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8月 悪夢からの解放

 次の日のまだ涼しい早朝、朝食の配膳を行うために、子供用スリッパを履いて足音をパタパタと響かせながら廊下を歩き、別邸の様子を見に行くと、そこは地獄だった。


 いたるところに転がる酒瓶や駄菓子や酒のつまみ、出しっぱなしのゲーム機や小説や漫画、ゴミ箱に入っておらず散らかったティッシュクズやプラスチックの空袋。

 今まで遊びに来たときには、帰り際でもチリ一つ落ちていない綺麗な部屋だったはずだ。汚物をぶちまけていないのが、唯一の救いなのかもしれない。

 問題の男たちは娯楽室の真ん中で三人揃って大の字になり、幸せそうな表情でぐーすか寝ているのは、もはや呆れるしかない。


「はぁ…本当に何があったの」


 こんな惨憺たる有様では朝食を食べるどころではない。部屋を片付けるために指定のゴミ袋と箒とちりとり、そして雑巾とバケツを用意し、寝ている大人を部屋の隅に引きずった後、後頭部にクッションと体の上にタオルケットをかける。そして自分のボサ髪を簡単に結んで気合を入れて、大掃除を開始する。

 酒飲みの相手は前世で慣れているので、小学一年生ながら物音を立てずに、それでいて段取り良くテキパキと掃き掃除と拭き掃除を行い、三十分で何とか元の娯楽室に戻すことが出来た。


「取りあえず一段落だね。起こすのには早いから、もう少し寝かせてあげよう」


 一先ず戻ってお母さんに報告しようと静かに扉を開けて廊下に出ると、ちょうど起きてきたのか、寝間着姿の裕明君とバッタリ遭遇した。


「おう、おはよう。智子は朝が早いんだな」

「おはよう。そう言う裕明君もね」


 アタシはゆっくり扉を閉めながら、裕明君のほうに顔を向けて、お互いに何気ない朝の挨拶をする。


「親父たちはまだ寝てるのか?」

「うん、娯楽室でね。一応枕代わりのクッションと、上にはタオルケットをかけておいたけど」


 出かける前に酔いが覚めるかはわからないが、運転手さんのお世話になるので、最悪二日酔いの状態でも問題なく辿り着けるだろう。

 とは言え、一応酔い覚ましの朝食を用意しておくように、お母さんには伝えるつもりだ。


「気を使わせて悪いな。えっ…ええと、その髪型似合ってるぜ」

「自分じゃよくわからないけど、ありがとう」


 そう言えば娯楽室を片付けるときに、視界の邪魔になるボサ髪を結んだままだったことを、今頃思い出した。しかも小学一年生に不意打ち気味に褒められて、不覚にもドキリとしてしまった。

 一応精神年齢だけは二十歳のつもりだったが、案外未成熟な肉体に引っ張られるのかも知れない。


「じゃあアタシはこれで、あと一時間ぐらいしたら朝食を取りに来るように、皆に伝えてね」


 褒められた嬉しさで顔を赤くした恥ずかしさを誤魔化すように、裕明君に背を向けて早足に廊下を歩く。

 アタシだけでなく彼の顔も赤いことは直接見なくてもわかるが、今はお互い妙に小っ恥ずかしいだろうし、朝食の準備で忙しい時間にこれ以上話すこともない。

 アタシは子供用スリッパのパタパタという音を慌ただしく響かせて、一人で大人数の食事を切り盛りしているお母さんの元に、急いで手伝いに向かうのだった。












 予想通り二日酔いになっていたため、朝食が終わった直後の出発は延期となり、予約したログハウスに向かうのは朝倉家で昼食を食べてからとなった。

 そのことに関して子供と奥さんは昨夜の宅飲みを責め、病人用の部屋の隅で各家の当主は痛む頭を氷のうで押さえながら、三枚の布団の上にそれぞれ横になりながら、居たたまれないという表情のまま、縮こまっていた。


 何でも生まれて初めて誰にも咎められずに、各々が好きなだけ飲んで食べて騒ぐ機会が訪れたために、ブレーキを自ら壊してフルスロットルで振り切ってしまった。今は反省しているとのことだ。


「皆さん反省しているようですし、この辺りで許してあげたらどうですか? 目的地は近場なので、一泊でなくて日帰りでも通える距離ですし」

「おおっ! 智子ちゃん! やはり君は救いの女神だよ! …アイタタ」

「無理に喋らず安静にしててください。酔いが覚めないと、いつまで出発出来ませんし」


 アタシの言葉に仕方ないという感じで、ネチネチと責めるのを止めたので、卯月おじさんが地獄に仏とばかりに、ガバっと身を起こして持ち上げてくる。

 しかしすぐに頭痛がぶり返したため、アタシは急いで彼の体を支えて慎重に横に寝かしつける。


「いや、本当に智子ちゃんはよく出来た子だよ。もし同じ小学一年生だったら、出会ったその日にプロポーズして婚約を結びたいよ」

「軽口をたたけるならもう大丈夫ですね。あと、その冗談はアタシではなく奥さんに言ってあげてください」

「冗談ではなく本気…アイタタタ」


 現在各家の当主様の氷のうを変えたり、かけ布団を整えたりもアタシが行っている。使用人が入るので離れの管理は必要ないと言われていたなのに、これはどういうことかと言うと。


 あまり人を入れると余計な口を出して行動を制限されたり、名家の繋がりを使い、悪いことを考える輩が現れるため、最低限家屋の管理を行える一人か二人が望ましいらしい。

 そのため一日に一度簡単な掃除を行える家政婦さんが一人いる現状で、当面は十分なのだそうだ。


「今後も頻繁に宅飲みを行うのなら、そういう人を追加で雇ってくださいね」

「ご忠告痛みいる。しかしこれ以上人は入れたくないな。どうだい智子ちゃん、卯月家の家政婦として…」

「謹んでお断りします。さて、氷のうの交換も終わったので、アタシは戻りますね」


 権力者にどっぷり関わるなんて絶対に嫌だ。現在は流されるままのお友達が続いているが、それでも名家の子供たちが成長すれば、次第と同じ家柄の付き合いが多くなり、庶民のアタシからは自然に離れていく…はずだ。


「ゆず茶を置いておきますから、喉が渇いたら飲んでください。それと、トイレは一人で行けますか?」

「ありがとう。トイレは問題ないよ。それにしても、やけに手際が良いね」


 オボンに乗せた暖かいゆず茶のポットとコップを枕元に置いて、アタシはゆっくりと立ち上がる。


「二日酔いの人の介護は慣れてますので」

「それはもしかして、予知夢で見たのかい?」

「ええと、まあ…はい。そんなところです」


 今では刺される前の記憶はかなり薄れてしまい、実は全てが夢だったのではないかと思えてしまう。それでも記憶は失くしても記録は生きているようで、知識や体の動きは必要な時が来ればすぐに引き出せている。


「しまっ…! 別に智子ちゃんを傷つけるつもりは…!」

「いえもう殆ど忘れているので、だっ…大丈夫です」


 自分でも何が大丈夫なのかはわからないが、今のアタシの顔色が相当悪いことわかる。

 いくら薄まろうと思い出は完全に消えてはいない。そしてたとえ卯月おじさんに悪気がなくても、彼が謝罪することでより強く意識させられ、前世の忌まわしい記憶をほじくり返されてしまう。


 今までずっと押さえ込んでいた反動か、驚くほど呆気なくアタシの心のタガは壊れてしまい、前世の負の感情が心の奥底から次から次へと漏れ出てくる。

 あまりの気持ち悪さに吐き気が込み上げて、まともに立つことすら難しくなる。今の自分は本当に小学一年生なのか、それとも高校生の朝倉智子が死の間際で見ている夢に過ぎないのか。それすらもわからなくなってしまう。


 しかし、アタシがふらついて崩れ落ちそうになった瞬間、友梨奈ちゃん、光太郎君、裕明君の三人が、小さな体でアタシをそっと支えてくれた。


「辛い時は無理せず休んでいいですのよ」

「そうだよ。僕でも肩ぐらいなら貸せるからね」

「何かあれば俺たちを頼ればいい。智子の力になりたい奴は他にも大勢いるんだからな」


 三人の言葉に励まされたのか、辛くて苦しい前世の思い出が急激に薄れ、今の自分と混ざり合っていくのがわかる。そう、アタシは平凡な小学一年生の朝倉智子なのだ。いつまでも終わった過去でグチグチと悩まずに、新しい人生を生きて行くべきなのだ。


 前世とは違い、困ったときにアタシを助けてくれる人も、裕明君が言うように決して大勢ではないが。少なくとも目の前の三人はアタシの過去を知ったうえで、こんな不完全な自分にここに居てもいいと、自信を持って言ってくれた。

 それだけで今のアタシが、小学一年生として新たに生きて行くには十分な理由だった。


「わかってたけど自分のことながら、なんて単純…ううん、三人共ありがとう。今度こそ本当に大丈夫だから」


 まだ少しだけふらつくものの、何とか嘔吐は回避してヨロヨロと数歩下がり、適当なクッションを手にとってお尻の下に敷くと、一息吐いてゆっくり腰を下ろす。

 三人はまだ心配そうな顔をしてこちらを伺っているが、アタシは少しだけぎこちなく笑顔を作って、二日酔いのために持ってきたゆず茶を、一杯入れて欲しいとお願いする。


「ありがとう。そしてごめんね。二日酔い用に持ってきたのに、アタシが先にいただいちゃって」

「それは構いませんわ。元はと言えば、わたくしのお父様が原因ですもの!」

「智子ちゃん! この通りだ! 本当に申し訳なかった!

 君の過去…いや、予知夢は知っていたはずなのに! あまりにも不用意に踏み込んでしまった! いや、今さら侘びて済む問題ではないが、自分に出来ることなら…」


 友梨奈ちゃんがポットからゆず茶を入れて、丁寧に運んできてくれる間も、卯月おじさんが二日酔いにもかかわらず布団から飛び起き、床に頭を擦りつけるようにアタシに向けて謝罪している。

 それを見るアタシと卯月おじさん以外の皆の視線は、何というかまるで氷河期を感じさせる程に冷ややかだった。


「謝らないでください。悪気があったわけではありませんし。何より今のアタシには、困った時に助けてくれる、小さな友人たちがいますから」


 そうはっきり口に出して目の前の三人に視線を送ると、皆それぞれ得意気な表情を浮かべる。確かに友達と認めたが、庶民のアタシから名家の皆が離れるまでだ。それはそれ、これはこれで、面倒事に自分から関わりに行く理由にはならない。


「智子ちゃん、その友人枠にはおじさんたちも、勿論入ってるよね?」

「名家の方々とは、今後は良い関係を築けていければと、持ち帰って検討したいと思います」

「あっ…はい。今はそれでいいです」


 たった今アタシが歩み寄ったのは、三人の子供たちだけだ。それも成長して別れるまでだし、別に名家の大人たちを嫌ってはいないが、好き好んで近づこうとも思えない。


「ですが月の方々には日頃からお世話になっていますし、アタシに出来る範囲ならお手伝いしますよ」

「やっぱり智子ちゃんは優しいね。世話になっているのはこちらのほうなのに。ますます好きになってしまうよ」

「だから冗談は言わないでと…はぁ、もういいです」


 卯月おじさんに真面目な顔をして冗談を言われると、女としてはドキリとはしないものの、はっきりと口に出して好意を向けられるのは慣れていないせいか、どうにも照れてしまう。


「皆さんそろそろ酔いが覚めてきたようなので、お昼ご飯を食べて人心地ついたら出発で、構いませんか?」


 アタシも少し休んだおかげか、体の調子が部屋に入る前に戻っていた。そして誰も他に意見がないようなので、こちらの提案通りにお昼ご飯を食べてから、少し休んだ後に出発となったのだった。

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