第294話 選択の重さ
消えかけた意識が声に引き寄せられて浮上してくる。
アルトの声だ。何度も、何度も呼びかけてくれている。まだこの世界に居られていることの実感がようやく得られた。
しかし、目が開かない。体動かない。匂いも感じられない。彼女の姿を確認する術がない。
「……と」
あまりにも情けない、細い声が出た。敏感に反応してくれたのか、彼女はさらに強い声で呼びかけてくれている。
「ユウッ!!」
「……る、と」
泣きじゃくっていたような、濁音の付いた声だった。命からがらとはいえ、あの空間から無事抜け出せたようである。
皆で団結して協力したからこそ、彼女の捜し物を見つけ出し、渡す事が出来た。
――しかし、その代償はあまりにも大きい。
「あると、ある、と」
「ボクはここにいるよッ、ユウ! ユウッ!」
レムも、ミカヅキも、アーサーも、ソラも、ファラも、シーナも、ドリュードも、そして勇者も……ここには居ない。
だけど、彼女はすぐ側に居てくれた。
果たしてこの選択が最善策だったのか、最悪の策だったのか全く想像がつかない。
だが、選択は取り消すことも出来ず、やり直すこともできない。この先何が待ち受けていおうとも、選択した現実である“いま”を受け止めなくてはいけないのだ。
エゴを貫くとは、他人を巻き込んで己の道の為に力を貸してもらうこと他ない。
「見え、ない。何も……先が見えないんだ」
ついさっきガルドラボーグと話したのに――先の見えない未来の恐怖感に心を押し潰され、折れそうだった。
目はまだ開かない。いや、開けたくないのだろう。
現実から逃げるように体に意識を向ける。
体のあちこちに他人の臓器が埋め込まれているような感覚があり、この世界に来てから当たり前のようにあった魔力の感覚が抜け落ちていた。
それは、女神が俺を世界に適合させるために受けさせた直後の感覚と似ている。
違和感は当時と異なり、今抱いているのは純粋な異物感であった。
「う、え……」
「ユウッ!?」
アルトの声だけが虚しい背中にかけられる。
横になっていたが、立ち上がろうとして――立てない。
硬い地面に叩きつけられて、横になりながら吐いた。
なにを吐き出したのか分からないが、無数にある違和感の一つはここで吐ききった気がする。
「……だめっ! 吐いちゃダメだよッ!」
差し止める声が響くも嘔吐感は収まらない。
どんどん、どんどん溢れてくる。
吐き出さなきゃ。詰まって。詰まって。くるしいんだ。
「……予想以上だよ。もちろん、悪い意味でね」
「だ、れ、だ……」
「その目を開けなさい。もう後戻りはできない」
見なきゃダメなのは分かってるんだ。
だけど、この両目で見たら、ここが夢の世界じゃなくなって、本当の現実だってことを、魂から理解してしまう。
全部夢の世界で、全部嘘で、トラックに引かれて死んだのだって嘘で、異世界ってのも嘘で……
「では、ソラ様とファラ様が身を呈してまで守った事も嘘だと、そう仰るのですか?」
吐き出した塊から声が響く。
俺が吐き出したのはゲル状のプニプニだろう。
だけど、その気づきすら、悪い方向へと進む。
――ソラとファラは、もう、居ないのだ。
「あ、あ……」
「彼女が感じた無情はこんなものではなかったわ。少しは理解できたかしら」
軽い足音が響き、誰かが溜息混じりの声を投げかけた。
聞いた事のある声だった。
その声の主に対し、アルトは相当怒ったような様子で声を張り上げたが、幼い声の主はこちらへ向けて続けて言葉を繋ぐ。
「そんなに見たくないなら一度死んでやり直してみるかしら? やってみないと分からないでしょう。何せ貴方はもう――」
「クワイア!!いい加減にしてよッ!!」
「これ以上彼女の感情を昂らせないで。もう隠しきれなくなります」
「……申し訳ございません」
プニプニが俺の体越しに深く謝罪する。
隠す? クワイア? 何が一体どうなってるんだ?
「ユウ殿、もう、進むしかないのです。むしろ、今まで奇跡だったのですよ。これはユウ殿が最善の選択をした結果です」
「私としては凄まじい結果と思いますよ。もっとも、人間全員を敵に回しましたが……それはそれでしょう」
「アルト、あなたも何か言いなさい。いま直ぐ死んでもおかしくないのよ、彼」
「……分かってる。クワイアは黙ってて」
「はぁ、好きにしなさい」
混乱している俺をさておき、アルトは近づいて優しく語りかけてくれた。慈しみに溢れ、誰よりも暖かみのある声だった。
「ユウはボクたちを選んで、そして戦ってくれた。もう言葉じゃ感謝しきれないんだ。だから、また目を開けて。君が選んだボクを見て欲しいな」
彼女に手を引っ張られて立ち上がると、今まで開かないと思われていた重い瞼がゆっくりと――開く。
彼女の体は服越しにでも分かるほど包帯でぐるぐる巻きにされており、腕には点滴の針のような物を差し込まれている。
一言で言えばボロボロの状態である。そんな重い怪我を負いながらも、満面の笑顔で俺の正面に居たのだ。
「アルトは、生き、てる」
「うん。でも、ユウが居なきゃボクは死んじゃってたよ。ユウが選んでくれたから、ボクはこうやって今生きてるんだ」
口元を拭いてくれると、彼女はじっと俺の瞳を見つめている。
あぁ、ダメだ。このままの俺ではこんなにも綺麗な彼女を悲しみで染めてしまう。
アルトは生きてる、プニプニだって生きてる。
他のみんなもまだ死んだわけじゃない。前を向けば助け出すための行動を起こせるはずなんだ。
俺のためだけではない。皆のために今は辛くとも、前を向かなくてはならないのだ。
「ふふっ、おかえり、ゆうっ!」
そうして、彼女はまた笑って頭に手を伸ばし……既のところで止める。
「今はまだ君の体に触れないけど……直ぐにぎゅうってできるようになるから。だから、もう少し待っててね」
「アルトも……なのか? その、魔力が――」
「あ、ユウ考えてる程じゃないよ!むしろ、有り余りすぎて大変なの!」
彼女はあせあせとしながら手を振り、立ち上がる。
何かを抱えている様子だったが、深く掘り下げることは出来なかった。
しかし、彼女のおかげで冷えきった頭に血が回り始め、冷静さを取り戻せた気がする。
――いや、待ってくれ。俺は生きてるのは確かなんだろうけど、ここはどこだ?
「い、一瞬で空間が軋むほどの圧力が収まりましたな」
「彼を助け損なったら私たちが危ない状態とは。とんだ魔王様ですよ」
「……砂糖を吐きそうだわ」
声の主は上から順にプニプニ、白衣を纏ったドワーフ、そしてアルトの刀を治す時に見たことのある幼い少女である。
白衣のドワーフはマシニカルにて大鬼と戦った後に俺の体を治療してくれた男性である。
また再び会えると思っていなかったが、俺が今五体満足――と思われる状態のままで居られているのは彼のおかげだろう。
「また助けてもらったのか……ありがとうございます」
「ようやくこちらに目を向けてくれましたか。こんにちは異端者さん。マシニカルでの治療費を完済してないことをお忘れなく。しかし、今回はハウルより治療費は頂いています。未納の分は何卒お早めにお願いします」
「うっ……ハウルさんが手配してくれたってことか……」
「ええ。それに、私でなければとても救いきれるものではなかったでしょうね」
起きて早々お金の話をされる辺り、彼はマシニカルで出会ったお医者様に間違いないだろう。
聴診器、片目のモノクル、というように明らかに医療関係者である格好をしており、コスプレのように見えるが、彼の正装なのだろうか。
「未納って……うっ!?」
「ユウ殿、失礼致します」
浮遊感に驚いた声をあげると、執事姿のプニプニが俺の体を持ち上げ、ベットに戻してくれていた。
プニプニの姿を見て、脳裏に浮かび上がるのは――遠く離れていく彼女たちの背中だった。
「やっぱり、ソラとファラは――」
「今は不在です。ですが、必ず、戻ってくるとの事です」
「死んでないってことか?」
「ええ。あの二人は聖霊ですぞ。簡単に亡くなっては困ります。ふぉほほ」
「……そうと、信じたい」
俺の状態がこの酷い有様である以上、嘘をついている可能性が否めない。全て落ち着いた後でしっかり話を聞くべきだろう。
今思い返した記憶のように、ソラとファラが守ってくれたからこそ、俺たちは今生きている。
サウダラーの死神と呼ばれる魔物が放った攻撃は、勇者の魔法よりも凄まじい威力を秘めており、余波ですら死にかけたのだ。
「この世界にはあんな魔物もいるのか」
ベットに横たわり、体の力が一気に抜ける。
勝てる見込みがない。この一言に尽きる。攻撃が効いた様子もなければ、弱点すら見つけられなかった。正真正銘の化け物である。
「……強くならなきゃ」
「まずは体を治すことに集中しなさい。あの娘にこれ以上負担をかけさせないで」
「見たことある顔だ」
「ええ。そうね」
黒いツノフードを被ったロリっ子、しかし雰囲気は大人のお姉さんである。
彼女こそクワイアと呼ばれていた人物――人物?
「刀じゃないのか?」
「半分正解。話すと長くなるから端折るけど、わたしたち女神級武具はみんなこうよ。覚えておきなさい」
「そ、そうなんですね」
冷たい瞳で彼女は突き刺すように言い放つ。
相変わらず仲良く、とは言い難い雰囲気である。
「言ったでしょう。刀は家だって」
「え、でもその時は伝説級って言ってた……」
「ああ、もうめんどくさいわね。私が家主として戻ったから位上げされたの。今まではただの廃家よ」
「えっとね、ユウ。伝説級は確かに最高の品質なんだけど、そこに女神様の寵愛があって、武具に魂が内包されていることが女神級武具の条件なんだ」
俺の知っている女神級武具はただ一つ、勇者の光剣である。
つまりあれもクワイアと同じように喋ったりするのだろうか。
「混乱しそう。とりあえずまた後で聞こう。それでなんだけど……ここ、どこ?」
「えっとね、うーん。ユウ、とりあえずもう一回さ、プニプニを飲んで?」
「え……飲むって、このおじいさんを?」
「左様でございます。ささ、お早く」
そう言ってプニプニはしわしわの手のひらを差し出し、ゲル状に溶けて無理やり口から俺の体に入り込んできた。
有無を言わさず入り込んできたので抵抗しようとしたが――クワイアとドワーフの医者のホールドが本当に早かった。完全に予想していたのだろう。
何もアクションを起こすことができなかった。
「ごぼぼぼぼぷぁ!?」
「もう吐いちゃダメだよ! めっ!」
「……う、え……さっきなら気持ち悪かったのこれか……」
「要因の一つ、ですな」
無理やり飲み込まされ、体からプニプニの渋い声が響く。何とも気持ちが悪い。
そしてこの時にようやく体に魔力が戻った感覚を得られた。
その違和感に驚き、思わず己の腕を見て、そして手のひらを開いて、違和感の本当の正体に気がつく。
「何だ、これ。腕の先が――」
「そう、君が“悪魔”へと一歩近づいた証拠だ」
肘から手のひらにかけて、茨のような黒い刺青がびっしりと掘られていた。それも両腕どちらもである。
タトゥーなんて到底柄でもないため、直ぐに逆の手で擦ってみたが、当然消えるはずがなかった。
「ついでに、貴方の瞳も変わってるわよ。鏡を見なさい」
ドワーフの医者が持ってきた手鏡を見てみると――片目の結膜が真っ黒に染まっており、瞳は血のように真っ赤に変貌していた。唯一無事なのは黒い瞳孔だけである。
突然のメタモルフォーゼに気が遠くなりそうになり、さらに脱力して枕に頭を沈める。
一番感じていた違和感はこれである。体の部位が自分のもので無い気がしてならなかったのだ。
「“悪魔“の影響が大半ですが……境界に近い立地なのも多少なり影響しているんでしょう」
「ここはね、人間界や魔界とはまた違う場所なんだ。ヒトじゃないヒトたちが生きる場所、亜人界。それがここの名前だよ」
アルトの発言を耳にして、完全に脳が処理落ちして思考が停止する。
ギギギギと効果音を響かせて首を回し、何とか問いかけた。
「えっと……ここ、異世界?」
「そうとも呼ばれますな。異邦人と呼ばれる方々は主にこちらが出身です」
「勘違いしないで。ここも現世界だから」
「帰れないけどね。あはは……」
アルトの笑い声で完全に思考が追放された。
昼でもなければ夜でもない。今何時なのかも分からない。
窓の向こうの空は、どこまでも赤く、邪悪な雰囲気が漂っていた。
ご高覧感謝です♪