冬のプロローグ
漆黒の世界を、数多の星たちが照らしている。月が雲から顔を出す。世界が穏やかに流れている。そんな気がする。スマホで写真を撮っても、肉眼でみているように映らない、そんな夜空が好きだ。梅雨の昼間の空みたいな私の心が、嘘偽りの無い澄んだ星空を見て、清められていく感じがした。
帰り道、駅から家までの15分。12月の街は、私には眩しすぎる。賑やかなネオンを足早に通り抜け、閑静な住宅街に、今、私はいる。コンクリートの上を、トン、トン、トン。ローファーの中の指先は、凍ったように感覚がなくて、それでも、ゆっくり、視界を前に進めていく。なんでだろう。きちんと歩いているつもりなのに、足元がぐらぐらしている気がしてならない。足元に目を凝らそうとすると、一歩足を前に踏み出す度に、翻弄されているきみどり色のイヤホンコードが邪魔をした。諦めて再び空を見上げる。イヤホンから流れる音楽がサビに入る。大好きなアーティストのkeiの歌声が、そしてこの曲の歌詞が、私の心臓を鈍く突き刺して、抉った。
こういう日は、歌の世界に入り込んで泣きそうになる。哀愁ただよう冬の景色に、心が一体化した気分になる。曲の雰囲気に身を委ね、間奏に入ったとき、突然静寂が訪れた。あれ、おかしいな。現実世界に引き戻されて、我にかえる。私は再生停止なんて押していない。コートのポケットに突っ込んでいた右手を、しぶしぶ冷たい空気に晒し、バックパックのサイドポケットを探って、スマホを抜き出す。その刹那、聞き覚えのある着信音がイヤホンから流れた。ホームボタンを押してみると、案の定、見覚えのある画面に切り替わっていて、私はほんの少しだけ心を踊らせて、緑色の受話器のマークをスライドした。
『ひまー』
すぐさま聞こえてくる低くて心地の良い声。凍った心が解凍されていくような、そんな気がした。今日は少しだけ遠回りをして帰ろう。
「……びっくりしたよ。部活お疲れさまー」
多岐くんはサッカー部だから、きっと、この寒い中ずっとボールを追いかけていたんだろう。主に文化部が使用する3号館の隣はグラウンドで、私はよくそこからサッカー部の練習を覗き見している。
『仁奈ちゃんこそおつかれ。いま帰り道?』
そうだよ、と短く答えた。多岐くんも帰り道らしい。イヤホンから、踏切の音が聞こえる。普段はうるさいと感じる踏切の音の余韻が、私の心にすぅと溶け込んでいくようで、それはまるで紅茶に入れた砂糖のように、とても自然に混ざり合った。なんだか、イヤホン越しの多岐くんの世界を見てみたいな、と思った。
「空がすごく綺麗だよ」
月が雲に隠れる。あたりが少し暗くなる。多岐くんからは、この空はどのように見えるんだろう。踏切の音が消えて、ほんの少しの沈黙があった。
『仁奈ちゃんなんか元気ないでしょ?』
あたたかい声が、私の冷たい部分に触れて、キンという音がした。不意打ちと言うにはあまりに優しくて、でも確かにその言葉は硬くて冷たいものをノックした。
「え…? なんで」
私の言葉を遮るのかのように『あたり?』と聞いてくるあたり、多岐くんはずるい。私は悔しくて「あたりだよ」なんて言わない。
少しだけはやくなる鼓動を整えるように、冷たい空気を胸いっぱいに吸って、吐いた。吐息雪色。すぐ近くに公園がある。そこに入って座ってお話をしようと思った。
「私…多岐くんには敵わないよ」
なんとなく、そう呟いていた。私の心情を見透かされていたのが、悔しいのか、嬉しいのか、よくわからない。私は何が言いたいのだろう。
公園は、ベンチの上にひとつ街灯があるだけで、とても薄暗かった。なんとなくバックパックをおろして、なんとなくブランコに座ってみた。茶色く錆びた鎖が、時折小さな悲鳴を上げる。高校生の私が座るには座板が低すぎた。私はもう子どもじゃないんだなぁと、なんとなくその時思った。
『仁奈ちゃん星好きなんだっけ』
ノイズが僅かに混ざる。電波が悪いのだろうか。
「好きだよ」
好きだよ、と答えるだけなのに、なんだか照れくさい、と感るようになったのはいつからだろうか。でも、多岐くんの前ではいつもより素直でいれる気がした。
『ベテルギウスってわかる?』
「もちろん」
ベテルギウス。冬の大三角の右上の星であり、オリオン座を構成している一等星の星だ。赤く光っているので見つけやすい。
『地球からどれくらい離れてるか知ってる?』
さすがに知らないかな、と多岐くんは笑った。知らないよー、と私も思わず笑みがこぼれた。
『俺の記憶が正しければ642光年』
すごく離れている、ということは私でもわかる。そう考えると、とても大きな星なのだろう。
『てことはさ、今みてる光は…?』
一拍ほど置いて、恐る恐る答えてみる。あっているかな。
「…642年前、の光…ってこと?」
『正解』
ニカッと歯を出して笑う多岐くんが脳裏に浮かんだ。嬉しくなって、ブランコを揺らした。
つまり、私たちは2016年という時代に生きながら、642年も前のものを見ているということになる。ブランコから降りて、灯りの及ぶベンチの下にしゃがんだ。指で砂に数字を書く。砂いじりをして注意されていた小学生の頃が懐かしい。暗算しよろ、と笑われてしまいそうだが、あいにく私は算数は得意ではなかった(言うまでもなく数学は大嫌いだ)。筆算をすると……1374年…? 私は歴史は嫌いではないけれど、何があった時代なのかはさっぱり覚えていない。勉強しなさい、と自分にどつきながら、鎌倉時代よりは後なんだろうな、と漠然と考えた。
『なんかすごいよね…それにね、』
ザザ、ザザザ…。ノイズが会話の邪魔をする。私は立ち上がり、再びブランコに腰掛けた。キィ、と鎖が鳴く。ときおり静かに吹く風は、私の頬を撫でた。
電波の状態が整ったのか、再び多岐くんの声が聞こえてきて、私は安堵を覚える。よかった。多岐くんは、ベテルギウスについて、さらに話をしてくれた。
『ベテルギウスは消えるかもしれない』
それは私も、何年か前にニュースで聞いたことがあった。超新星爆発。もしかしたら、すぐそばの未来でそれを迎えるかもしれないし、気が遠くなるほどの年月を超えて迎えるかもしれないし、すでに爆発している可能性だってないわけではないのだと。
『だから何ってわけじゃないんだけどさ、宇宙のことなんてスケールでかすぎてよくわかんないし』
多岐くんが、唐突にベテルギウスの話を始めた理由が10センチだけわかった気がする。10センチだけ。
『だけどさ、あんなに明るくて大きな星でも消えちゃうんだから、人間なんて脆くてちっぽけな存在だよなって思ったの、さっき』
それだけなんだけど…、と多岐くんは今さら恥ずかしくなったのか押し黙ってしまった。
私たちの前には、どこで途切れるかもわからない、茫漠とした人生という名の時間が、ただただそこに立ちはだかっていて、私は時折不安に駆られて目を逸らす。灰色のもやがかかったそれを、どう取り扱っていいのかわからない。説明書なんてついていない。
自分の人生なんだから。大人は言う。
正解なんてないんだよ。大人は言う。
でも、正解はなくても間違いはあるのでしょう? 宇宙の中のちっぽけな存在なのに、どうして心はこんなに不明瞭な未来に大きな不安を持つのだろう。
そこまで考えると、なんだか病んでいるみたいだけれど。私はすごく深い穴を見下ろして、まるで穴の底の住民になったような気分になっていた。おかしくて自分で嗤ってしまいそうだ。
私が今悩んでいることは、そんな大きなことではない。もっともっと小さくて、もっともっと線がはっきりしている。ただ、その線に触れる勇気がない、怖いんだ。
「多岐くん」
『……』
たぶん、多岐くんは私を励まそうとしてくれたんだと思う。どうでもいい話をして気を紛れさせようとしてくれたのか、そこまで悩むことないんだと示唆してくれたのか、わからないけれど。不器用な優しさに触れることができて、幸せだなと思う。
「多岐くん?」
綺麗事を並べたような説教は望まない。誰だってそうだろう。
『……なーに』
つぐんだ口をようやく開いてくれた多岐くんは、心なしか照れているように思えた。
「私の話、聞いてくれる?」
誰かに相談するのは、久々な気がする。うまく言葉が出るだろうか。私は多岐くんに答えを求めているわけではない。ただ聞いてほしい。ごちゃごちゃした頭の中では、きっとそのうち電池が切れてしまう。
『もちろん。なんのために電話したと思ってるの』
電話の向こう側で、多岐くんが微笑んだ気がした。
空を仰いだ。ベテルギウスは、オリオン座の脇の下の位置で今も輝いている。時折吹く静かな風は、結っていない髪を優しく揺らした。私はブランコから立ち上がり、バックパックを背負う。さぁ、遠回りの続きをしよう。月明かりが夜道を照らす。さっきのように、足元はぐらぐらしなかった。
拙い言葉の欠片がひとつの星だとしたら、私はそれを紡いで星座を作ろう。
私は切り出すのだった。
「あのね、」
YUIさんの『Good-bye days』という曲は、映画「タイヨウのうた」を観て知っている人も多いのではないかと思います。
私はYUIさんの大ファンで(今はyuiさんですね)、この曲の歌詞が大好きです。
かっこよくない優しさがそばにあるから
「かっこよくない優しさ」がどういうものなのか、考えてみると深いなぁと感じていて、私はそんな男の子を書きたいなとずっと思っていました。
そして、そんな男の子がひとりの女の子の背中を後押しする姿を、現代の高校生と絡めながら私なりに書いてみました。
少し元気がないとき、星の綺麗な夜に、遠回りをして公園に入り、ブランコから見上げた空は、木々と混ざり合いながら美しさを演出して私の心を打つのです。
夏は昼間の空が好きです。青青とした蒼が好きです。
蒼穹の青空は夏独特のすがすがしさをまとっています。
今回は冬のお話でした。
またここで会えることを楽しみにしています。
夕海