天邪鬼の件 第壱話
物語を始める前に、ここで注釈を一つ。
陸陽大学は妖の研究における権威的存在だ。
「人と妖の共存」を謳うここ日本では、人が妖の生態を、妖が人の生態を研究する場が多く設けられている。
相手を知らなければ、恐れのままに攻撃してしまうのが人の心というもの。
妖にはそれを理解するのが難しいと言うのもまた事実。
無知ゆえの争いを避けるためにも、知識は重要視されていた。
肉体を持たない妖を知覚できる仕組み。霊力という存在。魂が行き着く場所。
そして、森羅万象に干渉する力を持つ『術』。
陰陽道、修験道、神道、鬼道。
かつてはさまざまな人間や妖が、その力を極めていた時代があった。
ある者は力を駆使して争いを鎮め、ある者は力に溺れ大災害を引き起こした。
自然、無機物はおろか、人や妖を操ることすら可能にするその「術」は、あまりに強大な力をもつために軍事力と見なされ、現代では厳重に規制されている。
その「術」の研究を唯一許されているのが陸陽大学だと言えば、その権力の大きさが窺い知れることだろう。
この物語は、そんな霊験あらたかで自然溢れる大学で始まるのだ。
***
まだ少し冷えの残る風が、満開の桜の花びらを舞い吹かせる季節。
陸陽大学のキャンパス前は、数日前まで新入生とサークル勧誘のチラシでにぎわっていたが、今は人影もまばらで、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
少女はその穏やかな通学路を悠然と歩く。
スポーティな服装を身にまとい、ボブヘアを揺らして姿勢良く歩く姿は、小柄ながらファッションモデルを彷彿とさせる。
耳には赤と黒で彩られたヘッドフォン。彼女の通学時の日課である。
「……アヤカシレイディオ~!この番組はパーソナリティ・ヨミコがお送りする雑談バラエティです!さてさて、次のコーナーは……フシギ研究部~!ウソかホントか夢か現か?そんなおまじないの情報や都市伝説エピソードを、リスナーさんから募集しております!ではでは最初の投稿から……」
明るくよく通る声が少女の耳を抜けていく。
いつもと変わらない、朗らかなラジオの空気が、少女は好きだった。
「ラジオネーム、ネズミの行水さんからのお便りです!『ヨミコさんおはようございます!毎朝元気なお声に励まされながら通勤しております。早速僕からのフシギ研究を一つ……』」
聞き入る少女の横を、スラリとした高身長の女性がすれ違っていく。
可憐な花の香りが、少女の鼻を抜けていった。
「『夜0時にカミソリを口にくわえて水鏡を見ると、将来の結婚相手が映る……というお話をご存じでしょうか?僕もだいぶいい年になってきたので、そろそろ結婚について考えないとな~と思うのですが、なかなか行動に移せずにいました。そんな時に前回のフシギ研究部を聞いていたらふとこの噂を思い出し、面白半分でやってみることにしました。成功しても失敗しても話のタネにはなるだろう……と。』」
独特の語り口調に引き込まれる少女。
そのせいで、遠くで自転車を立ち漕ぎしている影に気づかなかった。
「昨晩、カミソリと水をたっぷり張った洗面器を用意し、じっと時が来るのを待ちました。冷蔵庫のブウゥゥゥンという機械音だけが遠くで響く洗面所。ふと鏡を見たら、カミソリをくわえている僕の間抜けな顔。ふと、僕は何をやってるんだろうと笑いそうになってしまいました。ほんの少し気が緩んだ瞬間……』」
「キャァァアア‼」
耳元の音を貫くほどの叫び声。
ヘッドフォンを下ろして素早く振り返ると、女性が一人へたり込んでいた。
その前方には、女性のものらしきバッグの紐を握りしめた者が自転車を必死にこいでいる。
フードを深くかぶっており、男か女か容姿までは判別できない。
「誰か……!」
少女は、女性の助けを求める声を背に、風の如く駆けた。
そのスピードはすさまじく、標準速度の車とタメを張れるのではないかというレベル。
おおよそ一般女性が出せる速さではない。
そんな少女から、おんぼろの自転車を必死にこぐ者が逃げ切れるはずもなく……。
「とおっ‼」
少女は迷わず自転車に向かって飛び込む。
振り返ってももう遅い。
「うわあぁぁっ‼」
ガッシャンと音を立てて、引ったくりと少女は自転車ごと倒れこんだ。
横倒しになった自転車。カラカラと力なくタイヤが回っている。
さっと起き上がった少女は、倒れている引ったくりからバッグを取り女性のもとに向かう。
「あ、ありがとう……!」
女性は安堵の表情を浮かべ、少女からバッグを受け取る。
長くさらさらとした髪をかきあげ、再び花の香りが少女の鼻をかすめる。
周りにはいつの間にか人だかりができており、中には拍手する者までいた。
「すげー!」
「めちゃくちゃ速かった……」
「えらいぞ嬢ちゃん!」
少女は女性に軽く手を振り、声をかけようとした。
だが、その手についている腕時計は、もうすぐ講義が始まる時間であることを示していた。
「やばっ!講義始まっちゃう!お姉さん、お気をつけて!」
慌てて駆け出し、少女は風のようにキャンパスの方へ消えていった。
後には女性を介抱する者、スマホを取り出す者、ただそこで話をするだけの野次馬が残っていた。
人だかりの目は引ったくりの方へ向く。
「早く警察を……」
「げ、こいつ鬼じゃん……」
「こわぁ〜……」
かぶっていたフードがめくれ、顔があらわになった引ったくり。
額には角が一本。耳は尖り、むきだしの八重歯は鋭い。
一目で見てわかる、彼は妖だった。
「やっぱり鬼ってそういう奴ばっかなんだな……」
野次馬のノイズを背中に受ける妖の目は、夜よりも暗い。
顔を見られるのを拒むようにうつむき、立ち上がる。
とっさに懐から木の葉を取り出し、誰にも聞こえないほどの声で、何かをつぶやいた。
「おい!」
やってきた警察に声をかけられるのが後か先か、妖はどろんと音を立てて消えた。
残されたのはゆらゆらとくゆる紫色の煙のみ。
「き、消えた……」
「君たち、見てないで縛っておいてくれよ……」
「だって鬼じゃん、何されるかわかんないし」
「まったく、これだから妖は……」
天を仰ぐ警察の目線の先には、大木の桜。
この大学付近で最も長く生きている桜だ。
その枝に、ぽっかりと空いた黒い穴のようなものが見えた。
思わずぎょっとして、目を凝らす。
「……最近多いですよねぇ。うちもしょっちゅうゴミを荒らされて困ってるんですよ」
近くにいた優しげな老婆に突然話しかけられ、とっさに愛想笑いを返す。
なんということはない。ただの大きな烏だ。
烏は毛づくろいをしてカァと一声鳴き、さらに一まわり大きな翼を広げて飛んで行く。
「なんか物騒だなぁ……」
大樹の周りを漂う紫の煙は、桜と共に春風にさらわれて消えていった。




