パパ
テーブルには妙な組み合わせで皿が並んでいる。
もう食べかけだけれど、片方はサンドイッチ風で、今日はせっかくの休日なのに、普段なら作れないようなレシピに挑戦したりもせず、トーストした8枚切りの食パンに、バターを塗って、スライスチーズを敷き、こんがり焼いたベーコンと卵を載せた上からパンを重ねていた。
本当ならレタスとトマトも欲しいとこだけど無いものは仕方がない。ブルーベリージャムとも迷ったけれど、今日は甘いのよりもこういう気分。
でもこれだけだと偏るし、ちょっと寂しいし、冷奴を添えてみようと思いついてみると、冷蔵庫や戸棚には絹豆腐だけでなく、ねぎも削り節もしらすも生姜も諸々揃っていて、醤油か味ポンか、それとも他の調味料かも選べたから、メインディッシュなはずのトーストよりもこちらのほうがそれらしくなっていた。
で、和の勝利に傾いた様子の和洋混交の昼食に舌鼓を打っている彼女の意識を占めていたのは、午後の情報番組が取りあげていた裁判の話題をキッカケに思い出されたことで、裁判そのものには自分に関係ないからと特に惹かれもしなかったが、法律用語が耳に入ってくるうちに、甲乙という語句が自然と頭にのぼってきた。
最近、会社で法務を取り扱うひとから契約書について聞ける機会があって、そのときに難解な専門用語の使用法や言い回しなどいろいろ教えてもらったのだが、契約書の講義は正直退屈で、せっかく時間を割いてくれているというのに、途中退席したくなったのだけれど、でもあとから思い返してみて、それを男と女のこと、もっと突っ込んで、彼と自分のことに置き換えたりすると、急に興味深く見えだして、それに楽しくもなってきたのだった。
習ったはずのことをおさらいしたあと、甲を彼、乙を自分にして、『甲は、乙の了承を得ずに不貞行為をした場合、乙の被る精神的苦痛に対して賠償金その他で以て責任を負わなければならない』というふうに、適当に真似っこして作ってみたのだけれども、自分の受けるはずの精神的苦痛にたいしてどれほどの責任が妥当なのかと考えてみると、「土下座」「異性の連絡先の破棄」「慰謝料」「クレジットカードの付与」の四つをパッと思いついたが、土下座はその場限りだからとすぐに排して、異性の連絡先の破棄はやりすぎかもしれないとやめにして、賠償金と入れたのは自分なのに慰謝料だとやっぱり現金すぎるしで、クレジットカードが残ったのだけれど、それをくれるならあのひとをパパと呼んでもいいな、と思えてくる。
パパみたいなひととは、結構知り合ってきた気もするけれど、パパなんて想いもせずにいたはずが、今になって呼びたくなって、けれどその希望を叶えるには、彼女独特の論理によって相手に浮気してもらう必要があるわけで、嫉妬と怒りと寂しさと悲しみも一緒に付いてきますよと説かれても、そんなのは知ってるし、要らないのだけれど、でもそうは言ったって、甲乙の助けもなしに、いきなり自分のほうからパパなんて呼ぶのは、気恥ずかしくてやっぱり出来はしないのだった。
そんな思いにとらわれていたのは先日のことで、その時はそれから先へは進まずにいたものの、今思い出してみて、クレジットカードが欲しいのか、それともパパと呼んでみたいのかと思案してみると、いくら胸に訊ねてみても、後者の方が勝ちを制するのだった。
だけど、父親をさえそう呼んだことがないのに、父親より若いひとをパパなんて呼んでいいの、パパの呼び初めを他の男で果たしてしまっていいの、という妨げとしての力はそう強くないものの、無視もできない声が聞こえてきて、試みに想像の中で父親をパパと呼んでみると、ぽっとなったのに、彼をパパと呼んでみても、見えるのは虚をつかれたような表情でしかなくて、苦笑いに近いものが、今はちょうど冷奴を口にしたところで、美味しいものを含んでいるはずの、彼女の顔に浮かんでくるのだった。
「パパ」
食べ終えたあと、ふとつぶやいていた。
もう一度呼んでみる。いつもより高いのがわかったが、ちいさい声だからかもしれない。けれど初めてにしては上手い。記憶はたどらなかった。
読んでいただきありがとうございました。