8.扉の向こう
音を立てぬように慎重に扉は開かれた。しかし、扉が開く音が僅かに響く。足がすくんで動けない3人を奥本は瓶で背中を小突いて急かした。
「早くしたまえ!」
小声で怒鳴るという器用なことをして急かし、3人は転げるように扉の外へ出てしまった。背中を押されたせいで伊藤はよろけて地面に手をついてしまっている。
「防寒具を取ってこないと中には入れんぞ!早くしたまえ!」
奥本は言い捨てると扉を無情にも閉めてしまった。扉から控えめなノックが聞こえる。3人が開けてくれと懇願している事が声が聞こえなくてもわかった。
「開けるなよ!開けて欲しければ早く取ってこい!」
「奥本さん!せめて直ぐに逃げられる様に扉を開けておきましょう。」
「ならん!もしもの事があったらどうするつもりだ?皆んな死ぬぞ!」
誰も言い返せなかった。待っている間にモンスターが来ないとは思えない。そしたら3人だけではなく皆の命も危険である。命を顧みない勇気のある者などここには居なかった。
「くそ!」
「しっ静かにしろよ。奴らが来たらどうするんだ。」
野口は焦り、悪態をついて扉を叩く広瀬を止めた。もしも音に惹きつけられたモンスターが寄って来てはたまらない。
ガタガタ震える伊藤など全く役に立ちそうになかった。それにあの様子では、待っていても扉を開けてはくれないだろう。
「じゃあどうするんだよ!」
思わず口調が荒くなる広瀬を落ち着かせようと、野口は必死に声を落とすようにジェスチャーで伝えた。
「取ってくるしかないだろ!急がないとモンスターに見つかる!」
「わかってる!くそっ、あの豚め。早くいくぞ!」
震えて動かない伊藤の背を押しながら3人は防寒具の元へ向かった。
幸いにも冷蔵ルームのすぐ目の前に防寒具は置かれていた。地震でハンガーラックは倒れてしまっているが、すぐ目の前にある。
3人は音を立てぬよう気をつけながら抱えられるだけの防寒具を腕に抱えた。時間にして5分も経っていないだろうが、何時間も危険な状況で作業をした気分だった。音を立てぬように動くのは意外と神経を使う作業である。
なんとか防寒具を手に入れた3人は扉を叩く。
「とってきた!取ってきたから開けてくれ!」
「早く!早くしてくれ。モンスターが来たらどうするんだ!」
「ぼ、ぼっ防寒具はある!ぁあけて、あ、開けてぇええ!」
3人はパニック寸前だった。忙しなく辺りを見渡すために視線を彷徨わせ、防寒具を抱えた腕はガクガクと震えて今にも落としそうだ。
ようやく扉が開いたかと思うと、隙間から畠山が顔を出し、本当に防寒具を取ってきたか、モンスターは居ないか確認する。後ろにいる奥本に防寒具を取ってきた事を伝えて、ようやく3人は中に入れてもらえた。
まるで生きた心地がしなかった。何時間も外にいた気分である。息も絶え絶えで、3人は防寒具を放り出すと床に座り込んでしまう。
周囲の皆は大量の防寒具に歓喜しており、誰も3人を労わろうとしない。
真っ先に奥本が防寒具にてを伸ばした。先ほど防寒具を破いてしまった事を学習して、サイズを確認していく。
しかし、奥本の着れそうなサイズの防寒具は無い。由々しき事態だ。せっかく防寒具が手に入ると思っていたのにサイズが合うものが1つもなかった。
「この役立たずどもが!こんなに小さい防寒具などなんの役にも立たん!」
防寒具を地面に叩きつけ、踏みにじる。不幸なことに奥本のサイズに合う防寒具がなかったのだ。奥本の怒声に皆の体が硬直した。鬼の様な形相で3人を睨みつける。
「私の防寒具を取って来い!役立たずども!全く意味がないではないか!」
「なっ!せっかく取ってきたのに…。他の人を行かせればいいだろ!」
「俺たちは取ってきたじゃないか!絶対に行かないからな!」
奥本以上にモンスターへの恐怖が勝っていた。外へ行くくらいなら奥本に立ち向かった方がマシだ、広瀬と野口は行くつもりは微塵もなかった。
伊藤は周りの視線すら気にする余裕をなくし、小さくぶつくさと独り言い血走った目をしている。
他の人に取りに行かせろと言った途端に場の空気が変わった。最初は少し同情的な視線を向けられていたが、その言葉を聞いた瞬間体が強張って緊張が走る。
皆は自分が一番可愛かった。3人が行かないことによって変わりに行かされることなど想像もしたくない。
いっせいに周囲の人々は奥本を擁護し始めた。防寒具の数も全員分は足りない為、確保するにはそれしか方法がないのも拍車をかけた。3人は集団に責められ、またもや取りに行かざるを得ない状況に陥る。
「皆んなもこう言っているじゃないか!さっさと取ってくるんだ!」
皆の賛同を得た奥本は水を得た魚の様に生き生きとしている。3人とは顔色が対照的だ。
「いやだ!いかない!」
「くそ、なんで俺たちがぁ!」
「ぼ、僕は、ぉ、僕は、ぁああああ…。」
絶望に打ちひしがれ、正気を失った様子の3人に皆は同情したが代わりに行くと申し出る者はいない。結局3人は周囲に追い詰められ、行かざるを得なくなった。奥本の暴力に対抗できる術などない皆は、従うしかない。
抵抗も虚しく、3人は男性陣の手により無理やり扉の向こうに放り出された。放り出された3人は地面に転がり唖然と扉が閉まるのを見ることしか出来ない。
ハッとなった野口が閉まったばかりの扉に縋り付いた。
「たっ助けてくれ!」
広瀬は必死に扉をたたき錯乱する野口の口を無理やり塞いだ。
「馬鹿か!そんなに騒いだらモンスターをおびき寄せるぞ!黙ってろ!」
正論である。騒いでしまってはここにいると主張しているようなもの。
顔を真っ青に染め上げた野口は必死に声を飲み込んで口を力強く押さえた。
状況は絶望的だが、なんとしても奥本の防寒具を持って帰らなければ入れてもらえないだろう。そもそも奥本が冷蔵ルームで作業する事は全くないので、特注サイズの防寒具はクリーニングルームに置きっぱなしである。その為、クリーニングルームの保管庫を探しに行く必要があった。
このまま此処にいて、モンスターに襲われたら堪らない。
「とりあえずクリーニングルームに行くぞ!このままだとモンスターに見つかる!」
此処にずっといても危険が増すばかりでどうにもならない。広瀬は震える声でなんとか言葉を発した。とにかく防寒具を持って帰らないと中には入れない。
「でっ、でも、モンスターがいたらどうするんだよ!広瀬!」
野口はすっかり心を折られ、今にも錯乱してしまいそうだった。伊藤などとっくに頭がおかしくなったようにぶつぶつと独り言を呟き、全く役に立たない。
頼れるのは自分だけだと広瀬は勇気を振り絞った。
「此処にいたらさっきの音を聞いたモンスターが来るかもしれないだろ!早く移動するぞ!」
広瀬の言葉を否定できず、不安に駆られた野口はすぐさま移動しようと賛同した。伊藤の背を無理やり押しながら3人は急いでクリーニングルームへと急ぐのであった。
常温エリアに並ぶ棚に隠れながら通路を進むと、そこで彼らが目にしたのは——
絶望そのものだった。
床には鮮血が広がり、壁には赤黒い手形が無数に残っていた。天井から垂れ下がるケーブルは千切れ、照明は点滅を繰り返している。そして何より、散乱した人間の遺体。
「うっ……」
広瀬が口を押さえた。顔面蒼白になりながらも、じっと見る目を逸らせない。
倉庫の事務員だったはずの女性は、ちぎれた首から上が見当たらない。管理部のリーダーは腹を裂かれ、内臓が床に散らばっている。入荷部のパートさんだった老婦人は壁に叩きつけられたように全身が潰れ、もはや人の形をとどめていなかった。
「これ……マジなのか……」
広瀬の声が震えた。さっきまでの余裕は消え、素の高校生に戻っていた。
「ぼ、僕、こ、こんなの……むりぃぃぃ……」
伊藤は膝から崩れ落ち、嘔吐を始めた。その脇で野口も胃液を吐き出している。
「俺たちも……こうなるのか?」
広瀬の問いかけに、二人は答えられなかった。
室内に漂う血の臭いと死臭。それは彼らがゲームやアニメで見てきたファンタジー世界の「冒険」とは、まったく違う現実だった。残酷で、汚く、恐ろしい現実。
「クリーニングルームに行くんだろ……」
野口が顔を上げ、涙と鼻水と胃液で濡れた顔で言った。
「ち、違う道、がいい……ここはむ、む、むりだよ……」
伊藤はまだ床に膝をついたまま、首を振るだけだった。
彼らは死体を避けながら別の通路を探した。扉を開けるたびに同じような光景が広がり、彼らの心は少しずつ麻痺していった。
特に野口は、目の前の状況を現実として受け入れられずにいた。これは悪夢だ、いつか目が覚めるはずだと。スキルも何もない自分が、この世界でどう生き残れるのかという恐怖が心の奥にあった。
クリーニングルームに向かうために入荷エリアに差し掛かった時、障害物の少ない場所だったのが災いした。1匹のゴブリンに見つかってしまったのだ。
『ギャッギャッ』
びくりと体が強張った。後ろを振り向くとゴブリンがこちらに向かって鳴きながら向かって来ていた。3人は飛び上がって一目散に走り出した。
「うわああああああああああああ!!」
「ひぃいいいいだずげてえええええええ」
悲鳴を上げながら思わず走り出した3人は周囲を全く見ていなかった。地震の影響で倉庫は荷物が崩れて障害物が多い。伊藤は重い体を必死に動かすも、障害物に躓き転倒した。伊藤が邪魔で速度を上げられなかった広瀬は、転倒した伊藤を避けようとして積み上がっていた荷物にぶつかり荷物が崩れて転倒した。
「うわああああああ」
「くそっ!ぐあっ!」
先頭を走っていた野口が後ろを振り返ると、伊藤が倒れたすぐ後ろで荷物の下敷きになった広瀬がいた。躊躇している内に広瀬から数メートルの距離までゴブリンが詰めている。
『ギャッギャギャ、ギャッギャー!』
大きく鳴き声を上げながら迫って来ていた。3人の叫び声やゴブリンの鳴き声に引き寄せられたのか、更に数匹のゴブリンの群れが数十メートルから迫ってくる。
野口が逃げようか助けようか躊躇している内に広瀬はゴブリンに追い付かれてしまった。
広瀬がなんとか落ちて来た荷物をどけた瞬間だった。ゴブリンの醜い顔がドアップで視界に入って来たのだ。
「うわあああああああああああ‼︎」
ゴブリンは手に持っていた棒を振り上げ、広瀬に襲いかかって来ていた。咄嗟に腕で顔を庇うも、激痛が腕を襲った。広瀬は必死に抵抗したが、凶器を持ち、上から襲い掛かられては敵わない。
広瀬が襲われているのが恐ろしくて助けられない。野口は無意識に後退り始めた。ついには逃げ出そうと背を向けるが、足をもつれさせ転んでしまう。
「ひいいいいいい!」
転んでもガクガクと震える足では中々立つことができなかった。必死にもがき逃げようとする野口の耳に不思議とハッキリ伊藤の独り言が聞こえてくる。
「僕は強い魔法剣士だ。あんな雑魚に負けるはずがない。おかしい!逃げるなんておかしい!僕は最強の魔法剣士だ!」
広瀬と揉み合っていたゴブリンは手に持っていた棍棒を離してしまっていた。それを手に、ゆっくりと立ち上がった伊藤は、広瀬を襲うのに夢中になっているゴブリンを危ない目で見つめた。
「僕はすごい魔法剣士なんだぁあああああ!死ねえええええクソ雑魚がああああああ!!!」
雄叫びをあげた伊藤は、広瀬を襲っていたゴブリンに殴りかかった。拾った棍棒を振り上げ、躊躇無く殴った。ゴブリンは伊藤の雄叫びに顔を上げた瞬間に殴られ、赤い血を吹き出しながら吹っ飛ぶ。当たりどころが悪かったのだろう。ゴブリンは近くにあった柱に首を打ちつけピクリとも動かない。
野口は伊藤の勇姿に驚愕した。今見たことが信じられなくて固まってしまう。あの内気な伊藤がまさかの反撃である。
モンスターが死んで安心…は出来ない。なんとすぐ後ろまでゴブリンの群れが迫っていたのだ。
しかし唖然とした表情の伊東と広瀬は後ろから迫ってくるゴブリンには気がついていない様子だ。
このままでは危ない。
二人が負けたら野口も危険だ。
「後ろだあああああああああああああ!」
二人の後ろまで迫っていたゴブリンたちは棍棒を振り上げていた。