第270話 ボクとぼく
彼と出会ってからまだまだ日は浅いし、なんで彼に興味を抱くかと聞かれ、最初に口にしたのは――何となく。
彼と初めて出会ったのは、まだボクが戦争にも参加できないほど“子供”の頃。
その頃の彼は今とは違った――“魔法の使えない人間”だったはず。
戦争の相手を殺さず捕虜にするのは魔王の気まぐれ。世間体から見たならばそう見えるだろう。
だけど、ボクとガルドラボーグは知っているのだ。
あの時から、ボクは、ボクたちは――彼の事を好きになったのだろうと。
――そして、今の彼に既視感を覚えているのは間違いではなかったのだと。
『アルト――』
「はっ……!?」
ふと意識が戻り、急いで起き上がるとその勢いで頬から水滴が零れ落ちる。
ぼやけた視界は涙によるものであると気がつくのにそう時間は掛からなかった。
「って、なんで泣いてるの、ボクは……!」
ゴシゴシと袖で目元を擦り、急ぎ周りの状況を確認する。
どこか懐かしい雰囲気、そして大きな安心感が彼女の心に立ち込めていた。
「ここって――ボクたちの城の……図書館?」
少しだけ、何処とは分からないが少しだけ何かが違うため、彼女の声には疑問符が付いていた。
涙の理由は先程見た夢が関係していると思われるが、内容はまるで思い出せない。
大切な記憶であると分かっているはずなのに、その断片すら出てこないのだ。
「……マモン」
その代わりに浮かび上がるのは、つい先程の記憶である。
彼女がこの場に来ることが出来た理由は何となく分かっていた。マモンに引き寄せられ、無の空間に吸い込まれてしまったためである。
仲間を探そうと必死に高速飛行していたのに突如体が動かなくなったと思いきや、体が勝手に目的の場所へと動き出し――いつの間にかこの場にいたのだ。
「あんな魔法……知らなかった」
苦しげに呟く。彼女が受けた魔法は凄まじく強力であった。
まるで体の全ての操作権を奪われてしまったかのように、抵抗の効力すら生むことが出来なかったのだ。
無の空間に吸い込まれた時は走馬灯が見られたが……今ではその記憶すら抜け落ちている。
「ううん。それよりも皆を探さなきゃ」
頭を横に振って無駄な思考を追い出す。
幸いこの場には見覚えがある。
……といっても、自分の家の敷地内であるため、もはや何がどこにあるのかも充分理解しているつもりだ。
「まずは上に戻らないと――」
彼女が呟いて駆け出す先は奥に存在しているであろう上へと伸びる階段である。この図書館は上から下へ伸びている設計になっている。そのため、出入口は最上階に存在しているのだ。
現在地点は半分よりも下の階に位置しており、それ以下の階層には重要書物が多く保存されているため、階段でしか行き来出来ないようになっている。
吹き抜けのバルコニーから飛行して一気に上昇できるのは半分を超えてからだった。
数分走り続け、見えてきたのは彼女の背丈ほどある大きな燭台であった。
しかし、漆黒の蝋燭は立てられているものの、火は灯されていない。
「はぁ……やっぱり動かないよね。期待してなかったけどさぁ……」
実はこの燭台こそあまりに広いこの図書館の最上階まで一気にテレポートが可能な設備であった。階段へと向かうついでに寄ったが、案の定凍結している。
起動している条件として床に描かれた魔法陣が光を放っていることと、炎が灯されていることであるが……どちらも満たされていない。
「やっぱり素直に階段を昇ってくしか――」
その時、ごとり、と背後に軽くて硬い物が落ちる音がする。静かな空間であるため、他から発せられた音は嫌なくらいに響いていた。従って振り向けばカーペットに一冊の本が落ちていた。
「……あれ。この本――」
落ちた箇所へと歩み寄り、拾っては元あった位置まで戻そうとしたその時、それは見覚えのある本であることに気がつく。
「――あっ! 刀術の指南書だ。懐かしいなぁ」
夕とは違い、彼女はその本の内容を読み取ることが出来ていた。
その厚いの本は何度も読まれているためかボロボロになっており、もはや頁が外れてしまいそうな不安定な部分もあるほど。
思わぬ出会いに顔を綻ばせるが、皆を探す使命を忘れてはいけないと気持ちを引き締め、仕舞おうとしたその時。
「……」
伸びた腕は止まり、視線は背表紙に集中する。
書かれていたのは刀の指南書の題名などではなく、『第■■回予算決議』であった。
疑問に思い、もう一度本を開いてみれば先程見た同じ内容が書かれている。
「いや、でも……この表紙は間違いなく……」
本の題名だけが違う。内容と表紙は自分自身と知っているものなのに、記憶の中の情報とは一致しなかった。
「なら、こっちはどうだろ――って」
入れ替わりで新たな本を取り出し、広げて読み上げようとしたが――まるで読むことが出来なかった。
というより、本に書かれているものは単語同士が組み合わせられているだけで、文としての意味を成していないのだ。
つまり――曖昧な情報を本という隠れ蓑に包み、それらはこの空間を作り上げている。
これらの事実はこの場がダンジョンであるという動くことのない証明であった。
「これが、君の作りあげた最後の砦なんだね。ガルドラボーグ」
声による返事は響いてこなかったものの、底より重々しく湧き出すような揺れが返ってきた。
当然ダンジョン内に耐震構造などあるわけがなく、その揺れで無数の本が上から降り注ぐ。
しかし、彼女は遥か高くから落ちる本たちに目を向けることはせず、視線は一点に注がれていた。
視線の先は転送装置である燭台の更に上で、両手を広げたアルトの姿瓜二つの女の子の、蒼い双眸が光る。
彼女の目は……鋭いながらも、憂悶の色を浮かべている。
「……」
――今のアルトと同じく真っ黒な軍服とワンピースを掛け合わせたような衣装に身を包み、彼女の胸には当時魔王補佐を務めていた過去の勲章たちが淡い光を返していた。
「……」
今の彼女の胸に勲章は一つたりともないが、彼女には魔界では得られなかった仲間が居る。その差が決定的な表情の違いを生み出していた。
「なんで、なんで君はそんなにも……気力に満ちているんだい」
――ああ、変わらない。僕が魔導書をここに置くと決めたあの時の姿と何も変わってないのだ。
「やっとしっかりボクに向き合ってくれたね。ガルドラボーグ」
「煩い。君に恨み辛みの小言を言わずこのまま消えるのは癪に障るだけだよ」
「……そっか」
「今まで積み上げて育ててきたダンジョンが、目的に手が届く前にどんどん崩れてくんだ。この痛みと無力感は君には分からないだろうさ」
マモンが鏡の迷宮の中で使った“グウラの胃液”それはダンジョンを破壊していくものである。
仮にグウラの胃液がダンジョンの核ヘ辿り着いた場合、魔導書ごと破壊され、転移を封じられたアルトたちは抗う間もなく生き埋めになるだろう。
「君はボクを殺したかったの?」
「当たり前だよ……! 良くも、こんな、こんな……っ!? ぁぐっ……ぁぁぁッ!?」
ガルドラボーグは空中で胸を抑えながら苦しそうに喘ぐ。
ガルドラボーグの目的は“自らの手”で、アルト・サタンニアを殺すこと。
だが、今の彼女にその力は……もはや存在しなかった。
なぜなら魔導書を守らなくてはいけない、という契約に縛られているが故に、彼女の持つ全ての力はダンジョンの維持に向けられ、再優先とされてしまうためである。
修復を繰り返すリソースは全て魔王の魔力が使われてしまうため、彼女が今現在自由に使える魔力といえば、せいぜい顕界することのみ。その時間も、極々限られたものだ。
「はぁっ……はぁっ……ねぇ、この感情の答えを教えて……教えて欲しいよ……ねぇ……ッ!」
「……」
悲痛な叫びは暗闇を引き裂き、響いて消える。残るのは彼女の荒い息遣いだった。
アルトにとって思考内容を把握するのは容易であるが、感情を理解する魔法などは存在しないために完璧に汲み取ることは不可能である。
“それ”に関する記憶は全てガルドラボーグが持っているため、アルトからすれば存在しない答えを教えてくれ、と言わんばかりの助けであった。
「嫌だよ……このまま消えるのなんて……やだよ……っ」
浮遊出来る魔力も無くなってきたのか、ゆっくりと降下し、彼女は座り込む。零れた涙はカーペットを濡らす前にノイズとなって消えていき、嗚咽は響くこともなくなった。こうなればもはや彼女自身の顕界もいつ終わり告げられるのかも不明だった。
「君は――」
彼女を救う手立てとしてアルトが取れる唯一の手段は――会話である。
二人で一緒に考え、“それ”の正体を追求することが、最も確実であると同時に、最も時間のかかる手法であった。
制限時間が不明であるならば、答えが出る前に彼女が消えてしまうことだって有り得る。
――しかし、アルトには放っておくという選択肢は元より無かった。
だからこそ彼女は、心の隅より広がっていく一切のしがらみを放棄し、口を開く。
「君は、ボクであり、ボクは君だ。だから、放っておけないよ。何度も言ったように、ボクは君の答えを知らない。君も答えを知らない。なら、一緒に考えてみるべきじゃないかな?」
「……」
「うん、君がボクが嫌いで、殺したいほどに憎いのはよく分かってるよ。でも――君を理解するのはボクの役目だ。だから話して欲しい。君のことを。ボク知らない、ぼくのことを」
咽び泣く彼女へと向けて優しく手を差し出す。
涙で崩れた表情は困惑を浮かべ、濡れた水晶のような丸い目を返す。
「ふふっ、大丈夫。ボクなんだからさ。大船に乗ったつもりで任せてよ」
「……進む方針の知らない君じゃ舵は任せられないよ……ばーか」
笑顔で語りかけてくれた声に反応するかのように、震える人差し指と中指は伸ばされ、アルトはしっかりと手のひらで全てを包み込む。
柔らかな光がアルトからガルドラボーグへと伝って二人は淡く光り、一瞬だけアルトが苦しそうな表情を浮かべる。
「これ……っ!?」
「ボクの魔力さ。少ないけど君の顕界時間は稼げるはずだよ」
「……そんなこと、しなくていいのに……っ、第一、ここで魔力が切れたら君はぼくを探せなくなるよっ!?」
「ふふっ、その時はその時だよ。さぁさぁ、時間はないよ。君の苦しみをボクに伝えて欲しいな。一つ残らず、ぜーんぶね。そしたら、一緒に考えよう?」
「……」
淡い光とアルトの声に元気づけられたか、彼女は小さく口を開き、ゆっくりと語り出す。
それは、魔族にとってはたった数十年の出来事で、ガルドラボーグにとっては永遠のような数十年の苦しみの記憶であった。
ご高覧感謝です♪