7月 体育祭の終わり
午後の競技が開始された後のアタシは、再び赤組の応援を続けながら最後のリレーが始まる少し前、試合に万全を期すために校舎の女子トイレに済ませた帰り道に、妙な視線を感じた。
ふと前方を見ると、五人組の女子生徒が明らかにアタシを敵意を持って睨みつけ、苛立ったような足音を響かせながら近寄って来ることに気づいた。
「貴女が朝倉智子さんね? 用があるのだけど、少し顔を貸してもらってもいいかしら?」
「ええと…アタシが朝倉智子なのは間違いはないけど。でもこれからリレーに出場するから、それが終わってからなら…」
見た感じ全員普通の小学一年生よりも身長と体格ともに成長しており、上級生なのは間違いない。さらに自分と同じ赤組の鉢巻をつけていた。
おそらく今話しかけてきた気の強そうな女の子が、五人組のリーダー格なのだろう。
「そんな時間はないわ。とにかく用事はすぐ済むから、今すぐ私たちと一緒に来てもらうわよ」
「時間がないのはアタシも一緒なんだけど。まあ、すぐ済むならいいですよ」
向こうの用事の詳しい内容はわからないが、面倒事なのは間違いないだろう。
そんな予感をヒシヒシと感じながら、こんな所で話し合っても相手が詳しい用件を言わない以上、時間だけが過ぎていくだけだ。
最悪リレーに間に合わなくなってしまう。嫌々ながらもクラスの代表としての役目を任されたからには、きちんと果たしたい。
アタシは軽く頷き、上級生の五人組に前と後ろを挟まれながら、人気のない校舎裏に連れて行かれたのだった。
「朝倉智子さん、貴女…次の競技のリレーを棄権しなさい」
「あのー…リレーを棄権とは、どういうことです?」
突然気の強そうな上級生にリレーを棄権しろと言われても、まるで意味がわからないアタシは条件反射的に質問を返すと、自分を取り囲む五人組が呆れたようにざわついた。
「貴女には罪の意識がないのかしら? それとも委員長の自分なら、クラスで何をしても許されると思ってるの?」
「えっと…だから何のことです?」
「はぁ…やはり噂は噂でしかないようね。いいわ。一年生の貴女にもわかりやすく、自分が犯した罪を教えてあげる。
まず本来一年一組のリレー走者は、睦月光太郎君なのはわかるわね?」
アタシも上級生の言う通り、赤組の一年生のリレーの走者は光太郎君か裕明君のどちらかだと思っていた。
しかしそうはならなかった。何故か満場一致でアタシ以外の全票が、朝倉智子一人に集中したのだ。
「貴女はクラス委員長の権限を使って、リレー走者を光太郎君から奪い取ったのよ! それが朝倉智子の犯した罪よ!」
ビシッとアタシに人差し指を向けて勝ち誇ったように胸を張るリーダー格の少女に、言葉も出ずに唖然としてしまう。
しかしそんな反応はアタシだけだったようで、取り巻きの四人の上級生たちからは、蔑むような冷たい視線がこちらに送られてくる。
「ここまで言って、まだ自分の罪を認められないの? それとも小学一年生のお馬鹿な頭では、ちょっと難しすぎたのかしら」
「ああいえ、ちゃんと伝わってますよ」
「そう、よかったわ。それじゃリレーの選手を睦月光太郎君に戻してくれるわよね。
私は優しいから、今回だけは許してあげるわ」
先程までの怒りは鳴りを潜めたものの、こちらを徹底的に見下しながら、自分は優しいので許してあげると言ってきた。
それに対するアタシの答えは最初から決まっていた。
「リレーは最初の予定通りアタシが走ります。
別に票数を不正に操作したり、委員長の強権を振り飾りたりもしてませんし」
「なっ…ここまで言って、まだ自分の罪を認めないの!? やはり庶民をクラスのトップに立たせるべきではないわ! 私のような選ばれた名家や、睦月光太郎君がやるべきだったのよ!」
罪も何も最初から不正はなかったと言っているのに、目の前の五人組は信じられない。これだから庶民は…と騒ぎ立てる。
「そちらの用事が終わりましたね。これ以上ここに居るとリレーに間に合わなくなりそうなので、そろそろ戻ります」
「待ちなさい! 一年生だと思って優しくすれば調子に乗って! …このっ!」
背を向けて歩き出そうとしたアタシは突然左手で肩を掴まれ、そのままグイッと引っ張られて、リーダー格の少女と向かい合う。
「少し痛い思いをさせれば反省して態度も変わるでしょう。本当はこんなことはしたくないのですが、朝倉智子さん…全部貴女がいけないのよ」
そう言って上級生の少女は、右の手の平を開いたまま振り上げて、アタシの頬をめがけて勢いよく振り下ろした。
「…えっ? 受け止め…? えええっ!?」
ビンタが来るとわかっていれば今のアタシなら、相手に怪我をさせずに受け止めることが出来る。
目の前の彼女は驚いているが、リーダー格の少女も元々本気で叩くつもりはなかったので、動きも遅くて軌道も読みやすく、両手で受け止めるのは簡単だった。
しばらくの間五人は固まって動かなかったが、アタシがリーダー格の少女の手をそっと離すと、まるで恐怖から解放されたように、口元をガタガタと震わせながら脅しをかけてくる。
「こっ…こんなことしてタダで済むと思ってるの!
今回の件で私がパパに泣きつけば、貴女は次の日には転校させられるのよ!」
転校と聞いて一瞬だけ体を強張らせるが、よく考えれば今は謎の口座からの自動引き落としにより高額な学費も無料だが、それでもいつまでも支援はしてくれないだろう。何年か先に友達と疎遠になれば、打ち切られる可能性が高い。
ならばいっそ彼女の脅しを利用して、学費が安くて少し遠い公立の小学校に転校するのも悪くない。
自分なりに正しいことをした結果、理不尽な圧力を受けての転校なら、お父さんとお母さんも説得しやすいし、アタシの良心もそこまで傷まない。
「うん、転校も悪くないかも」
「はぁ!? あっ貴女! このままだと、本当に転校することになるのよ! 私は本気よ!」
伝家の宝刀である名家のパパに泣きつくという脅しを使っても、一向に動じないアタシに驚いて、思わず数歩後ずさりする上級生たち。
もし公立の小学校に転校すれば、こういったプライドばかり高い名家との面倒ごとも全て片付き、学園の廊下で刺されるデッドエンド回避にも繋がる。
まさにいい事ずくめのバラ色の未来を想像し始めたとき、焦ったような若い男性の声が辺りに響いた。
「朝倉! こんなところに居たのか! 探したぞ!」
「あっ、先生。アタシ、突然ですが明日から転校することになりました」
「ちょっと待て! 朝倉が転校するなんて聞いてないぞ!」
余程焦って探し回っていたのか、担任の先生は体中が汗ばんでおり呼吸も荒いが、アタシが見つかった瞬間は、明らかに安堵したような表情を浮かべていた。
しかしそれも転校発言により、たちまちのうちに驚愕へと変わる。
「大体朝倉がいなくなったら、卯月家、睦月家、弥生家の三人はどうするんだ! 俺一人ではどう考えても荷が重すぎるぞ!」
「あの三人とお友達になりたい人は大勢いますから心配いりませんよ。アタシのように仲のいい友達が出来れば心身共に落ち着いて、先生の負担も減るでしょう」
アタシの思考は完全に、転校後の公立の小学校は何処を選ぶかに切り替わっていたので、先生の訴えには悪いとは思いつつも、今は面倒な名家の付き合いから解放されるほうを選択したい。
「月の名家に早々心を許せる親友が出来てたまるか! それに俺も朝倉が居ないと駄目なんだ! 頼む! 行かないでくれ!」
「嫌ですよ。そうやってまた委員長のアタシに、自分の仕事を押しつける気でしょう?
取りあえず三人の新しいお友達なら、上級生の五人組とかどうですか? 少しお話した感じでは、月の名家にはそれなりに詳しいようですよ」
今の発言で先生はようやくアタシ以外に、近くに五人の少女がいることに気づいたようで、最初は無表情で彼女たちを観察し、次に張り付いたような優し気な笑みを浮かべ、アタシに視線を向ける。
「先生は今からこの五人と大切な話があるから、朝倉は席を外してくれないか?」
「えっ? でもさっきは上級生から用件はまだ終わってな…」
「そっちは俺が責任を持って処理しておく。
何よりもそろそろリレーが始まる。朝倉は急いで駆けつけないと、失格になってしまうぞ」
先生の言葉でアタシは自分がリレーの選手だったことを思い出した。ともかく明日の転校は確定したのだ。
今は一年一組の委員長と、そしてリレー走者としての責任を果たすべきだろう。上級生の用件を先生が片付けてくれるのならば、お言葉に甘えさせてもらうべきだ。
「それじゃ、後はよろしくお願いします」
「おう、こっちは任せておけ。朝倉、リレー頑張れよ」
「あっ…ちょ…待って、朝倉智子さん、お願い…助け…」
アタシは背を向けて走り出す前に一度だけ彼女たちのほうを振り返ったが、五人全員がこの世の終わりのような顔を浮かべる一方で。
後ろから様子を伺うだけでも異常な気迫を発散する、今まで見たこともない先生を見てしまったが、今はリレーに間に合わせることを優先するべきだと、強引に思考を切り替えたのだった。
体育祭の最終リレーはアタシが見つからなかったため、光太郎君が急きょ代理走者となったものの、アタシが戻ってくることを信じて順番を最後に変更してもらい、ギリギリまで待つことに決めた。
結果的にアタシはギリギリアウトで駆け込み、既に各チームは最後の一周の突入前だったが、何と光太郎君はバトンを受け取る寸前にコース外に出て、自分と最終走者を交代してしまった。
そんな突拍子もない行動に赤組の走者はバトンを渡しそこねて大混乱だったが、既にコースアウトしてしまった光太郎君を説得する時間も惜しいので、アタシは強引に最終走者としてコース内に飛び込んだ。
当然のように赤組は大きく出遅れてしまい、全員がアタシの前を走っていた。幸いなことに校舎裏からここまで軽く走ってきたので、ウォーミングアップは完了している。
アタシは野山で培った十年分の経験を加算して全力で走り抜くことで、最終走者である六年生をゴボウ抜きしていった。
最終的に二位と大きく差をつけてゴールテープを通過したアタシは、何とも劇的な逆転劇に選手や観客共にスタンディングオベーションの大興奮となり、その勢いは自分が一位のフラッグを手に持ったところで、リレーを観戦していた赤組だけでなく他の組にも問答無用で取り囲まれ、興奮が冷めるまで延々と胴上げされ続けることになってしまった。
中学生女子に近い体型でも思った以上に高く飛ぶものだと、知りたいとも思わなかったことを実体験で知ってしまったのだった。
途中で色々と予想外なことはあったものの、アタシの小学一年生の体育祭はこうして無事に終了した。
その後アタシは、週明けの月曜日に突然の転校話を期待して、ウキウキ気分で学園に登校したものの、夕方になっても何の連絡もなかった。
気になったアタシは担任の先生に体育祭の五人組のことで問い詰めると、自分ではなくあの時の上級生グループのほうが、事情は不明だが次の日には学園から転校させられたのだと告げられ、名家の面倒ごとが一気に解消されるバラ色の未来計画が、踏み出した一歩目で見事に転倒してしまい、愕然とした。
しかし切り替えの早いアタシは、やはり楽をすると失敗するもので急がば回れだ。
しばらくは最初の計画通りに、三人の成長を支えて、庶民の友達なんてあらゆる面で平凡だし貧乏でダサいよね。賢くて器量良しで金持ちの名家の友達が一番だと気づいたよ。智子ちゃんに感謝…という感じで、少しずつ疎遠になって角の立たない自然消滅を目指すべきだと、落ち込んだ気持ちをすぐに前向きに切り替えたのだった。




