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腐乱死体

作者: 河東鶚

 しとしとという音で目を覚ました。

 ゆっくりと起き上がり窓の外を見れば、分厚い灰色の雲が空を覆っている。空気にも少し湿り気が混じり、どことなく重苦しい。少し前までは、きれいな青空が広がっていたのに、崩れるときはすぐに崩れてしまうのが夏の怖いところだ。

 昼食をとってから、なんともなしに横になったところまでは覚えている。

大学の講義も今日は休みで、読み止しの本にもどうにも手が伸びない。外はよく晴れて風も気持ちいのに、どこかに行こうという気分にはならない。仕方なしに横になって白い天井を眺めながら息をついた。

 大学に入ってからもう一年以上が過ぎる。

 ぼくはきっと何かをやりたいと思ったから、実家を出てこのマンションの一室に来たのだろう。それを見失ったわけではない、いつだってまっすぐ前を見つめている。でも時たま、自分の目指しているものにどれほどの価値があるのかがわからなくなる。『将来に対する漠然とした不安』と言い残して、自ら命を絶った作家がいるという。もちろんぼくにそのつもりはないが、最近はいつも頭のどこかにその言葉がうずくまっている気がする。

 何かを願うという行い自体に、どこか空虚なものを見る。それ自体になんの価値も見いだせなくなる。将来になんの価値がある。つまるところ今日と同じ明日、明日と同じ明後日が来て、いつか所属が大学からどこか別のところに変わるだけではないか。

 そんなことをつらつらと考えているうちに眠ってしまったらしい。

ほんのちょっと寝ているだけで空はこんなにも暗くなった。ぼくは気をとり直して洗面台に向かい、顔を洗った。生暖かい水に、季節の訪れを感じる。さっぱりとはしても気分は晴れない。

 鏡には何の変哲もない自分の顔が映っている、何の変哲もない。

 大学に来ればたちどころに何かが変わるなどとは思っていなかった。誕生日を迎えたって、数字が一つ増えるだけで、その瞬間を境に大人になるわけじゃない。そんなことは知っている。それでも鏡をのぞくたびに、少しがっかりする自分がいる。

 何か大きな変化が起こるのを願うことがある、本棚にある戦記物の様に。たとえそれがどんなに不謹慎でも、今までの自分なんてものを一瞬で吹き飛ばすような輝きを期待している。その結果として自分や、自分の周りが破滅してもかまわないとすら思う。

 天井を見ながら寝息をたてていたぼくはどんな顔をしていたのだろうか。幸せそうに寝息をたてていたか、眼を閉じていただけか、苦悶の表情を浮かべていたか。

 昼間から寝ていられるというのはきっと幸せなことだろう。大きな変化を期待してしまうような生活は、きっと平和で満ち足りているという証拠なのだろう

それでもやはり、この陰鬱とした空と、透明な眠気を吹きとなしてくれるような何かをぼくは求めている。

 きっとぼくはこれからいつも通りに夕飯を作り、温かい風呂につかり、柔らかい寝床に横になるだろう。これは幸せなことだ、ぼくは自分にそう言い聞かせた。


 翌日になると雨はもう上がっていて、ご機嫌な青空が広がっていた。ぼくはうっすらと目を開けて、窓で切り取られたそれを眺めた。風が気持ちいい。

まだいがらっぽい目をこすろうと手を挙げたときに、右の人差し指に何かが付いていることに気づいた。

 爪の下に、何か黒い豆粒のようなものがあった。赤みがかった爪、その先端は白ではなく黄色というほうが近い、その爪の真ん中あたりに小さな黒い点がちょこんとついていた。パッと見た感じはごみか小さな蠅か、それともペンか何かがちょんと当たってしまったような。形は丸に近いが、少し上下に長いような気もする。

 ぼくは布団の上に起き上がって、爪をまじまじと見つめた。

 さっとぬぐってみても点は消えない。やはり爪の下にあるのか。でも押してみたところで痛みはない。ただ少し何か固いものが触るような違和感がある。

 その時ぼくはふっと我に返った。たったこれだけのことで、少し興奮した自分がいる。たったこれだけのことで。ぼくはそれがひどくあさましいことの様に思えて、自分自身にひどく冷めた視線を送った。ぼくはいったい何を求めているというのか。

 きっと寝ているうちにどこかの角にぶつけてしまったのだろう。

 現実というものは結局のところ現実でしかない。現実は小説よりも奇なり、なんて言葉もあるけれど、少なくともぼくは小説の世界に胸を躍らせても、この現実を生きていたいとは思ったことがない。

 どうせこれも何かつまらないものだろう。この世界はそういう風にできているのだから。

 それきりぼくはそんな黒い粒のことなんて忘れてしまった。



 本を読むということはとても不思議なことだと思う。ページを開けばそこには誰かの言葉が詰まっていて、眼を落すまでもなく伝えたいという意思があふれ出してくる。この世界のどこかで、いつか、誰かが発した言葉が、こうして自分の手の中にすっぽりと納まって語り掛ける。

 本を手に取った瞬間に、その本が自分にとってどんな本になるのかがわかる瞬間がある。手に取るまでもなく、背表紙が目に入った瞬間に、書架の前に立った瞬間に、そこに何かがあると分かる瞬間がある。出会い、仕合せとしか言いようのない何か。それが本にはある。

しかし本は好きかと問われれば、ぼくは返答に窮するだろう。ぼくの周りには常に誰かの言葉があるし、それに身を浸していたいと願うこともある。でも本が好きかといわれれば、きっとぼくは違うと答えるのだろう。

ぼくはきっと本が好きなのではなくて自分が嫌いなのだ。

本を読んで他人の言葉の中に浸っている間は、自分の存在を忘れることができる。誰かの頭に何かを考えてもらえば、自分で何かを決断する必要もない。紙の上に書いた文字がぼくの代わりに、光や音を伝えてくれる。本を読んでいる間、ぼくはこの世界のどこにも存在しないことが許される。だからぼくは本を読む。それは伝えたいという本の意思に対する冒涜だろう。

小さな点が現れてから数日後のこと。

 午前中までまたしとしとと雨が降っていた。これが冷たい雨ならまだいいのだが、今日の雨は夏の終わり特有の生暖かい気持ちの悪い雨だった。どうにも部屋中がしけってべたべたするし、気温もあまり下がらない。

 ぼくは大学の図書館にいた。

 夏休みの図書館は閑散としていて、ぬるい水底のような静寂があった。別に誰かがいてほしいわけではないし、むしろ人と話すのは好きではない。でもその時はどうしてか人の声が聴きたくて仕方なかった。

 カーペットの床を踏むと控えめな音が鳴る。ぼくはどうにもこのふかふかとした床が嫌いだ。自分が今歩いているのかがわからなくなる。時折自分の足元が崩れてしまうような気がして、足がもつれる。

 歩き方というのは人が物心ついたときから誰に教わるでもなく知っていることだ。二足で立って、ただ右足を前に踏み出すだけ。でもある時にふっと立ち止まって、次の足の出し方がわからなくなることがある。

 漠然と知っている、わかっているということはひどく危うい。それは熱病みたいなもので、普段は全く気にも留めないことだが、ある時ふっと疑問に起こってしまえばもうどうにも、かつてどうだったかが思い出せなくなる。あたかも失われて初めてわかる健康の様に。

 呆然と立ち止まって、黒々としたアスファルトを眺めて途方に暮れて、右の足をちょっと出したり、左のつま先で地面を引っかいたり、でもどうしてか歩き方が思い出せない。無理に足を前に出してもうまく体重が移動できなくて、よろよろとしてそのまましりもちをついたりする。

 だからぼくは足音のしない地面が嫌いだ。せめて自分が今歩けていることがわかるようにしてほしい。

 ぼくは少しぎこちない足取りで、図書館の中を進んで書架の前にあった。

 そこには分厚くて少し変色した本が、ところ狭しと並んでいた。端の方にあった一冊を無造作につかむと、ほこりのざらざらとした感触が手に残る。

 ぼくはそのまましばらく、目についた本を片端から引き出して、ページをペラペラとめくった。でもどうしてか目が横滑りしてしまって、文章が全く頭に入ってこない。

 あるページをめくろうとして、ぼくは指先の痛みに眼を細めた。

 右の人差し指に先に細い筋ができて、そこから見る間に赤い水滴がしみだしてくる。ただの筋だったものが、赤い線になり、そこに丸い血の球が浮かぶ、まるで雨上がりの蜘蛛の巣の様に。息を忘れてみていると、それはだんだんと黒っぽくなってきて、水滴の表面に薄い膜ができた。ふっと息を吹きかけてみても水滴の表面がたわむばかりだ。

 ぼくは急に怖くなって手に持った本を書架に戻すと、踵を返して図書館を出た。

 本が怖いわけでも、血が怖いわけでも、傷が痛いわけでもない。でもどうしてかそこから逃げ出したくなった。

 そこから少し歩いたところに大きな木が合って、根元の近くに古いベンチがあった。ぼくは無造作にそこに腰かける。雨上がりの水滴が座ったところから服にしみこむのを感じる。

 ぼくはふーと長く息をつくと、そのまま空を眺めた。雨雲はとうに立ち去って、東の果てにまっさらな青空がのぞいていた。

 ひとたび冷静になってくると、果たして自分が何をしたかったのかがわからなくなってしまった。自分はなぜ図書館に行ったのか、なぜ本を手に取ったのか、なぜ指を切ったのか、なぜそれを見て逃げ出したのか、どうして今ここに座っているのか。

 何かを求めていたはずなのに。それがもうわからない。どこか遠くに消えてしまって、胸の中にはぽっかりとした空虚だけがある。

 ぼくはむしむしとした暑さを振り払うように、頭を振った。

 その時右手の爪の中に何か黒いものはあるのが見えた。

 それは数日前に見たときより明らかに大きくなっていた。インクをたらしたような黒いしみにも似ているが、その端から何か細いものが飛び出している。ぼくは手を空にかざしてそれをまじまじと見つめた。

 やはり痛みはない、でも気づいてしまうと爪をその下から押し上げるような違和感がある。

 それを見ても、ぼくは不思議と気持ち悪いという気はしなかった。爪の中に何かがあって、それがだんだんと大きくなっている。ただそれだけだ。

 その黒い何かを見ていると、どうしてか頭に中に詰まっていた暑気がするすると抜けるような気がして、とくとくという胸の鼓動を感じる。ぼくは座った時と同じようにおもむろに立ち上がると、道を踏みしめて帰途に就いた。

 家に着くとしまってあったルーペを持ち出して、爪をまじまじと観察した。

 黒い丸は大体五ミリくらいの大きさで、よく見てみれば黒というよりは褐色に近い。円を少しだけ上下に引き伸ばしたような形をしていて、その先から細い糸くずのようなものが爪の先に向かって伸びていた。

 これはきっと異常なことだ、何か大変なことが起こっているのかもしれない。でもぼくは不思議と何かしようという気はしなかった。むしろ何が起こるのか期待してすらいる自分がいる。何かこのじめじめとした日常を吹き飛ばしてくれるようななにか。

 昔から何も変わらない毎日を繰り返してきた。もちろん中学にいったり、友達と喧嘩したり、海を見たり、大学に入って一人暮らしをしたりという変化はあった。それでもぼくはその日々が何も変わらぬ日常であったということを知っている。もっと根本的な自分自身が何も変わらぬ日々を送ってきた。

 きっとそうなるだろうと思った日が、いつの日か自分の前に現れて、あとこれくらいしたらこれこれがあると聞かされれば、それは必ず実現した。自分が何かをしたいとか思う前に、当たり前と思うような様々なことがあって、ぼくはその中を歩いてきたんだ。だから何も変わらないし、きっとこれかも変わらないのだろうと思う。

 それはきっと幸せなことだと思う。何も変わらない日常を、変わらないまま過ごせるということはきっと恵まれているのだろう。

 昔読んでどうしても忘れられない詩がある。

『約束を信じながら信じた 

 その約束の通りになることが

 いたましくないか 』

 初めて読んだ時は果たして、何を言っているのかわからなかった。ただその詩は自分の奥深くにしみこんで、居座って、遠吠えにも似た存在感を放った。決して忘れられない、忘れられるはずもない。そんな確信だけがあった。

 今だって何かがわかったわけじゃない。でもその詩がだんだんと自分中で強くなっていることを感じる。

 何か大きな病気をすることを願うことがある。救いようのない何かが自分の身に降りかかることを望むことがある。もう決して取り戻せないものがついに失われてしまったと、絶叫したいと思うことがある。

 ぼくは退屈しているわけじゃない。そんなことがあるはずもない。

 でもやはりぼくはこの不気味な黒い斑点に、何かの期待をしているのだろう。

 ぼくはそれをしばらく眺めてから、右の人差し指の先にばんそうこうを巻いてそれを隠した。

 そしてまた変わらぬ日常を過ごす。何かの期待を秘めながら。


 何かが起こってほしいと願うことは、きっとあさましいことだ。足ることを知れ、といった偉い人がいるという。その一説だけを知っていて、ほかには何も知らないが、きっとその偉人様から見ればぼくの想いは徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい些事に過ぎないだろう。ここにはそれこそ飽きてしまうほどの日常が、平和がある。願ってすらそれを手に入れることができないものがこの世には沢山いるのに、そのありがたみを何一つ理解しないまま、漠然とそれが失われるのを待つなど愚かというしかないだろう。

 何かが起こってほしいと願うことは、きっと自分じゃ何も変えられないということの裏返しだ。そりゃあその気になって、何か新しいことを始めれば漠然と繰り返すこの日常から脱出できるのかもしれない。でもそれは『その気になれば』の話だ。

 昔通っていた高校に、変わった奴がいた。そいつは決して勉強ができるわけでも、話が旨いわけでも、人柄が尊敬できるわけでもなかった。ただそいつは、自分がやりたいと思うこと、自分の前に現れたこと、自分にそれをすることが許されたこと、そのすべてに真っ向から立ち向かい、実行した。そいつに聞けば、きっと自分しかやれる人がいなかったからだ、とかやるべきことだったからとかいうだろうが、きっとそれは本質じゃない。うまく言えないのだが、彼は目の前にあるものすべてに対して『その気になる』ことができたのだろう。

 あいつはいつも忙しそうにしていて、ほかの奴が気づきもしないところで汗を流し、誰にも感謝されず知られないまま楽しそうに笑っていた。ぼくにはそれが理解できなくて、尊敬もしたし恐れもしていた。

 きっとそいつは天才だったんだと、ぼくは思う。ぼくは安易に天才という言葉を使うのは嫌いだ。天才という言葉には、その人自身の在り方への徹底的な無理解、というか理解の放棄を含んでいる。しかしだからこそ、ぼくはあいつが天才であったというだろう。

 勉強ができるわけでもない、話が上手いわけでも、運動ができるわけでもない。ただすべてのことにやる気になったという天才。

 世界というのは思いのほか単純だ。あるのは自分と他人だけで、目の前にあるのはどこまで行ってもただの事実しかない。何かをするということは、それをしたいと思い、それをするやり方を考え、それを実行するというただの三段階の作業に収束する。結局、どんな偉業も解体してみればそれだけだ。

 それでもこの世の中にはそうそうできないことがあるし、当然なすべきことがなされていない事例だってごまんとある。それはどうしてか、その気にならなかったからだ。

 物事をなすということの最も根本的な部分、それはそれをすると思えること。単純なようにして最も難しいこと。あいつには自分の前にあるあらゆることを『しよう』と思ったのだろう。それをもってぼくはあいつを天才という。畏怖と偏見と、尊敬と嫉妬をもって。

 何かが起こってほしいと願うことがあると彼に打ち明けたことがある。すると彼はきょとんとして、じゃあ何かを起こせばいいじゃないかといった。なぜそうしないのと首を傾げた。その瞬間に、ぼくは自分と彼との間にある遥かな差、断絶をしり、それを覆い隠すために理解を放棄した。彼は天才だ。

 ぼくの願いはきっと、小さな子供が欲しい欲しいと駄々をこねるのと大差ない。自分で何かをなす気もないくせに、変化が起こってくれることを思う。選択する苦痛を厭うのに、結果を求めるというのはきっと全く的外れな行いなのだろう。

 それでもぼくは痛いのも、つらいのも、苦しいのも嫌いだ。何の努力もせずに、ただ空から幸運が降り立つのを待っている。

 愚かで、あさましい。おぞけが差す。そしてそこまで思って猶、何かをなす気がない自分が一番嫌いだ。

 爪の中に生まれた黒い何かは日に日に大きくなっていって、ついに人差し指の爪は真っ黒になってしまった。それもただ黒いんじゃなくて、みちみちと少しふくらんできて、触った時の感触もざらざらというものに変わっていった。

 何か大変なことが起こっている、他ならぬぼくのこの人差し指で。

 それがひどくうれしい。

 すべてを吹き飛ばして台無しにしてほしい。今までしてきたことの全てが全くの無意味であったと証明してほしい。そのための努力をしてこなかった自分を、それでも望むことをやめられなかったぼくを、ほかの誰かも行けないような場所に誘ってほしい。

 ぼくは毎日うっとりとしながら黒々と固くなった爪をなでる。

 数日ののちにはもうそれは爪とは言えないものになっていた。

 そこにあったのは、固くて丸い植物の種子のような何かだった。まるで土に埋まるようにぼくの肉の中に植わった一つの種だ。

 右の人差し指の先の方はもうその種に占拠されたようで、もはや感覚はない。少し力を込めて叩いてみても、ただその乾ききった殻に弾かれる。貼ってあったばんそうこうはとうに剥がれて、どこかに行ってしまった。

 ある朝目が覚めてみると、その日もやはり奇麗な青空が広がっていた。

 ぼくは窓というものが嫌いだ。窓枠に四角く切り取られた空が嫌いだ。無機質なガラスで隔てられて、しかし向こう側が見えるなんて何かの嫌がらせとしか思えない。

 窓の外にまっさらな空が広がっている。まるで「君はそっち側、ぼくはこっち側」と、見えても決して届かない世界を見せつけられながら嘲笑されているようだ。

 ぼくは憮然としてドアを開けた。風は少し生暖かいが、それでも気持ちよかった。

 そしてぼくは窓の前に立ったまま、恐る恐る自分の手を見た。

 カエルの腹のような手のひらと、少しささくれの目立つ九本の指と、そしてクルミにもにた種子と、その先から真っ白い一本の根が飛び出していた。

 それは色を知らないように白く瑞々しく、何もはばかることのないように、朝の空気の中にちょんと立っていた。ふっと息を吹きかければゆらゆらと揺れて、無垢な肌が光る。

 ぼくにはその純粋さがうらやましい。

 純粋であること、無垢であること、きっとあらゆる生命は何も知らないまっさらな状態でこの世界に生まれ出る。

 そしてただ事実しかないこの世界でただあるものをあるがまま学び取って、知るという喜びを体全体でかみしめる。

 でもいつからか、知るという快楽が知ってしまうという重圧に耐えきれなくなる瞬間が訪れる。

 この世には知りたいと思えるようなことは結局存在しない。

 何かがある、夢や希望といわれる何か、ぼくはそれを探して様々なモノを知ってきた。でもついにそれは見つからない。探せば探すほど、そんなものはないという確信だけが強くなって、もはや空にどんな星を見ていたかも思い出せない。

 ならば知りたくなんてなかった。何も知らないまま、思わないまま、ただ期待に胸を躍らせて、わくわくという胸の高鳴りをもって世界を永遠に見つめていたかった。そうとだけいさせてほしかった。

 知ることは死ぬこと。ひとたび何かを知ってしまえば、もはや知らなかったあの頃は決して戻らない。この世界にはどこまで行ったってただ事実しかない。ただそこにあるものがそこにあるだけ、何の発展も冒険もないただの事実。それを知ってしまえば、期待に胸を膨らませることなどできようもない。

 知らないからこそ、まだ事実でないからこそ、思い描ける世界がある。確定と不確定との間にある不安定で漠然としたそのあわいにだけ息づくものがある。

 ぼくにはもうわからない。そこにあるのはもはやのっぺりとした事実だけだ。彼は一切の感情を捨てた声でこう言うだろう、『そんなものなどなかった』と。

 知らず知らずのうちにぼくはその白い芽に指を伸ばす。少し震えながら、何かの幼虫のような指がそれに触れようとする光景には、背徳すら覚える。

 それはすべすべとしていて少し冷たい。指の腹にしっとりと絡みついて、さっと撫でて去っていく。

 ぼくは思わずため息をついた。

 何かが救われたような感情と、何かを待ち望むような感情と、ただ理不尽にすべてを破壊しまた破壊されたいという感情と、そのすべてが心の中で渦巻いて、それがふっと嘘のように消え去った。ただ残ったのは胡桃にもにたただ一つの種。その殻の隙間から白い光が漏れ出して、色すら知らないような始まりがそっと顔をのぞかせる。

 ぼくは指先で始まりつつある何かを崇拝の念すら持って眺める。

 何かが始まった。これまでにない何か、すべてを終わらすものの始まりにぼくはいま立ち会った。生と死すら凌駕する何かの萌芽、問いも答えもないこの世界に絶対の意味をくれる何か。

 ぼくはそれがたまらなく誇らしかった。


 ぼくはそれからもまるでいつもと変わらないように、日常を過ごした。朝布団の中で目を覚まし、温かい朝食をとり、大学に行きそしてまた帰り、夕飯を食べて暑い風呂につかり、また布団の中で目を閉じる。努めて変わらないように、でももうあの透明な眠気はない。

 期待と希望をもって日々を過ごすことがどんなに素晴らしいことか、何かが始まって終わりゆく気配を感じながら見る世界のなんと美しいことか。

 ぼくの指先に宿った何かはぐんぐんと成長する。小さな角のようであったあの芽は、昆虫の触覚の様に、アサガオの巻き毛の様に、絹糸の様に細く長くしなやかに伸びていった。

 ついにその全体がだんだんと固くなって、先端のほうに緑が差す。ちょうど人差し指を水平線に向けると、反り立った芽の先が天を指す。もう風にユラユラと揺れることはない、ただその中で毅然と頭を上げて風格すら漂わせる。

 芽が出ている反対側からは、何本もの透明な根があふれ出て、人差し指に絡みつきそれを飲み込むように強く張った。何本かの根の先端は指の皮膚の中に潜り込んで、また別の場所から顔を出す。もはや指全体が悴んだようになって、曲げられないし感覚もない。でもぼくはその生命の気配がたまらなく心地いい。

 

 芽はどんどんと大きくなった。細くしなやかな枝が何本も飛び出して、五月雨のような根は手首にまで差し掛かる。

 鏡をのぞくたびに自分の顔から血の気が引いているのがわかる。長い時間真っすぐに立っているのができなくなった。どうにも足がなえてしまって、自分の体を支えきれない。真っ白い顔をしたふらふらの男が、鏡の中で嬉しそうに笑っている。これが私だ。

 それでも右腕はどんどん固く太くなった。右の人差し指の先から少しずつ少しずつ固くなって、肌が木質に置き換わる。ざらざらとしていて、鼓動も感じない、でもそこには確かに生き物のぬくもりがある。立ち上る木の匂いには、どこか鉄臭いにおいが見え隠れする。それを感じるたびにぼくはたまらないような満足感を感じる。つにぼくが何かをなそうとしている、ぼくの身がここにある理由を見つけ出そうとしている。

 すべてのことがおぼつかなくなる。ないもできなくなっていく。でも考えてみれば、そもそもぼくができることなんて何もない。ならばこの指先に冗談みたいな奇跡を夢見たっていいだろう。

 ついには手首が、肘が、節くれだって黒々とした幹に変わっていった。もう曲げることも、何かを触れて感じることもできない。まだ白い肩だって、その肌の肉には幾本もの根がうごめいている。それはまるで意思を持った線虫の様に、一心に左の胸の中を目指してめきめきと成長する。

 ある朝目を開けてみると、右の手は一本の若木になっていて、その先の枝には青々とした何枚もの葉が風に揺られていた。

 外は快晴だ。

 もう布団から起き上がることはできない。右腕は重いし、胸の中には何か重たいこぶのようなモノができていて、息をするものままならない。

 それでもぼくは何とか体を起こそうとしたが、やはりだめだった。

 ぼくはもとのとおり布団に寝ころんで、窓枠の中の空を見上げた。不思議ともう腹立たしさは覚えない、ただもう一度だけこの風の中に身を浸したかった。

 するとどこからかメキメキという大きな音がきこえた。

 驚いて視線を回すと、右手に生えた木の先から今まさに新しい枝が生まれ出るところだった。

 筋張ってざらざらとした正面に、まるで気泡が水面に飛び出すように丸い瘤ができて、見る間みる間に握りこぶしよりも大きくなる。しばらくすると瘤の表面に無数の亀裂ができて、バキバキバキとすごい音をさせながら瘤がはじける、その下にはちょっと色の薄い巻き毛のような枝があって、まるで風に誘われるようにするすると宙を滑った。呆けたように見ていると、空を泳ぐ蛇にも似たその枝は、すっと窓の方に近づいてなんの躊躇もなく窓を突き破った。

 次の瞬間、さあと音を立てて風が部屋の中にやってくる。もう湿気の気配なんてどこにもなくて、何かを口遊みたくなるようなそよ風が、緑の葉を揺らした。

 これはきっと願ったことではない。ぼくは決して、死にたいわけでもましてや木になりたかったわけでもない。でもじゃあ何を願っていたというのか。ただ呆けたように空を見上げながら、頭の中に様々な情景を夢見ていた。そして同時にその夢が決してかなわないであろうことも知っていた。

 ぼくは天才でも秀才でもない。何も考えていない、ただの愚かな人間だ。

 その人がその人であると思える瞬間をぼくは探していた。ほかでもない僕自身がここにいると胸を張れるような何かを期待していた。

 それが今まさにもたらされようとしている。人が何を考えているのかは決してわからない。それは自分だってそうで、鏡の中のつまらない顔をいくら眺めたところで答えがどこにも見つからない。鏡に映っている顔が自分の顔だなんてい確証はどこにもない。

 なら僕はどこにいる。彼はどこにいる。

 鮮烈な風の流れを全身で感じる。ざわざわという木の聲が、何かを寿ぐように鳴り響く。

 この世にあるのはどこまで行っても事実だけだ、ならばぼく自身だってその事実の中にいた。

 ぼくは何かをあきらめながら生きてきた。何かを失いながら生きてきた。でもその血を吐くような選択の果てに、ついに手に入れたものが自分の欲しかったものとは限らない。ただ苦しむように苦しんで、悲しむように悲しんで、でもそれがどこまでも虚構で、すべてはなるようになっただけだということをぼくはきっと知っている。

 ぼくはここにいる。

 バキバキバキと木の肌に無数の瘤が張り付いて、たちどころに割れて、乾いた骨にも似た白い枝が部屋のそこかしこに手を伸ばす。

 窓はもう粉々になって、窓枠はねじれて転がった。机やいすや、本棚の本が悲鳴を上げながら引き裂かれる。この部屋を隔てていた白いモルタルの壁にも、当たり前のように罅が入る。

 風の中に躍り出た枝は、そこらじゅうで一斉に顔を上げると、元の幹と同じように黒く固い肌へと変わっていく、次の瞬間にはその表面にまた新しい瘤ができて、その中からはひげの様に細い枝がしゅるしゅると伸びあがり、青々とした葉を茂らせる、空を覆うように。

 ついにひときわ大きな音が、ぼくの胸の中でなった。風船でも膨らませるように胸がだんだんと膨れて、ついにぼくの胸は真ん中でバキっと割れた。

 血は出ない、出るはずもない。黒い峡谷のようなその割れ目からは、むっとするような生の気配が立ち上った。濃密で、触らかで、苦くて渋くて、どこか鉄臭い。

 温かい水が流れ落ちるように、胸から腹が腰が、足のつま先が、黒い木の肌と置き換わる。首の方も襟もとまで何かがせりあがる。不思議と気持ち悪い感じはしない。

 口の中に、鼻の中に、眼窩の裏や、耳の奥からも、何か熱いものがせりあがって、我先にと躍り出る。それは真っ白い芽。生まれ出た喜びを全身でかみしめて、一斉に空を目指す。

 ぼくは苗とこだ。次なる何かを生み出すための依り代だ。ぼくはここにあって、これからここを去るだろう。

 でもここにこの異形の木がある限り、きっとぼくがここにいたことも忘れられない。

 ぼくはここにいる。もう歩く足も、切れる指先も必要ない。何かを願うことも悲しむことも必要ない。

 ずっと何かが起こることを願ってきた。口を開けて、空から幸運が降ってくることを願っていた。それがついに結実しようとしている。

 ぼくは天才でもないし、努力もしてこなかった。つまらないどこにでもいるような一人の人間だ。でもそれすらもう何の意味もない。

 あのじめじめとした日常がきっと今日につながっていた。ただ腐り落ちるのを待つようなあの毎日は、決して逃避なんかじゃない。

 これはきっとぼくが最後につかみ取った命を懸けるべきことだ。ぼくがぼくとして与えられたただ一つの意味だ。

 ぼくがここで腐りながら空を見ていようと、誰もそれに気が付かない。たとえぼくが死んだって悲しむ人もいない。この世からぼくが消えたって、この世界は終わらない。ぼくはこの世界に生きてきた、でもこの世界はぼくのことを知らない。

 もう何も考えられなくなってきた。悲しいも、苦しいも、うれしいも、潮騒にも似た音の中に溶けていく。

 ぼくはここで果てるのだろう。夢も、未来も、希望も、もう関係ない。

 すべてはここで終わるのだから。それが無性に心地いい。

 そうしてぼくは久しぶりに声を出して笑った。おかしくてたまらない、うれしくてたまらない、そして言葉にならないようなすべての感情を声に乗せて笑った。

 もう震えるおなかもないし、吸った息を吐きだせなくなる。

 でもぼくは確かに笑いながら、そっと目を閉じる。

 いつかそうしたいと思ったように。



 数日後新聞の隅の方にこんな小さな記事が出る。

 『マンションの一室に変死体。腐敗がひどく、警察は身元の確認を進めている。』


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