もう怖くない
ここは……?
視界が滲んだようにぼやけていて、そこがどこだかわかるのに時間がかかった。
最初に飛び込んできたのは、コップが割れたような音だった。けれどそれも膜一枚隔てた先から聞こえてきたみたいで、現実感がなかった。
次に誰かの怒声。太くて大きくて、でもやっぱり何をいっているのかわからない。
「やめろよ!」
突然はっきり聞こえてきた声に私は息を呑んだ。
それを合図にするように徐々に視界が開けてくる。ここは……実家だ。
それも高校3年になって引っ越す前の古くて狭いマンション。
周りを見渡していると、前から再び大きな音がした。そこには今より随分若い父親がいて、高校生くらいの男の子と怒鳴り合っていた。
男の子は知らないはずなのに、どうしてかそこにいるのが当然のように思えた。
そして私と二人の間には、もう一人。両手を耳に当て、膝に顔を伏せるようにして怯えている――前の彼より少しだけ幼い男の子もいる。
膝を抱えた男の子は「見たくない、聞きたくない、助けて」と繰り返して、泣いているようだった。
その間にも、繰り広げられる喧嘩は徐々にヒートアップしてきて、最初は止めているだけの男の子に、父親が手を振りかざした。
男の子は殴られて、尻餅をつく。私は咄嗟に「やめて!」と手を伸ばして、駆けだそうとした。
なのに、足が動かない。父親にも男の子にも声は届いていないことがわかる。
彼は負けずと立ち上がって、向かっていく。けれど体格も違いすぎて、再び打たれた。
それでも立ち上がっとき、ちらりと後ろを振り返った。彼は後ろで膝を抱える男の子を見た。そして次に私をしっかりと見つめてきた――
どうしてあんな夢を見たのかわからないまま、私は普段通りパートの仕事を終えて、幼稚園に子供を迎えに行っていた。
もう忘れていたのに……
古くて狭いマンションの間取りも、荒れ狂って暴力を振るって来た父親の影もーー何もかも今の幸せな生活に溶けて消えていったものだとばかり思っていた。
なのにどうして、今頃になって……
「ママ~!」
とたとたと頼りなく走ってくる我が子。その私の幸せの象徴のような姿と声に、私は今考えていたことも忘れて、その体を抱きしめた。
そう、私はあの親とは違って、こうして自分の子供を抱きしめて愛してあげることが出来ている。
だからもう、昔を振り返ることなんて必要ない。
「今日は莉子の大好きなハンバーグにしましょうか」
「人参やだ!」
「はいはーい」
人参はわからないくらいに刻んでいれよう。手を引く小さな温もりを感じながら、ほくそ笑み、温かい我が家への帰路についた。
あの夢を見てから度々、同じような夢を見るようになった。
高校生くらいの男の子とそれより少し幼い男の子がいつもいる夢。
回数が増えるたびに私のメンタルが緩やかに揺れていっているのを感じて、それは心の奥底に沈めた言語化できない感情を少しずつ浮き上がらせていっているようで気持ち悪かった。
男の子ふたりは兄弟のようによく似ていた。
膝を抱えた少年が、前に立つ男の子のことを一度だけ「カイ」と呼んでいて、彼がカイという名前であることを知った以外、他には何もわからないままだった。
そのせいか、眠りも浅くなってきたある日の日曜日。
夫は仕事の付き合いで出かけていて、莉子と二人分だけの昼食を作っていた時だった。
「いたっ」
頭がぼんやりしていたせいか、いつもはしないような些細なことで包丁で手を切ってしまい、絆創膏を取りにリビングへ入ったとき――
「ママ、いたいいたいなの?」
すぐに駆け寄って指を見た莉子が、私がよくするように「いたいのいたいのとんでけ~」と指から天に向けて、手をあげる。
その姿に痛みなんて本当に飛んで行ってしまった。
「血こわくないよ~いたくないよ~」
まだまだ私を慰めようとする莉子に礼を伝えて、絆創膏を貼ると再び台所へ立つ。
先ほどより慎重に包丁を握った。
その時になって先ほど我が子が言った言葉が頭を過ると共に夢が想起された。
何故父親に向かっていっているのが私ではなく、見ず知らずの男の子なのかはわからない。
彼の姿に莉子の「こわくないよ〜いたくないよ〜」という言葉が重なって揺らいだ。
ああ、私はあの時――
‘’怖かったんだ、痛かったんだ‘’
ふっと、頭の中で小さな点がなぜか線になっていくようで。
記憶は薄い。感情は伴わない事実としてだけ覚えていた。
15年近く経った今になって、そんな気持ちが追い付いて、湧き出してきた涙とは逆に心の奥底で何かが沈んでいくような感覚があった。
その日、また同じ夢を見た。
またカイは父親に向かっていって殴られて。ただいつもと違ったのは、その先があったことだった。
父親から逃げるように玄関を飛び出し、マンションの廊下に出た彼は、コンクリートの壁を一度力いっぱい殴ると隣の柵に顔を伏せ、泣き出した。
私はやっぱり後ろからそれを見ていることしか出来なくて、その前ではカイにそっと歩み寄ろうとしている少年がいた。
「カイ」
「大丈夫、大丈夫」
少年の声が聞こえていないのか、自分に言い聞かせるようにその言葉を何度も繰り返す彼を見て、苦しくなった。
カイへと伸ばそうとした少年の手が、何か壁に阻まれたように止まった。
それを知ったように、カイが顔をあげてこちらを見る。
「大丈夫だ、俺が守るから。だから泣かないで――」
最後にその口から出た名前は、私の名前だった。
どうして……?貴方は誰なの?
聞きたいのに声が出ない。どんどん景色が遠のいていく。
それからなぜか、夢を見なくなった。
代わりに硬く締めていた蛇口が僅かに緩まったように、昔の記憶を思い出していった。
事実を事実としてだけ覚えていた記憶が、当時の自分の視点で、感情を持って、ふとした時に走馬灯のように流れていく。
どんどん感情が揺れ動いていくにつれ、もう手放せていたと思っていた、一つの欲望を呼び覚ました。
夫と出会って、人を愛し、愛されるという感覚を知って感じなくなっていた強い被虐欲。
それが湧き上がる度に感情に理性を食いちぎられそうになった。
衝動と理性がせめぎ合っている感覚が半月ほど続いたある日、私は唐突に理解した。
‘’彼らは私なのだ‘’
これを人に相談しても、きっと理解してもらえない。
けれど、そうなのだという確信が心の中で芽生えていっていた。
少し前まで眠りが浅かったのが嘘のように、記憶と当時の感情を思い出すたびに、強烈な眠気に襲われた。夢は沢山見た気がするのに、彼らの姿は見えない。
そうして、ただの夢だったのかもしれない、と思うようになるくらいの月日が流れたある日のことだった。
そこはマンションの廊下で、カイが前と同じ位置で空を眺めていた。
見覚えのある眺めだった。入道雲が綺麗で、眩しすぎる夏の空。
彼は柵に腕を乗せて、空を仰いだまま目を両手で覆って震えていた。
「いつか、いつか……いつか絶対――」
そのすぐ隣には少年が何も言わずに寄り添っていた。
伝えなきゃ、私はあの子たちに伝えなきゃいけない。
踏み出した足はどうしてかすんなり前に出た。すぐそこにいる彼らを後ろから抱き寄せて、二人の頭へと手を置いた。
「ごめんね、ずっと頑張ってくれてたんだね」
撫でた髪は、何故だろう――知っている感触のように思えた。
ずっと昔に撫でたことのあるような感覚。
こちらへと振り向いた彼らは、そこにいるのが当然の存在を目にしたように、私をみて顔を歪めた。
「気づかなくてもごめん、私の代わりに傷ついてたなんて知らなくて……ずっとずっと私を守ってくれてたんだね。ごめんね」
上手くは言えない。
けれど私はいつも膜一枚隔てた後ろで、彼らに守られて生きてきていたんだ。
そうしてやっとの思いでここまで来ていたということを、言葉にしてようやく理解した。
「怖かったね、痛かったね。ありがとう。本当にありがとう」
謝罪と感謝しか言葉に出てこなかった。
彼らがいたから今、私はここにいるんだ。そんな気持ちが溢れすぎて、それ以外なにを言えばいいのかわからなかった。
湧き上がってきた涙を堪えた先で、こちらへと体を振り返させたカイが私の肩に顔を埋めて、耐えるように体を震わせたのを知った。
「怖かった、苦しかった、寂しかった。世界に独りぼっちで置いて行かれてるみたいだった」
「一人にしてごめんね」
彼はきっと痛みを進んで受け入れてくれたのだ。痛みも苦しみもその感情の全てを彼が代わりに受け取ってくれていたのだ。
「でもね、カイ。もう私は怖くないし、痛くないの。貴方たちがここまで連れてきてくれたから、今すごく幸せなの。もう一人には絶対にしないから、だから――」
その時、温かい風が私たちの間をすり抜けていった気がした。
驚いて顔を上げるとそこは、私と莉子と夫が暮らす一軒家の小さな庭だった。
「ほら、見て」
カイと少年の肩を叩いて、庭先を示す。
腕から離れて振り返った二人が、息を呑んだのが聞こえてきた。
「ここはもう安全だから。私たちを傷つける人はいないから。
だから、ここからは一緒に手を繋いで進んでいこう?」
「本当に? 僕とカイと一緒に幸せになれるの?」
「勿論」
うるんだ瞳で頼りなさそうに見上げてきた少年に私は大きく頷いた。
すると少年はカイに向き合って彼の名前を呼んだ。
「カイ、ごめん。僕、カイが傷ついているときにずっと後ろで耳を塞いでた。カイにばっかり前に立たせてごめん。
僕はカイが笑ってくれるならなんでもするから、僕の全部をあげるから、だから――」
少年から伝わってきた感情に、私は戦慄を覚えた。
長年私を苛んできた無力感と罪悪感。これはこの少年が持っていた感情と記憶だったのだ。
恐怖を目の前にして何もできない自分。そんな自分が罰せられるべきなんだという歪んだ感情。
応えるようにカイが少年にしっかりと向き合うと、首を振った。
「俺はレンが望んだからここにいるんだ。俺はレンを守るために生まれた。
だからこうしてお前を守ってここまでこれたのは、俺にとって誇りだから。それに――」
少年の名前がレンであることをこの時初めてしった。そしてカイが庭先を見た瞬間――そこは景色の長閑な草原に変わった。
「もうこんなに道が開けてて、景色をみながらみんなで歩いて行ける」
その言葉に引き寄せられるように、私はカイの顔を見ていた。
彼は眩しそうに景色を眺める。
「ずっとこれを望んでた。ずっとこの景色が見たかった」
その顔は今にも泣きそうだったのに、嬉しそうに笑っていた。
彼らの言葉はもう私の言葉そのものだった。
私はずっとずっとこの瞬間を待っていたのかもしれない。
「カイ、レン」
私は二人の間に立って、二人に手を伸ばした。
私より少し小さな手をしっかりと握る。
先の見えない獣道を歩いてきた時とは違う。ここはこんなに広がっていて、豊かな道だった。
この道なら多少転んでも何ともない。もう怖くなんかない。
「どこへいこうか?」
私は彼らにーー問いかけた。