第三章 12 【サイカイ】-2
「…う、ん?」
ゆっくりとまどろむ思考から少女は少しずつ覚醒していく。身体を包むは鈍重な、まるで地面に縫い付けるかのような全身の重みは苦ではなく、むしろ清々しい晴れ晴れとした疲れ。
「あ…」
眩しくも暖かな陽光が窓からこもれび、熱を帯びた丁度良い風が白いカーテン揺らす。そうして、少女を覆っていた闇は事実、かき消されて。
光を宿したその眼には涙がいっぱい溢れてしまい、まっさらシーツが濡れていく。何故かは分かるが理解が追いつけない。
「ん、起きたか」
先程まで身体を預けていたベットから上半身を起こした先、目の前にはあの優しい温もりの声音を掛けてくれた彼の姿が見えた。金銀細工の本を何処かにしまって、こちらに彼は目を合わせる。
その姿、一生忘れることないだろう。
初めて出会った…もとい、初めて目を合わせた彼の瞳は紅色で美しくて宝石のように。はっきりとした色の黒髪に加えて、纏う外套は“白銀”とも呼べる存在感を放っている。
顔立ちも整っており、まるで…そう。彼の雰囲気を言葉で表すなら皇の様な―――――、
「おーい、大丈夫か…?」
「あ」
綺麗だった見惚れていた、と言える筈もなく。
首を傾げながら自身の顔を覗く彼から逃げるかの様に、少女は顔を真っ赤にさせて涙を拭い心を落ち着かせる。
後、耳まで響く心臓の音が胸に収まってから、ルル・ルグムはもう一度と彼へ向き直り、舌足らずな口を開いて幾ばくか動かしながらに精一杯に声を洩らす。
「こ、こ…は……?」
取りあえずは自身の状況を鑑みようと口を開けば、彼は真摯にこちらを見据えながらに答えれば、
「ナイアル・フォン・ラトプ辺境伯の屋敷の一室だ」
確かに納得できた。理解できた。追いついた。
広いまっさらなシーツと先程まで包まっていた横縦幅広い毛布は見た目以上に軽く、ベットには簡易的な板を置いた机がある。両手に目をやれば、斬り裂かれた痕も灼ける様な痛みも消えた。
「あ…」
全てに色を見出せた。それらを映し出す、抉られたはずの少女の瞳から涙がボロボロ溢れ出るのだから。
「…あ、あ」
礼を言おうと涙を拭おうと、しっちゃかめっちゃかに身体を動かそうとする。しかし、結果は彼女がベットから転げ落ちそうになるだけ。
彼が急ぎ椅子から立ち上がって、両腕で支えてくれなければ迷惑をかけていた事だろう。
「無理をするな、君は三日も寝ていたのだから」
落ちそうになっていた身体を戻されて、形の崩れた毛布を彼は正す。
「よし、と。それじゃ、少し待ってて」
するとそのまま、彼はおもむろに立ち上がり唯一一つしかない出入り口から部屋を後に。
そうして、しばらくもせず帰ってきたかと思えば、両の手にお盆を持ちながら、器用に両肘で扉を開け閉めしてこちらへと歩いて来た。
「食べるといい、腹が減っているだろう?」
「おかゆ…ですか?」
簡易的な机の上に差し出されたのは食すためのスプーンと木の器に入ったお粥。だが、そうではないらしく黒髪の彼は首を横に振る。
「フィリアナが言っていたが…これはキュケオーンだそうだ」
「キュ…けおー?」
見た目は黄色寄りの白色をした粥で香りはほのかな甘みを含んだモノ。材料はチーズや大麦を使っているのだろうと他に上げる特徴もない、奇抜というわけでもない一品。
で、あるからして彼女の胃はキュケオーンの香りに産声を上げて、気が付けばネコ目の瞳でまじまじと食い入るように見ていた。
「いい、のですか…」
「…? どうぞ」
了承を得た彼女は置かれたスプーンを手に取り、器の中身を掬って口へと頬ばれば、
「…!」
空腹からともいえるが、その美味しさには驚きを隠せなかった。
蜂蜜の甘みとチーズのちょっとした塩気を卵が包む事で合わない筈の二つを昇華し、更に一段階と旨味を増した味わいは、もう一口食べたいと彼女が作法も構わずがっついてしまう程。
加えて、食感は食べ物と飲み物の中間辺り。なので、かきこんだキュケオーンはどっしりゆっくりと腹に溜まっていく。
「極度な空腹からの食事は胃痙攣を起こすからな。だから、胃にやさしい粥…もといキュケオーンをフィリアナに頼んでおいたんだ」
ローの説明も露知らず。彼女のかきこむ手は器の底が見えるまで、止まる事は無かった。
「あの、ありがとうございました」
「別に構わないさ。それより、ハンカチ」
食事によってか、舌足らずな口調も無くなり生気を取り戻したルルは、口周りに着いた汚れを指摘されて恥ずかしく思いながら彼の青いハンカチを受け取った。
「ええっと…」
口を拭き終わり、手の平をこっちに向けている彼へとハンカチを渡す。
そうして、ルルが何から何まで至れり尽くせりの、あの地獄から救ってくれた彼に礼を言おうと口を開けば、彼は待ったと言葉を遮る。
「はっきりさせておくが、私は君を救っただけだ。体の怪我を治したのはフィリアナとニーナだから、彼女らにその言葉は使ってくれ」
「は、はい」
沈黙が少し続き、話の流れを断ち切ったのは彼であるからして、申し訳なさそうに今度は彼が思い出した様に言葉を紡ぐ。
「ああ、そういえば自己紹介がまだだったね。私の名はロー・ハイル・ヘルシャフト。――――君の父親からキミを救うように頼まれた者だ」
「お、お父さんが?!」
驚きに声を上げるが、その内心。最初に沸いた感情は怒りを内包した疑惑と憎悪だった。
どうして助けに来てくれなかったのかと、何故見も知らない人に私を頼んだのかと、安心しきっていた彼女の心と顔には陰りができるが、
「そうだ。しかし、私は利己的な人間でね…」
言葉は続き、
「テルガス・ルグムは君を助ける為に亜人の反乱軍を結成し、ソレを私は食い止め、彼を殺した。」
彼――――ロー・ハイル・ヘルシャフトの言葉は、彼に救われた少女にとって酷なモノ。
先の感情に加え、悲壮、痛み、言葉にできぬような複雑な感情の“ひしめき”。先程まで信じていた者によっての信じれる言葉であったから故、その事実が彼女の胸の内を“ひしめいて”滝のように流れ落ちる。
「だからこそ、彼の瀬戸際の言葉だったからこそ、頼みを聞いたのだ………――――つまり、私が言いたいのは、私自身は善意で動くような純粋な善人ではないという事だ。」
彼はその深紅の瞳で私を視た。立ち上がって、手を差し伸べて私に決断を任した。
「そして君に問い掛けるは、テルガス・ルグムの命運を左右する私の独善である」
真摯にこちらを視ている吸い込まれそうになる瞳に息を飲み、少女はゴクリと喉を鳴らす。
「…なにを」
苦し紛れに絞り出した言葉は、正しく意味の分からないと言いたかった彼女の思い。同時、目の前に座る彼が殺したのだろうとは何となく理解できて、ロー・ハイル・ヘルシャフトという人物は有言を実行するだろうと直感で分かった。
「そこまでして娘を助けたかった。そこまでして同族を救いたかった彼の歩みは止まらないだろう―――」
彼は悪人ではない、善人でもない。
「だからこそ、キミに問おう。」
普通を知っている故、本来なら独善で行おうとした行為をルル・ルグムが望むか否かを選ばせる。
「いずれもう一度、死地へと向わんとするであろうテルガス・ルグムを生き返らせるか否か…君が選ぶのだ」
海は怖いと、幼少の頃にオレは感じた。子供の頃に遠目から海を見ただけでも、だ。
果ての見えぬ壮大さ、生命を育む鼓動、沈むような深い暗さ、それらが何故か恐ろしく思えて、今も自身の瞼に焼きついている。
(あ、れは…?)
自分は今、その只中に居た。
暗い海の底の底。光の一つとして届かないこの場所では、あの不快な波の音が響かない代わりにゆったりと全身を不快な水の重りが鈍く揺蕩う。
なのに何故か。今、目にしているのは真っ白な光。
(…………ッ!)
その光には神々しさがあり、どこか人間臭さも同居している手を伸ばせば手に入る様な眩しい光。
思いっ切り、彼は手を伸ばす。
「届、いた?」
揺蕩う水よりも不快ではないが、手を伸ばした先の光から気の引ける妙な感覚が彼の全身を襲う。
一瞬、手を光から振り払おうとするが、この場所から脱出できるのならとテルガス・ルグムは妙な感覚を機に留める事をせず、しっかりと“白銀”の光を掴んだ。
「……さん、テルガスさん!!」
木々の騒めきに混じり、自身を呼ぶ声がする。
「ん………?」
今だ微睡む意識を段々と覚醒させれば、テルガスを覗き込む二人の重みが身体へと一気にのしかかった。
「お父さん!!」
「うぉ、と。――――…ルル!? ルルなのか?!」
兎の白い耳を揺らす彼女と爬虫類然とした尻尾を喜びに揺らす縞模様の同じ色合いの髪をした彼女、テルガスはもう一度仰向けに倒れて、二人の自重を受け止めた。
ルル・ルグムとウルナ・ギウス。涙を瞳いっぱいに浮かべながら、二人は彼の名前を何度も何度も無くさないように呼びかけて抱きしめる。
「ルル、ウルナ…」
彼女らの名前を男は呼び、ぎゅうと優しく抱きしめた。
数年前に失った愛すべき娘の名を、失っていたかもしれない親愛なる友人の名を。その存在を確かめるかの如く、口に出す名を一文字づつ噛み締める。
「蘇生は成功したようだな」
「お前は…?!」
感動の再会の最中、テルガス・ルグムの目に映ったのは自らに引導を渡した筈の男。
「ロー・ハイル・ヘルシャフト……」
黒髪紅眼、白銀の外套を纏う男。何の装備もあの刃も持たずに従者を後ろに待機させて、彼はこちらへ歩いてくる。
「いや、フルネームで呼ばんでも。……まあいい」
見てくれは変わらずとも、しかしてあの時、対峙した際に纏っていた殺気なく。
到底、自らを殺したとは思えないような脱力した雰囲気を漂わせ、テルガスに歩み寄ってきたのはただの一人の男だった。
「言っただろう? “必ず救い会わせる”と」
「………感謝する」
テルガスは自然とその感謝を口にした。
娘を助け、言葉通りに有限を実行した彼に感謝しなければならないと、ロー・ハイル・ヘルシャフトという男が口約束を違えなかった事に敬意を払いたいと、心の底からテルガスは感謝を口にするが、彼は言葉を受け止めず首を横に振るのみ。
「いいや、私は当然の事……約束を守っただけなのだから、感謝される謂れは無いさ。それに…―――、」
「?」
「感謝するのなら、彼女に対してだ」
すると、ロー・ハイル・ヘルシャフト後ろからひょっこりと亜人の娘が出てきた。
揺れる銀髪は短めに、青銀色を基調とした瞳はころころと色がうつろう。こげ茶色の華奢な体を僅かな布で隠し、猫の耳を頭の上から生やしたおおよそ少女とは言えない淑女。
「へぇー、辺境伯邸の南西。クドの大森林に拠点を構えてたのかー。」
関心、感心と周囲を見回す彼女。誰なのかと呆気に取られていれば、思いもよらぬ返答がローは口にした。
「紹介しよう。私の友人でありながら、コベルニクスを治めるニャルトリアさんだ」
「な、女王?!」
驚くのも無理はない。亜人の人権を取り戻さんと尽力している彼の女王陛下が目の前に現れたのだから。
しかも、だ。
テルガスを殺し、約束を違えなかったロー・ハイル・ヘルシャフトの友人であったのだから。驚かなければ逆に失礼とも言える。
「今後、君達の世話を彼女に任せる。詳しい話は抱き着いているウルナ・ギウスにでも聞いておけ」
ロー・ハイル・ヘルシャフト、加えて従者と女王はそう言うと踵を返して、闇の中へと消えていった。
「なあ、二人共…」
静寂を取り戻した森の中、テルガスは二人に優しく声を掛ける。
「もう一度、会えて良かった」
着飾る言葉は不要。
得てして、愛すべき二人は彼の思いにただ、微笑みを返すだけ。
「ローさん。ナイアルからの通達が来た」
「ああ、言っていたな。で、何だって?」
「例の“救世主”連中が、周辺諸国に魔呪全書の存在を明かした。」
「意外だな。救世主が世界に混乱の種をまく事は無いと思っていたのだが……」
「そして、だ。ユーセラスから消えた魔呪全書の行方、分かったよ」
「成程、私の仕事だな――――場所は?」
「彼等の頭目、ローさんが目にしたグレゴール・ライフマン。憶えているね?」
「忘れる訳もない。一度、敗北を喫したからな」
「彼が王国の円卓会議室、帝国の議会場に現れてこう言ったそうだ」
『万能の願いをかなえる魔呪全書、輝きを失なわない国を傾ける程の黄金金剛石、ソレらを手に入れたいのならエルフの国へと向かうがいい』




