第10話
海面を突き破るようにして滝のように海水を落としながら、ぬうっと現れたのは、巨大な蛇の頭だ。
水塊が次々に海を叩き、波飛沫が起つ。
距離はまだあるはずだが、それでもまだ巨大な蛇のようにも見える。それを目にして、スノウが呟いた。
「……シーサーペント?」
が、それを聞いたカレンが顔を蒼くしながら首を振った。
「……いえ、あれは」
そのカレンの言葉に応えるように、同じような蛇の頭が次々に海面から現れた。
さらに、小山のような高さに海面が盛り上がり、海水を押し退けるようにしてアンモナイトの渦巻き殻が出現した。そして、巨大なハサミも姿を現し、大きな目が覗く。続けて甲殻に覆われた巨大な蟹の歩行肢に、吸盤のついた蛸足が何本も出現し、その巨大生物が全体を見せた。
「…………水棲獣魔……“スキュラクラーケン”……」
「……」
呆然とその名を呟くカレンの横で、スノウはあんぐりと口を開けてその化け物を見上げた。
スキュラクラーケン自体は、アールシア戦記譚のルールブックにも載っている公式のモンスターだ。
レベルは65にもなり、その巨体で軍船すら容易く撃沈せしめる凶悪なモンスターだ。
さらに言えば、通常の雑魚系モンスターは高くても30レベルほどまでだ。
しかし、このスキュラクラーケンは“ネームド《固有名》モンスター”と言い、少なくともアムルディア大陸近辺では一例しか見られないという特別なモンスターだ。
レベルが雑魚モンスターの倍を越えるのはそういった理由だ。
当然、そのデータも凶悪なほどである。
だが、そのデータをある程度知っているスノウ《由紀恵》ならば、例え倍近いレベル差があっても戦えないことはない。
PCのデータはスキル構成次第で強さにかなりの差が出る。
スノウのデータは大器晩成と言うべき構成で、レベルが二十台後半に入ってやっと真価を発揮し始めたほどだ。その戦闘能力が全開で使用されればこれほどの敵であっても勝利が見えるほどの性能を持っている。
スノウ《由紀恵》自身がそう確信できるほどだ。
だが。
「う……あ……」
圧倒されたようにスノウの右足は一歩下がった。スキュラクラーケンのデータ、外見イラストはルールブックを持っている由紀恵も見たことがある。
だが、それがリアルに目の前に出現する迫力は、凄まじいインパクトだった。
無理もない。
高さ十五メルク《約三十メートル》。シーサーペントが広がるように配された幅は、五十メルク《約百メートル》にもなろうかという威容。
鎌首をもたげたシーサーペントの首一本一本ですら、太さが現実世界での自動車の幅に匹敵する。
それらが八本、弊睨するようにスノウとカレンを見下ろしている。
その内の一本の口元に、豪華な杖を手にしたギルマンの上半身が引っ掛かっていた。
それがポロリと落ちて、海面に落ちた。
その水柱が小さく見えるほどの巨体が醸し出す、圧倒的な存在感。
まるでビル一棟、あるいは船一隻を、刀剣を道具にひとりで破壊しろと言われたような途方にくれそうな虚脱感。
そんなものを感じて、由紀恵は後ずさっていた。
しかし、“スノウ”は違った。
「……?」
細くスラッとしたエルフの左足が前に出た。
手にした“フィアフェアリーシスターズ”からも、戦意が伝わってきていた。
「……ス……ノウ?」
スノウ《由紀恵》は、呆然と呟いた。
次の瞬間、世界が灰色に染まり、全てが停止した。
突然の事態に、由紀恵はあわてて周りを見回した。
すべての景色から色が抜け落ち、スキュラクラーケンもカレンも、跳ねる海水すらもその動きを停めていた。
「……いったい……なにが?」
異常な状況に由紀恵の思考は追い付かないらしく、戸惑うように辺りを見回す。
動けるのはスノウ《由紀恵》だけのようだった。
と、彼女の目の前に数枚の紙が広がった。
「……これって」
それは、スノウのキャラクターシートだ。
キャラクターシートとは、TRPGにおいてキャラクターのデータを管理するために用意される用紙である。
名前から能力値、メインクラスやサブクラスにクラスチェンジの履歴。
取得したスキル名やその効果。
装備品や各種所持品など。
あらゆるデータが詰まっている。
それだけではなくレベル33ともなればそのデータ量もかなりのものだ。
メインのキャラクターシート以外にも、データ管理用の用紙が周囲に浮いていた。
「……スノウのキャラクターシート」
由紀恵が小さく漏らすと、メインのキャラクターシートにある小窓が光った。
キャラクターの容姿や、細かい出自や設定などを書き込むスペースだ。
スノウのシートのその部分には、由紀恵が信司に頼んで描いてもらったスノウの外見が描いてあるはずの場所だ。
光は膨らんで立ち上がり、人型となった。
「…………スノウ」
そう。
その姿は由紀恵のPC、エルフのスノウの姿だった。
向こう側が透けて見えるが、間違いない。
そして、スノウが笑みを浮かべた。
『……初めまして……かな? それとも久しぶり?』
「!」
スノウが由紀恵に声をかけた。由紀恵は驚いて固まる。
いつのまにか由紀恵は現実の“小野由紀恵”の姿になっていた。
「……スノウ……なの?」
『そうだよ? あなたはあたしの守護神だよね?』
おっかなびっくりたずねる由紀恵に、スノウが笑いながら答えた。
「守護神? 確かにプレイヤーだけど……」
まさか自分のキャラにそんなことを聞かれるとは思っていなかった由紀恵は困惑するように眉根を寄せた。
スノウはそんな由紀恵の姿に苦笑し、ひとつうなずいた。
『突然の事で驚いていると思うんだけど、時間がないから手短に済ませるね』
そう告げるスノウに由紀恵は慌てた。
「ま、まって! 聞きたいことがたくさんあるのっ!」
由紀恵の必死な様子に、スノウは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
『……ほんとにごめん。巻き込んでしまったのはこちらだし、謝っても謝りきれないと思う。けど、本当に時間がないんだ……』
その言葉に、由紀恵はつまった。
そして、スノウは言葉を続けた。
『……守護神さん、このアールシア界を救って?』
スノウのそのひと言に、由紀恵は表情を強張らせた。




