最初の話 .1:気が付くと市役所にいた
どうしてか、赤牙 櫂は自身が住んでいた街の市役所に立っていた。しかしそれは、何か目的があって行ったなどではなく、気が付くと何故か市役所にいたというものだ。気が付いたらという言葉をこれ程体現した経験はこれまでなかった彼は、今の状況を全く飲み込めずにいた。どうしてここに居るのか、自身に心当たりがないかと、思い出してみる。
殺人によって短い一生を終えてしまった。
生唾を飲み込んだ。一度落ち着くために、大きく吸った息は、震えながらに吐き出され、指先から根元へ徐々に冷たくなっていくのを感じた。そして尚更に、今の状況を飲み込めなくなった。
腹の中から上がってくる熱が足元をふらつかせ、抵抗しようと、左手で腹部を強く押さる。前かがみになりながらも、両足を開いて体勢を保った。だが、熱は止まらず、喉を通り抜けてきた吐き気が漏れないように、口元をすぐさま右手覆う。終えてしまった事実を受け入れたくない自分が、反射的にその場を去ろうと、一歩、一歩、よろける足取りで市役所の出口へ向かう。不規則な呼吸は彼の情緒を焦らせ、熱が上がり続けてくるのを感じる。上がってくる熱をこれ以上、上へと行かせたくないと、腹部にあった手を胸元まであげ、服を強く握った。
「…は?」
櫂は気のせいだと思い、胸元を握っていた手を離した。今度は、握るのではなく、手を開いて、今優しく胸元へつけた。意識を開いた手に集中し、何かを感じ取ろうと静かにする。数秒。数分。待てど変わらない現実に、気のせいではないと自覚した。いつまにか口元から垂れ下がっていた右手も胸元へ持っていき、両手でもう一度注意深く確かめるも、やはり結果は変わらなかった。何がどうなっているか、視界の景色が回って動く、脳をむりやり揺らされているような、市役所自体が左右に動いているような、訳の分からない感覚に襲われ、その場に突っ伏し、
「はぁ…はぁ…あ…うがあ…!」
荒く速い呼吸と共に、その場に嘔吐した。
「嫌だ…嫌だ嫌だ!違う違う違う!あり得ない!!!」
胃液に熱せられた濁った声が否定し、勢いのまま上半身を起こして周りを見渡す。けれど何も変わっておらず、瞬きをいくつしようが景色は何も変わらない。
「帰らないと!」
焦って前のめりに立とうとしたせいか、足がもつれて躓いてしまう。こけそうになるも、地面に手をつけ、身体を上へ押し出して、なんとか立ち上がり走り出した。
表情は異常なほど青く、息を吸うたびに、胃がかき混ぜられ、腹部が波打つ。見ている現実は夢なんだと何度も何度も否定しながら、出口に向かって走る。そしてようやく出口にたどり着き、開くと思われた扉に強く衝突した。
「ったぁーー…!」
衝突したはずみで、後ろへ飛ばされ、櫂はしりもちをついた。
もう一度立ち上がり、自動扉に近づく。しかし、扉の目の前に立っても、開く様子はなかった。
「は?なんで?なんで!?」
自動扉のような見た目をした扉はには取っ手がなかったため、わずかにある隙間に無理矢理両手の指を入れようとするも、隙間に指がかからない。それどころか、隙間があるように見えているのに、まっ平の板をひっかいているような感触すらしている。それでもきっと開くのだと、必死になって指をかけようとする。指先の爪下皮が赤くなり、爪甲の表面が何枚も剥がれ、小爪がいくつもでき、険しい表情になりながらも、必死になって、あるように見える隙間に指をかける。しかし、こらえられる痛みにも限度があった。
「…ふー…ふー…」
指先がじんじんと痛む。指先を眺めると、手が小刻みに震えており、痛みが限度に達していると分かる。
「…っ!!!」
歯を食いしばり痛みに耐え、手を強く締めると、
「だらぁぁぁぁっ!!!」
今度は拳で扉を殴った。すぐさま、殴った拳に激痛が走り、悲痛な声と共に、もう片方の手で手首を掴み、痛みに震える。扉は、ガラスの見た目からは想像できないような硬さをしており、その硬さはコンクリートの外壁を叩いているかのようだった。そんな硬さをした扉を叩いたため、殴った拳は赤くはれ、皮が剥がれて血が流れる。痛みが口から洩れ続けるも、それを無視して今度は足で扉を蹴った。その硬さは先ほど確認した通りだが、それでも拳で、足で、扉を殴り続けた。
そうして何度殴った後か、手が止まった。櫂の足元にはいくつも小さな血だまりができており、お構いなしに殴ったせいか、その上を踏み抜き、血だまりが伸びている箇所がいくつもあった。
呼吸が荒く、身体がふらつく。呼吸を整えようと大きく息を吸った時、血だまりに足元を取られ、前に倒れそうになる。反射的に扉に両手をつき身体を支えたため、転倒はしなかったが、扉につけた両手の間に額を軽くぶつけると、こつんという乾いた音に額は弾かれ、そのままゆっくり膝から落ちていきながら、
「 ———— 」
こみ上げてくる苦しさをただ大声にして出し、喚くように泣き出した。崩れ落ちた膝は、しだいに地面へと近づき、接地し、頭もそれに引っ張られるように前へと下がる。ガラスについた両手だけが頭上に残る。喚き泣きながら、弱々しく手でガラスを幾度か叩くも、この現実を受け入れることはできなかった。