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中二病。それは胸を抉る禁断の言葉。
厨二、邪気眼とも呼ばれるそれは、いわば麻疹の様なものであると言っていい。ある年代において驚異的な感染率を誇り、完治したとしても突然のフラッシュバックに転げ回ることも珍しくない恐ろしい病である。
もし、周りにこの病を完治させた人がいるのならば、どうかいたずらに触れないでやって欲しい。
その当時の言動の痛々しさは、本人が一番良く分かっているのだから。
もし、完治させた人が自らそれをネタとしたならば、どうか笑い飛ばしてやって欲しい。
心配されたり憐れまれたりされると、心にできたカサブタがいつまで経っても治らないのだから。
◆◆◆◆◆
「――夜坂美月は、まあ、いわゆる中二病ってやつなんだよ」
クラスの皆の顔を徐々に覚え始め、新しい環境にも馴染み始めた、入学から一月余りが経った日の昼休み。
ふとしたきっかけで仲良くなった同じクラスの男子――伊勢崎鉄平は、軽く辺りを見回した後、購買で買ってきた焼きそばパンをかじりながらそう切り出した。
その話題の種となったのは、初日の『自己紹介』における鮮烈なデビューから今日まであらゆる意味で周囲の視線を掻っ攫い続ける少女、夜坂美月。
「あいつは中学の頃からあんな感じのヤツでな。常に意味もなく上から目線だし、動作がいちいち芝居がかってるし、偶に口を開けば訳の分からない事を言うし。顔だけは良かったから言い寄るヤツは後を絶たなかったけど、結局誰も相手にされず、全員こっぴどくこき下ろされてフラれちまった」
そう言って大げさに肩をすくめた伊勢崎君は、話中の彼女――夜坂美月と同じ中学出身であるという事だった。
一緒にその話を聞いていたボクの小学校からの友人であるイガグリ頭――植木宏典が疑問顔で口を開く。
「でも、それだけじゃ中二病とは言えなくないか? ただの見た目の良い自意識過剰女じゃん」
「いや、それがな――」
投げかけられた疑問に対して彼が返した答えは、ボクらの想像を遥かに超えるものだった。
曰く、『持ち物はほとんど黒、まれに赤』、『鞄にルーン文字と呼ばれる記号のアクセサリーを大量につけている』、『黒魔術大全という名のぶ厚い本を所持していた』、『魔法陣のような幾何学模様を描くのが異様に上手い』、『牛乳をバカにし、コーヒーを称賛する発言をしていた』、『しかしすぐに称賛の対象が紅茶に変わった』、『何かにつけてすぐプライバシーという単語を出す』、『ときどき腕が包帯でぐるぐる巻きにされていた』、etcetc。
「で、極めつけは告白してきたとあるヤローに言ったセリフだ。――『あなたみたいな塵芥、"夜の女王"である私には相応しくないのよ』ってな」
伊勢崎君なりにがんばったであろう件の彼女の口真似を最後に、彼の話は一応の終わりを迎えた。
それに対し、聞いていたボクらの反応は芳しくない。
ボクは話の途中から痛みだした胸を相手に悟られない様に必死であったし、隣の植木はなにやらボクの方に意味ありげな視線を送ってきている。
こっち見んな。
「ま、まあ、別にそのくらいなら珍しくもないんじゃないか? 現にこいつだって――」
「それ以上言うとおまえの中学時代のあだ名をバラす」
「……オーケー止めよう。これ以上はお互いの為にならない」
なにか余計なことを口にしようとした隣のバカにだけ聞えるように声量を抑えた呟きに、植木は両手を上げて言葉を切った。
伊勢崎君はボクらのそんなやりとりを不思議そうに眺めていたが、特になにも言ってはこない。イイヤツだ。もしもしつこく聞いてくるようだったら口封じも辞さない構えだったボクとしては、穏便に済んでなりよりである。
「そっちの話はよく分かんねーけど、俺が言いたいのは、あいつに関わってもいいことねーぞってこと。見るだけにしても遠くからにしとけ。そうすりゃたぶん害はないから」
そう言って伊勢崎君は残りの焼きそばパンを口の中へと突っ込んだ。
これで、この時の彼女についての話は終わったのだった。
◆◆◆◆◆
時は移り、その日の放課後。
大多数の学生にとって、基本的に苦痛でしかない『学生の本分』とやらから解放されたボクと植木は、テニス部に入ったという伊勢崎君が部活へと向かうのを見送りだらだらと無意味にだべった後、すっかり人気の無くなった教室を出て昇降口へと移動しだした。
ここまで話せば分かってもらえるかと思うが、僕も植木も部活に入ってはいない。
……いや、ボクに限っては本当は何かをする気はあったのだ。部活から始まる恋の素晴らしさは数々の本の題材にされるほど光輝くものであり、もしそれが自分であったならと妄想で胸を躍らせていたのは事実である。――あの日までは。
そう、入学式があったあの日。あれほどに時間と手間をかけた『自己紹介』のまさかの失敗によってスタートと同時に転倒してしまったボクは、転んだ拍子に溢れんばかりだった夢や希望の大半を落っことしてしまったらしい。なんだか、イロイロなことがどうでもよくなってしまったのだ。
頭の半分は働くことを止め、いつも薄らとした眠気が付きまとい、心がフラフラパタパタと宙を舞う。別の意味での春の到来だった。もしかしたら、あの担任に呪いでもかけられたのかもしれない。
「……なーんかさー、高校生っつってもこんなモンなんだなー。中学の時と大して変わんねー」
カバンを持つ手を前後に大きく振り回す植木が、気だるげな調子でそう言った。
それはこちらに向けた言葉というより、不意に漏れた愚痴に近い独り言の様だった。
「まー実際がこんなモンなんだからこんなモンなんだろー。逆におまえの想像してた高校生ってどんな感じなんだよー」
「そうだなー。なんかもっとこーキラキラしててさー。基本は甘酸っぱいんだけど中学には無い苦みってゆーか大人っぽさがあってさー。かわいい女の子が俺の周りにたくさん寄って来てさー」
「なんか、おまえの中の高校生ってすんげーフワフワしてんな」
「うるせーなー。現実でこうやって足引きずって生きてんだから、想像でくらいフワフワさせろよ」
「あんまりフワフワしすぎると脳みそが御花畑先生みたくなるぞー」
「うわーやめろよー。冗談でもそれはないわー」
何とはなしに返事を返せば、いつものごとくくだらない、笑いどころすらないやりとりに。
「じゃーおまえ部活はー? 部活すれば少しはキラキラするかもよ? もう絵は描かねーの?」
「部活ねぇー。考えなかったわけじゃーないんだけどさー。やっぱり、いざという時に備えときたいからさー」
「備えるってなんにだよー」
「何って、おまえ――彼女ができた時に決まってんだろ!」
単純に疑問に思ったことを聞き返すと、植木は目を見開いて激しい驚愕を露わにした。
その叫びが辺り一面の空気を揺らす。
突然の豹変しかり、大声しかり、大げさなまでのその反応はこちらからするとうざったい限りだ。正直やめて欲しい。
「『何言ってんだコイツ!?』みたいな顔すんなよ。今の流れじゃフツーわかんねーから。それとやっぱり意味わかんねーから」
「ふーやれやれ。これだからホープムーンくんは……」
「おい黙れ。もう一度それを言ったらボクの右こぶしがおまえの顔面にめり込むぞ!」
「いいか、よく聞けよ? 一度しか言わないからな? こんなことを一から懇切丁寧に教えてくれる親切で度量も広くてナイスガイなヤツなんて普通は滅多にいないんだからな?」
「今おまえにある選択肢は二つだ。話を進めるか、その頭の芝生を根こそぎ刈られるか」
「や、やめろよ! やっとここまで伸びたんだぞ!」
自分の頭をその手で覆い隠して植木が後ずさる。百八十近い身長でするその様はなんとも滑稽だった。
頭のこととなると過敏に反応するその相変わらずな姿にボクが留飲を下げると、植木は場を仕切りなす様にゴホンと咳払いをした。
「話を戻そう。部活をすると、彼女が出来た時に大きな問題に直面する。しかし帰宅部であれば、その問題を瞬く間に解決できるのだ」
「そんな前置きいらないからさっさと話せ」
「そう急かすな。なに、簡単な話だ…………部活をすると、放課後デートができないんだよ」
植木がニヤリといやらしい笑みを浮かべる。
はっきり言ってものすごくウザキモイ顔だった。
「放課後デート。そう、放課後デートだ! 付き合い始めたばかりの俺と彼女。学校からの帰り道、ぎこちなく繋がれた手をたどって彼女を盗み見れば、その顔は夕日に照らさているのとはまた別の赤みを帯びている。思わず強くなる手の力に、彼女は優しく答えてくれる。雑踏の中、不意に彼女と目線が合わさる。周囲の雑音は途切れ意味のない背景は彼方へと飛ばされ世界には俺と彼女だけ。そして、二人の顔はだんだんと近づいていき――! あぁ! あぁ!!」
「おーい、先行ってるからなー」
自分自身を抱きしめてクネクネとその身を揺らす変態に距離を取ってから一声かけると、ボクは昇降口へと歩き出した。
かれこれ五年以上の付き合いとなる僕でも、あれはさすがに対処しきれない。というかあいつは、人気がないとはいえいつ誰が来るともわからない廊下であんなことしてバカじゃないのだろうか。初対面の人があれ見たら普通にドン引きだぞ。実際ボクもちょっと引いた。中学の時に同じような事をやって女子たちから気持ち悪がられた奴がいたのを忘れたのか。あ、やべ、胸が痛いぞ。
「おいおい、人がせっかく説明してやってたのに無視して置いてくなんてひどいじゃんかよ」
「……大丈夫、よーくわかった。お前に彼女は当分できない」
「なんだとこのヤロー!」
突然の胸痛によろつきながらも昇降口に辿り着いたボクに、後ろから追いついてきた植木のヘッドロックが決まる。といっても、締め付ける力には声ほど怒りがこもっておらず、それほど経たずに解放された。
「友人の心ない言葉に俺は大変傷ついた。帰り道でのタコ焼きを要求する」
「変な言いがかりはやめてくれないか。ボクが君を傷つけたって? それって何時何分何秒? 地球が何回廻った日?」
「うわ、懐かしっ。でもそれって改めて聞くとめっちゃウザイな」
笑いながら肩を殴られたので、ボクも一発殴り返した。
やはり、いきなり何かが劇的に変わることなどありはしないのかもしれない。
現にボクと植木のやりとりは、高校生になってもこれっぽっちも変わらない。
頭の片隅でぼんやりとそんなことを考えながら下駄箱を開け、勢いよく閉じた。
「ん? どうしたよ?」
「い、いや? べつにどうもしないけど?」
こちらに視線をくれる植木に極めて冷静に対処しつつ、今さっき目に映った映像を脳内リピート。
二段に分けられた内部。下部にはボクのスニーカー。そして室内履きを履いているために空のはずの上部には、長方形の二つ折りにされた薄い物体。材質は紙。おそらく折りたたまれた紙には文字が書いてあることだろう。
そうだ、きっとさっきのはあの伝説の――
「おい、ホントどうしたんだよ? 下駄箱になんかあったのか?」
「ははは、なにを言っているんだい植木君。下駄箱はいつでも下駄箱だよ。それ以上でもそれ以下でもない唯一にして不変の存在足る下駄箱になにかあるわけがないじゃないか!」
「お前が変なこと口走る時は大概焦ってる時だ。怪しい……」
「あ、あー! やっべー、教室に教科書忘れてきたー! 取りに戻らないとなー! でも友達をそんな些事に付き合わせるわけにもいかないしなー! というわけで今日はここで別れようそうしよう!」
「いやいや、俺も付き合うって。俺ってマジ優しいからさー」
ボクの完璧な演技に対し、植木がニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべながら近寄ってきた。
こ、こいつ! 今のはボクの友達想いなセリフに感動しながら帰る場面だろ! なんて空気の読めない奴なんだ! だからモテないんだぞ!
「いやいや、悪いって。時は金なり。時間というのは生物個々に与えられた有限な財産であるからして、こんな詰まらない用事で他人、ましてや友人の時間を浪費させるなんてできないよ」
「そんな友達甲斐のない事言うなよ。小さい事は笑って流すのが友情ってもんだろ?」
植木がボクの下駄箱へと手をかける。ボクは爽やかな笑顔を心掛けつつも全身全霊でそれを上から押さえつけた。
「……手を引く気はないのか」
「……お前こそ、素直に諦めたらどうだ」
この呟きはただの確認だ。互いの目を見ればわかる。双方が引く気など微塵も持っていないというが。
同時に下駄箱から手を離す。
話し合いは平行線。ならば、もう、やるしかない!
右手を左手で包みながら後方へ。一拍の静寂の後、勢いよく相手へと突き放つ――!
――じゃんけんポン! あっちむいてホイ! じゃんけんポン! あっちむいてホイ! じゃんけんポン! あっちむいてホイ! じゃんけんポン! あっちむいてホイ!
「しゃーっ!」
「グッ! ク、クソ」
無人の昇降口に、勝負に勝ったボクの咆哮が響き渡る。目の前で敗者が肩膝をついた。
勝利への決定打はボクのチョキから放った人差し指の流れるような下差しである。
バカめ! 貴様が四分の一の確率で下を向く事など研究済みよ!
「勝者からの命令である。一人寂しく帰路に着くがいい」
「くっ、あっちむいてホイ程度で勝ち誇りやがって……!」
「ふはは、負け犬が何か吠えておる。人語を学んで出直すがいいわ!」
ブツブツと文句を垂れ流しながらも、植木はおとなしく昇降口から去っていく。
高笑いと共にその姿が校門の向こうに消えていくのをしっかりと確認したボクは、大きく一つ息をついた。
なんだか勢いに任せるあまり、少しばかり言動が痛々しくなっていたような…………。いや、いい。思い出すのは止めよう。都合の悪い記憶なんてさっさと忘れた方が人生楽しく生きられる。
いらない過去をそこらにポイと捨て、ボクは改めて、ゆっくりと己の下駄箱の蓋を開いた。
――やっぱり、あった。
恐る恐る手を触れると、そこにはしっかりとした紙の感触。
幻じゃ、ない。
確かにボクの手の中に、二つ折りにされた黒い便箋が存在している。
「マジかっ……!」
抑えきれない興奮に思わず手が震えてくる。ついでに頭の中でシックスセンスが久々にそのうなりを大きくした。
おいおい、ボクのシックスセンスがこれほど反応するなんてよっぽどだぜ!? これは、もしかするともしかするぞ!
頭の隅にスッと上がった『黒い便箋っておかしくね?』なんて疑問は出てきた傍から即デリート。
きっとあれだよ。間違って便箋を墨汁にでも浸しちゃったんだよ。それぐらいテンパりながらこの手紙を書いてくれたんだよ。きっと書いてくれた娘は書道部所属で間違いない。ウチに書道部あるか知らないけど。
「やべー。これはやべー。マジやべーってマジで」
二つ折りにされた黒い便箋を慎重に開く。
墨汁の黒を背景にした(と脳内補間した)便箋には、赤い文字で簡潔にこう書かれていた。
『望月錬太郎 君へ
今日の放課後、一年A組まで来なさい
夜の女王 より』
――決まりだ。もう間違いない。
これは、粉う事無きラブレター。
夜の女王さんからボクへ向けての恋文でしかありえない。
一見単なる呼び出しに見えるが、決してそうではない。ボクの脳内ではもうこれを書いた娘がおぼろげながら見え始めていた。
手紙でありながらの上から目線での命令形。夜の女王という自称。そして文字の赤い色。この三つから、この手紙の彼女は大人っぽいツンデレ(でも中身はほぼデレ)美少女だという事が推測できる。
女王を自ら名乗るのだ。きっと自分の容姿にそれほどの自信があるはずだ。大人っぽくて、スラッとしていながらも出るところは出ているに違いない。
そして、女王を自ら名乗る彼女は、だからこそ命令形という形でしか手紙を書けなかった。女王を自称するそのプライドが、ツンとなって手紙に出てしまったのだ。しかしそんな表面上ツンツンな彼女の内心が予期せぬ所から漏れ出てきているのをボクはしっかり感じ取っている。
恋人達を繋ぐ運命の糸が赤色であるように、恋愛において"赤"とは特別な色なのである。おそらく、彼女の中からあふれ出るボクへの思いが無意識の内に赤いペンを握らせていたのだろう。それほどまでに彼女の内なるデレは大きいのだ。もしかするとそれを薄々自覚しているからこそ、抑え込むために表面をツンでコーティングしているのかもしれない。
"夜の女王"という呼称も最近聞いた覚えがある。どこでだったかは定かではないが、おそらくその人物に対する噂話だろう。これはつまり、その呼称が自称ではなくほぼ公称として扱われている事に他ならない。"夜の女王"という呼び名が他人から見ても彼女にふさわしい物であることの証明なのだ。彼女は、自他共に認められた美少女であるとしか考えられない。
以上の事から判断するに、手紙の彼女は『書道部所属の大人っぽいツンデレ(でも中身はほぼデレ)大和撫子美少女』で決定だ。
恐るるべきは、わずかな情報からここまで導く事の出来るボクの頭脳か。きっと脳細胞の色は間違いなく灰色だろう。でも灰色の脳みそってなんだか病気に侵されてるとしか思えないのはボクだけだろうか。あれか、病気と天才は紙一重って事なのか。そこに気付くとはさすがボク。脳みそマジ灰色。
「あーやべー、マジやべー。教室戻んなきゃだわー。うひ、うひひ、うひひひひ」
浮つく思いを心の奥底に閉じ込め、ボクは落ちつき払って一年A組の教室へと踵を返した。