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ろう者は盲目少女を嗤う  作者: 石嵐 運
1/1

1 

  「目と耳なくなるならどっちが嫌?」            

  まだ小学生の頃にそう聞かれたことがあった。         



  僕は耳を塞いで、教室を歩いてみた。     

  思ったよりも不自由なく歩くことが出来た。         



  僕は目を瞑って、教室を歩いてみた。      

  その場から動くのが怖くなって、すぐに目を開けてしまった。     

  「目が無くなる方が嫌かな」と感覚でそう答えた。      



  それから数年後、僕は神様のいたずらともいえる確率で、  

  全く耳が聞こえなくなってしまうわけだ。     



  誰にでも容易く想像できるくらい、不自由な生活を送ることに

  なるわけだけど、僕はある少女のせいで、

  こう強がらなきゃいけなくなった。         



  『失ったのが目じゃなくて本当に僕は幸運だ』ってね。

2                          

  今から僕がピノキオみたく鼻を伸ばして語るのは、

  16歳までで得た幸せな話だ。

  大抵の人間は、他人の自慢話なんて聞きたくないだろうけど、 

  その後すぐに君たちの大好きな話をするから、

  どうかそう嫉まずに聞いてほしい。  



  父が界隈では有名な画家だったこと。

  幼い頃からペンを握らされてきたこと。 



  どちらかが、又はどちらも上手く作用したのか、 

  僕の年齢が2桁を上回る頃には美術の才能が開花していた。  



  例えば小学生の時に書いた『防火ポスター』で優秀賞を取ったり、 

  粘土で作ったリンゴが学校に展示されるレベルだったり。 

  適当に自分の感性で描いたものが独創的だと大絶賛された。

  中学に上がる頃には父の影響力もあってTVの取材を受けたりもした。




  もしも僕に美術の才能が無かったら確実にいじめの標的にされていたね。 

  いつも独りでイヤホンをかけて絵をかいてる。 

  絵を描くために授業をさぼるなんてこともあったな。 

  教室の隅っこで生きてるくせに、割とわがまま。 

  こういっちゃ悪いけどいじめられる奴にありがちな特徴だろう?

3  

  でも才能があるとなれば話は別だ。 

  孤独は孤高になり、わがままはこだわりになる。 

  これは希望的観測ではなく、

  本当にクラスの皆は僕に一目置いていたと思うね。  



  中学を卒業すると同時に僕は『シャル美術賞』を最年少で受賞し、 

  地元の新聞に載る程度に有名になった。

  超が付く程有名な高校に入ったけど、

  そこでも待てはやされるほどだった。

  クラス中の注目は僕のもので、休み時間は周りに人が集まった。 

  完全にあの時の僕はスターだった。

  


  放課後、僕は音楽室で足を止めた。あまりの綺麗な声に、

  最初はそういう楽器なのかと思った。

  中を覗くと、一人の生徒が体全身を使って、クラシックを歌っていた。

  そうしている彼女はとても楽しそうで、だけど迫力があって、

  何分でも見ていられた。

  歌い終えると彼女は僕の気配に気づいた。

  とても恥ずかしそうにタオルで汗を拭いながら僕に聞く。

  「なんで見ているの?」

  「あ……」いけないいけない。『あまりに君が美しくて』

  なんて口走ってしまうところだった。     

  「とてもいい声だなって」

  「ありがとう。でも恥ずかしいからあんまり見ないで」

  「合唱部なんでしょう?本番では大勢にみられるじゃない?」

  「そうなんだけれどね。舞台裏ってやつだよ。

  それにきっと私は自信がない」

  あれだけ堂々と力強く歌っていた彼女が、急に儚く思えた。

  それはとても美しくて、体のどこからともなく、

  創作意欲がぶわぁっと湧いてきた。

  「よかったら、また見に来てもいい?」

  「いいけど、あんまり期待しないでね」彼女は白い歯を見せた。



  僕は歌っている彼女を見ながら絵を描いた。

  彼女は最初ヌードデッサンをしているみたいで恥ずかしいといったけれど

  絵を見て、凄く綺麗だ、と言ってくれた。

  僕もこんなに筆が進む経験は初めてだ、と言った。

  きっと君が綺麗だからなんだろうと答えると、彼女ははにかんだ。

  告白はお互いにしなかったけれど、僕と彼女は好き合っていた。



  僕は才能ってやつだけで人生の歯車を回していた。

  事実、人生は順風満帆だった。 

  逆に言えば才能ってやつさえ無くしてしまえば全て機能しなくなることを、 

  僕はすっかり忘れていたんだ。  



  さて、今から気の向かないままに語るのは、

  僕が16歳までに得たものを失う物語だ。

4 

  僕の世界から音が消えたのは昼休憩が終わろうとしていた頃だった。 



  ナナムスクーリのベストアルバムを流しながら、 

  誰もいない屋上から見える景色を独り占めするのが好きだった。 

  そうしていると自分の喜怒哀楽などどこかにしまうことが出来て、

  純粋な創作意欲が湧いてくるのだ。 



  ベストアルバムの4番目『over and over』で、

  音楽はぷつりと途切れてしまった。 

  イヤホンが壊れてしまったんだと思った。

  もう2年も同じものを使っていて、そろそろ変え時だと思っていたから、

  そんなに驚きはしなかったな。  



  ふと外を眺め直すと、なにか足りないような気分になった。 

  その答えが何なのか気付いた瞬間、

  僕の頭部は釘で打ち付けられたかのような痛みに襲われることとなる。 

  椅子から転げ落ちてうなっていると、たまたま見回りに来た先生が、

  心配そうに駆け寄ってきた。 

  朦朧とする意識の中で先生は口をパクパク開けて何か言っていたけど、

  餌を待つコイのようで僕の目には滑稽に写った。 

5 

  目を覚ました時、僕は病院のベッドに横たわっていた。

  視界に入った看護師が僕に目線を合わせて話しかける。 

  「なんて言っているのか聞こえない」と僕は答えた。

  しかし自分の声すら聞き取れない。 

  物わかりの悪い僕でもその時、気付いてしまった。



  そうか、耳が聞こえなくなってしまったのか。 



  そういえば若くして亡くなった父が先天性の難聴だったことから、

  僕の耳が聞こえなくなる可能性は十分にあった。 

  ただし10歳前後で発症しなければ、

  その後発症する可能性は0%のはずだった。 



  何で0%のはずなのに発症してしまったのか、に対する答えは簡単だ。

  要するに僕が初めての前例になってしまったってだけなんだよな。

  コミニュケーションがほとんどとれなくなってしまったことは、

  想像以上に苦痛だった。 

  病院にいる看護師は耳が聞こえないことを知っているからいいけれど、 

  それ以外の人とはまともに会話ができない。 

  手話もある程度は覚えたけど自分が障害者だと強く自覚してしまうのが嫌で、

  必要以上に使おうとはしなかった。 



  なにより僕を憂鬱にさせたのは音楽が聞けなくなってしまったことだ。 

  どれだけ耳の奥にイヤホンを差し込んでも、

  あの素晴らしい音楽は流れてはくれない。 



  BGMのように垂れ流していたことはどれだけ贅沢なことだったんだろう。 

  こんなことならCDが擦り切れるくらい聞いておくんだった。

  後悔してももう遅いけど。 

  でもね、耳が聞こえなくなってもまだほんの少しだけ、

  この状況を楽しんでいる自分がいたことも事実だったんだ。 

  敢えて外に出てみたり、大きな音を鳴らしてみたり。


  例えば何もない状態で無人島に放り出されたとしてもさ、

  火をおこしたり、水を作ったり、食料を入手したり、 

  最初は困難を楽しめると思うんだよ。そういう余裕が僕にもあった。  



  もっと本心を言うと、

  僕にはまだ絵があるって思っていたからなんだ。

  無人島の話で言うと脱出できる船が用意されているようなものだった。



  ゴヤっていう超一流の画家も耳が聞こえなかったらしいし、

  そもそも耳が聞こえない音楽家なんてのもいるぐらいだし。  

  耳が聞こえない画家って肩書きは

  案外悪くないじゃないかって自分に言い聞かせて、

  ろくに手話の勉強もせず絵を描き始めた。

8 

  結論から言うと、どう頑張っても自分が納得する絵は描けなくなっていた。

  最初は入院中ドタバタしていたから、

  その間に腕がなまってしまったんだと思った。

  しかしいくら時間をかけて数をこなしても何の特徴もない、

  平凡な絵が完成していくだけだった。



  誰かが僕の作品を見て

  『まるで絵から音が聞こえてくるようだ』と評したことがあったけど、 

  まさにその通りなんだろう。



  僕の才能はつまり、音を絵で表現することだったんだ。

  


  よく考えれば僕は画家としては不自然なくらいに音楽を聴いていた。

  絵を描く前に聞く音楽はカンフル剤のような役割を果たしていたし、

  絵を描いている最中も神経をより研ぎ澄ますのは、

  手より耳の方だった気がする。

  


  逆に全ての基盤となる音が無くなってしまったら、

  僕の絵なんて平凡に過ぎないってことだろう。

  悲しいけれどこれが僕の中で一番しっくりくる答えだった。

  それから僕がどうしたかって?泣いたさ。毎日毎日、赤ん坊みたく泣いた。

  泣き止むととにかく大きな音を鳴らして、

  なにかの間違いで音が聞こえるようになれ!って願っていた。

  勿論間違いは起きないし、看護師の仕事が増えて、

  その分僕が厄介者扱いされるだけだった。

  一か月もすると僕はめでたく特別隔離施設に入れられることになった。


  そんな心が病んでいる時に、同級生がお見舞いに来てくれたことがあった。

  そこまで仲がいいってわけじゃなかったけど 

  僕を心配してくれていたって事実だけで嬉しかったな。

  誕生日だっておめでとうって言われただけでもうれしいだろう?

  自分がいないところで自分のことを考えてくれていた。

  今の僕にはそれだけで十分だったのさ。

   



  ここで選択さえ間違わなければ、僕は全てを失わずに済んだんだと思う。 

  でも荒んでいる僕が我慢できるわけがなかったんだよ。 



  この一ヵ月間ずっと、看護師と口の動きで会話を読み取る

  『読唇術』を練習してきた。術、なんて聞くと特別なものに聞こえるけど、

  誰もが元々持っている技術だ。例えば野球の中継を見たらわかるけど、

  皆会話をするときは口をグローブで隠しているだろう?

  あれは口の動きで敵に情報を与えないためなんだ。

  それに今まで僕は耳に神経を集中させていた。

  居場所を失った神経達は、無音を補うように全て目に集中したんだ。

  僕は他人よりもはるかに速い吸収力で、

  『読唇術』をマスターしているようだった。


  でもいざ実践になると困難を極めた。

  僕の耳が聞こえないことを考慮して彼らはゆっくり話してくれたんだけど、

  それでも早いくらいだった。

  「大変だね」なんて彼らは言うけど、何も分かっていないじゃないか。


  

  彼らが楽しそうにおしゃべりするたびに僕には何も聞こえないという、 

  劣等感を強く自覚させられた。 

  うまく聞こえないし、紙に字を書いてやり取りをするのは面倒くさいし。

  イライラはピークに達していた。 



  そこでよくよく考えてみたら彼らは僕を心配しているわけではなくて

  耳が聞こえない人と話すという貴重な体験をしたかっただけ

  なんじゃないだろうかって思えてきたんだ。

  もしくはいい子ちゃんを演じて内申点を上げようとしているのか、とかね。

  今思えばこの頃の僕は、

  物事を全てネガティブに考える才能を持ち合わせていたのかもしれない。

10

  「うるさい!帰れ!」と気付けば叫んでいた。

  厳密に言うと『叫んだ』のかどうか僕には分からない。 

  でも3人の呆気にとられた表情を見れば、

  大体どのくらいの声量だったか予測はついた。 


 

  通りがかった看護師が喧嘩かと勘違いして 

  僕の見舞いにわざわざ来てくれた3人は

  困惑した表情のまま帰らされてしまった。  

  きっと帰りの電車で頭がおかしくなったと思われるだろうな。

  

 

  耳が聞こえないのにうるさい、なんて

  それこそ馬鹿にされそうなセリフだった。 



  戻りたい。本当なら人の歩く音や、ベッドがきしむ音、 

  外では蝉の大合唱に窓から吹き込む生暖かい風の音が聞こえるはずなのに。 

  なんでそんな当たり前が僕にはないんだ。



  やり場のない怒りをベッドにぶつけた時、何回目だろうか、涙を流した。 

  泣きじゃくる声はなるべく抑えたつもりだったけど、 

  それが他人に聞こえる大きさだったかすら僕には分からなかった。

11 

  僕が毎日のように枕を涙で濡らし、生きる意味を失いかけていた頃、 

  空きになっていたベッドに一人の少女と壊れかけのロボットがやってきた。

12

  ロボットが向かいのベッドに入院しているという不可解さより、 

  隣のベッドの彼女への妬みの方が大きかった。 



  なんと隣にやってきた彼女はベッドに座って

  呑気にイヤホンで音楽を聴いていたのだ。 

  入院しているとは思えないくらい幸せそうな顔をしていて、

  それが羨ましくて、なにより嫉ましかった。 



  彼女の前では決して泣かなかったけど、

  代わりに夜になると我慢していた分洪水のように涙が目から溢れた。 

  彼女、ついでにロボットに泣き声がバレないよう、必死でこらえた。

  今まで沢山泣いてきたせいか、声を出さずに泣くことは容易になっていた。

13 

  ある日のことだ。

  


  いつものように隣を見れば彼女が音楽を心地よさそうに聞いていて、 

  少しブルーな気分になる。もう見慣れたはずの光景だった。 



  僕はトイレに行こうとベッドから降りてスリッパを履いた。

  そして彼女のベッドを通りすがったとき、袖をもの凄い力で引っ張られた。

  彼女がベッドから身を乗り出して僕の袖を掴んでいた。 



  「なにしてるんですか?」僕はわざと突き放したように言った。

  すると彼女は「よかったら聞きますか?」と

  片方のイヤホンを僕に差し出してきた。 



  なんで僕を慰めるような行動を彼女がとるんだろうか。

  一つだけ心当たりがある。 



  きっと夜に僕が涙を拭う姿を見たのだろう。

  一応しきりはしてあるけれど、月の光がシルエットを作り、

  彼女側から何をしているかは筒抜けだからね。 



  彼女に対する今までの鬱憤と、耳が聞こえないことに対する侮辱行為、

  泣いている姿を見られた恥ずかしさが相まって、

  僕は彼女にありったけの暴言を吐いていた。

  俺は耳が聞こえないんだぞ、なんてことしてくれてんだ、

  君の善意はただの押しつけだうんぬん。

  いやぁ、今考えると最低な男だね。 

  


  ただお見舞いに来てくれた彼らへの突発的な怒りとは違って、

  僕は割と冷静だった。 



  彼女を罵倒しながら僕はこう思っていた。

  彼女に怒りたかったわけじゃないと。 

  


  誰でもいいから僕のことをバカにするやつが現れて、

  自分は不幸な人間なんだと主張したかった。 

  要するに不幸自慢するのにちょうどいい相手が、

  たまたま目の前に現れただけだ。

  


  そうでもしないと僕は耳が聞こえないことと

  向き合って生きていける気がしなかったからね。

14 

  一通りの罵詈雑言を浴びせた後、彼女から差し出された手をはたいた。 

  手を出すのは少しやりすぎたと思ったけど、後には引けなかったね。

  イヤホンが落ちて、つられて彼女の膝元にあった携帯が

  カラカラと音を立てて落ちた。 僕はそれを見てやっと我に返る。

  トイレに行きたかったことなど忘れて自分のベッドに戻った。 



  親切を無下にされて彼女はどんな顔をしているんだろう。

  ちらっと横を見ると、酷く混乱しているように思えた。そりゃそうか。

  彼女は僕を励まそうとしてくれたのに、

  まさかキレられるだなんて夢にも思わなかっただろう。 

  足の悪い老人に優先席を譲ったら、「年寄り扱いをするな」

  と返されるぐらいには理不尽だからね。


  でも彼女が困惑していたのは、

  決して僕が怒りを露わにしたことではなかった。

  僕はそのわけを目撃してしまう。 



  ———彼女はぺたぺたと手に床を付けて携帯の位置を模索していた。 

  ちょうど自分の真下にある携帯を彼女は見つけずにいたのだ。 

  そして物わかりの悪い僕でも気づいてしまった。 



  彼女は目が見えないんだ、と。

15

  目が見えないのに勇気を出して話しかけてくれたこと、

  音楽しか楽しむことがないんだと勝手に思い込んでいたこと、 

  心無い言葉を浴びせてしまったこと。 

  とにかく自責の念が体中から溢れて出した。

  急いで彼女の携帯を拾ってから、気付けばひたすらに謝っていた。 



  土下座をして、何度も頭を床に叩きつけて、何回も何回も。 

  どれだけ誠意を体で伝えたって、

  目の見えない彼女に伝わるはずもないのに。

  でもそうしないと気が済まなかった。

16 

  「私も悪いことをしました。でも耳が聞こえないなんて、

  印があるわけでもないのに分かるわけがないですよ。 

  私は比較的誹謗中傷を受けることに慣れてるからいいですけど、 

  他の女の子からしたらトラウマモノですよあんなことされたら。だいたい」 

  「ちょ、ちょっと待って」僕は慌てて彼女の言葉を遮った。

  柔らかそうな物腰とは対照的に口が良く動く子だった。  

  


  「もう少しゆっくり喋ってくれないか。僕は耳が聞こえないんだって」 

  「そうでしたね。こ、れ、く、ら、い、の、は、や、さ、な、ら、

  だ、い、じょ、う、ぶ、で、す、か」

  彼女は僕をおちょくるかのように、口を大きく開けた。 

  「もう少し早くてもいいけど、まだ慣れていないんだ」

  「分かりました」



  「それでさっきは何て言ったんだ」そう言うと彼女はため息をついた。

  そして少し考え事をするような仕草を取ったかと思うと、

  人差し指を立てた。

  「1つ、条件、が、あります」

  「ああ、耳の聞こえない僕に出来ることなら」僕は即答する。

  「ええ、耳の聞こえないあなたにしか出来ないことです」



  彼女の言葉をうまく呑み込めなかった。

  耳の聞こえない人間が出来ることは、

  普通の人間なら出来ることであって、

  僕はその劣等感に日々悩まされてきたのだ。

  耳の聞こえない僕にしか出来ないことがあるなら、

  それはひとつの救いだ。



  そして彼女の提案はまさに耳を疑うものだった。

17

  「あなたの耳が聞こえないことを馬鹿にしたいんです」

  僕は聞き間違いだと思って、何度も聞き直すと

  彼女は携帯を取り出した。

  慣れた手つきで器用に文字を打ち、僕に見せつける。

  『あなたの耳が聞こえないことを馬鹿にしたい』

  と間違いなく書いてあった。



  「えっと、まだ怒ってるの?」彼女は首を横に振る。

  「代わりに私の目が見えないことを馬鹿にしてください」

  とまで言い出した。彼女の言うことは理解しがたかった。

  


  だってこういうハンディキャップを抱える者同士が出会った時ってさ、

  お互いが励ましあって頑張るっていうのが定番のはずだろ?


  その旨を伝えても、彼女は首を横に振った。

  僕が聞き取れないと予測したのか、

  また携帯でカチカチ打って僕に提示する。



  「そんなこともう何十回としてきました。

  でもそれは傷の舐め合いにしかならないって気付いたんです。

  それに私の周りには、私を憐れむか、陰でめんどくさがる人しかいません。

  今の私に必要なのはあなたみたいな人なのです」



  中途半端な優しさが返って人を傷付けることはある。

  耳が聞こえない辛さは耳が聞こえない人にしか分からないし、

  目が見えないのも同義だ。

  だから僕と彼女で言えば、境遇が似ているだけで、お互い頑張ろうなんて、

  綺麗事に過ぎないのかもしれない。

  ただ彼女が何故僕を必要としているのかは分からないままだったけれど。

  


  「やろう。確かにそれは僕にしか出来ないことだ」

  「今日は疲れました。では明日またお話ししましょう」

  そう言って彼女は横になって眠っていった。



  僕と彼女の間におかしな契約が結ばれたのは、

  夏の終わりを告げるヒグラシが鳴き始めた頃だった。

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