アマリリスの丘
父についての記憶はない。母は優しい人だったが、何時も疲れた顔をしていた。
僕にとって、家族と呼べるのは母だけだった。父は、僕が幼い頃に亡くなったのだそうだ。ある人間と獣人間での些細なトラブルがそのうち国を巻き込む戦争へと発展し、父はその戦による徴兵で最前線へ送られ、そして帰ったのはたった左腕一本だけだった。
その時僕は七歳で、泣き崩れる母の背中をわけも分からないまま撫でることしか出来ず、たった一本の腕は小さな棺に入れられ埋葬された。母は、三日に一度その墓参りへ行ってる。僕を連れずに一人で。
父も母も天涯孤独の身で、母は体が強いわけではなかった。無理をして働くことも出来ず、国から支払われた死傷兵に対する支援金も微々たるもの。だから、母は無理をしてでも働かなくてはならなかったのだ。
僕も街で仕事をさせて貰えるようになる八歳からはあちこちで子供でも出来る仕事を受けてお金を稼いだものだが、所詮は子供の力。魔術が使えるでもない、見目麗しいわけでもない僕に与えて貰える仕事なんて、大したものではない。だから、貰えるお金も少しだけだ。それでもないよりはマシだった。
そんな状態だったから、学び舎に通えるわけもなくて、手の空いている大人が善意でしてくれる無料の勉強会だって顔が出せなかった。学ぶには、お金がいる。学び舎に通うのなら纏まったお金が、無料の勉強会でだって紙と筆記用具は自分で用意しなければならない。
母は、僕をそういったところへ行かせてやれないことをずっと嘆いていた。「お前は物覚えが良くて、頭も良いはずなのに、行かせてやれなくてごめんね」と、何度も何度も。
周りの子供たちが無邪気に走り回って、友達と遊んでいる時、僕は大人に交じって仕事をするのだ。あれを取ってこい、それをそこへ置け、そんな風に指示を受けて作業をするだけの仕事。
でも、そんな日々もある日急に終わりを告げた。母が再婚したのだ。
母は美人だと街でも有名で、父が死んでからは色々な男に言い寄られているようだった。しかし頑として頷くことはなかったのだが、僕が十一歳になって少しした頃、身なりの良い男性と共に仕事から帰って来た僕を迎え入れて、嬉しそうな、幸せそうな顔で言った。
「あなたの新しいお義父さんになる方よ」
「初めまして。彼女の言う通り賢そうな眼差しだ、これから親子として仲良くしていこう」
僕には、頷くしか出来なかった。
新しい義父は、大きな商家の長男で跡取り息子だった。ずっと前から母に恋をしていたのだが、その時には既に父がいたので、義父は叶わぬ恋と諦めていたという。しかし、父の戦死の知らせを聞いて、自分にに何が出来ないかと母の仕事の相談に乗っているうちに、母も義父を良く思うようになったのだそうだ。
僕からすれば顔も声も知らない父に深い情は湧かないし、母が散々苦労して来たことも知っている。だから、再婚には賛成だった。でも、そうなると商家の跡取り問題が出て来る。
義祖父母からすれば、自分の息子の血を受け継ぐ子供に家を継いで欲しいだろう。彼らはそれを表に出さないが、きっとそう思っているのだと感じる。だから、何か面倒事が起こる前に、僕は母と義父、そして義祖父母へと跡は継がないつもりだと伝えた。
従業員として雇ってくれたら嬉しいけれど、それも難しければ家を出るから、と。家を出たところで碌な仕事につけはしないだろうが、跡取り問題などと関わるよりは余程良いはずだ。
皆はそれに驚いていたけれど、「これから出来る弟妹と争いたくない」と伝えれば、それで納得してくれた。義父からしても嬉しいことだっただろう。
ただ、再婚して家に入ったとはいえ商家の義息子が読み書き計算も出来ないのは体裁が悪い。なので、家に教師を呼んで一年間みっちりと勉強を叩き込まれた。
それは別に良い。十二歳からは王都の学び舎へ通うようにと言いつけられていたので、寧ろ有難かった。飲み込みも早い方だったようで、覚え切れるまでギリギリと思われていた内容だってずっと早く終わらせることが出来たのだ。
そのお陰で、たった一ヶ月だけ、僕は自由を手に入れた。
店の手伝いをしなくても良く、勉強も軽い復習だけしていれば良い。義父たちは後一ヶ月で慣れ親しんだ街を暫く離れなければならないからと、好きに過ごして良いという許可を与えてくれたのだ。
そうなると、僕はあちこちを探検してみたくなった。街のすぐ近くの丘の上までなら、門番や衛兵の目が届くから子供だけでも行くことが出来る。だから、行ったことのない街の外に出てみることにした。
門番に住民の証であるペンダントを見せてから街から出て、最初に感じたのは強いみどりの匂い。草木の独特な匂いが、街の中の雑多な匂いの中で感じるよりより強く鼻腔に入り込む。
子供たちは皆友達と街の中で遊ぶか、草原側へ行くことが多いようだが、僕はちょっと一人でゆっくりしたかったので、丘の上に行くことを選んだ。
街よりも高いところにある丘に登るのは少し疲れたのだが、登り切った時の達成感と景色の良さでそれも吹き飛んでしまう。
「わあ、街がよく見える。それに、丘の上は花畑になっていたんだ」
緑色の背が高い草に隠されていたから見えなかったのだが、丘の上には真っ白い花が沢山咲いていた。喇叭に切れ込みを入れて、大きく広がっているところを少し下を向けたような、不思議な花だ。街の花屋でも見たことがないそれをちょんと続くと、簡単に揺れて周りの花たちもゆらゆら揺れる。それがとても綺麗だった。
「その花は、アマリリスっていうんだ」
「っわあ!」
背後から突然かけられた声に、肩が大きく跳ねる。登って来た時には誰もいなかったのに、背中側から届いた女の人に吃驚してしまったのだ。尻もちをつかなかったのは奇跡と言っても良い。
「ごめんね、驚かせるつもりはなかったのだけど」
慌てて振り返ると、そこには白いワンピースを着た、髪も白くて瞳だけピンク色の綺麗な女の人が立っていた
彼女は少し困ったように眉尻を下げて謝るので、僕は恥ずかしくなって頬を赤くしてしまいながらも、「大丈夫です」と返した。
多分、先にいたのはこの人の方なのだろう。なのに僕が後から来て、気づかなかったのが悪いのだ。そう言うと、彼女は少し驚いた顔をした後、花が咲くように、それこそアマリリスのように笑った。
「あの、あなたはこの花畑によく来るんですか?」
「……そうね、そうよ。ここに、よくいるわ。あなたは初めて来たのよね?」
「はい、そうです。あの、僕、一ヶ月後には王都の学び舎に行くんですけど、その前に街の周りを探検してみようと思って」
「そうだったの。もしかして、この丘の上が最初の探検場所?」
その質問に、僕は頷く。この丘の上からあちこちを眺めてみて、気になるところを回ってみようと思ったのだ。だが、どうしてだろうか。あちこちを見たいと思っていたのに、今はこの丘の上でこの人と過ごしたいと思う。
本当に綺麗な人で、声も優しく耳を擽るみたいな可憐さがある。キャーキャーと高い声で笑っている女の子たちとはちょっと違う、ずっと聞いていたくなる声だ。
「他にも見てみようと思っていたんです。でも、この丘の上がとっても気に入って。他のところは、ここから眺めてるだけで、良いかなって……思ってます」
「うれしい。この場所を気に入ってくれる子が来てくれて、とても良かった。こちらへ来て、一緒に座ってお話しましょう」
白いワンピースの彼女は、僕の手を引いて、二人がゆったりと座れそうな岩に導いた。繋いだ手にまた少しどきどきしながら、僕の背にはちょっと大きな岩に飛び乗ってから腰を下ろすと、より一層辺りの様子が見やすくなった。
「凄い、眺めが良くて、街の向こう側まで見えてしまう」
「そうでしょう。わたし、ここからの眺めが好きなの。あなたも好きになってくれるんじゃないかって、そう思ったから、ここに座らせたのよ」
そう言って微笑む彼女は、今まで出会って来た誰よりも綺麗で、魅力的だった。僕はきっと、この人に会うために街の外に出ようと思って、丘の上に登ったのだ。そう思わせるような人だった。
「わたし、ここのことはよく知っているの。でも、街のことは全然知らなくて。ねえ、良かったら、教えてくれないかな」
「はい、僕で良ければ」
街について知らないというのは、街で暮らしていないということだろうか。確か、ここからそう遠くないところに村があったので、その村の人なのかもしれない。街の人が沢山いるところが苦手だという人も結構いるのだと、義父が言っていた。彼女もそうなのかもしれない。だから、ここで街の様子を眺めているのかも。
もしそうなら、僕は少し役に立てるだろう。だって、生まれてからずっと街で暮らしていて、仕事であちこち行っていた。そりゃあ、普通の子供たちが知ってるような遊び場には詳しくないけど、でも、それ以外ならきっと僕の方が詳しいはずだ。
了承を返すと、白いワンピースの彼女はまた花が咲くように笑ってくれて、僕はそれがとても嬉しかった。この笑顔は、僕が引き出したものだから。
それから、僕は沢山話した。猫の秘密の溜まり場とか、ちょっとした抜け道だとか、綺麗な看板がかかっているお店だとか、毎日変わる染物屋の干し物だとか、そういう何でもないような街の様子を、ずっと。
うん、うん、と聞いてくれるのが嬉しくて、気づけば太陽が沈み始める頃になっていたのだ。
街の子供は、日が暮れるまでに戻らなければならない。でも、どうしても名残惜しくて、だから僕は勇気を出して言ってみた。
「明日、明後日も、ここに来ます。雨が降らなかった日は、きっと。だから、またお話してくれますか?」
「勿論よ。とても嬉しい、あなたが来てくれるのを待っているわ」
果たして、彼女が返してくれたのは快い了承だった。嬉しい。嬉しくて、舞い上がりそうな気持ちを抑えて、僕はきっと赤くなっている頬のまま岩から飛び降りる。それで、しっかり向き合って、「また明日」と手を振ると、彼女も振り返してくれた。
「また明日」
囁くような声に、後ろ髪を引かれながらも丘を駆け降りる。これで門限に間に合わなかったら、きっと叱られて暫く街の外に出ることも禁止されてしまうだろう。それは、とても良くないことだ。
一生懸命走って、門限にはちょっと余裕を残して門を潜ることが出来た。
その日の夜、晩ご飯の席で母からどこに行って来たのかと聞かれたが、何だか彼女のこと、丘の上の花畑のことを言う気にはなれなくて、だから「街の外をぐるっと見て来たんだ。明日も明後日も、雨が降らなきゃ続きをするよ」と言うと、一年間勉強漬けだったからだろう、皆ほっとした顔で僕の外出を喜んでいた。
いつも通り家族と過ごして、与えられた自分の部屋のベッドで横になる。興奮して眠れないかと思ったが、丘の登り降りで疲れていたのだろう、その日はすとんと眠りに落ちたのだった。
そして、次の日。そのまた次の日。僕は、約束通り雨の日以外は毎日彼女に会いに行った。あの丘を登って、草を掻き分けて、花畑の真ん中で街を見下ろしている彼女の元へと向かうのだ。
そうすると、彼女は僕の手を握って岩へと連れて行ってくれて、二人でそこに座りながら他愛もないお喋りをする。大体は、僕が話て彼女が聞く、という形なのだが。
丘の上に通うようになって、十四日が過ぎた。
段々王都への出立時期が近づいて来て、荷造りも始まっている。この街から王都までは馬車で約九日かかるので、もう明後日には街を出なければならなくなっていた。
だが、僕はずっとそのことを彼女に言えずにいた。
今日と明日、その二日間しか、白いワンピースの彼女に会うことが出来ない。僕は、それが寂しくて、惜しくて、王都へ行きたくないと思うようになってしまったのだ。
だが、そんなわがままが許されるはずもないことは分かっている。王都の学び舎には、王侯貴族が通う学園と、商人たちが通う学校があって、僕は商学校に通うために向かわねばならない。
例え跡取りでないとしても、商人としての基礎知識は得なければならないし、そこで人脈を作ることも大切だからだ。
母の腹の中にいる弟妹を支えるためにも、僕は必ず王都に向かわねばならない。
気の重さで足も重くなっているような感覚に襲われながら、僕はそれでも丘の上に向かう。今日こそ、彼女に伝えるのだ。明後日には王都へ向かうから、お話が出来るのは、明日が最後だって。
白いワンピースの彼女はとても美しくて、僕が王都からこの街に帰って来る頃にはもう誰かと結婚しているだろう。今はきっと、ここに来てくれているから、誰とも結婚していないのだと思う。
「こんにちは」
「こんにちは。……あの、僕、あなたに言わなければならないことがあるんです」
「うん。それじゃあ何時ものところで聞かせて」
段々と萎れて来た白いアマリリスを掻き分けて、僕たちは何時ものように岩の上に腰かける。それから、やっぱり躊躇ってしまって、黙り込んだ僕に、彼女はこちらを見ないまま口を開いた。
「わたし、ここに来るのは明日で最後なの。……お嫁に行くことが決まって、もう、これなくなってしまったから」
「え……!」
彼女は僕が王都へ行っている間に結婚してしまう。それは、予想していた。だが、こんなことがあるだろうか。もう、彼女の結婚相手は決まっているのだ。でも、彼女はその結婚相手に焦がれるような眼差しはしていなかった。決まったことだから受け入れた、そんな目だ。
今すぐ、僕と一緒に逃げよう。僕はあなたのことが好きです。苦労をさせるだろうけど、どうか僕を選んでくれませんか。
——そんなこと、言えるわけもない。
僕は、たった十一歳。結婚出来る年齢でも、ちゃんと働ける年齢でもない。だから、唇を噛んで、黙るしか出来なかった。お祝いを口にすることも、出来ない。
「ねえ、また明日も、ここに来てくれる?」
僕の方を向いてそう言う白いワンピースの彼女に、僕は頷いた。
やはり僕は彼女のことが好きだ。でも、それを告げることは出来ない。明後日、彼女は僕ではない人と結婚するための準備を始めて、僕は王都へと立つのだから。
でも、せめてほんの少しの間だけ。今日と明日だけは、一緒に過ごそうと約束する。アマリリスが枯れてしまうまでの、短い逢瀬を僕たちは望んだのだ。
でも、今日もそれ以上は特別な話はしなかった。いつも通り僕が話して、彼女が笑って、少し無言の時間があって。日が暮れて来たら、また明日の時間になる。
「ねえ、また、明日」
「うん、また明日。必ず来ます」
少し不安そうな彼女に、僕はしっかりと頷く。その姿を見たからか、安心したように微笑む彼女は夕焼けに照らされて儚く美しかった。
僕は丘を降って、家に帰る。既に家の中には出立に合わせて荷物が纏められていて、後は普段使いしている物を出立直前に仕舞い込めばお終いだ。年間、僕は王都で商売についての基礎を学ぶことになる。ただ少し、変な予感を感じながらも、ベッドで眠りについた。
そうして、次の日。街で自由に過ごせる最後の日、僕は約束通り彼女の待つ丘の上へと登って行った。ここに来るのも、きっとこれが最後なのだろう。
背の高い草を掻き分けて、すっかり萎れてしまった白い花畑に出ると、そこに彼女の姿はなかった。
「え……?」
思わず声がこぼれる。まだ来ていないだけかも、僕の方が先に着いたのかもしれない。そう思いながら、嫌な汗が背中に流れるのを感じつつも何時も並んで座る岩の元へと向かった。さくさくと、枯れた花を踏んで、先に進む。
岩の上、二人が並んで座れる平らなスペースがあるそこに、大きめの石で風に飛ばされないように押さえられた封筒が一つ、置いてあった。
ばくばくと鳴る心臓の音を聞きながら、震える指で不自然に膨らんだ封筒を持ち上げ、開ける。
先に掌に出て来たのは、アマリリスのブローチ。男でも着けていて不思議じゃない、とてもシンプルだけど目を引く逸品だ。
そして、もう一つ。僕に宛てられた、彼女の言葉たちが半分に折られてまだ閉じられている。
既にじんわりと滲む涙を袖で拭って、ゆっくりとその紙を開いた。
そこには、少し歪な文字で、僕への手紙が綴られていた。彼女の精一杯の想いが詰め込まれていて、なんて愛おしいのだろう。
僕は、この手紙を持って王都に行く。彼女を連れて、彼女の想いと共に、この丘の上の出会いをずっと胸に抱き続ける。
もう会うことの出来ない、大好きなきみを、永遠に抱きしめ続けるのだ。
『名も知らない、わたしのおともだちへ
また明日とやくそくしたのに、これなくてごめんなさい。
本当は、昨日がさいごの自由の日でした。
あなたにおわかれをしなければいけないとわかっていたのに、わたしは、それがこわくて直接さようならを言えませんでした。
街のお話、沢山してくれてありがとう。
あなたのおかげで、楽しい時間をすごせました。
お嫁に行っても、わたしはあなたとすごした時間をわすれません。
きっときっと、あばあちゃんになっても、わすれたりしません。
王都でおべんきょうをすると言っていましたね。わたしには、まったくわからない、すごいことを学ぶのでしょう。
そこで、たくさんのよい出会いがあることを、ねがっています。
さいごに、この手紙といっしょにブローチをいれてあります。
わたしが作った、一番の自信作です。どうか、わたしのかわりに、連れて行ってください。
そして、きっと、幸せな未来を手に入れてください。
面と向かってさようならが言えなくて、ごめんなさい。
文字でみおくるのを、どうかゆるしてください。
あなたの名前をきかなかったのは、きっと、さようならのあとがさびしくなってしまうからという、わたしのわがままです。
そして、わたしの名前をしってほしいというのも、あなたにわすれてほしくないわたしのわがまま。
さようなら、だいすきなおともだち。
あなたの未来に、幸多からんことを。
アマリリス』
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