第260話 感情の迷宮
どこを見ようとも必ず自分の姿が映り込むのは、あまりにも気持ちが悪い。
今走っているのは俺自身の意思であるのに、何らかの誘導によってこの全鏡の迷宮の中で迷わさせられている気がしてならないのだ。
「いっ、ったぁ……!?」
奥に道が続いているかと思えば鏡である。もう頭から突っ込むのは何度目か分からない。
鏡越しに足を止めて蹲る自分を見ていると何とも情けない気持ちと此処から抜け出したい欲求に駆られてしまう。
「……皆の居る家に帰りたい」
また同じことを呟いてしまったと心の中で己を嘲る。
ただひたすら彷徨い、鏡にぶつかり、また走り出す。
いつか仲間に会えるだろうと信じているが、不甲斐ない自分の姿を客観的に見てしまうと心が折れそうになる。
「行き止まり」
奥歯を噛んで来た道を切り返し、また鏡の世界へ。
仲間の皆はもう脱出できたのだろうか。
それとも今の俺のように奔走しているのだろうか。
回答は妄想の中でしか得られず、視界の中には常にみっともない俺の姿が映し出されていた。
「行き止まり……」
走る速度が下がる。体力的にはまだまだ余裕があると分かっているが、足の動きは間違いなく鈍っている。
上下両脇どこにでも居る鏡の中の俺たちも速度を落とし、全く同じ速度で道を進んでいく。
――足を止めろよ。
そんな声が聞こえた気がして、弱い気持ちを振り払うように頭を揺さぶって追い出す。
「行き、どまり……っ」
何度も見た光景であるが、それが真新しい場所であるのか、それともゴールに向けて進んでいるか、という判断はつけられない。
――そろそろ止まったらどうだ?
幻聴だ。幻聴だと理解しているのに俺の精神は間違いなくこの声に蝕まれている。
切り返した足は自然と進まなくなり、荒い息を吐きながら隣の自分の姿を見る。
「……」
視界が狂っているのか、姿はぐにゃりと歪んで見慣れた学生服姿の俺が映し出され、どこか懐かしく思える。
この世界に来なければ俺は学校を卒業し、進学、もしくは就職する。魔法なんて無縁な世界なのだ。今思えば争いのないとことん平和な世界だったのだろう。
「帰りたい、なぁ……」
誰も居ないと考えていたからこそ心からの弱音だった。運命に殺され、まるで常識の違う世界に来てしまって、何度も何度も痛い目にあったし、死ぬ思いもした。
学生の頃に戻れたら――なんて思ったその瞬間。
「ッ!?」
俺の姿が映っていた目の前の鏡が甲高い音を立てて割れ、驚きのあまり飛び退いてしまう。
割れたガラスを問答無用に踏みつけ、鏡の向こうから現れたのは――
『よう』
先程まで確かに映っていた学生服姿の俺が出てきた。元の世界で鏡越しに何度も見た俺の容姿に違いはなく、本当にドッペルゲンガーであると本能が告げている。
『帰りたいんだろう? ならこっちに来いよ』
割れた鏡の奥に出現した暗黒は、まるでこの世から抜け出すことが出来そうなほど異質な雰囲気を放っている。
まさにブラックホールと称するのが適する黒い渦を巻く歪んだ空間を……彼は横目に見ながら手招きしていた。
「……」
暗闇の空間に向けて一歩近づく。俺を吸い込もうという意志が強いのか、魂が引っこ抜かれそうな感覚に思わず身震いする。
『何ビビってるんだよ。これで元の世界に帰れるんだぞ』
「……はぁ」
ドッペルゲンガーに向けた返事は、取り出した想具による威嚇であった。
銃口を向けられても、冷たく睨みつけても、彼は歪んだ笑みを崩さず変わらず手招きを続けている。
『……』
その行為と同時にやっと頭が回り始め、魔力切れのように気だるい状態の体に少しだけ元気が戻る。
今の今まで俺は召喚という技能さえも忘れており、一人ぼっちではなかったという事実さえもやっと気がついた。
「――ソラ、ファラ、プニプニ」
(――おおっ!! 通じたのじゃ!! どうしてこうもこのダンジョンは我らに対して猪口才な妨害をしてくるのかのぉ!?)
(正直かなーりほっとしてますよ。無事で何よりです。今後は我らも顕界し続けているようにしましょうか)
(ふぉほ……またも別れてしまったらどうしようかと不安でしたぞ)
すぐ隣で魔法陣が出現し、昇る光の中から聖霊たちは召喚させられ、敵意を持ってドッペルゲンガーに向き合う。
明らかに彼にとって不利状況に変わったものの、相変わらず手招きを続けており、ブラックホールは今もなお俺たちを吸い込もうとしていた。
『帰ろうぜ。元の世界にさ』
「あいつの正体は――」
「正確な所は不明じゃ。そもそも彼奴が実体であるのかどうかすら分からぬ」
「マスターのぼんやりとした記憶が形を成した、とでも言えばいいのでしょうか。そのような雰囲気を感じます」
「思念体、というやつでしょうな」
ソラとファラが同時に雷撃を放ったものの、魔法がドッペルゲンガーに炸裂することは無く、そのまますり抜けて鏡の壁に沿って広まり、ゆっくりと消えていく。
壁にも特殊な加工がされているようで、魔法での破壊は難しそうに思えた。
「俺は……悪いが、まだやることがあるから帰れない」
『ははっ……嘘をつけ。 お前になんの目標があると? お前は転生してから何を目標として――』
手の中に重い衝撃が跳ね返り、銃口から魔力の弾が目に見えないほどの速度で放たれた。
しかし、発砲したその時には目の前からドッペルゲンガーとブラックホールは消え失せていて、異世界でずっと着用し続けている服装の己の姿が映し出されていた。
どの鏡を見ても俺の顔は苦々しく、奥歯を強く噛んでいる。
「……」
「ユウよ。魔法による思念体じゃ。意思のない言葉なぞ気にすることは無いぞ」
「目標なんてぱぱっと見つかりますよ。まずはアルトの魔導書を取りに行く。これが最優先です」
「ふぉほほ、その通りにございますな。猪突猛進、突き進みましょうぞ!!」
「……そうだな」
「なははっ、我らが先導しようぞ!」
元気のいい聖霊たちを横目に魔力回復のポーションを勢いよく飲み干し、気合を入れて歩き出す。
先程の黒渦の森の中で非常に多くの魔力を吸われて魔力不足になっていたのは事実だ。
魔力が体の内から不足することになれば精神を強く病み、体が満足に動かせなくなることは認識している。
しかし、魔力不足とは関係なしに俺の心を大きく抉ったのはドッペルゲンガーが言い放ったあの言葉だ。
異世界での生きる目標。
――そういえば目標なんて考えたことがなかった。
よくよく振り返ってみればアルトは間違いなく魔導書の獲得を目標として行動しており、魔法学園に入った理由も同様の目標のためだ。
レムだって自身の肉親と決闘してまで俺たちに付いてくると決心しているのだから、余程の覚悟と目標を持っているはずである。
そしてこの場にいるソラもファラも聖霊としての使命を全うするため俺に付いて来てくれている。プニプニに関してはまるで不明だが。
「俺は……」
『――そう、お前は何も成すことが出来ていない』
「ッ!?」
勢いよく振り向いたが、当然背後には驚いた顔をした俺の姿があるだけで、映り込むものにおかしな点は見つからなかった。
「ユウ殿?」
「……何でもない。多分」
「なんじゃ、随分気弱じゃのう」
「我らがぴったりくっ付いてあげましょうか?」
「流石にそこまでしなくてもいい」
恐らくだが、残った魔力の問題ではなくこの場にいるとじわじわと精神状態が狂っていくようだ。
心と頭では冷静のつもりだ。しかし幻聴や幻覚が見え始めた以上、俺の状態がまともであると思えない。
「《状態解除》……は、効果ないか。とにかくこの迷宮を脱出してアルトたちを探さないと――」
「いだっぁ!?」
「ぷぷぷ、ファラは馬鹿ですね」
ガツンと痛そうな音が聞こえた方へと目を向ければ、ファラが鏡の中の世界に入り込もうとして拒否を受けていた図があった。
彼女は額を抑えてぴょんぴょんしており、ソラは冷めた横目で見ていたが――
「あう」
真正面から壁へと突っ込んだ。当然先は無いのでまた痛そうな音を立てて蹲る。
「……ふぉう」
執事姿のプニプニを見れば「私はしませんぞ!」と言いたげな目で訴えられてしまった。
命懸けのダンジョンであるというのにこの気の抜けた様を見て少しだけ気分が楽になる。
「なーに笑っとるんじゃ。お主も散々ぶつかっていたであろうが!」
「そうですよ。我らは会話が通らない時でさえもユウのことをじぃっと見ていたのですよ」
「ふぉほほ、返事はありませんでしたがな」
「笑ってる……か。やっぱりお前らが居ないと俺はダンジョン攻略すらまともにできなさそうだ」
彼女たちの少しだけ間抜けにも見える姿を見て口元がほんの少しだけ緩み、狂いそうな精神は少しだけ落ち着きを取り戻す。
そのおかげもあってか、頭の中に響く鬱陶しい幻聴はなりを潜め、やっと上を向いて歩けそうな気分へと調子が正常に戻りつつある。
「もっと頼っていいのじゃ。何せ、我らはお主の聖霊だからの!」
「我らのたった一人のマスターです。常にニッコリしていてください」
「ふぉほ、その通りですな」
どうやら聖霊たちに励まされてしまったらしい。情けないと言えばそれまでだが、自分の姿が絶えず目に入ることによる狂気から救われた気がする。
彼女たちに感謝を述べ、再び鏡の迷宮を踏破しようと意気込んだその時である。
「ふぉっ!?」
「なんじゃなんじゃ!?」
「凄いぐらぐらですね!?」
突如引き起こったのは俺たちのような冒険者ですら立っていられないほどの巨大な横揺れと、地下深くから響く苦しげな唸り声のような地響きであった。
あまりにも強烈な揺れであるため、座り込んで収まるのを待つが……なかなか収まりを見せない。
「ちょ……ちょっと不味いことになりそうじゃぞ!!」
ファラが体制を整え、震える指を向けた先には――奥に見える迷宮の鏡壁が高い位置からみるみる崩壊していく光景があった。
先程の横揺れの影響で何らかの壁の均衡が崩れてしまったのか、みるみるヒビは広まっていき、壁の崩壊はこちらへと迫り来る。
「この場に留まっていると鏡片に飲まれてぐしゃぐしゃになりますね……!」
天よりも高い一枚の鏡に亀裂が走り、留まることを知らず恐ろしい勢いでこちらへと迫って来ている。
パキパキと割れる音はもはや姿を見せず、まるで雨のように鏡片は降り注いでいる。
「とにかく、ぱっぱと走りましょう!ユウ!」
「この状況では道を間違えることはできませんぞっ!」
「なははっ! この揺れの中じゃ! 転ぶでないぞ! ゾンビ映画じゃ転んだやつが食われるのじゃーっ!!」
ファラが謎のハイテンションで笑いながら先行して走り出し、俺たちは冷静に、そして転ばないように気をつけながら後を付いて走る。
「これはこれは……おかしいですな」
「ああ……あまりにも気配が無さすぎる」
プニプニの言葉に俺は同意する。
気配がないというのも、この鏡の迷宮に入ってから多くの時間が経過したというのに、これまで魔物には一匹たりとも出会っていないし、このような騒ぎが起きているのに魔物の影すら見られていないのだ。
黒渦の森では強力な魔物が闊歩していたというのに、こちらでは出現しない、というのはあまりにも都合が良すぎる。
「ガルドラボーグのことだ。どこかで纏めてってこともあるし、油断はできな――」
「すまん間違えたのじゃ!! 戻るのじゃ!!」
「ファラ……もしかしなくてもぎょっとするほど不味いのでは?」
角を曲がればその先が――ない。
何度も行き止まりにぶつかってきた以上、急いでたから袋小路に入らなかった……なんても事もない。
つまり、行き止まりを引いてしまったということは、迫り来る崩壊に一気に追い詰められてしまうことを意味している。
「我の運だったらどうにかなると思ったんじゃが……なっはっはっ」
「笑ってる場合じゃないぞ。このままじゃ鏡片でミンチにされるっての……!」
「ギュンっと戻りますよ!!」
皆の笑顔が一瞬にして消え失せ、急いで先程通った元の道に続く角を曲がったその時――
「っぶな……っ!」
「うひぃ!?」
「底が……!?」
走り込もうとしていたソラとファラを両手で差し押さえ、足元を覗けば……鏡の床は存在せず、光すら届かないような虚無がそこにあった。
なんと、先程まで歩いていた道は全て崩落していたのだ。
「底なし、ですな。比喩ではなくこの先は落ちてはならぬ場所ですぞ」
「じゃが逃げ道はどうしろと言うのじゃ!? 崩れゆくあれが幻覚とでも言うのかの!?」
「落ち着け。さっきの行き止まりに戻るぞ」
眼下に見られたのは、シーナの過去世界で見た無の壁と同じように光すら通さない漆黒であった。この中に入ってしまえば存在すら消されてしまうと言われていたが――それと同様の雰気を感じられる。
本能的に絶対に入ってはいけないと警笛を鳴らされている気がした。
「……なるほど。こうなれば力こそドカンとパワーですね」
「言っていることがよく分からないが、多分そういう事だ」
ソラが納得の表情を浮かべ、皆は急ぎ足で元居た場所へと戻る。
当然その場は行き止まりになっており、少しだけ息の荒い俺たちの姿が映し出されているのみだ。
「壊すしかない。さっきは魔法が通らなかったが、最大火力で吹き飛ばせば穴ぐらい開くはずだ」
「よし! やるしかないのじゃ!!」
「バチバチ本気で行きますよ!!」
「ふぉほう! おまかせ下され!!」
プニプニが一度スライム状態へと変わり、更にもう一度姿を変えれば、大鬼と化したブルーノに絶大なダメージを与える兵装、巨大レールガンへと形成される。
ソラとファラは戦闘モードへと変化し、砲身の左右にあるコンピュータに触れ、魔力を注ぎ込む。
背後から命を削ぎ落とす響音がどんどん近づいてくるが、皆慌てず、素早く落ち着いて魔力の充填に集中しており、この時の充電速度は大鬼と戦った時よりも明らかに早かった。
「チャージ完了なのじゃ!」
「いつでもおっけいです!」
「――発射ぁッ!!」
ボルトアクションのようにレバーを引けば強烈な閃光と共に極光が射出される。
四人分の魔力が込められた電磁砲は大鬼の体すら吹き飛ばす威力であるため、鏡なんて簡単に破壊できる――はずだった。
「なんつぅ……硬さだよッ!」
「諦めたら間違いなく死ぬのじゃ! 気張れッ!」
「もっと死ぬ気で魔力をズドンと込めてくださいッ!」
鏡壁は少しだけ歪んだ程度で未だ貫通するには至らない。あまりの強度と途轍もない魔力の消費速度に諦めそうな気持ちが心の内に湧き上がるが――。
「っ、ぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
聖霊たちの気合いの声に押され、無心で魔力を注ぎ込む。
崩落して吹き飛んできた鏡片が足元にまで迫るまでほど限界まで魔力を注ぎ込み、やっと着弾点に変化が現れる。
「亀裂じゃ!!」
「もう少しです!!」
「いい加減……割れろぉぉおおおッ!!」
聖霊たちとの心が一つになり、更に太さを増した閃光は鏡の壁を突き破り、七色の空間への道を作り出す。
これまた不思議空間だが、無の空間よりは生きていける確信がある。
「行くぞ!!」
プニプニは形状に一部砲身を残したスライムのまま急いで駆け出し、ソラとファラの手を握って押し込むように七色の空間へと走り抜ける。
「はぁっ……はぁっ……」
鏡の迷宮の崩壊は背中で感じられるほど近くにまで来ていたがなんとか逃げ切ることが出来た。
背後の亀裂はすぐ閉じてしまい、崩壊がこのエリアにまで迫ることは無かった。
辺り一帯は七色の空間であるが、空気はあるし、魔力を吸われる、ということも無い。
「ぜぇ……ぜぇ……一段落、かの……」
「とっっっても、しんどいです。体がずっしり来てます」
「ふぉほほ……皆様ご無事で何よりですな……」
「それにしても……ここはどこ――」
荒い息を抑えつつ顔を上げ見渡すと……突如三十メートルほどの先に一枚の鏡が現れた。
それは俺たちの姿を映してはおらず、鏡の中には――
『見つけた』
「シー、ナ?」
俺に向けて杖を突き出すシーナが居た。
血に濡れた顔つき、そして乾いたような黒目で赤い瞳の彼女は完全に――
「「ユウッ!!」」
聖霊たちに押し飛ばされて視界がぶれる。
そして目の前の鏡は砕け散っており、元いた場所にはわずかな血痕がある。
「……本物かつ、本気……のようですな」
「なんでだよ、シーナッ!!」
「貴方が悪い。貴方が悪い……貴方がァぁァっ!!」
悪魔に取り憑かれたように攻撃を放ち、喉が張り裂けそうな声を上げるのはシーナ・レミファス本人だ。
偽物の要素が見つからない、完全なシーナが俺たちに対して圧倒的な殺意を向けていた。
なんとか平成か終わる前に投稿することが出来ました!
令和でもよろしくお願いします!
ご高覧感謝です♪