第269話 追懐の図書
暗闇の中で虚ろな感覚に包まれていたが、突如頭上から降ってきた叩きつけられるような衝撃により意識がはっきりと浮上する。
痛みを感じた部分に手を当てれば、しっかりと自分の髪の毛が存在していることが分かる。
つまり――生きてる。
……いや毛根が、とかじゃなくて本当に。
「なんだ……って、声が……出た?」
先程黒い空間の中に放り込まれた時には体を分解させられ、情けなく悲鳴をあげたのにも関わらず、声は出ていなかった。
しかし、今は自由に声が出ており、体の欠損などは感じられない。
未だ魔力が不足しているため、体魔変換を発動しながら何とか呼吸を整える。
「ぅっ……」
背中にかかる重みを起き上がる動作で落としながら、酷く痛む頭を抱えて立ち上がる。
目を開いても視界は未だ定まらないため、周りの景色はぼやけてよく分からないが、この場は恐ろしいほど静まり返っており、物音一つすら聞こえない厳粛な雰囲気が立ち込めていた。
「これって……」
徐々に視界が整い、最初に認識出来たのは血のように赤いカーペットの上に散らばる無数の本であった。
俺がうつ伏せの状態で寝ている時にも背中に何かが乗っている感覚があったが、どうやらそれはどこからか落ちてきた書冊であったようだ。
「改めて見ると……すごい場所だな」
顔を上げて周りを見渡すと、四方を囲むように何処までも高い書架が壁のように設立されており、もはやその区切りすら不明である。
あまりにも静かで巨大であることを思わせるこの図書館は、意識を失っている間に見た光景と何となく似ている気がする。
先程意識を失っていた間に似たような図書館の中でなにかを目にした記憶があるが――まるで思い起こすことが出来ない。
意識を切り替えて辺りを見回しても本棚が反り立つ同じような光景ばかりで、仲間の姿やセリアの姿は確認できなかった。
「ソラ? ファラ? プニプニ?」
俺が無事であるのならば恐らく彼女たちも無事であると考え、自分の中へと向けて声をかけたが、返事はない。
しかし、無の暗闇に吸い込まれる最中に彼女たちは俺の内へと戻っており、今なお微かに彼女らの魔力は体内で感じられるので消滅してしまった可能性は低い。
「俺のスキルが上手く働いたってとこか」
恐らく他の者よりも早く意識を取り戻せた理由として考えられるのは、“気絶半減”のスキルの恩恵だろう。
とにかく、今しなければいけないのはアルトやレム、そしてミカヅキとエーツを探し出すことである。
「……大丈夫。きっとみんなあっちで待ってる。絶対みんな生きてるって」
あっち、というのは先程居た鏡の迷宮である。
崩れていくダンジョンの中でもきっと安全圏はあるはずだ。
絶望しそうな自分をなんとか奮い起こし、ここから脱出する術を探さなくてはならない。
「よし。行こう」
右手に刀を召喚し、恐ろしいまでに音の吸い込まれる空間を歩いていく。
この場所も魔物の気配どころか人の気配すら感じられず、戦闘音すら響いてこない。
極限にまで静まり返っているため、自分が発する音が非常に大きく聞こえていた。
「……本ばっかりだ」
少しだけ歩き回った感想としては、この空間は時間の感覚すら狂いそうな閉塞感があり、誰も、役に立つものも何も無いという余りの隔離感に心押し潰されそうになる。
「気配探知にもなんら反応無し。あまりにも静か過ぎる……って、行き止まりか」
不安になってきたところで黒い木の柵で囲われたバルコニーが確認出来た。
今いる階層ですら不明のため、柵に手をかけ上下左右を見渡したところ――目眩がした。
「下も、上も、そして奥も――本と書架しか見えないって……嘘だろ?」
他に変わったものと言えばフロアの区切りである木作られた橋、仄かな弱い明かりを放ちながら浮かぶ球体のみ。
大きく息を吐きながら柵から手を離し、次に目を向けたのは間近にある本棚である。
天を貫くほど高い書架であるが、手の届く範囲の本を一つ取り出し、読み上げようと試みる。
「何らかの意図があってガルドラボーグが俺をここに飛ばしたのは分かるんだが……そもそも文字なのかこれ?」
残念ながら、開いた本の内容はとても読めるようなものでは無かった。
見たこともない文字、というか見たこともない記号がびっしりと羅列されており、時折よく分からない絵が貼り付けられている。
内容は世間一般でいう「本」と同様であると思われるが、何に関してのものであるかは一切不明である。
本を元々あった場所へ戻し、その隣の書物を開いても同じように記号が羅列されているだけで、読むことが出来ない。
女神からもらった翻訳魔法が働いていないのか、そもそも書いてある記号の列も意味があるものなのかも分からないので、また探索は振り出しである。
「仲間探しは果てしなく長くなりそうだな……気合い入れていかないと――」
本を棚に戻そうとしたその時。カーペットに吸収されきらなかった小さな足音が耳に届く。
戻そうとした姿勢のまま硬直したが……その足音はすぐに遠ざかり、聞こえなくなってしまった。
「誰か居るのか!」
本をしまうと同時に大きな声で足音に対して呼びかけたが、一向に返事はない。
明らかに靴の足音であったため、魔物の類いでは無いことが推測される。
「この機会を逃してたまるかっての……!」
聞こえた足音は後ろからである。俺が意識を取り戻した場所の方角であった。
足音の正体が敵である可能性も考慮して“足音消去”と“気配遮断”のスキルを使い、元いた場所へ向けて一気に走り出す。
これまで直進して歩いてきたため、道に迷うことは無く、到着も最短ルートで辿り着くことが可能だ。
「――っ、やっぱり誰も居ない」
本が積み重なって山になっているのは先程と同じ。上を見上げれば一部分の本がこの場に落ちてしまったためか隙間がある。これも先程と同じ。
つまり、この場には元より誰も来ていない。
「……」
目を瞑り、全神経を耳に集中させて辺りの音を聞き分ける。
――十秒、二十秒と経過しても、自分以外の心音以外の音は聞くことが出来なかった。
諦めて目を開き、また周りを走り回ろうとしたその時――
「ッ!?」
目の前には“人影”が居り、山積みとなった本の上で浮かんでいた。
全身を黒く塗りつぶしたようなそれは幽霊と呼ぶに相応しい雰囲気を発していた。
全身に悪寒が走り、低くて高い耳鳴りが起こる。
『――』
「っ……何言ってんだ……お前」
彼からは数人の囁きの声を合わせたような、低いとも高いとも言い難い音が発せられており、それらは耳鳴りが強くなると共に大きくなっていく。
『――イヤダ――アイタイ――』
「……お前は……何なんだっ」
反応の鈍くなった体を無理やり動かして手に持った刀を構え、敵意を剥き出しにする。
すると、目の前の影はこちらに気が付いた素振りを見せ、重力を感じさせない軽さでカーペットに降り立ち、ふらふらと動きながらこちらまで迫ってきたのだ。
『ニテル……アナタ……ニテル……』
「似てる、だって?」
影が一歩近づく事に俺は恐怖のあまり一歩下がる。狭い書架と書架の間に居るため、すぐに追い詰められてしまうが、あちらは止まらず距離を詰めてくる。
『アナタハ……ニセモノ……アノヒトハ……シンダ……ア……アァ』
「あの人……?」
『ァァァ……チガウ……コノヒトモ……チガウ……』
フラフラとした影はまさに幽霊だったのか、すぐ隣の本棚を物理法則を無視して通り抜け、何処かへ消えていってしまった。
心臓がバクバクと高鳴っていることに気がつき、指から力が抜けると同時に刀を落として膝を付く。
「……こんなに人外の力を持ってたとしても、幽霊は怖いのか……情けないな俺……」
そういえば昔から得体の知れないものは苦手だった。間違いなく幼少期のトラウマが関連しているように思われるが、まさかこのダンジョンの中でもこの感情を味わうことになるとは流石に予想外である。
「おやおや。見事な怯えぶりですね」
「ッ!?」
次に聞こえたのは非常にはっきりした声であった。刀を掴んで直ぐに立ち上がり、この場から飛び跳ねるように離れる。
するとクスクスといった笑い声が静かな空間に響き、闇の奥から一つの人間が現れた。
「どうも。お探しの本は見つかりましたか」
「――オニキス。なんでこんな所に居る」
「おや? 会ったことはないはずですが……どうやら私の記憶が欠損しているようですね。申し訳ない」
彼は真っ黒な衣装に身を包み、長い白髪で糸目の背の高い男性だ。シーナの過去世界で見たオニキスに違いなかった。
彼女の記憶で再現された姿と全く一緒、というのもおかしいのだが、なによりこの場に居るといった事実そのものが怪しすぎる。
「あぁ、なんでこんな所に、など野暮なことは聞かないでくださいね。目的は貴方と同じですよ」
「だろうな。それよりも、お前はどうやってここに来たんだ」
「私もこの場に来るのは想定外でしてね。とある獣人の狐の少女の力を借りました――」
その言葉を聞いて再び心臓が跳ねる。
彼の口から力を借りる、などというのはレムがなんからの手段で彼の手に落ちてしまったことが推測される。
それを聞いて俺は――冷静なままでは居られなかった。
「ッ!」
力強く踏み込んだ渾身の斬撃は彼の髪を少しだけ斬ることに留まり、余裕そうな笑みは今だ健在である。
――避けられた。
「おやおや。危ないですね。もしかしなくとも……知り合いですか?」
「……」
「クフフッ……お若いですね。そも私は敵対するつもりは微塵もありませんので、これを見て落ち着いて頂きたい」
彼は手に持った細身の長杖で床を叩くと、虚空からシーナが貰っていたものと同じ“黒い宝玉”が出現し、それに映し出されたのは――
「白狐の少女は生きていますよ。もっとも、私の魔力を喰らってどれだけ自我を保っているかは不明ですが。今なら彼女の体内を暴走させ、殺害することは容易い。この意味が分かりますね」
「くっ……お前……」
「さて。状況は逆転しましたね」
彼は大変嬉しそうな笑顔でシルクハットを被り直し、図書館の中でふらふらと一人で歩くレムの映像は途切れてしまう。
――その途切れる既のところで映像の中の彼女と一瞬だけ目が合った……気がした。それは刹那であったが、目を見開いた様子であり脳内に焼き付いている。
何故か彼女はいつもと違う黄金の瞳であったが……気の所為だったのだろうか。
「……さて。貴方には聞きたいことが沢山ありますよ。特に貴方の内より漏れ出すその魔力。それはどこで手に入れましたか?」
「……聖霊たちのことか」
「いいえ。それよりも更に深く根差した漆黒の魔力ですが――どうやら貴方の様子を見る限り実感がないようだ」
呆れた様子で彼は浮かんでいた宝玉を掴み、眺めながら俺へと話を持ちかける。
「ではこうしましょう。私は彼女を解放する。その代わり、貴方は私と話をする契約して頂きます」
「解放することすら怪しいのに、ましてや契約なんてすると思うか?」
そうして彼は手を伸ばしてきたが、俺は直ぐに手を払う。
自ら悪魔の使いと名乗り、謎の教えを布教していたのだ。あまりにも信用に値しない。
そして何より――
「お前はシーナたちの村で何をした」
「……」
「お前はシーナに――何をした」
一瞬だけ彼の顔が歪む。
彼は僅かに殺気を高めたが、負けじと睨みを返す。
お互いがお互いを牽制し合うこと数秒。彼は柔らかな笑みを解き、糸目を開いて白銀の鋭い瞳を見せた。
「……どうやら、予想以上に私に関して詳しいようだ」
「質問に答えろ」
「いいでしょう。その代わり――」
そう言って彼は手に持った黒宝玉をもう一度俺の元へと差し出し、受け取れと言いたげに笑みを浮かべる。
「これに貴方の魔力を少し分けてもらいましょうか」
「……そんなことをして何になる」
「クフフッ……少なくとも、貴方にとって良くないことですね」
「嫌なところだけ素直だな」
「ええ。ご存知の通り悪魔の使いですので。これでも白狐の少女を契約に出さない限り良心的とお思い下さい」
苦々しい表情のままオニキスの提案と宝玉を受けとり魔力を注ぎ込む。
俺の体の変化は放出してるための倦怠感のみで、他に影響は無かった。
「これでいいか」
「結構です。では――」
微量だけ魔力を注ぎ終え、彼が手を伸ばして宝玉を取ろうとしたところで、俺は距離を取り、簡単に渡すわけにはいかない、という意思表示をする。
情報を聞き出した後にこの宝玉を破壊しても良いが、それではレムが危険な目に合う可能性が高い。
ある程度優位性を保っていなければ完膚無きまでに喰い潰されてしまうため、ここの機会を逃す訳にはいかない。
「……いいでしょう。では――」
浅い笑い声が響けば、彼は足元から黒霧のオーラが湧き上がり、瞬く間に体全体を包み込む。
そうして現れたのは――
「私がなぜ女神ではなく悪魔を布教するか。それは至って単純――」
彼の長い白い髪は完全に黒く染まり切っており、真っ黒な瞳の中には赤い光を携えている。
そして何よりも目を引くのが――
「“主”が言ったように、この世界が間違っているからです」
背中の黒い四枚の翼、そしてシルクハットを外した彼の頭には二本のねじ曲がった角が生えだしていた。
変貌しつつあるシーナと対面した時よりも更に感じられるのは、背中から凍りつくように広がる冷えである。
これが畏怖であることに気づくのに時間は掛からなかった。
ご高覧感謝です♪




