最初の話 .3:彼も彼女も忘れていた。
押し問答が始まって数時間…とまではいかず、両者とも、息絶え絶えに、隣同士に置かれた椅子で互いにうなだれていた。椅子に座る体勢は互いに違い、櫂は顔を下へ向け、両ひじは太もも辺りで前のめりで座り、女性は背もたれに大きくもたれかかっており、そのためか視線は上を向いている。髪も頭から真っすぐ地面へと垂れていて、両手は椅子の両側でぶら下げ、両足を前に放り出していた。
「…お前、ちゃんと最初っからそう言えよ」
女性は体勢を一切変えず、櫂に向けて言った。横に座る彼も体制は一切変えず、
「…そっちこそ、ちゃんと最初っから聞いてくださいよ」
と返答する。交差しない押し問答は互いの酸素の欠乏という消耗の末に落ち着きを見せた。
「はぁーあ。にしても、くっだらねぇ事で喧嘩して。てか、また聞いて悪いけどよぉ。なんで、んなもん気にしてんだ?なんだったら黙ってたらいいのに」
彼女は伸びをしながら、あくび交じりに言った。伸びの後、少し体勢が前方へとずり落ちると、姿勢を真っすぐに正し、左足を右足の上に組んで座り直し、膝の前辺りで自身の両手を繋いだ。
「なんでって、そりゃあ、あれですよ、なんか悪いじゃないですか?」
櫂は頭を少し上げて、横にいる彼女の方へ顔を向けると、 彼女もそれに気づいて顔をすこしだけ櫂の方に向けた。
「悪いって、何がだ?」
「何がって、あれですよ。なんて言うか…なんかこう…あー…いい言葉がぱっと思い浮かばないです」
彼女は少しずつ息が整ってきているが、櫂はまだまだ息が上がっていた。そのため、問いに対していい言葉がぱっと思い浮かばず、大雑把な返しになってしまう。
「なんだそりゃ。でもあれか、おまえの気持ち的に謝っておきたかった。みたいなものか」
と言って、彼女はまた視線を前へと戻した。
「それです。そういう事です」
彼女の口から出た助け船に、首を何度も縦に振る。それによりまた疲れたのか、頭は下へと垂れ下がった。
「そういうことね。ま、この手の話なんて、これ以上掘ったところでよく分かんねぇし、この辺りで忘れてた本題に行くか」
忘れてたんかい。息を整えている櫂に、それを言うだけの元気はまだなかった。
「気分はどうよ?」
「訳が分からない質問を今しないでください。さっきの口論でまだ息が整ってないので。てかどうしてー…」
櫂が勢いよく立ち上がった。
女性は予想だにしていない彼の行動に驚き、微量に身体が跳ねた。
「うおっ!びっくりするー。いきなり機敏になるなよ、アスファルトにひっくり返ってるセミかなんかなのかお前は」
櫂の方へ顔を向けながら言った彼女のよく分からない例えは、彼の耳には入っておらず、代わりに焦りの表情が現れていた。
「名前」
「は?」
短くぽっと櫂の口から出た言葉を、彼女は上手く聞き取れず、首をすこし傾け、聞き取れなかった仕草を言葉と同時に見せる。
「名前聞いてなくないですか?」
気が付いてからこれまで、状況の整理やら、知らない女性の唐突な登場、訳の分からない穴の話に、押し問答と、その展開についていくので一杯だった櫂は、初対面の際にまず最初に必ず聞くであろう事。相手の名前を聞き忘れていることに今ようやく気が付いた。
「聞いたろ、赤牙って」
「違いますよ!そっちのですよ!」
女性はとぼけた様子ではなかったが、思わずツッコむ言葉が出てしまう。
「そっち?あ、オレのか」
聞かれた女性本人も「そう言えば言ってなかったか」と、背もたれに体重を乗せ、
「アキホだ」
と、隣で立っている櫂へ、斜め下から覗き込むような体勢で彼女は流れるように自身の名前を言った。
「え?」
照れや戸惑うような仕草もしくは、何か前置きのような言葉が自己紹介の前にはあるだろうと思っていた櫂は、さらりと名前を言った女性の態度に面喰って、名前を聞き逃した。
「ア・キ・ホ。オレの名前だよ」
と、自身の名前を一語一語、強調しながら、改めて女性は自身の名前を『アキホ』と名乗った。
「…日本人ですか?」
まだ名前は聞き取れたが、まだ面を喰らい続けていた櫂は、名前の響きから最初に頭に浮かんだ言葉がそのまま口からでていた。
「んなわけねぇだろ?こんな地毛まで真っ赤っ赤な髪の日本人見たことあるか?」
恥ずかしげもなく、自分の頭頂部を櫂へとアキホは見せる。その仕草から生じた微風は彼の鼻を通り抜け、艶やかな香りに櫂は顔を赤らめ、どぎまぎした。
「い、いやないです」
赤面を隠そうと、横を向きながらすぼみ口で答える櫂の声を聞くと、顔をまた上げて、
「だろ?」
と、ニカリとアキホは笑いかけた。
「よし!」
といういう掛け声と一緒アキホも勢いよく立ち上がり、
「これで互いは知れたし、次はオレの話だな」
両手を腰に置き、豪快に胸を張ってアキホは言った。本当に互いを知れたのか?と櫂は冷静に心の中でツッコミを入れた。