第13話_助手のナミコちゃん&狂活字獄の荒療治
セーフティ・ガードの門前で警備の警官4人に監視されながらタクシーを待つ一人の女性がいた。大人びてはいるが、歳は若い。癖のあるブラウン色をしたミディアムヘアの女の子。手には友人から失敬した携帯電話。そこに弾丸タクシーが4台、捜査現場に急行するパトカーの様に疾風怒濤と現れる。そして驚くべきはその警察のお株を奪うかのようなタクシー4台が停まる前に飛び出し飛び降りた11名の女達。宙を舞い空を踊る姿は魅力的で、その中には見知った顔もいたけれど、というか全員顔も名前も教えられていたけれど、彼女の意中の人物はいなかった。だが、一番前に停車したタクシーの扉が開き、一人の女の子が現れた。自分よりも年上だと知っていながら『女の子』と表現してしまうその人を前に待っていた女の子は着地する女性達――女神様達に目もくれず、最後に悠然と地に足つけて現れた女の子――影帽子と桜色の髪がチャームポイントの女の子ことミコ=R=フローレセンスに駆け寄った。
「ミコさん! お久しぶりです。お元気そうでなによりです。まさかわたしがまたミコさんの旅路にぶつかるとは、思いもしませんでしたよ」
女の子のあいさつに、ミコも女の子の誇りを持ってチャーミングに話しかける。
「こっちこそゴメンねナミコちゃん。シャーロックはともかくクララちゃんの看病ほっぽり出させて助手に指名なんかして。でもポスティオでの思い出がわたしの判断材料になったの。『ナミコちゃんはシャーロックよりデキる子だ!』ってね! んで看病してることはクルサードに聞いていたからシャーロックにあげた携帯電話で呼び出せるかなーって。ドンピシャの結果におねえさんは満足満点よ。これからよろしく、ナミコちゃん」
「はい!」
ナミコと呼ばれたミコに良く似た名前の女の子は溌剌とした返事でミコに応える。そう、彼女はかつてポスティオで起きたクララ=ロスタームとシャーロック=ローの結婚騒ぎにミコと一緒に関わったクララとシャーロックの友人ナミコだ。ナミコにとってミコは旅人、もう会うことはないと思っていたからこんな笑えない状況下でも、再会できたことは素直に嬉しい。お互い同時に手を出し固い握手を交わすと、周りで唖然としている女神様達を掻き分け引率する形で、2人はセーフティ・ガードの中へと入って行った。
セーフティ・ガードの中に入るとナミコはミコの横に並んで歩く。女神様達差し置いて。
そしてナミコがクルサードや残りの神様達が待つ第1101捜査室に向かってミコを引率している最中、ミコは携帯電話で伝えてきた『用件』について尋ねてきた。
「ところでナミコちゃん、あれ買っといてくれた?」
「ええ。買っておきました」
そう言ってナミコはミコに折り畳んだ封筒を渡す。ミコはそれを流れる所作で受け取ると影帽子のがま口チャックの中にしまい、こんな歌を口ずさむ。
「もう買った♪ 儲かった♪ これは役立つ雨が立つ♪ 浮き足立ってにゃるるんぱー♪」
やたら上機嫌になったミコの変化を後ろから追いかけていた女神様達が問いかける。
ミコの“背中”に魅せられている風の魚が率先一番問いかける。
「なーにミコちゃん。その紙切れなんなのー?」
神様ってこんなに媚びるものなのか――ナミコは口の中が吐きそうなくらい甘くなるのをなんとかこらえる。実際吐くことなんてなかった。ミコの答えが爽快で粋だったから。吐き気が綺麗に消えたのだ。
「まだ使わないのでひっみつぅ〜。『もう買った』とまで歌ちゃった建前、これ以上急ぐようなことはデキマセーン。この闘いはペースを乱された方の負けなんでね」
「あっそ。ペースの部分はなんとなく分る気がするから……いいか」
「善くないでしょ師匠!」
「師匠だけはズルーい!」
ミコの答えに質問した魚がミコに賛同する趣旨の発言をすると、二人の愛弟子はぷんすか頬を膨らませて抗議。でも魚の「全てはミコちゃんに整の冤罪を解決してもらってからよ」という釈明には感じるところがあった模様でなぜか照れた顔でそっぽを向いて「わかった……」と呟いた。大人でない見た目もあると思うが、やっぱり哉=アリバイと祝=エイプリルフールは可愛い女神様だと後ろを向きながら歩いていたナミコは得心した。今度は更に後ろを行く面識ありの希が「なんでそうなるのよ!」と吠えるが、そうこうしている間に皆の歩みはピタリと止まる。目的とする第1101捜査室の前へと到着したからだ。最前列で止まったミコは止まらぬ動きで影帽子から黒い腕を2本出して捜査室のドアをバーン。我が物顔で開いてその中ヘと進む。一部始終を観ていたナミコはその傍若無人ぶりに圧倒され一瞬虚を衝かれたが、「止まらないで。わたしの助手さん」というミコの詞を受けて、立ち止まることを止め、ミコの横へと急ぐ。その後を女神様達が追ってきた。
中にいたのは机で形だけの取調べをしているクルサード警視と取り調べられている容疑神、整=キャパシティブレイク。中央には死体よろしく顔まで覆う布切れを被せられた今回の被害者。その片隅で泣いている中年の夫婦らしき男女ペアに、部屋中を無駄に混雑させている残りの神様連中がズラリ。そこにミコ=R=フローレセンスが現れた。部屋中の視線が一斉に彼女に向けられる。それはまさしく、主役の登場を意味するアクションだった。
「ミコ!」「ミコちゃん!」「ミコさん!」「やっと来たか……」「神様の上を行く女、お出ましやあ!」「よくここまで連れてきたわよ、魚、透、帳達」
ミコの到着を思惑は異なれど待ち構えていた部屋の中の者共は一斉に席を立ち、ミコの元へと駆け寄ろうとするが、ミコは影帽子のがま口チャックを妖しく光らせ迫り来る者達の動きを止めた。止められた者達が原因――黒い眼による『鎮めの眼光』と気付いた時にはもう遅い、ミコに迫ろうとしていた者達は全員揃って置物と化してしまったのである。
そんな中、すぐに立たずにいたので『鎮めの眼光』の効果を避けてみせたクルサード警視がここに至って立ち上がり、だが机からは離れず、机に手を置いたままの姿勢でこちらだけ向いて、こちらへ真っ直ぐな目を向けてくる。その真っ直ぐさが怜悧さにも感じられて、動けるナミコはミコの肩から背中に逃げるように隠れたが、ミコはクルサードの方を向くと「ふっ」と吐息で笑ってみせると、操作室のドアを開けた黒い腕2本にさらに黒い腕を追加で10本以上出し、置物化した連中を中央の被害者から退かして道を作ると、ナミコを促して一緒に、一歩一歩と被害者のベッドに向かうのであった。『鎮めの眼光』を受けなかった迎えに来た女神様達がそれにぞろぞろついてくる。息を吐いて意気込むナミコを横に、ミコは初めて“狂活字獄”被害者を眼下に捉えた。彼女は急ぐことはないが、同時に躊躇うこともしない。周りの悲鳴も制止もお構い無しに被害者を包んでいた布を黒い腕・手に剥がさせたのだ。露になる被害者の身体。
少女だった。が、その裸体は人体の美しさの面影さえも残っていない。むしろ薫製や焼死体に例えた方がまだ慈悲深い表現であっただろう。だが現実に見える少女の姿は、これまでのどんな不気味&気持ち悪いとも違い、かつより酷い惨状に見舞われていた。シャーロックやクララが気絶する中、ナミコはなんとか耐えていられたが、それでも見ていて気持ちのいいものではないし吐き気もする。そう断言できた。
少女の皮膚を埋め尽くすのは虫が疼くようにでこぼこ脈打つ古今東西の活字の大群。何の統一性もなく、大きさも向きも言語もバラバラの活字達がびっしり隙間なく少女の皮膚、歯、下、咽、爪、眼球、さらには血管から髪の毛睫毛に至るまで。身体中が活字を象り、活字に汚染されている。しかもその活字群はまるでショックで動かなくなった被害者の代わりに生きているかの如く隆起と陥没、そして活字自体の変化を絶え間なく繰り返し続けていた。検分する被害者の身体を布に覆うのは常識だけど、この“狂活字獄”に限ってはそうでもしないと精神が保てないという理由もある。改めて見てみても、やっぱりこの世のものとは思えないおぞましさをナミコは感じた。「逆芸術」といった方がよさそうな、まるっきり明後日の方向に完成してしまった「芸術」――そんな風に感じられた。
ナミコはミコの横にいるので思いっきり被害者の体からは至近距離。さすがにこれ以上は頭がくらっとするので自然に足は後ろに進む。ミコの背後に隠れようと、こそこそちまちまと移動するナミコ。そこにミコの能天気な独白がさらに毒々しい追い討ちをかけてくる。
「これで怖がってたんじゃ恐怖耐性は中の上ねナミコちゃん。この狂活字獄は身体の内部まで隈無く狂活字で埋め尽くすから質が悪いの。実質与えられている恐怖は今半分よ。誰もしなかったようだけど例えば血液をサンプリングしたらその血液が分離して狂活字になったりするのよ。まあ見るからに血液採取なんてできなかったようですが」
「血管そのものが狂活字になって四六時中動いているからな。注射も刺せなかったよ」
ミコの残酷な詞を和らげたのはデスクに腰掛け腕組みをしていたクルサード警視の冷静な説明。警視の方を一瞥したミコは再び被害者の身体に目をおろしてなぜか「そう……この幸せ者めー」と似合わない台詞を吹きかける。場違いともとれるその詞に中年の夫婦=被害者の両親が激昂し、怒鳴ろうと立ち上がるより先に――。
ミコが動いた。影帽子から伸ばしていたひとつの黒い手の指を5本から8本に増やしてその八指を狂活字蠢く被害者の身体に押し当てた。
すると――どうだろう。
被害者の少女を蝕んでいた狂活字がまるで動力を切らしたかのごとく動くことを止め、狂うことを止め、現れることも止めたのだ。そう、ミコの一撃ただそれだけで少女の身体は普通の裸体へと戻り、“狂活字獄”が治ったのである。
ナミコは呆然というより啞然と顎を落して事の様子を見る……いや、見せつけられて固まってしまった。被害者の両親も、クルサード警視も神様達も、皆感心というよりは呆れて放心といった感じを表情に示し、「えー?」と疑問形。だってこんな簡単に直せてしまったのである。正直テンション盛り下がるのだ。しかも“狂活字獄”の使い手である整=キャパシティブレイクが一番マヌケ面しているから皆も感化されちゃうのよねこれ――ナミコは現状認識を正しく理解した上で皆とリアクションを共にしているわけだが、そのまま現を抜かすほどバカでもない。ミコに助手の役割をあてがわれたナミコである。自分がなにをすべきかを身体で理解し、ミコの黒い手が用意していた病人用の検査着とナミコ自身がミコに頼まれたおつかいで買っておいた『解決者権限承認状』を両手に受け取り先ずは裸であることに気付き、おろおろする少女の元へ検査着を届けて気配り。次いでその両親の元へと歩を変え、呆然と立ち尽くしている被害少女の両親に向かって『解決者権限承認状』を突き出してサインを迫る。
「お嬢さんが被害にあった事は明確な事実です。が、そこにいる整=キャパシティブレイクは犯人ではありませんし、被害を綺麗さっぱり取り除いたのなら罪も問うに値せずでしょう? 今回は被害者のお嬢さん生きてますので、面倒な手続きですが、この『解決者権限承認状』にサイン戴けないでしょうか?」
丁寧に、下手を装い、相手の地雷を踏まずに言ってみせた助手の仕事。自分では十分だと思っていたのだけれど、すぐに若さゆえの視野の狭さと気付かされる。被害少女の両親、父親が食って掛かってきたのだ。
「被害を取り除いた? 犯人ではない? どういうことだ! そこの男しか使えない業で私達の娘はこの世のものとは思えない辱めを受けたんだぞ! 私達だって傷ついた! それを綺麗さっぱり忘れて『解決者権限承認状』にサインしろだと? 治してくれた事には感謝するが、何の理由があって私達の被害申し立ての権利を奪う事ができるのだ!」
「ミコさ〜ん」ナミコは両親に向けている『解決者権限承認状』はそのままに首だけ回して後ろのミコに泣きすがった。ミコは相も変わらず黒い手に持たせている未来電話でどこぞの誰かと話している様子だったが、ナミコの視線を受け取ったミコは「はいは〜い♪」と軽い返事をして電話を保留、ナミコの続きを買って出た。その説明は下記の通り。
流れるように滑らかで、澱みのないほど透き通っていた。
「真犯人だって奴に会ってきました。整に冤罪かけたって言ってましたよ」「何?」
「それに人質を取られているんですよねー。あと13分で爆発しちゃうわ」「な?」
「ここでもたついていたら、爆発して人質さんたちは五体バラバラですよ」「ぐっ」
説明不足のナミコには糾弾すること多数あった被害少女の父親も、ミコの追加説明を聞いてしまってはぐうの音も出ない。特に人質の件はお相手の心を鷲掴みにして動揺させたといった感じで、父親さんも母親さんもみるみる顔色を青くしていく。しばらくそのまま時は流れたが、ミコが追加で付け足した「急いでないので、大丈夫ですよ」という詞がトドメだった。父親はナミコから奪い取るようにして『解決者権限承認状』を取り大急ぎでサインすると、ナミコに手渡す。ナミコはホッと一息安心してミコに受け取った承認状を献上する。黒い手で受け取ったミコはさらに承認状にひと手間加えて記載すると、黒い手ごと伸ばしてクルサードに提出。クルサードはパッと見て「問題ないな」と呟くと、デスク際の壁に埋め込んであったセーフティ・ガードのメインフレームに『解決者権限承認状』を読み込ませた。するとセーフティ・ガードの建物全体にピンポンパンポーンという音がなり、「整=キャパシティブレイクの事件は解決者権限により解決しました」との報知がなされた。これで正真正銘、この事件は解決だ。
もっともナミコにしてみれば、これは事件解決というより、事件を事件でなくしたという認識の方が強い。でも事件解決より遥かに難しいその道をいとも簡単に成し遂げてしまうミコの手腕に、ナミコは惚れ惚れドキドキときめくのであった。
そのとき。
ピンポーン。
未来電話が音を鳴らした。それが何を意味することか、ナミコは事前の説明で知っている。でもその場に居合わせるのは初めて。だからこそ息を呑み、緊張した。
だが自分が手伝うミコは急ぎはせずとも全く躊躇することがない。黒い手に持たせていた未来電話のスイッチを、臆することもなく入れた。
聞こえてきたのは爆弾着せられて人質に捕られた、刑務所の人。
「お、おめでとう……だそうだ。爆弾のカウントは解除されたらしい。あいつからメッセージが着てる。読むぞ……『ちゃんと解決できたんだね。でもボクが望んで仕向けたこととは言え、やり方が強引過ぎやしないかい?』、だそうだ。ふっ、ふう……爆弾はタイマーこそ解除されたが、自分達では脱ぐことができない。頼む、早く助けにきてくれ!」
そこで電話は切れた。ミコが切ったのだ。場所も訊いていないじゃないですかとナミコが突っ込むより先にミコはクルサード警視と話を進める。
「助けに行ってあげて。爆弾処理班を。クルサード、あなたこの場所知っているんでしょう?」
「ああ、こいつはアウトサイド地区刑務所の所長。すぐに爆弾処理班を向かわせよう」
「数は多い方がいいわ。刑務所中に仕掛けられているらしいから」
「了解。……(緊急回線のボタンを押して)あー全職員に告ぐ。こちら第1101号室のレオ=クルサードだ。整=キャパシティブレイクの事件は冤罪と判明。被害者も快復し解決者権限において解決した。が、冤罪をかけた黒幕がまだ捕まっておらずその黒幕はこの事件に我々を否が応でも巻き込むために人質を取っていたことが新たに判明した。今回の事件で人質に取られたのはアウトサイド地区刑務所だ。爆弾処理班は4チーム、直ちに現場へ急行されたし。治安管理システム課も最大限のサポートを頼む。人材課は人質をケアする医師と救急車を必要数確保すること。後交通課はアウトサイド地区への進路確保及び刑務所の半径300メートル以内の住民の避難だ。コード1101発動! 該当職員、全員出動だ!」
クルサード警視はデスクに備え付けのボタンを押して緊急回線を開き、セーフティ・ガードの全職員に必要事項を通達する。全てを話し終わり、ボタンから手を離したクルサード警視はこちら(正確にはナミコの横にいるミコの方)を向き、「これでいいだろ?」と告げた。ミコは影帽子に隠れるかのように肩を竦めてひと呼吸置き、「ええ、とりあえずは一段落ね」と微笑むと、影帽子のがま口チャックから極フツーの椅子を取り出すとちょこんとそこに腰掛けて、背もたれにその背中を預けて黒い手ではない、自分自身の手を重ねて目元も閉じた。ナミコはまたもや唖然とする。ミコがやってることは「ごゆっくり〜」のコピーそのままリラックス行為に他ならないからだ。いくら事件が終わらずとも一段落したからって、そこまでやっちゃっていいのかと。ナミコは拳を握り締め震わしながらツッコみたい衝動に駆られた。
(マズい。抑えきれないかも)
心の中で必死に湧き上がる衝動と闘っていたナミコだが、その闘いは唐突に終わった。ミコの黒い手がまずは1本ナミコの首根っこをつまみ上げると、今度は足してもう1本の黒い手も使い、ナミコをお姫様抱っこの状態に抱える。そのままミコはナミコをいつの間にやら出していたもうひとつのリラックスチェアに座らせ横にお気に入りの人形かぬいぐるみのように侍らせたのだ。突然の招待はナミコに戸惑いと驚きと動揺と、真意不明の念を抱かせ、ツッコみたい衝動など掻き消してしまったのだ。
本当にお人形のように固まってしまうナミコ。だが、これがきっかけだったらしい。
クルサード警視の「よし、もう皆動いていいみたいだぞ」という掛け声とともに、ミコのせいで固まっていた周りの面々が、ミコのようにリラックスした表情をして各々動き出したのだ。それを受けてナミコもようやく肩の荷が下りたように力を抜いて、ミコと顔を合わせクスリと笑うことができた。それにしても『鎮めの眼光』も使っていないのにミコが動くまで皆律儀に固まるとは……これも解決者権限の機能なのだろうか?
その旨を俄に騒がしくなった部屋の中、ミコにこそこそ耳打ちすると、ミコはケラケラケタケタと腹を抱えて笑って否定した。
「違うわよ。みんながわたしに先を譲るなんてないわ。忘れた? わたしは『急いでない』が流儀の女の子なんだから、むしろ『先』を譲ってあげてもいいくらいよ。でもね、ナミコちゃん――」
「はい」
「動きたくても動けない。どうしていいかわからない。わかっていてもそれができない。そういう状況に人を追い込むのが犯罪だと、言っておこうかしらね。怖いわよ、犯罪は。あんな状況を人に強いるんだから」
「そうですね――」
ミコの詞はナミコの知識に重く深く刻み込まれ、ナミコも手を合わせて前傾姿勢を取り鋭い目付きで事件を見返す。甦った娘と泣きながら熱い抱擁を交わす両親という家族の絵。冤罪が晴れてドッと胸を撫で下ろし椅子から転げ落ちる整の周りによかったよかったと駆け寄りながら一大集団を作る神様達一部の絵。それに加わらず、自分の位置で事件の一段落を受け入れる神様達残りの絵。デスクに再び腰掛け、それを淡々と見守っているクルサード警視の絵。
事件が解決する前の絵と見比べて、ナミコはミコの詞の意味を記憶でも記録でもなく感覚によって理解する。
(なるほど、これが犯罪というものなのね――)
部屋を観察するその目は一点の曇りもなく、リアルをそのままの純度でナミコの頭と身体に「経験」させていた。でも物事には終わりは付き物。見終わったナミコは身体を持ち上げてミコと同じように背もたれに背中を落とすと、何の前触れもなくミコから無言で差し出されたお菓子を戴き、頬張った。口の中でとろけるキャンディの柔らかさがとても心地好く、何よりおいしい。お菓子を差し出してくれたミコは、隣で未来電話を使って電話中……。
そうして事件解決直後の時間は一時の和やかさに包まれた。そう、この時確かに、事件は停まったのだ……。
だが、この事件は停まること休むこと解決されることはあっても、まだ終わってはいない事件。喜びの喧騒はそれから数時間後、日が沈み夜も更け始めた頃、部屋で待機していたクルサード警視の元に掛かってきた爆弾処理班達からの任務完了の報告を受けた瞬間ガタンと鎮まりかえり、唐突に終わりを告げた。「救助活動は終わったそうだ」と第二言語前置詞のように前置きしたクルサード警視は「爆弾処理班リーダー4名に現場指揮を執った警官が報告に来る。ここじゃ報告を受けるには不適だから46階の会議室に向かうそうだ。説明受けたい者は拒まないから着いてきなさい。ま、あんまり人数が多いとエレベータが使えないから階段決定なんだがな……」
クルサード警視はそう告げた。詞の裏で暗に移動人数の削減・混雑回避を望んでいることはナミコだけでなく、この部屋にいる全員が一目瞭然と感じ取ったことであるが、そんな「親切」をして引き下がる程この部屋の者達は「無関心」ではないことも分っていたことだろう。事実クルサード警視の仄かな望みを打ち砕くように、皆が皆手を上げて「俺行くぞ」「わたしも」「私もだ」「説明聞くまでが事件でしょ」「娘が被害を受けたのだから私達には聞く義務がある筈」等と、参加表明のラッシュアワー。クルサード警視も「だよな。じゃあ行こう」とドアを開けて46階目指してさっさと移動を始めた。逃げるようなその動きからは先導する気など更々無いことがハッキリと感じ取れたが、それを怒る者は一名としておらず、各々が勝手気ままにクルサード警視の跡をつけ、尾行し目的地まで移動を始めた。被害者少女の家族と整、そして整に近し神様仲間達が大挙して我先にと率先してクルサード警視の後ろを付いて行くのに対し、ナミコは椅子に座ったまま、他人事のようにその様を見守っていた。なぜ動かないのか? 答えは簡単。ナミコが付き従うべきミコが椅子に座ったまま、動かなかったからである。そう、ナミコが後ろを追うのはクルサード警視などではなく、ミコ=R=フローレセンスに他ならないのだ。ミコののんびりした悠然の姿勢は単に『急がない』の信条だけでなく、もう喧騒や団体行動の類を嫌っている節さえ感じさせるものがあった。影帽子の鍔を深く被って視界を閉じてしまっている様など、いっその清々しささえ感じさせてくれる。この人に付いて行こう――ナミコは助手の義務だけでなく、自分を魅了してくれるミコへの興味から改めてそう決意したものだ。
やがて第1101号室からドタバタと歩く音が消えた。部屋に残っているのはミコとナミコ……だけじゃなく、事件そのものへの興味より黒幕シク=ニーロに宣戦布告されたミコの動向を重視する神様達が残っていた。メンバーはミコとともにやってきていた女神様11名の中から――。
魚=ブラックナチュラル。
哉=アリバイ。
祝=エイプリルフール。
透=パーソナルスペース。
帳=フリージア。
紫=ミュージアムの6名がミコの近くに残っており、更に、元々この部屋にいた神様達の中から残った者も数名いる。数えてみると男神様が――。
禊=ハレルヤ。
扉=カレイドスコープ。
極=セキュリティホール。
哲=ヘヴィワーク。
羅=モノトーン。
翔=スリースピード。以上6名が居残り、女神様の追加は――。
羽=ブルーバード。
雅=プロフェッサ。
迷=アンティック。
絵=パッション。この4名が魚達に混ざる形で居残っていた。
居残り組の神様達。居残った理由は至極単簡なもの。シク=ニーロから勝負を吹っ掛けられたのはミコだから、ミコから目を逸らすべきでないとの考え方。そのミコがこうして他人と協調せずに居残っているからこの神様達も居残っているのだ。ナミコはありきたりすぎるほど普通の人間を自負しているが、なんでこうも神様達の心境が分かってしまうのかが不思議だった。神様って、もっとこう……なんか偉そうで、色々超越していて――とかイメージしていただけに現物との落差が大きいのだ。軽くカルチャーショックでもある。
でも遂に椅子から降りて立ち上がった雇用主ことミコがナミコの心情を理解してくれたようでこんな気遣いの詞をかけてくれた。
「ホント、神様ってば俗っぽいわよねーナミコちゃん。ほとんどの子が目先のことしか見えずにクルサードに尻尾振って付いて行っちゃった。真に刮目すべきなのはこのわたしだっていうのにさ……ま、それがわかっている方も16名いたようですが、ナミコちゃん注意して。この16名こそ神様連中の中で俗物度トップクラスのランカー達なのよ!」
「ええっ! そんなこと……わたし、ビックリです!」
「だーっ、もう止めてえ! わたしたちの繊細な心硝子細工が砕けちゃう」
「あたしはもう砕けましたぜ……師匠」
「わたしも。いっしょだね、哉ちゃん」
「うおーっ! 哉! 祝ーっ!」
ミコとナミコの痛快なやりとりに魚が純情46%乙女チックフリフリな嬌声を上げ、同時に彼女の愛弟子2名は心が割れたと大袈裟なリアクション。そんなボケに本気で応える神様仲間達。これが俗物でなくてなんなのか――ミコに倣って椅子から離れ立ち上がったナミコは一層その念を強く持つ。まあ、あの日何の日婚儀の日、シャーロックとクララの結婚式場にミコの情報を求めて現れた落と希の前例からんなこと分かっちゃいましたが、改めて見てみることで、より確かめられることもある。そしてその機会が持てた自分は、多分幸運なんだろう――ナミコはそう感じたのだ。
ミコはナミコも立ち上がったことを確認すると、黒い腕と手を使って椅子類をがま口チャックの中へと放り込み仕舞う。ただ2本の黒い腕――未来電話を使うのに要する2本の手だけを残して、黒い腕も手も全部仕舞う。影帽子のがま口チャックから飛び出ているのは電話担当の腕2本と、非常にシンプルな姿になった。相変わらずミコは未来電話を耳に寄せ、何処ぞの誰かと話していたが、一段落ついたようで、未来電話の通話ボタンを押して通話を切ると、やはり仕舞わずに傍らに置いたままの状態でナミコと残った神様達に目を向けて、「行きましょうか」と提案する。それこそナミコを始め居残っていたメンバー全員が待ち望んでいた詞。拒否する者など一人としておらず、後発組として皆ようやく一歩を踏み出しお世話になった第1101号室を後にするのであった。