7月 体育祭開催
時は流れて体育祭の日、場所は学園初等部の運動場では、早朝にもかかわらず既に大勢の人が集まっていた。
並びは学園の生徒が校舎側、家族や保護者が校庭側と半々分かれて向かい合って座っている感じだ。
白い防水布の屋根を軽量パイプで支える簡易テントの下で、一年一組の皆と一緒に座りながらお喋りしていると、学園指定の体操服と赤組の鉢巻を身につけた裕明君が、顔だけをこちらに向けてこれからのスケジュールを聞いてきた。
「智子は何の種目に出るんだったっけ?」
「んー…二百メートル走と最後のリレーだよ」
「俺は百メートル走だけだ。もっと出場したかったぜ」
赤組の選手名簿を片手に持って、間違ってはいけないので一つ一つ確認しながら答えると、裕明君の百メートル走もちゃんと合っていたので、自分の記憶も確かなようで安心する。
「一年生だけでも人数が多いから仕方ないよ。いくら初等部の体育祭でも、何日も続けてやるわけにはいかないし」
「やっぱりそうだよな。しかし智子はいいよな。二種目も出られて」
「アタシは一種目だけ出れれば十分なんだけどね」
本当に二種目も出たくはないのだ。しかし一年一組の中でもっとも運動が得意なのがアタシなので、全学年の代表が出場する最後のリレーは、なし崩し的に自分が出ることに満場一致で決定してしまった。
「アタシは月の三家の誰かが選ばれると思ってたんだけどね」
「他のクラスならまだしも、一組は智子を中心にまとまってるからな。俺以外の皆も、全員がお前が選ばれると確信してたぞ」
これが委員長補正というものだろう。でなければ体を動かすのが得意だからと、世界的な名家を差し置いて庶民のアタシが選ばれるわけがない。
さらには今回は三家の力がお互いを相殺し合ったために、おこぼれとして自分が選ばれたと…そうに違いない。
アタシは裕明君の言うことに現実逃避をしながらウンウンと頷いて、同じ赤組の選手を応援しようと運動場の方に視線を向ける。
「何を考えてるかは知らないが、智子が納得出来たのならいいか」
「あっ…そうだ。次は光太郎君と友梨奈ちゃんが走る番だから応援しないと」
二人三脚の選手として、睦月家と卯月家の美男美女の二人が走るので、生徒と保護者は否が応でも応援に熱が入る。
勝っても負けても対戦相手が可哀想になるが、アタシは同じ一組で、赤組でもあるので、二人を応援するちゃんとした理由がある。
「二人共、息ぴったりな走りだな」
「家の前の道でたくさん練習したからね。多分今なら初等部の上級生にも勝てるんじゃない?」
天才肌の二人なので、アタシが教えられることなんて、すぐになくなってしまった程だ。周囲を警戒していたボディガードの皆さんが苦労したかいはあったと信じたい。
「あの二人、やっぱり一位になったな。俺も負けてられないぜ」
「戻ってきたら、おめでとうって言ってあげないとね」
アタシはこれが弟子を送り出す師匠の心境なのかも…と感慨に耽っていると、裕明君の声で現実に引き戻され、二位と大差をつけた光太郎君と友梨奈ちゃんが見事一位でゴールインし、運動場には割れんばかりの歓声が響き渡った。
二人は満面の笑みで一位と描かれたフラッグを手に持ち、空いている手をこちらにブンブンと振っているので、アタシも軽く笑いながら手を振り返す。
「普通こういうのは両親に報告するものじゃない?」
「俺の家もそうだが、月の家の親族が子供の行事に顔を見せるのは稀だぞ。大抵は代理を立てて終わりだ」
何となく気になったので、裕明君の言葉の続きを黙って待つ。
「社交界に呼ばれない名家が顔をつなぐ絶好の機会だからな。子供の活躍を見るためだけに、そんな煩わしい他家の相手は嫌だろうさ」
何とも世知辛い現実を直視させられてしまったが、どう考えても小学一年生の思考ではない。目の前のアタシからどんどん吸収しているせいか、今では三人は中学生ぐらいの対応力を身につけているのを実感する。
それでも小学一年生らしく、内面はやはり親に甘えたいのだろうが。
「だが今回は仕事の都合がつかなかっただけだ。
三家全てが閉会式までには顔を出すらしいぜ。
親父も俺なんかに構ってる暇はないはずなのにな」
そう言葉を重ねる裕明君を見ていると、彼が心なしが嬉しそうに口元を緩めているのがわかる。やはり親が恋しい年頃なのだろう。
名家の家族関係が冷え切ってはいないようなので、小声でよかったねと祝福してあげると、その間に友梨奈ちゃんと光太郎君が一年一組のテントに戻ってきた。
「やりましたわ! 智子ちゃん!」
「僕たちの活躍、見ていてくれたかな?」
「うん、二人共格好よかったよ。ちゃんと練習の成果が出せたね。凄いよ」
興奮気味にまくし立てる二人は、一位を取れてよほど嬉しかったのだろう。話しながらも座っているアタシに対して、グイグイ距離を詰めてくる。
「智子ちゃんのおかげですわ!」
「本当にね。頑張って練習したかいがあったよ」
「うっ…うん、それよりも次は裕明君の番だから、そろそろ座って応援しないと」
二人に落ち着くように声をかけると、ようやく我に返ったらしく、少しだけ恥ずかしそうにアタシの隣にちょこんと座った。
「そろそろ俺は行くけど、応援頼むぜ!」
「うん、頑張ってきてね」
「絶対一位を取るんですわよ!」
「裕明、応援してるよ」
不敵な笑みを浮かべて百メートル走のスタートラインに向かう裕明君を見送ってから、アタシは先程興奮していた二人に改めて声をかけた。
「二人共、一位を取れて嬉しそうだったね」
「あっ…はい、一位は何度も取っていますわ。ですが、それで嬉しかったかと言うと…」
「僕もどんな種目でも、今までは全部一番だったけど、それが当たり前だったから嬉しくはなかったかな。今は智子ちゃんに全敗記録を更新してるけどね」
つまり今回はアタシが絡まなかったため、久しぶりの一位を取ることが出来て大興奮だったと。
「今回の一位は智子ちゃんや皆と一緒に勝ち取った、特別なモノですわ。なので、とても嬉しかったですの」
「僕もだよ。一緒に練習してくれた智子ちゃんに、こうして胸を張って報告出来たからね。こんなに嬉しいことはないよ」
友達のための特別な一位だと喜ぶ二人が、そこまでアタシを買ってくれるのは嬉しいが、何だか背中が痒くなってしまう。自分は人に褒められるような大した人間ではないのだ。
「あっ…アタシは何もしてないよ。二人の努力が実を結んだんだよ。だから、おめでとう」
「うふふっ、照れている智子ちゃんも可愛いですわね」
「ああもうっ! そろそろ裕明君が走るから応援しなきゃ!」
どうにも恥ずかしくなったため、ニヤニヤとこちらを見つめる二人を無視して強引に話題を切り替えると、ちょうど各選手が位置についてスタートする直前だった。
「そうだったね。裕明だけ除け者にするわけにはいかないよ」
「ええ、しっかり見届けますわよ」
どうやら庶民のアタシを無駄に褒め称えるよりも、二人は百メートル走の観戦に意識を移したようで、気づけば他の皆も息を飲んで静かに見守っていた。
それから十秒ほどで、スタートの合図が運動場に響き渡り、裕明君と他のクラスの選手がゴールを目指して直線コースを一斉に走り出した。
「予想はしていましたけど、圧勝ですわね」
「僕たち四人の中では、智子ちゃんの次に運動が得意だからね」
二位と大差をつけてあっという間にゴールした裕明君を見て二人は戸惑っているが、彼は得意気に一位のフラッグを手に持ってこちらに手を振っているので、アタシは笑顔で振り返してあげる。
「月の名家は天才揃いだからね。君たち二人も大概だったよ」
「えぇ…そっ、そんなの嘘ですわ」
「僕も、…ちょっと信じられないかも」
天才の二人は、自分たちの運動能力が既に初等部を軽く越えて、中等部レベルになっていることに気づいていないようだ。ここまでの成績を残しておいて、自分の能力が平凡だと過小評価するなんて、彼らの周りには余程とんでもない人物がいたのだろう。
「おっと、次はアタシの番だから、早めに行って準備してくるよ」
「行ってらっしゃいですわ」
「うん、頑張ってきてね」
裕明君が戻る前に軽く体をほぐしておこうと少し早く出発する。そのままコースから少し離れて準備運動を行っていると、それ程時間を置かずにアタシの番が来たので、スタートラインに歩いて行く。
観客の視線が自分と他の選手に集まっていることがわかる。そのまま静かに体を沈めながら合図を待つと、スターターピストルの号砲が周囲に響いた。
後は無我夢中で走るのみ、スピードを落とさずに直線を走りきり、カーブを勢いをそのままに曲がり、二度目の直線コースの先にある白いテープのゴールを目指す。
自分の前に、他の選手はいなかった。
「格好よかったですわよ!」
「一位おめでとう。凄かったよ!」
「やったな。智子なら一位を取ると信じてたぜ!」
一年一組のテントに戻ったアタシを三人が出迎えてくれた。それ以外にもクラスの全員に囲まれて、皆が興奮状態で一位おめでとうと声をかけてくるので、しばらくの間は全く身動きが取れなかった。
やがて午前中の競技が全て終わったので、これより昼の休憩に入り、時間になったら午後の競技を開始するという内容の、学園放送が流れたのだった。