線は動いている
谷には、線が一本あった。
地面に引かれた白い線で、誰が引いたのか分からなかった。
消えもしないし、濃くもならない。
ただ、そこにあった。
谷の人は、ある日その線に気づいた。
線の手前と向こうで、何が違うのかは分からなかった。
土も同じ色で、空も同じだった。
誰かが線をまたいだ。何も起きなかった。
別の誰かもまたいだ。やはり何も起きなかった。
それでも、人は線の前で立ち止まるようになった。
考える人もいたし、数を数える人もいた。
線を踏まないように歩く人もいれば、わざと踏む人もいた。
線の向こうに行った人は、戻ってきた。
戻らなかった人もいた。
違いは、外からは分からなかった。
ある日、老人が線の上に座った。
長い間、動かなかった。夕方になっても、夜になっても、そこにいた。
次の朝、老人はいなかった。線だけが残っていた。
人は言った。
「越えたんだろう」
別の人は言った。
「越えていない」
どちらも確かめなかった。
それから、線は少しずつ場所を変えた。
動いているのか、谷が動いているのかは分からなかった。
昨日の線の位置を覚えている人はいなかった。
子どもが線を指さして聞いた。
「これを越えたら、大きくなるの」
大人は答えなかった。
線は今日もある。
越えた人も、越えていない人も、同じように歩いている。
ただ、ときどき、足の裏に、何かを踏んだ感じが残る人がいる。
それが線だったのかどうかは、誰にも分からない。




