7月 プール開きと七夕
今回の話の最後にかなり薄いですが鬱展開があります。苦手な方はご注意ください。もし駄目なら最後は読み飛ばしても大丈夫なはず…多分。
七月一日になった。学園初等部のプール開きは全国的にも少し遅く七月に入ってからだが、どうしても泳ぎたければ屋内プールは一年中開放されているので問題はない。
ちなみにアタシは川で足を滑らせて溺れかけたことはあるものの、実は前世も普通に泳げていた。
もちろん制服の下にスクール水着を着用するという失敗はちゃんと回避し、プール用品をまとめたビニールバッグも、忘れ物がないかとチェック済みだ。
当日の着替えは教室ではなく、屋外プールに男女別の更衣室があるので、そちらで着替えてからシャワーや消毒を行い、プールサイドに集合する。
すっかり夏の日差しに変わり、屋外のタイルが照りつけるような暑さを吸収している中、アタシは自分のブラウン色のボサ髪を学園指定の水泳帽の中に押し込みながら、飛び込み台の付近に一足先に集合している一年一組のクラスメイトに向かって、転ばないようにゆっくりと歩いて行く。
「おう、朝倉来たか。あとは…ふむ、どうやら全員揃ったようだな。今日は初日ということで準備運動が終わり次第、自由に泳いで構わん。
それではこれから準備運動を行うので、隣の生徒と両手がぶつからなくなるまで離れたた後、俺の体操に習って、念入りに体をほぐすように!」
逞しい体つきで競泳パンツを着用した担任の号令が響くと、一年一組の生徒たちは両手をピンと伸ばして広がり、言われた通りに準備運動を始める。
アタシも手や足を伸ばして近くの人に当たらないように、先生から少し離れた距離で立ち止まると、彼の動きを真似て柔軟体操を行い、全身を念入りにほぐす。
やがて体の隅々まで体がほぐれたことを確認すると、担任はプールに入ってよし。ただし走らずゆっくりと水に入るように! と許可を出すと、一組のアタシを除いた全生徒がプールに向かって歓声を上げて走り出し、何人かが勢いを緩めずにそのまま飛び込み、大きな水しぶきをあげる。
「こらっ! ゆっくり入るようにと言っただろう! 今回は初日だから許すが、次に同じことをしたら罰を与えるから、そのつもりでいるように!」
皆が我先にとプールに飛び込んでは好き勝手に泳ぎ回るなか、アタシはタイルの上を転ばないように慎重に歩いて、皆よりも遅れてプールへと向かう。
「ん? 朝倉は走らないのか。流石は委員長。生徒の模範だな。
それとも泳いでも大丈夫なのか? もし無理そうなら、参加せずに座って見学していてもいいぞ」
目の前の担任はこの間の社交界で、アタシが川で溺れたことを知っているので、そのトラウマでアタシが水を怖がっているのではと、心配してくれているのだろう。
「心配してくれてありがとうございます。でも、アタシは普通に泳げますよ。
走らないのは転んだら危ないからなのは勿論ですけど。
一番の理由はスクール水着を購入した頃よりも、色んな部分がきつくなってしまい、激しく体を動かすのが辛いからです」
小学一年生の平均サイズよりもかなり恵まれているのは勿論、購入時のサイズより一回り以上大きく育ってしまったので、全身を締めつけるタイプのスクール水着を着たまま激しい運動を行うと、体の色んな部分が擦れて、水泳が終わった後にヒリヒリして痛むのだ。
こんなことならプール開きの数日前に一度試着して確認すればよかったと、ファッションに無頓着な自分の性格に、今さらながらため息を吐く。
「おっ…おう、確かに…これは、あっいや! わっ…わかった。
サイズを二回り大きくしたスクール水着をこちらで注文しておく。遅くとも数日後には届くはずだ」
「お願いします。何分今の水着だと伸びをするのも辛くて」
どのぐらいキツイのか見せつけるように、頭の上で両手を組んで背を反らすように伸びをすると、先生は胸元の朝倉と書かれた名札を一瞬だけ凝視し、あからさまに狼狽した。
「十分にわかった! 朝倉! もう見せなくてもいい! あと今の上体反らしは他人の前ではやるなよ! 絶対やるなよ! フリじゃないからな!」
「はぁ…わかりました。わからないけどわかりました。では、アタシはそろそろ行きますね」
目の前の妙に顔を赤くし、手で顔を隠しながらもアタシを体をチラチラと覗き見ているが、この間の社交界では紳士だったし、アタシよりも可愛い子が大勢いる一年一組なので、まさか自分を相手に欲情はしないだろう。
気づけばプールを囲む金網の外の運動場では、長距離走の授業をしている他の学年の男子生徒の殆どが、目を皿のようにして前かがみになりながら自分を見ていた。
もしかしてキツすぎるスクール水着を着ているため、何処かが破れたのではと、あちこちを調べてみたが、どこにも破れは見つからずに一安心する。
やはり今回のことは全てアタシの自意識過剰だと納得させて、夏の暑い日差しから逃れるために、冷たいプールへの移動を再開する。
「ようやく来ましたわね。智子ちゃん、待ちくたびれましたわ」
「ごめんね。ちょっと水着がキツくて」
「そっ…そうですのね。相変わらず小学一年生とは思えない、抜群のプロポーションですわね」
一足先にプールに浮いている友梨奈ちゃんの言う通り、他の同年代よりもほんの少しだけ育ちが早い。
しかし中学生に近い体型なだけで、別にアイドルやモデルと同じ美形ではない。美容には全く気を使っておらず、よく食べ、よく寝て、よく学び、よく遊ぶ、ぐらいしか実践していないのだ。
なお成長が早いおかげでお母さんの料理を手伝う許可が出たり、うつ伏せになったお父さんの上に乗って腰を踏んだり、肩を揉むのも楽になっているので、メリットのほうが大きいと思っている。
「本当にどうすればそんなに大きくなりますの?」
「焦らなくても友梨奈もすぐに大きくなるから大丈夫だよ」
前世の友梨奈ちゃんもアタシが刺される頃には、身長だけでなくバストのサイズも自分に並ぶ大きさまで成長していた。
こちらの年齢よりは大きな二つの膨らみを、羨ましそうに見つめる彼女にそのことを教えて、少しだけ安心させてあげた。
「智子ちゃんが言うなら、きっとその通りなのですわよね」
「何だか楽しそうだな。二人で何やってるんだ?」
「智子ちゃん、友梨奈ちゃん、僕たちも混ぜてくれないかな」
裕明君と光太郎君が水をかき分けてゆっくり歩きながら、アタシと友梨奈ちゃんに話しかけてくる。
制服姿の月の三人は学園初等部の中でも輝いて見えたが、今日の三人は水泳帽と指定の水着だけなので、なおさら素材の良さが強調される。
「んー…別に何も? アタシは今来たところだし、…世間話?」
「水泳の授業中に世間話か? いや…智子らしいか?」
「そうだね。いつもの智子ちゃんだよ。しかし、…これは近くで見ると」
しかし目の前の二人だけでなく、クラスの男子の視線がアタシの膨らみかけに集中しているようで、どうにも居心地が悪い。平凡な素材で発育がいいだけの自分なんかの何がいいのか。
流石に至近距離でマジマジと観察されると恥ずかしくなり、思わず両手で胸を隠して水の中に一旦潜る。
「もうっ! 智子ちゃんに失礼だと思いませんの!」
「すっ…すまん! 智子!」
「ごっ、ごめんなさい!」
両手を広げてアタシの前に立ち塞がり皆の視線を遮り、大声で周囲の生徒を叱る友梨奈ちゃんに心の中で感謝しながら、今度は胸を隠すことなく、水面にゆっくり浮上する。
「ぷは…ありがとう友梨奈ちゃん。二人もそんなに気に病まなくてもいいよ」
「はぁ…今回は智子ちゃんが許してくれたからいいですが。
次にまた同じことをすれば、一番の友達のわたくし直々に、重い罰を与えますわよ!」
やたらとやる気になっている友梨奈ちゃんに、二人だけでなく周りの生徒たちもあからさまに視線をそらしたり、そそくさと離れていく。
どうやら好奇の視線にさらされることは、今回の水泳授業中はなくなったようだ。
「とっ、ところでだ。智子は泳げるのか?」
「そう、僕も気になってたんだ。だって智子ちゃんは川で…その」
「先生も気にしてたけど、川で溺れたけどあれは服が水を吸って動きにくかったのと、水の流れが早かっただけだから。アタシは普通に泳げるよ」
そう言ってアタシは泳げることを証明するため、クロールでプールの端まで泳いだ後に壁を蹴ってUターンし、再び三人の元に泳いで戻って来る。
するとさっきまで胸をガン見していたスケベ男子二名と、庇ってくれた友梨奈ちゃんだけでなく、近くで泳ぎを見ていた複数のクラスメイトからも拍手喝采が巻き起こる。
「素晴らしいですわ! 水泳の講師にも引けを取らない泳ぎの上手さでしたわよ!」
「そうだな。俺も泳ぎを習っているが、ここまで綺麗には泳げないぜ!」
「本当に凄いよ! でも、水泳なら智子ちゃんに教えられると思ってたのに。…これじゃ僕の立場が」
三者三様のべた褒めにアタシは今度は顔を真っ赤にして、再び水中に沈んでしまう。
アタシにとっては普通に泳いで戻ってきただけなのに、ここまでもてはやされると、どうにも落ち着かない。
それからしばらく沈んでいたものの、息が苦しくなったのでもう一度浮かび上がり、三人の友達の向かい合う。
「智子ちゃん、もしよかったらですが、わたくしに泳ぎを教えてくださらないかしら?」
「俺もいいか? 負けっぱなしは悔しいからな」
「僕もお願いするよ。ここまで来て、また大きく引き離されるなんて思わなかったからね」
そうは言うものの、アタシの泳ぎは十年の積み重ねがあるとは言っても、殆ど自己流なのだ。そんな自分がちゃんとした講師が指導している三人に、勝手に教えていいものか。
どうにも判断しにくくなったため、プールサイドで児童たちを見守っている担任を見つけると、すがるような視線を送り、ついでに軽く手招きを行う。
すると先生はすぐにプールに飛び込み、他の生徒をスイスイと躱しながら、真っ直ぐにアタシの目の前まで泳いで来てくれた。
「朝倉、何か問題か?」
「実はアタシに泳ぎを習いたいと言われまして。殆ど自己流のアタシが、ちゃんとした講師の付いている三人に勝手に教えていいものか。自分では判断がつかなくて」
勉強なら問題の解き方を教えればいいので、多少変則的でも解答が正しければそこまで大事にはならないが、水泳は講師によって教え方や泳ぎのフォームの違いなどで、後々大きな問題になるかも知れない。
そんなアタシの不安が伝わったのか、先生はしばらく思案した後、彼なりの妥協案を示してくれた。
「講師ごとに教え方の違いはある。しかし定石を踏まえれば、たった一度の指導だけなら大きな影響はない。
そこで今回は水泳上級講師の俺が朝倉に泳ぎを教えて、そんな彼女が模範になって三人に教える。…というのはどうだ?」
これはアタシを緩衝材として使う案だが、三人は先生に教わりたいわけではなく、友達のアタシと仲良く泳ぎ、楽しみながら教わりたいのだ。
ならば担任の言う通りにすれば、万事丸く収まるかもしれない。
「わかりました。そのプランでお願いします。三人もそれでいいよね?」
子供たちは何となく釈然としないものの、アタシが納得したならそれでいいかと、取りあえずは不承不承ながらも頷いてくれた。
三人にとっては友達同士の遊びのつもりだろうけど、そこに大人が加わるのでいい顔はしないが、後々のトラブルを避けるためなので納得してもらいたい。
この場はアタシが三人を相手にどれだけ熱心に教えられるかで、月の名家の満足度が変わってきそうだ。
ここはいつも通りのぶっつけ本番でやるしかないと、気持ちを切り替えるのだが…。
「朝倉、体が固いぞ。バタ足はもっと水しぶきを押さえて、滑らかにだ」
「おい先生、智子の何処を触ってるんだよ!」
先生に先導されながら、アタシはバタ足の練習をしている。その隣にビート板を持って水面をゆっくり泳ぐ三人が続くが、この指導はなかなかに波乱万丈だった。
「何処って、普通に手を握ってるだけだろう? 羨ましかったら弥生も、朝倉に泳ぎを教えられるぐらい上手くなるんだな」
「先生…からかうのは止めてください。
光太郎君も友梨奈ちゃんも、前よりも息継ぎが上手くなってるよ。裕明君はまだ全身に力が入り過ぎてるけど、少しずつ良くなってるよ」
並列思考なんて出来ないが、あっちもこっちもとバタバタしながらも、アタシは何とか皆の指導を頑張っていた。
頻繁に挟まる先生の冗談に反応する余裕がないぐらい、忙しく立ち回っている。
「しかし朝倉はフォームが美しいだけでなく、二の腕や全身も柔らかくてプニプニだな。
それに肌の色艶と体のバランスもいい。将来はきっと美人に…いや、今でも並外れた美人だったな。
もし行き遅れていたら、将来は先生が貰ってもいいか?」
「まだ小学一年生ですからね。でもすぐに肥え太ってニキビやひび割れだらけになりますから、イケメン先生の御眼鏡には適いませんよ。
あっ友梨奈ちゃん、急がなくてもいいから息継ぎは一回ずつ、しっかりね」
そんな調子で、隙あらば熱心に口説いてくるのだ。こんな平凡な小学一年生の何処がいいのか知らないが、きっと逐一真面目に反応するアタシが面白可笑しいのだろう。
自分は冗談だとわかっているから受け流せるが、普段のだらしない服装と違い、逞しい体つきのイケメン教師に口説かれたら、女子生徒や大人の女性の十中八九が勘違いしてしまう。
「口説くのは構いませんけど、アタシ以外には言わないほうがいいですよ。大抵の女性は冗談だと気づかずに、本気で熱を上げますから」
「その点は大丈夫だ。俺は朝倉以外を本気で狙うつもりはないからな」
「はぁ…そうですか。なら、せいぜい振り向いてもらえるように頑張ってください」
「ああ、朝倉がその気になるまで気長に頑張らせてもらう」
始終こんな感じの軽口混じりで上機嫌だった担任の先生とは違い、アタシたち四人は泳ぎの技術は上がったものの、何ともスッキリしない気持ちと疲労を抱えたまま、初日の水泳の授業を終えたのだった。
七月七日の夜、アタシは一人で朝倉家の居間の窓から空を見上げていた。
今夜は七夕だが、あいにくの曇り空で星空は見えない。しかし彗星の接近や月食等のイベンドには、たとえ見えなくても空を見上げてしまうのだ。
そんな珍しく一人でボーッとしているアタシに、お母さんが麦茶のコップを片手に声をかけてきた。
「今日は曇り空で残念ね。でも智子が信じていれば、お願いはきっと叶うわ」
「うん、ありがとうお母さん。アタシもそう信じてるよ」
庭の隅には近所の山から伐ってきた若い竹が簡単に縄で固定されており、今は笹の葉と願い事の書かれた短冊が、夜の涼しい風に吹かれてサラサラと揺れていた。
アタシはお母さんから麦茶を受け取ってお礼を言うと、食後のコーヒーを飲んでいたお父さんが、何か気になったのか唐突に質問してきた。
「そう言えば、智子はどんな願い事をしたんだ?」
「アタシ? アタシは、家族とずっと仲良く一緒にいられますように…だよ」
前世では新作のゲームソフトが欲しいとか、お金持ちになりたい等と願っていたような気がするが、今思う馬鹿らしい願い事をしたものだと呆れてしまう。
しかし、もし前世のアタシが家族と一緒にいたいと望んだ所で…そこまで考えて、心の奥から黒くてモヤモヤしたものが吹き出るのを感じて、強引に話題を変える。
「お父さんとお母さんは、何をお願いしたの?」
「そうだな。智子も家族も皆が健康でいられますように…かな」
「私はこんな平和で穏やかな時間が、ずっと続きますように…ね」
両親の言葉を聞いて、アタシは無言で窓際から離れて二人にトテトテと近寄って行き、ゆっくりと両手を広げて抱きついた。
「あらあら、久しぶりに甘えん坊の智子に戻ったわね」
「そうだな。ここ最近はずっと気を張っていたようだが、智子はまだ小学一年生なんだ。もっと甘えていいんだぞ」
「んー…わかったよ。お父さん、お母さん…ありがとう」
そのまましばらくの間、二人にギュッとくっついていると、胸の奥の気持ちの悪いモヤモヤは段々と落ち着いてきた。
最近はどんどん過去のアタシと今のアタシのズレが大きくなってきたようで、昔のことを思い出すたびに辛い記憶が溢れて、今の自分を黒く塗り潰そうとしてくる。
しかし今はお父さんとお母さんにたくさん甘えて、重い蓋をしてもらった。アタシが辛い記憶を思い出さなければ大丈夫だ。しかしいつかは過去の自分と向き合わなければいけない。
それまでに今のアタシが、過去の重圧で壊れない程の強い心に育てばいい。そのためには、もう辛い悪夢は終わり、これからは小学一年生として新しい人生を歩いて行くのだと、アタシ自身が胸を張っていい切れる何かを見つける必要がある。
「そう言えば智子、今日はお友達は来ないのかしら?」
「んー…名家の集まりで、七夕の会があるから来ないよ。本当はアタシも誘われたんだけど、断固として辞退させてもらったよ。
前の社交界で色々やらかしたから招待状も自重したらしいし、今回は久しぶりに家族水入らずでゆっくり出来るよ」
お母さんが月の名家の話題を出した瞬間、アタシは一気に現実に引き戻された。友梨奈ちゃん、光太郎君、裕明君がいる限り、過去の自分と向き合う暇もないことが、たった今証明されてしまった。
普段は面倒事ばかり運んでくる三人組だが、何故か今のアタシにはとても頼もしく感じたのだった。




