8月 夏祭りの屋形船
年配の護衛の人に案内されて屋形船に意気揚々と乗り込んだアタシだったけれど、外から見るのと中から見るのでは大違いだった。
内部はお金に物を言わせた特別製で、広々とした畳敷きが入り口から最奥まで続き、そこに高級感漂う長椅子と座布団が並んでおり、ざっと見回すだけで既に百名以上が集まっているが、まだまだ席に余裕がある。
アタシは案内通りに、入り口で下駄を脱いでスタッフの人に預けた後、恐る恐る会場に足を踏み入れる。
元々の予定では卯月家の送迎で市の祭りに行き、適当に一人で屋台巡りをして花火も楽しみ、十分に遊んだしそろそろ帰ろうかなと屋形船に向かい、皆にお別れの挨拶だけして卯月家の運転手さんに朝倉家に帰してもらう計画だった。
なので総勢百名を越える名家の集いに、庶民のアタシがお祭りの最初から花火が終わるまで居座り続けるなど、完全にノープランだった。
「うん、取りあえず一番人が少ない目立たないところで、終わるまで時間を潰そう」
人集りは見晴らしのいい中央の上座に集中しているため、入り口の下座にはあまり人が居ない。アタシは護衛の人にここまで案内してくれたことにお礼を言い、適当な空いている席に腰を下ろす。
本当は一番最初に三家の当主に挨拶するのが礼儀なのだろうが、アタシは小学一年生で庶民なのでそんなルールなんて知らない…ことにした。
そもそも偉い人からアタシらしくお祭りを楽しめばいいと言っていたので、何も問題はない。
近くの給仕さんに烏龍茶を頼み、長椅子の上の料理を眺める。海鮮モノが中心で、小さな船の器に所狭しと盛られた一食で数万円はしそうな、こんな機会でもなければアタシとは一生縁がなさそうな見た目も華やかな料理だ。
「ほら、烏龍茶だぞ」
「ありがとう裕明君…って! うええっ!?」
てっきり給仕さんが運んできてくれると思っていたのに、紺色の上に羽織るタイプの作務衣を着た裕明君が、さも当然とばかりにアタシの隣の座布団に座っていた。
「裕明君、ここ下座なんだけど」
「とも…あーいや、お前も主催者に挨拶しなかっただろ? 俺も細かい決まりごとなんて知らないからな」
もっと言えば下座のさらに末端だ。間違っても主催者の御曹司で、世界的な名家の彼が座る席ではないが、裕明君も小学一年生だし本人が知らないと言っているのだから、問題はないのだろう。
「そっか。知らないならしょうがないね」
「ああそうだ。だからお前と一緒に居ても何の問題ない。親父たちは隣に座れなくて悔しがるだろうがな」
「そもそも庶民のアタシから頭を下げて挨拶するのが普通だし、こっちに来られても対応に困るんだけど」
アタシは裕明君から受け取った烏龍茶をチビチビと飲みながら、屋形船の外を何の気なしに眺めると、大通りはお祭りの提灯や屋台で飾り付けられており、船内が静かなために綺羅びやかな神輿を担いでの景気のいい掛け声と、楽しそうに騒ぐ大勢の人の熱気がここまで伝わってくる。
「今日は誘ってくれてありがとう。アタシ、大きなお祭りに来るの初めてだから」
「どういたしまして、こっちもキミを誘えて嬉しいよ。少しでも恩返しになれば幸いだな」
隣の裕明君と会話しながら、窓から外を眺めていたアタシは、突然聞き覚えのある大人の男性の声が割り込んできたのでびっくりして振り返ると、そこには卯月おじさんがニッコリと微笑みながら立っていた。
「わたくしに内緒で二人だけで楽しんで、ズルいですわ!」
「そうだよ。僕も会えるのを楽しみにしてたのに…!」
それだけではなく友梨奈ちゃんと、光太郎君、そして三家のおじさんとおばさんが勢揃いして、すぐ近くからジト目でアタシを見つめていた。道理で船内が静かだったはずだ。
アタシは冷や汗をかきながら、慌てて取り繕う。
「挨拶が遅れて申し訳ありません。ええ…大変遅ればせながら、本日はよろしくお願い致します」
「うん、キミも元気そうで安心したよ。
さて、堅苦しい話はこの辺りにして、そろそろ花火の時間だ。一緒に祭りを楽しもうじゃないか」
深々と頭を下げて挨拶を行うと、どうやら怒ってはいないようで安心する。しかし三家の皆は何を思ったのか上座に戻ることなく、アタシの近くの席を取り合うように、我先にと腰を下ろす。さらには子供二人は別の場所から座布団を持ってきて、小柄なのをいいことに強引に狭い隙間に体を潜り込ませてくる。
「あの…ここ下座」
「そうだね。でも三家の主催者がキミの隣に座りたがっているんだ。何も問題ないだろう?」
「問題しかありません。皆さん困惑しますよ」
アタシが何とか中央の上座に座り直すように説得しても、我関せずとそれぞれが飲み物を片手に持って、こちらに話題を振ってくる。
周囲の他の名家の人たちは混乱しているのか、明らかに驚いたような表情で固まり、話しかけるタイミングを見失っている。
「とも…ええと、今日のお料理はお魚がメインのようですわよ」
「そうだね。どれも新鮮で美味しそうだね」
「わたくし、少し前までは魚料理はあまり好きではなくて、家での食事も時々残していしまっていましたのよ。
でも、この間のキャンプで食べたイワナ料理の数々は、今まで食べた中でも一番の美味でしたわ」
信頼できるお抱えの料理人が作ったことと、自然の中という開放的な気分、そして家族が彼女のために釣り上げた魚という三点が合わさり、友梨奈ちゃんは魚料理が好きになった。
そんな小さな女の子に、アタシは何の気なしに良かったねと相槌を打つ。
「ええ、本当に良かったですわ。これでまた返しきれない貴女への恩が増えてしまいましたわね」
「そんなの気にしないでいいよ。そもそもアタシがやったことじゃないし、皆が普通に楽しんでたし、成るべくして成っただけだよ」
「それでも、…ですわ」
どうにもアタシへの好感度が高い気がする。あの時は旅行の幹事として大まかな計画を練って、優秀な使用人さんたちに丸投げしただけだ。そこまで恩を感じる必要はない。
出来れば月の名家のアタシに対する好感度や信頼度も下げて、ただの知り合いレベルまで落としたいのだが、何故か自分がどういう行動をとっても、凄まじい速度で上がっていくのだ。
かと言って悪いことや相手が傷つくことはしたくないので、どうやって下げたものか。
そんなことを考えながら、彼女の真っ直ぐな視線を受け止めきれずに照れてしまい、逃げるようにすぐ隣の光太郎君に顔を向ける。
「光太郎君、今日はあの子はいないの?」
「あの子? 誰のこと?」
「ええと、六月の社交界で会った金髪のフランス人形のような、可愛らしい女の子だよ」
思考を整理するために少し視線を空に彷徨わせながら、特徴を思い浮かべていく。アタシに足を引っ掛けてきたので、衝撃的な出会いとして印象に残っている。
「ああ、あの子か。今日は呼んでないよ」
「光太郎って呼び捨ててたし、友達じゃないの?」
「両親にくっついてドイツに滞在していた時に、少し仲良くなっただけだよ。
キミが気にかけることはないから」
アタシとしては光太郎君に話しかける内容に困って、思いついたことを適当に口に出しただけなのだが、どうやら地雷を踏んでしまったようだ。
いつの間にか笑顔から無表情になった彼だけではなく、月の名家の方々を取り巻く空気も夏なのに妙に涼しくなってきた。
「はぁ…ちょっと席を移動するね」
この重い空気を払拭するには、別の話題を振るだけでは足りない。席を変えて気分をリセットするのだ。
アタシが蒔いた種なのでせめて自分で刈り取ろうと、下座の末端から自分の烏龍茶を片手に持って、中央の空いている上座に向かって、誰彼構うことなく真っ直ぐに歩いて行く。
「ちょっと失礼しますね」
ちょうどよく上座の一部がポッカリと空白になっていたので、アタシ一人ぐらいなら余裕で座れそうだ。
続いて三家の家族がゾロゾロと移動を開始して、当然のようにアタシの隣の席から順に場所取りを始める。
深く考えないだけかも知れないが、ウジウジと悩むよりは現状を受け入れてその場の流れに任せて順応するのは得意なので、屋形船の流れ行くままに祭りを楽しむことに決める。
「そろそろ花火が始まる。屋形船を出してくれ」
卯月おじさんが近くの使用人に伝えてから一分もしないうちに、渡り板や縄を全て外し終わったのか、少しだけ床が揺れたように感じ、続いて外の景色を見ると一発目の大輪の花火が夜空にあがり、屋形船が陸からゆっくりと離れていくのがわかった。
卯月おばさんは気にしなくていいと言ったので、いつも通りに振る舞う…と言うか、いつも通りにしか振る舞えないのだが、一つ問題があった。
アタシは月の名家以外の人が好む話題を知らないのだ。上座に座るということは、必然的にそういった人たちとのお付き合いが多くなる。
そう思い至ったアタシは、取りあえず花火を見ながら、近くの使用人さんに烏龍茶のおかわりを頼むと、目の前の食事に専念して全力で逃げることに決めた。
「とも…貴女、このフライはなんですの?」
「名古屋名物のエビフライかな?」
「友梨奈、タルタルソースをつけるとさらに美味しいわよ」
今は友梨奈ちゃんと卯月おばさんが話しかけてくるので、他所の名家が入る隙間はない。
勿論他の月の名家も負けていない。アタシが食事に専念して逃げの一手を打つと察すると、食事の話題を次々と振ってくるのだ。
「ちょっと飲んでみろよ。こっちのジュースも美味いぞ」
「んー…さっぱりとした甘さだね。舌触りも独特だよ」
「これはフローズンドリンクだ。凍らせたリンゴを直接すりおろして作られている」
裕明君に勧められたジュースをいただくと、独特の甘い風味が口の中に広がる。弥生おじさんが言うには、この日のために独自製法で生産された高級なリンゴらしい。ジュースのために何ともスケールが大きいことだ。
「今の花火見ましたか? やっぱり近くで見ると一層綺麗ですね」
「そうだね。アタシも花火をこんなに近くで見たのは初めてだよ」
「屋形船からの眺めは、テレビで見るのとは大違いだからね。キミが望むのなら、他の花火大会にも招待するが、どうする?」
光太郎君と一緒に何気なく花火を眺めていると、かなり近くだったらしく。体の芯を震わせるドーンと響く音と、夜空に咲く大輪の花がとても眩しい。
確かにいい眺めだが、睦月おじさんのお誘いは丁重にお断りさせてもらった。庶民のアタシには、自宅の縁側で小さな線香花火で遊ぶのが性に合っている。こういう贅沢は、一生に一度で十分に感じる。
やがて花火を打ち尽くしたのか、屋形船は元の停泊所に戻り、再び縄で固定されて渡り板がかけられた。
アタシは結局、月の名家に代わる代わる話しかけられ続け、他所の名家の人とは一度も話す機会がなかったが、変に緊張してボロが出ないで良かったと思った。
世界屈指の名家のほうが緊張しないアタシの無頓着さも大概だと思うが、生まれついての性格なので仕方がない。両親は相変わらず顔を合わせるたびにアタフタしているが、それでも時間はかかるがいつかは慣れて平気になるだろう。
途中で祭りの入り口で三人の若者に声をかけられた話題に変わり、また妙な雰囲気になったが、結果的に何もなかったことを繰り返し伝えて、何とか元の空気に戻した。
しかし念のために送迎用の車まで護衛付きで送ることになり、アタシがまるで重要人物になったかのように、大勢の人々の注目を集めながら大通りの中央を歩き、羞恥心と戦いながら顔を赤くして駐車場に向かうことになった。
駐車場には尾行を撒くためのダミーの車を複数台用意してあり、どの車にアタシが乗っているかは外からでは見えないので大丈夫だと、顔馴染みの運転手さんに伝えられた。
何がどう大丈夫なのかと聞いたら引き返せなくなる気がしたので、アタシはそうですか。と、一言だけ返して、朝倉家に到着するまで沈むソファーに座り、目を閉じて精神的疲労が激しい体を休めるのだった。




