6月 波乱の社交界
一週間後の社交界の日、早朝の朝倉家のベッドでまどろんでいたアタシを、卯月おばさんが直接自室に乗り込んで来て叩き起こし、半ば誘拐するように無理やり卯月家のリムジンに乗せ、会場となっている高級ホテルの前で降ろされると、今度は下の階の一部屋を貸し切って専門のスタッフを用意し、後は任せるわねと風のように去っていった。
その道のプロが言うには、アタシはとんでもない逸材でコーディネートのやりがいがあって燃えるらしい。
しかし自分としてはそんなことはどうでもいいので、早く着付けが終わりますようにとしか考えてなかったので、色々聞かれたものの、ほぼ全てを専門家にお任せしますと、適当にやり過ごしていた。
正直な所、前世も含めてファッションには一度もこだわったことがなかったので、何を言われたところで、アタシにとっては未知の言語にしか聞こえなかった。
唯一自分がわかる範囲で答えられたのは、色に関しての選択肢だけだった。深く考えずに薄いピンクを選んだら、流石お嬢ちゃんはよくわかっていますねと褒められた。
そのような過程を得て、普段の野暮ったいアタシではなく、専門のスタッフにコーディネートされた、社交界用に着飾った淑女のアタシが完成したのだった。
薄いピンク色のフリフリドレスと、これまた薄ピンクのリボンでポニーテールまでドレスの袖と同じでフリフリと揺らす、小学一年生のフルアーマー化したアタシである。
可愛いか可愛くないかと言われると、自分ではよくわからない。鏡を見て感じるのは、あれ? いつもと何か違う? …それだけであった。
それはともかくとして、着付けが終わったのなら早くパーティー会場に行くべきだろう。
三人は既に入場したらしく、迎えに来た若い男性の使用人さんにアタシの着替えが終わったことを説明し、その人の案内されるがままに上の階の社交界会場に、遅ればせながら入場することになったのだ。
エレベーターで移動した社交界の大ホールは、既に大勢の人で賑わっていた。多分全員が名家や著名人ばかりなのだろうなと、遠目でも何となくだけど雰囲気で察することが出来る。
使用人さんの案内に従い、入り口の入場ゲートスタッフの前で一度止まり、招待状を三枚とも渡すと、ギョッとした表情をされ、アタシの顔をマジマジと見て、今度は先程とは違う驚きで固まってしまった。
数秒ほどそのままだったがやがて正気を取り戻したのか。慌てて会場内に、卯月家当主様、睦月家当主様、弥生家当主様のお客様が到着されました! と宣言して、ようやくアタシの入場が許可される。
しかし堂々と宣言したことで、アタシは当然のように会場内の好奇の視線にさらされ、思わずうえぇ…っと声を漏らして尻込みする。
もう会場入りはしたし帰ってもいいよね…と、一歩後退すると、何故か使用人さんがアタシの前に出て小声で囁きながら、会場内の視線から隠してくれた。
「朝倉、まだ帰るには早いぞ」
「んー…あれ? もしかして、担任の先生?」
いつものだらしない服装ではなく、無精髭もなくなっているし、黒の紳士服もピシッと着こなし、髪型もオールバックに整えられており、教室でよく聞く気安い口調以外は、完全に別人にしか見えない。
「ようやく気づいたのか。相変わらず鋭いのか鈍いのかわからんな」
「いやだって…先生は普段のだらしなファッションがね? でもまあ見た目だけなら、格好いいんじゃないですか?」
「みっ見た目だけ? これっぽっちも嬉しくないんだが!
まっ…まあいい。とにかく堂々と帰りたければ、招待状の送り主に挨拶を終わらせることだ」
確かにアタシを招待した主催者に顔を見せずに帰ったとなれば、失礼に思われるだろう。
最低限の筋を通す必要があるのわかる。ただし自分の場合は、その挨拶の相手が三人もいるのが問題なのだ。
「幸いと言っていいのかはわからんが、会場の三ヶ所の人集りに主催者がいると見て間違いないだろう。挨拶の順番はお前に任せるが、まずは俺が先に行って誰か調べて…」
「じゃあ近い順でお願いします」
順番をアタシに任せるのなら、きっと誰から挨拶しても問題はないのだろう。
だったら頭の悪い自分が無駄に悩むよりも、適当に決めてパパっと終わらせるに限る。その分だけ社交界という苦行から解放される時間が早くなるのだ。
「はぁ…わかった。何ともお前らしい決め方だな」
「面倒事はさっさと終わらせたいですし」
「月の名家と顔を繋ぎたい相手がどれだけいると…いや、もういい。
俺も何だか早く終わらせて、気楽な教員生活に戻りたくなってきた」
先生は諦めたように息を吐き、続いてはぐれないようにとアタシの手を取ると自分と歩調を合わせ、人集りの隙間を縫うように中心へと近づいていく。
その途中でアタシは、不意打ち気味に人影から急に伸びてきた、小さな足を慌てて避けようとしてバランスを崩し、先生の手から離れて盛大にすっ転んでしまう。
「ぶべらっ!?」
「すっ…すまん! 怪我はないか!」
社交界の会場は高級感溢れるカーペットが敷き詰められていたため、転んで膝を擦りむいたり、薄いピンク色のフリフリドレスが破れたりということはなかったのは幸いだった。
取りあえずドレス代を全額弁償しなくて済んだことに、アタシはほっと胸をなでおろして、再び先生の手を取って立ち上がると、自分でポンポンと両手で埃を払う。
「木の上から落っこちたり、川魚を釣ってる最中に足を滑らせたときと比べれば、全然大したことありません」
木から落ちたときは全身打撲で済んだが、川で溺れかけたときは正直死ぬかと思った。
それ以外にも最近は出来なくなったが、昔から暇さえあれば野山を駆け回っていたため、生傷は絶えなかったのだ。そんな平然としたアタシの態度に、先生は呆れたような顔をして、冗談交じりに声をかけてくる。
「淑女は木登りも魚釣りもしないぞ。しかし釣りか…もう何年も行ってないな。なあ、近くにいい釣り場を知らないか?」
「だったら少し山の奥に入るんですけど、キャンプ場から近い場所に…」
「ちょっと! さっきから私を無視しないでよ! 何で名家でもない庶民が光太郎の隣に居るのよ!」
挨拶に向かうのを止めて、アタシと先生が釣り談義を始めそうになったときに、足をわざと引っ掛けてきた、同い年ぐらいで金色の髪のフランス人形のような可愛らしい女の子が、怒ったように口を挟んできた。
いつの間にかアタシと先生、そして目の前の女の子を中心として人集りが割れていることに気づく。大声を出したので当然の主催者の耳にも入ることになる。
「これは何の騒ぎだい?」
子供サイズの紳士服を着こなしている光太郎君と、まるで王女様のような美人の睦月おばさん。そしてたった今声を出して、数歩前に出ている黒髪で柔和な笑みを浮かべて周囲に視線を送る凛々しい王様が、きっと睦月家の主催者なのだろう。
「もう一度聞きたいのだが、これは何の騒ぎだい?」
「睦月家の当主様の手を煩わせる程のことではありません。社交界の会場で、自分が恥ずかしくも足を滑らせて横転しただけです」
重苦しい沈黙がジワジワと広がるだけで、誰も答えようとはしなかったので、アタシが口を開くと、睦月おじさんは驚いたように目を見開いて、自分から視線を外さずに何故かじっと観察してくる。
上から下まで品定めされているようで落ち着かずに、アタシはこの場から逃れ、そしてさっさと帰りたい一心で、なるべく丁寧な言葉で続きを話す。
「幸いなことに体に怪我はありませんが、しかしせっかくいただいたドレスを汚してしまいました。
自分なりの責任の取り方を考えた結果、これ以上のお見苦しい姿を晒すのは、招待状の送り主様にも大変失礼にあたると愚行し、誠に勝手ながら社交界を辞退させていただきます。
誘ってくださった招待状の送り主様と他のお友達にも、アタシがこのように謝罪していたとお伝えください」
いささか責任が重すぎる気がするが、面倒事から遠ざかるためには多少強引でも手段を選んではいられない。せっかくの逃げ出すチャンスなので全速力で逃亡を図る。
誘ってくれた人やドレスを汚してしまったことに責任を感じているのは事実なので、全てが本当のことで嘘は一つも言ってない。
アタシは事の発端である足を引っ掛けてくれた、名前も知らない女の子に心の中で感謝しながら、ドレスのフリフリスカートの袖を掴み、優雅に一礼を終わらせる。
そしていよいよ社交界を後にしようと、睦月おじさんから背を向け…られなかった。
「君のドレスの代えなら、今すぐ睦月家が用意しよう。卯月家よりも素晴らしい物をね」
「いえ、お気持ちだけで結構です」
今のアタシは右手は睦月おじさんにガッチリ掴まれており、逃げるに逃げられなくなってしまっていた。
いくら自分が野山を走り回ってたくましく育っていても、大人と子供の差を覆せるほどではない。
「何より転んで何処か痛めたかもしれない。怪我の治療は必要だろう?」
「この程度は怪我のうちにも入らないので。木から落ちても普通に動き回れるぐらい頑丈に育ててもらいましたので」
何とか拘束を解こうと何度か引っ張ってみたものの、表向きはにこやかな微笑みを崩さない睦月おじさんは微動だにせず、握った手を離そうとはしない。
「えっ? 木から落ちた? 君が?」
「はい。昔から何度も落ちてますが大丈夫です。この通り今もピンピンしています」
アタシの返答に、睦月おじさんの張り付いたような笑みが僅かに変化した気がするが、それでも自由になれない。
それどころか、ますます興味を持ったようで手の握りが強くなってしまう。
「ちなみに、木登り以外には普段どんな遊びを?」
「両親の釣具を借りての魚釣り、虫取り、野山の探検、自転車での遠乗り、川で泳いだりでしょうか。毎回生傷が絶えませんが。
体を動かさない遊びですと、小説、漫画、アニメ、特撮、最近になって携帯ゲーム機を買ってもらいました。
それと遊びかどうかはわかりませんが、駄菓子屋とB級グルメ巡りも楽しいです」
睦月おじさんの顔が微笑ではなく、明らかに口元が緩んでいる。
そして周囲を取り囲んでいる人たちから、アタシと両親を馬鹿にするようなヒソヒソ話が聞こえてくる。
「ぷっ…あははっ、やっぱり君は面白い子だね!」
「そうでしょうね。庶民のアタシが社交界なんかに来ても、今回のように馬鹿にされるのがオチです。
それよりもそろそろ手が痛いので、いい加減に離してもらえませんか?」
流石に苛ついてきたので少し強めに発言すると。流石に悪いと感じたのか、睦月おじさんはアタシを掴んでいた手をようやく離してくれた。
「あー…その、やっぱり傷ついたかい?」
「別に傷ついてはいません。アタシが上流階級の方々に馬鹿にされるのは慣れてますし。
ただ、育ててくれた両親まで悪く言われるのは、流石に腹に据えかねます」
前世でもそういった罵りは受けてきた。両親が悪く言われることもあったが、あの時は離婚してお酒に逃げていたので、世間的に見れば仕方ないと受け入れることが出来た。
それでも、小学一年生の今のアタシが大好きな両親を一方的に馬鹿にされるのは、到底看過できるものではなかった。
「君は家柄ではなく、家族のために怒れる子なんだね」
「よくわかりませんけど、アタシはお父さんとお母さんは大好きですよ?」
恥も外聞もなくサラッと言い切ると、睦月おじさんが暖かな微笑みでこちらをじっと見つめるが、アタシにはもう社交界に留まる理由がなかった。
怒涛の展開に付いていけないのか呆然とする先生の手を引っ張って、強引に意識を戻すと、もう一度だけ当主様にお別れの挨拶を行う。
「長々とご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「ああ、こちらこそすまなかったね。今度失礼をしてしまった埋め合わせを…」
「お気持ちだけで結構ですので。それでは会場の皆様方、ご機嫌よう」
冗談ではなく本当に気持ちだけで十分なのだ。月の名家からどれだけ素晴らしい贈り物を貰っても、朝倉家の両親の胃に穴を開けるだけなのだから。
そして行きとは逆に今度はアタシが先生の手を引いて、パーティー会場を逃げるように後にしたのだった。
ちなみにドレスセットはクリーニングに出した後、勉強会で友梨奈ちゃんに丁寧にお返しした。
それはもう智子ちゃんの物になったので返さなくてもいいと言われたけど、自分には今後一切着る予定がないので強引に押し付けた。
そうしたら、ではわたくしの物ですのでクリーニング代もわたくしが払いますねと言われ、次の日に本当に全額返金された。
前世では悪役令嬢だったとは思えない程の、完璧な淑女っぷりを見せつけられることにった。
光太郎くんは睦月おじさんを相手に、アタシが一歩も引かずに会話のドッジボールをしている姿を見て、凄く綺麗で格好よかったと興奮気味に語る。
しかし他の二人は社交界の会場で、ピンクのドレス姿のアタシに会えなかったので、とても残念だったと文句を口に出すと、何やら薄ピンクのフリフリドレスを着た謎の美少女が、睦月家の当主とやり合っている動画やら写真やらが大量に出回っているらしく、友梨奈ちゃんと裕明君はそれを見て可愛い!格好いい!と、やたらと囃し立ててきた。
睦月家の当主が庶民の小学一年生に頭を下げて謝罪するのは、どう考えても名家の恥になるので、権力を使って全てを握り潰すのではと思ったのだが、何と睦月家だけでなく、卯月家と弥生家も満場一致で許可を出しており、現在の再生数は億越えの大人気公式動画になっているらしい。これは絶対工作している。でなければこの再生数は異常である。
アタシとしては社交界の会場だけでなく、ネット上の見知らぬ人に注目されるのは恥ずかしいので即刻削除してもらいたいのだが、名家が許可しているのならば庶民の自分は何も言えなくないのが悲しい所だ。
しかし両親が、パーティードレス姿のアタシの動画を見て、智子は可愛い。ドレスが似合ってる。と褒めてくれたのは、とても嬉しかった。
ただし関係者以外には謎の少女の正体は秘密にするようにと、月の名家がそちらの方面で圧力をかけてきたのは意外だった。
そして身なりについて自分が見る限り、いつもとそこまで変わらないと思うのだが、両親や他人から見ると違うのだろうかとアレコレ悩んだものの、どれだけ真剣に考えても結局わからなかった。
ただし、アタシにファッションの才能が皆無なことだけは、身を持って理解したのだった。