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春。それは出会いの季節。
砂場遊びを卒業し、戦隊ヒーローの中の人の真実を知り、「クッ!? 静まれ、ボクの左腕ッ!」といった青い春を黒く塗りつぶす様な言動を恥ずかしいと思えるようになった、ボクこと望月錬太郎と言う人間にもそれは等しくやってくる。
毎年やってくるはずのそれは、これまでボクに何ももたらしてはくれなかった。
しかし、今年は、今年こそは、きっと何かが起こるはず。
滅多に働かないボクのシックスセンスが、うなりをあげてそれを知らせてきているのだ。
変化する環境。変化する人間関係。それらがボクにもたらしてくれるであろうモノは、きっと、とてもすばらしいモノであるはずだ。
そう信じて疑わないボクの胸には、希望しか無かった。
――後に振り返って思う。
この時のボクは、分不相応にも浮かれていたのだ。
◆◆◆◆◆
この春に中学校を卒業し、新たにこの星見ヶ丘第三高等学校へと入学を果たし、身の内から溢れんばかりの希望で入学式での偉い人のお話を乗り切った今のボクの目線の先には、一人の女性が立っていた。
肩甲骨辺りまで伸びる髪がまるでわた雲のようにふわふわとした曲線を描き、その表情はまるで外の天気を表すかのような晴天のごとき笑顔。日本人女性の平均身長に若干届かないぐらいの身体をその存在を強烈に主張する二つの母性の塊ごとピンクのスーツで包み込み、ひどくゆっくりとした速度で黒板へと字を書き始める。
まるで、今の季節を体現するかのような女性だった。
「えー、わたしがこのたび一年A組の担任となった、御花畑沙織でーす。みなさん、一年間よろしくおねがいしまーす」
黒板に自分の名前を書き終えた彼女はこちらに振り返ると、その容姿、雰囲気にぴったりの、夢見る少女の様な声で自己紹介。
何と言うか、名は体を表すとはこのことを言うのだろうか。出会って三分。未だまともな会話などしていないにもかかわらず、悪い男に引っかかっていないかを思わず心配してしまうレベルだ。
この人が担任って、大丈夫なのかこのクラス。
周りを軽く見渡せば、皆似たり寄ったりの微妙な顔。どうやら一年A組は新学期早々に一つにまとまったようだった。
「それではさっそく、新学期お決まりの自己紹介をしてもらいたいと思いまーす。みなさん、できるだけたくさんの人の名前を覚えて、早く仲良くなりましょーねー?」
教壇に立つ御花畑先生は、そんなボクらの気持ちなどまったく感じ取ることなく、緩やかな口調でさっさと話を進めてしまう。
『自己紹介』。
聞えてきたこの単語に、ボクの緩んでいた気持ちがキリッと引き締まった。
高校という新しい環境における人間関係の構築において、見過ごすことの出来ないイベントこそがこの『自己紹介』だ。第一印象がその後の関係に与える影響を考えるに、ここでの成功が僕の春を鮮やかな青色に染めてくれるであろうことはまず間違いない。
だからこそ、ボクはここ一カ月近くをその練習に費やしてきた。
洒落の効いた挨拶。簡潔でありながらも印象に残る様な内容。春風の様に爽やかな笑顔の作り方。
ボクの春休みは『自己紹介』の為にあったと言っていい。
そしてついに、その成果を出す時が来たのだ。
振り向かせるのだ、その視線を(主に女子の)。
ガッチリ掴むのだ、そのハートを(女子限定。できれば美少女の)。
これまでの経験から鑑みるに、自己紹介の順番は出席番号順。つまりはアイウエオ順だ。ボクの名字は望月だから、回ってくるまでには結構な余裕がある。それに、ボクの考えてきた『自己紹介』は全部で七パターン。場が盛り上がっている時から直前の人が滑ってしまった時までのことを想定し、考えに考え抜いたそれらを使い分ければ、失敗などありえはしない。
ああ、早く始めて欲しい。直ぐ先に待っているのだ、ボクの甘くて酸っぱい青い春が――
「じゃあー、窓際の前から三番目のきみー。きみから始めましょー」
「………………は?」
しかし、幸せいっぱいの未来に思いを馳せていたボクを待っていたのは、御花畑先生の予想外の言葉だった。
聞えてきたそのセリフが脳内で何度もリフレイン。
窓際? 前から三番目? それは誰だ?
それはボクだよ。
「はい立ってー」
「は? え? ……あ、はい」
「それではさっそく始めましょー。みなさん拍手ー」
状況を上手く飲み込めないまま席を立ったボクに向けて、四方八方からの拍手と共に三十人余りの視線が突き刺さる。
え、一番最初の『自己紹介』をボクがするの? そんなの、ボクのやったシミュレーションには無かったよ?
「…………えーっ、と」
口を何度か開いてみるも、後に言葉が続かない。
あ、ヤバイ。頭が真っ白。
先ほどまで確かにあったボクの七つの秘密兵器は、あまりに予想外な出来事に欠片も残さずきれいさっぱり吹き飛んでいた。
「んー、どうしましたー? 名前、出身中学、趣味、特技などを言うだけでイイですよー?」
「……えー。名前は望月錬太郎。四隅池中学出身で、趣味・特技は……特にありません。これからよろしくお願いします」
「はい、よくできましたー。みなさん拍手―」
いつまで経っても言葉を発しないボクを見かねたのか、御花畑先生のフォローが入る。
その型枠通りに話し、最後に軽くお辞儀をして席に着いたボクにどことなく気の抜けた拍手が浴びせられた。
……あれ、ボクの『自己紹介』これで終わり? なんだか予定と違うんですけど。
予定ではもっとこう、教室は溢れんばかりの拍手で満たされて、キラキラした目で皆に見られて、中には熱い眼差しを向ける娘がいたりして。
だが実際はどうだ。最初は何も言わずに棒立ち。先生にフォローを入れられ、喋ったことは面白味もオリジナリティーも全く無し。
地味だ。地味すぎる。これでは今までと同じではないか。いや、下手したら自己紹介も満足にできない根暗ヤローだと思われたかもしれない……。
「はーい、では次ー。その後ろの子ー」
着席と共に思わず頭を抱えたボクを余所に、御花畑先生は『自己紹介』の進行を続ける。
ちくしょう。元はと言えばアンタがセオリー通りに始めてくれればこんなことには……。
思わず恨めしい視線を送ってしまうボクに罪は無い。悪いのはあの脳みそ御花畑先生だ。
「――はい」
ボクが脳内で思いつく限りの罵詈雑言を担任へと送っていた時、背後からイスを引く音と共に声が響いた。
女子にしては若干低めのその声は、大して大きくもないのに空気を引き裂くようにして一直線に駆け抜けていく。それはまるで音の刃の様。
その刃に両断されたボクの背筋をゾクゾクした何かがはいずり回る。
ついでに、ここ最近ようやく働き出したシックスセンスがそのうなりを大きくした。
「中々丘中出身、夜坂美月。趣味は秘密。特技も秘密。だって個人のプライバシーだもの」
思わず抱えていた頭を上げて振り向いた先に居たのは、夜を凝縮した様な女子だった。
病的なまでに白い肌は作り物の様で生気を感じさせず、腰元まで伸ばした長く真っ直ぐな髪は夜の帳のような漆黒。一直線に切りそろえられた前髪の下から覗くつり目ぎみの瞳は黒曜石のごとき輝きを放ち、整った顔立ちはその肌の色と合わさりまるで日本人形の様。柳の木のごとくスラリとしたその体が加えられると、もはやこの世のものとは思えない。
訂正させて欲しい。夜を凝縮した様な美少女だった。
「ついでに、良い機会だから言っておくわ。私に見惚れるのも惚れるのも自由だけれど、告白だけはしてこないで。私にふさわしい相手は私が決めるの。その他の有象無象の告白なんてただただ面倒なだけだわ。だから、貴方達は私に声をかけられるまで従順な犬のように頭を垂れて待っていればいい。わかった?」
芝居がかった仕草と共にそう言って『自己紹介』が終わり、彼女は何事もなかったかのように席へ着く。
しかし、彼女の『自己紹介』はボクを、クラス中を、そしてあの御花畑先生すらも機能停止に追いやっていた。
この時のボクは、さぞ間の抜けた顔をしていただろう。
呆ける様に彼女を見続けていたら、その黒い瞳と目が合ってしまった。
彼女の口の端が上がり、三日月が浮かび上がる。
「……は、はーい、みなさん拍手ー」
やっと回復したらしい御花畑先生の声で、ハッと我に返った。
ボクの時よりも大分控えめな拍手が上がる中、急いで前に向き直る。
「はい、次ー。その後ろー」
「はっ、はい。矢次原中出身、渡部琢磨です。趣味は――」
『自己紹介』が再開される。
でも、ボクはそれどころではなかった。彼女の浮かべた笑みを見てから鳥肌が治まらない。
その後、治まらない鳥肌に加えてピリピリと痛みだした首筋に集中を乱され、結局ボクは担任と一つ後ろの女子の名前しか覚えることが出来なかった。