5月 何気ない日常
アタシが学園に入学して一ヶ月が過ぎた。これまで平穏とはとても言えず、学園中を毎日忙しく駆け回る羽目になっていた。
ひょっとしたら前世の末期よりもハードかもしれないが、幸いなことに小学一年生の若い体は回復速度も成長速度も早いため、嬉しくないがそんな過酷な環境に適応していくのが、身を持って実感出来た。
そしていつもと同じ昼休み、学園では昼は学食か持ち込みかを自由に選べるので、アタシは家から持ってきたお手製のお弁当を机の上に広げると、いつもの三人が机を寄せて楽しそうに話しかけてくる。
「それが今日のお弁当ですの?」
「うん、昨日の夜の残りに、ちょっとだけ具材を足したよ」
小さなお弁当箱を開けると、ロールキャベツ、芋の煮っころがし、コンニャクの甘辛焼き、ケチャップを絡めたスパゲッティ、鰹節とジャコの炙りふりかけと春野菜のサラダ等、一般家庭の料理感満載の素朴な具材が顔を見せる。
「なかなか美味そうだな。俺の弁当と交換しようぜ」
「僕も食べてみたいな。智子ちゃん、一切れいいかな?」
声をかけてきた三人を見ると、友梨奈ちゃんはアタシと同じで、左右の手のひらを合わせたぐらいのコンパクトサイズのお弁当箱に、和洋のバランスがいい野菜料理を中心とした具材が、彩り豊かに詰まっている。肉は殆ど入っていないようで、ウサギさんのリンゴ等の果物も添えられている。
裕明君はお肉料理を中心とした汁の染みた肉じゃがや生姜焼きの和風のお弁当で、野菜は肉と一緒の野菜炒めとして添えられていた。
光太郎君は洋風のお弁当で、ミニオムレツと季節のサラダ、シャケのムニエル、カニグラタン等の、手間暇かかった一品料理が所狭しと敷き詰められていた。そして男子二名のお弁当箱は、アタシたち女子の二倍近くの大きさがある。
「駄目。オカズのレートが違い過ぎるよ」
「何だそりゃ?」
「こっちのお弁当は残り物が中心だけど、三人の物の全てが、一流の料理人が作った高級品ってことだよ」
見た目も多少の揺れでは崩れないように綺麗に整えられていることから、お弁当一つ作るのにも、物凄く気を使っていることがわかる。お店で変えば一つ数千円はくだらないだろう。
「でも僕は、智子ちゃんのお弁当を食べてみたいな」
「いやいや、だから駄目だってば。お母さんとアタシが作ったお弁当じゃ、味付けやら何やらが違い過ぎるよ」
「ええっ! そのお弁当は、智子ちゃんが作りましたの?」
三人は驚いたような顔をしてアタシに問い詰めてくるが、正確にはお母さんが殆ど作って、アタシは少し手伝っただけだ。
いくら前世の料理技術が上乗せされていても、小学一年生が一人で調理場に立つのはまだ早いと、お母さんの目がある所でしか料理を許してもらえないのだ。
「簡単な物だけね。まだスパゲッティの味付けや、サラダぐらいしか任せてらえないから」
「それでも凄いですわ。わたくしでは調理場に立つことさえ出来ませんもの」
「友梨奈ちゃんに万が一があったら困るし、料理のプロがいるなら、そっちに任せたほうが安全で確実だから仕方ないよ」
ガッカリしている友梨奈ちゃんは、鶴屋の味が忘れられずに料理人にお好み焼きをリクエストした。
しかしアタシが焼いた物とは違って、高級素材を惜しみなく使った完璧なお好み焼きが食卓に並び、大層複雑な顔をしながら美味しくいただいたが、料理人たちはとても困惑していたらしい。
「睦月家でもお好み焼きを食べたいって言ったけど、智子ちゃんが焼いてくれたのとは、全然違ったよ」
「アタシは素人だからね。プロの料理人と比べられても困るよ」
「そういう意味じゃないんだけど、いや…そうなのかな? うーん」
光太郎君が何やら考え込んでいる間にも、アタシは小さなお弁当箱から具材を箸で摘んでは、口の中でよく噛んでは飲み込んでいく。
オカズが残りわずかとなったところで、裕明君が再び声をかけてきた。
「…やっぱり一口食べたいな」
「そんなに欲しいの? んー…はい」
物欲しそうにアタシが食べている姿を眺める裕明君に、箸を置いて、具材が残り数切れしか残っていないお弁当箱を、そっと彼の机に乗せる。
「いいのか? でもさっきは駄目だって…」
「アレは交換するのがお互いに釣り合わなかっただけで、アタシからあげるなら問題ないよ。
でもまあそうだね。それじゃ気が済まないと言うなら、貸し一つね」
ロールキャベツが一つとケチャップスパゲッティがちょびっと、後は芋煮の小さいのが一個だけ残ったお弁当だ。この程度は貸しにもならない。
「ああわかった。この借りは必ず返させてもらう」
「ちょっと、ずるいですわよ! わたくしも食べたいですわ!」
「そうだよ裕明! 僕だって…ああっ!」
友梨奈ちゃんと光太郎君が抗議の声をあげながら箸を伸ばしてくるが、裕明君は取られる前にと、アタシのお弁当箱を口元まで持っていき、一気に傾けると残りのオカズを全て一口で食べてしまった。
「ごちそうさま! 美味しかったぜ!」
「いえいえ、お粗末さまでした」
モグモグと口を動かしながら満足そうに笑う裕明君とは真逆に、食べられなかった二人はしばらくの間、とても残念そうな表情を浮かべた後、仕方なく自分のお弁当をチマチマと食べ始めるのだった。
昼食を食べ終わり午後の授業を開始すると、少し前に受けた総合テストの結果が出たらしく、教卓で担任が出席番号順に名前を読んでは、一人ずつ前に出て答案用紙を受け取りに行く。
まだ初等部なので、どれだけ点数が悪くても単位を落とすことはないが、それが親に伝わればどうなるかは容易に想像できる。
アタシはドキドキしながら自分の順番を待つが、名字が朝倉のために、あまりに早く呼ばれたので心構えも十分に出来ず、緊張しながら答案用紙を受け取りに、教卓までゆっくりと歩いて行く。
「よく頑張ったな。今回の実力テストで全教科が満点なのは、一年生では朝倉だけだ」
「えっ? あっ…ありがとうございます?」
予習復習は手を抜かずに毎日行っていたが、前世では全教科が平均点ギリギリだったアタシが、小学一年生のテストだろうと満点を取れるとは思わなかった。
そのために、口を半開きにしたまま気の抜けた返事を返してしまう。
「どうした? まさか全く勉強してなかったわけじゃないんだろう?」
「…勉強? え…えっと、今は初等部の問題集がようやく終わって、昨日中等部に入ったところです」
担任の先生が勉強について聞いてきたので、よく考えもせずに頭に浮かんだことをそのまま答える。
最初は頭の悪いアタシでも、初等部なんて勉強しなくても楽勝だろうと高をくくっていたが、予想以上に難問だったため、中等部に入るまで一ヶ月もかかってしまった。
前世の知識があっても平凡以下のアタシが、手を抜けるはずがなかったのだ。
なので今回のテストも赤点は確実に回避できるだろうけど、全教科で満点が取れるとは微塵も考えていなかった。
「ちょっと待て、朝倉。初等部だけでなく、中等部の勉強もしてるのか?」
「はい、お小遣いで中等部の問題集を買って、おかげで来月分も前借りしないとお金が足りな……ああっ! すっすみません! 今のは聞かなかったことに!」
いくら頭の悪いアタシでも、今のは完全にマズイほうに口を滑らせたと理解出来た。
アタシはこれ以上はこの場にいられないとばかりに、担任から急いで答案用紙を引っ掴むと、逃げるように自分の席へと走る。
背後からお前は何処を目指してるんだ…と先生の呟きが聞こえたが、そちらは一切無視する。
前世では苦労の連続で家族にも迷惑をかけてしまった。あの時もっと頑張っておけばと、何度後悔したかわからない。
なので小学一年生から出来ることをやっておかないと、時間が勿体ないと感じるのだ。
それでも手を抜くときはちゃんとあり、家族触れ合いで小学一年生らしく甘えてリラックスしてるので、ストレスをいたずらに溜め込むことはない。
「やっぱり智子ちゃんは凄いですわ。わたくしも負けていられませんわね」
席に戻ったアタシに、友梨奈ちゃんが憧れの眼差しを向けながら感嘆の声をかけてくるが、さっきの会話はやっぱり聞かれてたんだと、恥ずかしさのあまり机に突っ伏してしまう。
「別にそこまで焦る必要はないよ。アタシは皆と違って頭よくないから、何度も繰り返し勉強しないとまともに覚えられないんだよ。
だから予習と復習が必要になるし、満点が取れるのも最初だけだからね」
友梨奈ちゃん、光太郎君、裕明君の三人は高校生に上がりテストの結果が張り出された特、毎回上位に記載されていたことを思い出す。
今回は小学一年生にもかかわらず、アタシ一人だけ猛勉強する羽目になったことに、友達としては何とも情けなく感じてしまう。
「そうだね。僕も睦月家の名に恥じないように、智子ちゃんを見習うよ」
「ああ、俺もだ。負けっぱなしは悔しいからな。次のテストは勝たせてもらうぜ」
男子組も闘志を燃やしてこちらを見つめるので、アタシは向きだけ変えて、二人ならきっとすぐ追い抜けると思うよー…と生返事を返し、再び顔を突っ伏す。
名家の三人が学園でトップを取る頃には、何の取り柄も家柄も持たない一般人のアタシはすぐに埋没するだろう。
そうなれば月の家とも徐々に疎遠になり、友達も自然消滅、恨みを買いにくくなり、デッドエンドからも遠ざかる。
ならば三人の成長を促すためにも、良いライバル関係になるのもありだろう。元々思い切りはよくて中途半端に手加減なんて出来ない性格だ。アタシに出来ることと言えば、ただただ真っ直ぐにぶつかっていくことぐらいだ。
「応援するから、無理しない程度に頑張って。勉強でわからないことがあれば、分かる範囲で教えてあげるから」
一瞬だけ顔を上げてそれだけを口に出すと、三人が嬉しそうに顔を綻ばせたことがわかった。
アタシはこれで今回の自分の役目は全て終わったとばかりに、再び机に突っ伏した。
とにかく今は、自分一人だけがこっそり勉強していたことを友達に知られたのが、妙に恥ずかしく感じたのだった。