第293話 消えぬ悪意
第12章開始です。楽しんでいただければ幸いです。
この世界では人間、魔族、獣人といったように、種族によって住む世界が分けられている。
人間は人間界に、魔族は魔界に、そして、獣人族は獣族界、といったように区分されており、共通しているのはそれらは全て“ヒト”という大きな括りで一つにできる点である。
――そして、ヒトの枠組みに当てはまらないその他全てのヒトモドキを“亜人”と呼ぶ。
亜人とは、最も身体構造が魔物に近いヒトのことである。
彼らの生まれは”悪魔”と呼ばれた怪物が世界を半壊させて、ヒトとヒトでない者たちを割かつ世界の境界線を作った事がきっかけである。
その境界に一般のヒトが足を踏み入れようとするならば、一瞬にして魔物へ姿を変えさせられてしまい、理性を失って生あるものを襲う怪物となってしまう。
つまりはヒトとヒトでない者は絶対に関われない状況が現在もまだ続いている。
「――と、これが一般的な話なんだけど、ウチのように例外もあるわけで」
「ほぇぇ、ならあんちゃんはあの境界を超えたってのか。んで、どうだ? ヒトってのは俺たちのことをどう思ってるんで?」
爬虫類のような体表、蛇のような細い瞳、太くてゴツゴツしたしっぽを地面に叩きつけながら興奮気味に問い詰める。
彼は鎧や腕章を装備していることから、ごく一般的な亜人の兵士のように見える。
このことから、亜人の中でも秩序が成り立っており、上下関係があることも伺えた。
亜人の彼と話をしているのは橙色の髪色で、同じような瞳の色を持つ男性である。亜人らしい特徴は見受けられず、如何にもヒトのように見えるが……彼もまた亜人である。
細く開かれた瞳は明らかに相手を値踏みするかのような打算があり、回答の帰ってこない時間が数秒、そして口を開く
「――ウチは亜人だ。ほら、見ててみ――」
「うへ!奇術か!?」
「いいや、元からの体質よう」
彼が顔の半分を左手で隠して離すと、目の前の亜人兵士と同じ顔が半分だけ作られていた。
もう一度同じ動作をすると、元の幸薄そうな顔に戻り、表情が固まる。
「さぁ、ウチの商品と情報を買ったんだ。あの情報を売りい」
「あ、ああ。驚いちまったよ。なかなか見ない体質なもんでな……これだろう、欲しいのは」
彼は懐から書簡を取り出して手渡す。一度流し見をして、満足したのか彼の肩を二度軽く叩く。
「毎度ありよお」
「いや、おめぇさん。そこまでこの情報に価値あると思ってんか? 確かにこの辺じゃ見かけねぇカオだがぁ――中央街までいけァおのずと知ることなるだろうに」
「いいんだ。ほっとけい」
「まぁ、おめぇさんは商人なんだろうし、この情報が役立つかは俺にはわからんが……とにかく気をつけてな、近頃は物騒だ」
「お互い様や」
彼はすぐ後ろに待機させていた馬に乗り、街に入るのでなく、反対方向へ向かっていく。
しばらく歩き続けた彼は森の中に到着し、焚き火を付けて――兵士から貰った書類をかざす。
「やっぱりなぁ」
すると今まで書いてあった情報が焼き消え、新たな文字が浮び上がる。
そこで書かれていた文字は夕たちがいた人間界とは異なっていたが、彼は難なく読み取り、望み通りのものを獲得できたことを確認して思わず顔を歪める。
「――あぁ、ウチは誰なんだろうなぁ。ようやくこれで分かる」
偏った喜びでもなく、怒りでもなく、悪意もなく、善意もない。全ての感情はその一瞬に含まれていた。
「魔王来訪、ね。どう来たのは知らないけど、事実。一世一代の商いに利用させてもらいますわぁ」
彼は書簡を火に焚べ、それは黒い煙となって空へ広まっていく。
境界を跨いだ先にある亜人界の空は常に赤く、雲は黒い。“悪魔”の魔力が未だ影響のある証拠であった。
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暗いこの空間の中には、ほぼ確実に死が目の前にある。
この世界に来てからというもの、夢の世界のような空間に何度も何度も落とされた。
ただ、その空間の中で、今のような恐怖の感情を抱くことは一度しか無かった。竜人の里で過去と向き合わさせられたあの時だけである。
今まで暗い空間に畏怖の感情を抱かなかったのは、暗いではなく、黒いだけだったからだろう。
「……」
本当の暗い空間とは、まさにこれだった。
あの時と同じだ。寒くて、本当に暗くて、死の雰囲気に満たされている。
「気分はどうだ」
「……シャナク」
目の前に軍服姿の彼の姿はない。暗黒が広がっているだけだった。
こんな空間に引き込まれたのだから当然気分は非常に悪い。だが、今は気分だけで済むような話ではなく、緊急の事態である。
彼もまた俺の一部であることで、俺の“本体”に異常が起こっていることを知っている。
「――あぁ、まだ返事ができるのか」
彼の望む展開とは、俺にとって間違いなく悪いことだろう。手段は何もかも分からないが、今できることをするしか現世に戻るすべは無い。
「で、ここに引き込んだ理由は?」
「いいや、汝から堕ちたのだ。ようこそ、我らの世界へ」
ニョキニョキ、ぺたぺたと、無数の人の手のようなものがどこからか現れて触られると、その部分から体が黒く変色して広まっていく。
俺、つまり波風 夕が彼の力によって闇に溶かされようとしているのだろう。
「やり過ぎたな。汝の命は風前の灯火と言うやつだ。人間にしてはよく持った方だろう」
「ま、だ、生きてる」
「精神は、な。体はもう使い物にならん
「……っ」
目を閉じれば暗闇の向こうから微かにアルトの声が聞こえてくる。
しかし、その声に向けて返事をすることもできなければ、目を合わせることすらできない。
――俺の体は限界だった。
いくら女神に世界に対応できるような体を与えられたとはいえ、限度がある。
その限界すらも超えれば、己の命で代償を払うしかない。
「吾の魔力、勇者の魔力、そして、魔王の魔力。女神と関係のあるお前の体とはいえ、耐えられるわけが無い。意識があることすら驚きだ」
「そ――気――な」
『そりゃ気絶半減のスキルが仕事してるからな』
と発言したつもりだった。
しかし、想いが声になることはなく、微かに絞り出せたのは声ではない。ただの音だけである。
精神体の俺も数刻と維持できない。
「っ……」
奥歯を噛み締め、心を落ち着ける。
焦ってはいけない。しかし、胸の裏でジリジリとバーナーで焼かれるような熱さを感じ続けている。このままだと、本当に、死ぬ。
「ここまで深く人間に関わったのは初めてでな。話したいことがあるなら聞こう。もっとも、話す口があるならな」
黒い腕に口を押えられ、顔の下部が闇に溶かされて存在が消滅する。彼はそんな俺の姿を見て笑みを堪えているのだろうか。
結局のところ、彼は何がしたかったのか一つも分からないまま関係を断ち切られそうだ。唯一確かであるのは俺を助け、条件付きの力を授けてくれたことだけ。
彼の行動の原則となっているのは俺との間にある契約なのに、それを一方的に取り消そうとしているのが最も理解できない。
今の現状を把握するために、聞くならこれしかない。
「ふっ。吾についてか。良いだろう。汝が消え行くまで語ろう。――お前もあの男と会った事だしな」
「……」
「まず最初に、あの者たちが崇拝する悪魔とは吾であろう。あの感じにも覚えがある」
その言葉を聞いて暴れたい気持ちに駆られるが、動くことはできなかった。仲間を傷つけさせた敵の関係者なのだから。
怒りを必死に抑え、一言一句逃さないように聞き取ることが今できる最善の策だろう。
だけど、だけど……!
「ゆめゆめ勘違いするな。吾は何も手を下していない。事の元凶といえば汝であるぞ。吾の魔力を感知したことで、何処かに隠れていたアレが目を覚ましたのであろう。元より汝が吾の力を借りなければあの戦いで傷つくものは少なくなったのであろうに」
動かなくなっていた心臓が跳ねた気がした。
そして、それに返す言葉は何処を探しても無かった。
あらゆる身勝手な行動の代償がついに仲間へと回ってしまったのだ。
俺一人の命で済む問題なぞ、とっくに過ぎていた。
「次に契約の継続についてだ。お前は死後も変わらず吾の肉体を獲得するまで利用させてもらう。その歯牙一本残らず吾に捧げよ」
「死ぬ、って、のに」
「無理、とは言わせない。これが神の名のもとに結ばれた契約というものだ。具体的には――お前の朽ちた肉体を利用させてもらう。幸い、覚醒した魔王も近くにいる」
「アルト、ニ、サわ、る、な」
「あぁ、言うと思っていた。それでこそ女神の加護を受けし肉体よ」
抑えきれない感情が声になって溢れていく。
この怒気を狙っていたのかどうかなぞ、知るわけがない。
しかし、この激情によって声が戻り始めたのは事実である。彼は怪しく笑い声を響かせ、さらに言葉を紡ぐ。
「――あぁ、そこで折衷案がある。吾も汝がこのまま腐肉と化すのは面白くないのでな」
「気に、イラ、ねぇ……っ」
「瀕死の汝が否定しても良いが――このまま朽ちて瞬く間に死に行くだけだ。つまらぬ一時の感情に流されて永遠と闇に溶かされ続けるか、それとも吾についてくるか、二択しかないのだ」
恐らく、彼はこの展開を望んでいた。
だからこそダンジョンの中では最後の最後まで我関せずの態度でいたのだろう。
「化け、もの、が」
「あぁ、吾はそのように呼ばれていた」
彼の発言からして、間違いなく“悪魔”と呼ばれた化け物そのものだ。
世界最強と謳われた七魔衆が束になっても封印が限界の異端者。それが彼である。絶対に関わってはいけない者と交わった時点で、既に掌の上に居たのだ。
「お前、は、復活して、どうするんだ」
「ソプラノ、と言ったか。一度あの者と会話してな。当初はただ復活し今一度世界への復讐を望んだが……気が変わった」
シャナクが暗闇より現れ、動けない俺の髪をぐいと引き上げて無理やり顔を上げさせる。
彼の整った顔は悪意に満ちて歪んでおり、あまりの邪悪さに思わず身震いが起こる。
「神への復讐、そして――貴様の居た世界へと渡り、二度、世界を壊す」
「……!?」
「不可能と思うのは自由だ。しかし、汝は異邦人であろう? 来る手段があるなら、逆行して向かう手段にするのも吾なら可能だろう」
握った手を弛めると彼は背を向け、腕を広げる。
その嬉々とした様子は到底理解できない思考に駆られている気がしてならない。
「しかしだ、未だ吾の本来の力を取り戻したところで世界一つ滅ぼすのが限界だ。そこで汝が居る。汝の生存は全て好都合なのでな」
「お前の力を借りるのを断る、といったら?」
「構わぬ。吾が世界に出るのが数百年遅くなるだけだ。いずれにせよ、汝の肉体はもう既に吾のものだ。今死ぬか、後で死ぬか。好きな方を選ぶが良い」
選択肢とはよく言ったものだった。
もうそれしか無かった。
死んで、生き返って、また死んで――
「――さぁ、汝の体を吾に捧げよ」
――また、生き返る。
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