯です」


神使が無表情で自分のスマホを取り出した。


神様はその手元を見ながら、心底不満そうに眉をひそめる。


「……お前さぁ、その着信音変えてくれない?」

「どうしてですか?」

「それ、私と同じなんだよ」


神使はスマホの画面を見つめたまま、小さく眉を寄せた。


「神宮からです」


その一言だけで、神様の顔が嫌そうに歪む。


「うわ……朝からろくでもない予感しかしない」

「荷物は明日到着で送った、とのことです」

「荷物?」


神様はきょとんと瞬きをしたあと、じわじわと嫌な予感に顔を曇らせた。


「……どこに?」


神使はためらいなく答えた。


「ここです」

「ここって」


神様はゆっくり周囲を見回す。


山。風。駐車場。以上。


「ここ駐車場だよ?」

「そうですね」

「そうですねじゃねーよ」


思わず声が裏返る。神使はスマホを仕舞いながら、いかにも困りましたねという顔を作った。


「神宮も、こちらが駐車場になっていることを把握していないのでしょう」

「勘弁してくれよ……」


神様は片手で額を押さえた。


「駐車場に住み着いて野宿する神なんて聞いたことないぞ。しかも荷物まで届くの? 何それ、完全に定住前提じゃん」

「困りましたね」

「他人事みたいに言うなよ!」


神様はぐったりと肩を落とした。紙袋の持ち手が指に食い込み、じんじんと痛む。空腹も、寒さも、じわじわ限界に近づいている。


「……腹減った」


ぼそりと呟く。


「朝が早かったですからね」

「カストのモーニングへ行こうぜ?」


その誘いに、神使はすぐに返事をしなかった。それどころか、むしろ少し言いづらそうな顔をしている。


「……ありませんよ」

「あ?」

「カストも、古野屋も、竹屋もありません」


口を開けたまま固まる神様。


「なんで?」

「なんでと言われましても」


神使は静かに続ける。


「ちなみに、一番近いコンビニはバスで30分だそうです」

「バスで30分?」

「はい」


都会勤務を希望したはずが、実際にはコンビニまでバス30分の土地に飛ばされ、神社は駐車場で、朝食のあてもない。もはや左遷とかそういう言葉では追いつかないのではないかという気すらしてくる。


「……朝ごはんは?」

「えっと……」

「朝ごはん食べたい!」


一気に声が大きくなる。山の朝の静けさをぶち壊すような叫びだった。


神使は顔色一つ変えずに、来た道のほうを振り返る。


「こちらへ来る途中、個人商店のようなものがありましたから、何か買ってきましょうか」

「あ~ なんかあったね」

「小さい店ではありましたが……」


神様が飢えた獣のような目で神使を見る。


「ダッシュだ、犬ころ!」

「はいはい」


神使は慣れた調子で受け流しながらも、ため息を一つついた。


「では行ってきますので、神様はここで大人しく待っていて下さい。動かないで下さいよ?」

「分かってるよ」

「本当にこの敷地から外に出ちゃだめですよ?」

「いいから早よ行けって!」


神使はなおも少し疑わしそうな顔をしていたが、結局それ以上は何も言わず、来た道を引き返していった。背の高い後ろ姿が山道の向こうへ消えていくのを見送りながら、神様はぶすっと唇を尖らせる。


「……ったく、子供扱いしやがって。私の方が年上だっつーの」


吐き捨てるように呟くが、すぐに言い返してくる相手はもういない。

駐車場には、再び静けさが戻った。


吹きさらしの冷たい風が、容赦なく頬を撫でていく。ジャージの中まで冷気が入り込み、肩がまた小さく震えた。神様は紙袋を足元に置くと、その場で軽く足踏みしながら、さっき少女たちが去っていった道をなんとなく見つめた。


制服姿。赤くなった頬。振り返ったときの、戸惑ったような目。


「……やっぱ、気になるな」


誰に聞かせるでもなく呟く。胸の奥に、かすかな引っかかりが残っている。


「神社、ねぇ……」


ふと視線をずらし、駐車場の隅に追いやられた小さな社を見る。


神棚みたいなちっぽけな社は、朝の冷たい光の中でひどく心細く見えた。立派な社殿もなければ、手入れの行き届いた境内もない。ただぽつんと、取り残されたみたいに追いやられているだけだ。


神様はそちらへ歩いていき、神棚の前でしゃがみ込んだ。


木の表面は新しいが、どこか間に合わせの空気がある。だが中を覗けば、確かに御神体らしきものは納められていた。雑に扱われているわけではない。ただ、もうここには神社としての形が残っていないだけだ。


「……そりゃ、そうなるか」


誰ともなく呟く。


風が吹くたび、周囲のロープがわずかに揺れ、駐車場の白線だけがやけにくっきりと目についた。


どれくらいそうしていただろうか。

やがて遠くから、ぱたぱたと急ぎ足の音が近づいてくる。

神使が戻ってきたのだとすぐに分かった。神様は立ち上がりもせず、そのまま振り向く。


ところが、戻ってきた神使の顔は妙に微妙だった。


「遅いぞ」

「……申し訳ありません」

「何買ってきた?」


そう尋ねた神様の前に、神使は無言で白いビニール袋を差し出した。


神様は嫌な予感に眉をひそめながら、中を覗き込む。


「……何これ」

「こんにゃくです」


袋の中には、串に刺さったこんにゃくがいくつか入っていた。湯気は立っているが、神様の想像していた“朝ごはん”とは恐ろしくかけ離れている。


「私、これでも結構長く生きてきたけど……朝ご飯がこんにゃくって初めてだぞ」

「近くにあった個人商店、こんにゃく屋でした」

「こんにゃく屋って何?」

「この辺の名産だそうです」


あまりにも真顔で言うものだから、神様はしばらく怒るべきか呆れるべきか分からなくなった。


冷たい風の吹く駐車場のど真ん中で、こんにゃく入りのビニール袋を手に立ち尽くす神と神使。


あまりにも惨めな絵面だった。


「……他には?」

「ありませんでした」

「パンとか、おにぎりとか、そういう文明の味方は?」

「ありません」


神様は天を仰いだ。


「終わってる……この土地、終わってる……」

「でも、おまけで味噌はつけてくれました」

「そこじゃねーよ」


それでも空腹には勝てない。神様は渋々一本受け取った。ほんのり温かいのだけが救いだった。


駐車場の隅、風を避けられそうな場所を見つけて二人で腰を下ろす。高級羊羹の入った紙袋は脇に置かれ、足元には溶け残りの雪。冬の朝日に照らされたコンクリートの上で、神と神使が無言でこんにゃくを齧るという、何とも言い難い時間が始まった。


「……なぁ」


神様が串をくわえたまま口を開く。


「なんで私たちは朝から駐車場でこんにゃくを食べているんだ?」

「私も同じことを考えていました」

「だよな……」


もぐもぐと噛む。弾力だけはやたらある。味噌がなければ、ほとんど味のしないこんにゃく。おまけの味噌が、唯一食べているという感じを伝えてくれるが、嬉しくもまったくない。


しばらくそんな時間が続いたあと、神様はふと気づいた。


「……お前の味噌、なんか私のと違くない?」


神使は自分の串を見下ろした。


「私のは、ゆず味噌ですね」

「くれ」


神使は呆れたように眉を下げたが、少しだけ串を差し出す。


「半分だけですよ?」


神様は何も言わずにその味噌を奪い取ると、自分のこんにゃくにつけて頬張った。


「……あっ、こっちの方が好き」

「そうですか?」


神使は小さく笑う。


神様はむすっとしたまま串を噛み、冷たい風の向こうを見つめた。


駐車場。小さな社。遠い山。朝の光。


何もかもろくでもないはずなのに、不思議とさっき見かけた少女のことだけが頭から離れなかった。



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近くに鍾乳洞がありそうな名前の村だw
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