第一章 1 【ハンナ・カンベルトの不運】
ハンナ・カンベルドは兎にも角にも不運である。
揺られる馬車の中で、身動きもせず彼女はつい色々なことを考えてしまう。
テリュール王国西方に位置するプカドという農村に生まれて齢十五歳。両親からは栗色の髪と釣り目、そして農作業も難なくこなせる健康的な肉体を授かり、農業中心の私生活に困る事は無く。
髪は後ろで一つに纏め、焼けた小麦色の肌が眩しいどこにでもいる平凡な村娘だった。
そう、平凡。
平凡であるからこそ彼女の生活は慎ましい。が、特筆してハンナ・カンベルトという女性には一点だけ特別……いや、特殊体質と言ってもいい位に人として一度も『運が良い』と思える事がなかった。――――だったと悪態をつくのは、その『運の無さ』が度を越した為である。
別段、今までも『運が無い』と思ったことは沢山とある。
例えば。
六歳の時。村で作った農産物を乗せた荷馬車の護衛……もとい小さな彼女からすればコルコタという都会への家族三人小旅行に意気揚々と息巻いて、早寝早起き早朝に、目にした光景は地盤が緩むほどの大雨と雷のオンパレードで当然計画は中止。
八歳の時には、井戸の水を汲んでいると同年代の子どもがぶつかってきて呆気なく自分一人だけで井戸に落ちたり。
日常的にも机の角に足の小指をぶつけたり、洗濯物を干そうとしたら雲行きが怪しくなってついには降り始めたり。エトセトラ、エトセトラ…………―――。
だが、昨日の出来事は文字通り過去の比ではなかった。
最新かつ最凶の、彼女の極小不幸エピソードをすべて塗りつぶして歴代一位に躍り出た悪夢だ。
〇
その日は春にしては肌寒く、冬物の毛皮のコートを羽織ろうかなと思えるほどの木枯らしが吹いていた。
日は陰り、各自の仕事を済ませた住人が家路に着こうとしたそんな一日の終わりにて。魔物が村の周辺に現れた際に鳴らされる警鐘の金属音が突如として村中に響いたのだ。
木造の防壁に覆われているとはいえ開放的な農村である以上、魔物という危険な野生生物の襲来は珍しくなく、対策はというと万全。
魔物が村内に出没したのなら村一番の堅牢さを誇る村長宅近くの倉庫に逃げ込む手筈になっているし、逃げ遅れた住人も自身の家にある床下の倉庫の中へと隠れるようになっている。村に勤めている自警団と冒険者は半分に人員を割き、一方は住人の護衛、一方は闖入者の撃退及び討伐を担う手筈だ。
日々の避難訓練の賜物により、在住する冒険者と自警団の面々の誘導に従い、プカド村の住人はこの手の災害に慌てずそそくさと倉庫へ。
もちろん、村の一員であるハンナ・カンベルト自身も誘導の指示に従おうと軽く荷物をまとめて村長宅近くの倉庫に急ぐ。しかし、外へと通じる扉のドアノブへと手を伸ばした途端、不意に違和感を覚えた。
(静か、ね……)
魔物が近くまで来ているというのに鳴き声も足音もしない。
途端、頭に過ぎった違和感に応じたのは、出稼ぎで家を空けている父の金言が一つ。
『魔物が静かな時は何かを企んでいるか、目的を達成する寸前の場合がほとんどだ。“舌なめずりする”ってヤツだな……―――まぁ、これは一部の魔物にしか言えないことで、ゴリブ、オグンなんかはそんな脳みそ持ち合わせてないから、ここらの地域は大丈夫だろうさ』
楽観的な父の忠言を思い出して鍵穴から外を覗けば、結果は笑えるほど不幸であった。
「え、嘘…」
あれほど父が能無しと馬鹿にしていたゴリブとオグンの群れが足並み揃えて協力し、村全体と住人が逃げ込んだ村長宅倉庫を隙間なく包囲していたのだから。
ゴリブとは人間の子供程度の身長で、やや暗い緑色をした肌の醜悪な顔をした人型の魔物。
オグンとは白濁色の肌、人間の倍以上ある巨体で二メートル以上の丸太を軽々と振り回す怪力を持った人型の魔物。
両魔物とも人間以上の力を持つものの、対して知性は棒切れや捨てられた武器を振るうのが精々。少し頭をひねって行動すれば動きもトロく対処は容易である。
しかして目を凝らせば、その二種類の魔物は暴れることも雄たけびを上げることも無いままに、ネズミ一匹と抜け出せない堅牢な包囲網を築いていたのだ。
「………」
恐怖と好奇心の入り混じった生存本能がハンナ・カンベルトの身体を突き動かす。
逃げ出そう、或いは隠れようと。
周囲の様子を確認するべく鍵穴から離れ、抜き足差し足、窓際に。閉め切ったカーテンの隙間から外を望めば。
「ヒッ…?!」
右目をひょいと覗かすのと同時、鉄が悲鳴を上げたかの如く大きな金切り音が村長宅の倉庫から聞こえた。
自然、音の出た方向に視線を向けると、そこにいたのは『一匹』。
成人男性の様な身長と体格、頭の先から爪の先まで赤一色の高価そうな服を着た、やや緑白の肌をした…恐らくはゴリブ。
鉄の悲鳴の正体もソイツを視た事によって簡潔に理解ができた。
魔物や野盗の対策として倉庫に備え付けられた鋼鉄製な超重量の扉。件のゴリブはソレを鷲掴みにすると紙屑の如く、投げ捨てたらしい。
そして、慣れた手つきと統率力でそいつは中に居た住人達を中央の広場に集めている。
(まずッ…!!)
ハンナの家は村長宅倉庫や広場から一番遠くに建てられており、魔物どもの手はまだ伸びてはいない。
時間こそ僅かだがある。と、不幸中の幸いに溜飲を下げるも、束の間。
『…………』
目が合ったのだ。遠目で顔もよく分からないのにそう確信が持てる程に。
たまたまだ、偶然だ。
気付かれてはいないと自分に言い聞かせ、ハンナは素早く窓から離れ、床下の倉庫へは間に合わなず。急ぎで、身近にあったベットの下へと身を隠す。
両親の仕事は魔物を狩る事が主で、ある程度の知識なら頭の中に入っている。
とはいえ、アレはその知識の範疇外にいる存在。通常のゴリブとオグンならこの隠れ方で正解だろうが……。
「…………ッ」
心臓の鼓動が煩い。だが己が生への執念からか、対照的に傍耳は冴えて辺りの音を事細かに拾う。
聞こえるモノは何も無く、僅かな静寂が漂う永遠のような一瞬。
すると、外でいくつか悲鳴が上がって。
しばらくもしない内にこちらへと足音が真っ直ぐ向かってくる。木の軋む音がハンナの住む家中に響き渡る。
つまるところ、何の施錠もしていない扉が開かれて、侵入を許したのだ。
そうして、足音は軽快に。
『おじゃま、しま~す』
流暢に喋る魔物は珍しくも思うが、この場この時はソレを恨めしくハンナは思う。
村は制圧されて、村民は村の中心部に寄せ集められて、助けなんかも来ないのは確実。
喋れる…という事は交渉の余地がある。と言えば、あるのであろうが相手は魔物。人を軽く超える膂力を持つ凶悪な存在に対し、そんな余地は存在しないのも等しい。
『フーン、フ~ン…と』
緊張感が嵐のように荒ぶく少女に対して、闖入者はこの場に合わぬ陽気な鼻歌を鳴らしつつ真っ直ぐこちらへと。
ギシギシと床が軋む。
音がベットの前で止まる。
ハンナの心臓は跳ね上がる。
もう出来る事と言えば、目を瞑り、その嵐が過ぎ去るのを待つだけ。
『こんにちは』
しかし、彼女は不運だった。
その嵐はベットを持ち上げ、脂汗を額に浮かべた彼女を真っ直ぐ凝視する。
『可愛いお嬢さん』
第一印象として、そのゴリブは人間以上に恐ろしく顔が整っていた。
特徴的な帽子の下には優男の笑顔に魔物らしくも人間に近い淀んだ眼、睨む姿こそ魔物だが魔物ではないような彼。
好印象、まとめて言い表すのならそう言えるかもしれない。―――――べっとりと、その身体に付着した返り血を見なければ。
(…………あ)
そうして、ハンナ・カンベルドの意識は真っ暗闇に溶けていった。