ラボラトリ最強の男
「探したぜ。我王愛生」
八九郎は感情のこもっていない声で愛生の名を呼んだ。その意味を愛生は理解する。つまりこの男は自分をどうとも思っていないのだ。込める感情などない。八九郎にとって自分がそういう対象だとわかると、愛生の中に一層強い恐怖が生まれる。
フェーズ7だとわかった瞬間にこれか。
最初から不様に怯えてはいたが、彼の強さが本物だとわかると恐怖は簡単に倍増した。すでに記憶の中にしかない先程の炎がより大きく見えるような気がした。
震える足で立ち上がると、委員長も同じく立ち上がって愛生の横に立った。
「……随分早かったな」
「それがどうした」
「いや。あんたの能力じゃあ僕らの居場所を捜索することはできないだろう? それなのに、あんたは僕らを見失う訳でもなくここへ来た。誰か協力者がいるな?」
「…………」
何も言わない八九郎を愛生は睨みつける。
「沈黙は時に何よりの肯定だ。嘘を吐いた方がいいと言わなかったか?」
愛生は八九郎を挑発するが、しかしそれは意味を成さなかった。八九郎はただ冷えた瞳で愛生をじっと見つめるだけだ。その瞳をずらすことなく、彼は口を開いた。
「お前が今更、何を知ろうと意味はねぇ。どうせ俺がお前を殺すんだからな」
「それならついでに答えてくれ。あんたは誰に言われて僕を殺す。政府か?」
「そうだ」
意外なほどあっさりと、八九郎は頷いた。自分は政府に言われて人を殺すのだと。
「俺は政府。いや、ラボラトリの管理会に言われて我王愛生を殺しに来た。これは決定事項だ。何があろうと覆りはしない」
だから、とそう言って、八九郎は委員長に向かって手を伸ばした。
「亜霧。さっさとその男から離れろ。何もお前を殺すつもりはないんだ」
「嫌よ! 意味わかんない。言われたからとか、政府だとか、あんた何言ってんのよ!」
伸ばされる八九郎の手を払うようにして委員長は叫ぶ。
「あんた、そんなんじゃなかったじゃない! 人を殺したり傷つけたり、そんなことできる奴じゃなかった。どうちゃったのよ、八九郎!!」
泣き叫ぶような声で委員長が彼の名前を呼ぶ。八九郎は俯き、悔しそうに拳を握るだけでだ。
「いいからこっちに来てくれ。俺はお前まで殺したくはない」
「じゃあ我王くんは殺したいの?」
「…………」
「そんなわけないよね。あんた嘘つけないやつだもん。あたし、知ってるんだから」
知っている、と委員長は言った。
「あたし、知ってるよ? あんた『最強』だなんて呼ばれても、中身はぶっきらぼうで愛想が無くて、感じ悪いけど、でも根は真面目で優しいやつなんだったって。あたしはちゃんとわかってるよ?」
そう言う委員長の声は段々と掠れていって、その瞳には涙をためていく。鼻をすすりながら溢れる言葉は途切れ途切れだったが、その意思は痛いほど伝わった。
「ねぇ……何が、あったのよ。あたし、話聞くから。何でも聞くから。なんか言ってよ。ねぇ……お願いだから…………」
八九郎は震えるほど自身の拳を握りしめ、悔しがるような、そして何かに耐えるような顔で視線を伏せる。まるで、溢れ出そうになる言葉をせき止めるように歯を食いしばりながら、必死に声を出した。
「……るせぇ」
「え……?」
「うるせぇって言ってんだクソアマぁ!」
八九郎の声は震えていた。泣いているのかもしれない。涙も流さずに、あの男は。
愛生の頭にそんな考えがよぎる中、八九郎は震える叫びを止めない。
「俺はそいつを殺す。我王愛生を俺は殺す。そう決めた。もう決めちまったんだよ! 今更お前に何を話したところで変わることなんかないんだ! お前は黙って帰ってまた、あの施設でみんなと笑ってりゃいいんだよ! それが一番なんだそうに決まってんだ!」
殺す。
八九郎は言った。何度も何度も、殺すとそう言うのだ。
「俺は殺すぞ。絶対に殺す。何があろうと殺す。そいつを殺す。我王を殺す。愛生を殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!!」
まるで自分に言い聞かせる呪いの言葉のように、八九郎は何度も殺すと呟いた。
「殺す。そうしなければ、俺は何も守れない…………!」
八九郎を委員長は黙ったまま、ただ泣いたまま見つめる。もうかける言葉すら見つけられないのかもしれない。
話し合いは無理だな、と愛生は状況を冷静に判断した。あわよくば委員長が八九郎を窘めてくれると思っていたのだが、難しいことだったようだ。理由はわからないが、ただ言われただけでなく八九郎自身にも譲れない何かがあるようだ。多分それは利益とはかけ離れた、愛生がリナリアを守るような、そんな理由だろう。
裏方八九郎は望まない殺しを強制されている。
そう考えると、その強制を行った人物にどうしようもない怒りが生まれてくるが、それは心の奥底に沈めておいた。
今考えるべきは自分を救ってくれた少女の命だ。多くを救えない自分だからこそ、本当に救いたいものだけは必ず救わなくてはならないと、愛生は思う。それもまた、言い聞かせるような思いではあるのだが。
どうにかして逃げなければ。
すると、愛生の鼻孔に不思議な匂いが入り込んできた。二度、鼻から空気を吸い込むとそれがなんなのかはっきりとした。
「焦げる匂い……炎、火事か!?」
愛生の言葉に委員長は驚き、匂いを嗅ごうと顎を上げて鼻を動かすが、何も感じないのか首を捻る。泣いていたため鼻が利きにくくなっているのだ。聴覚や視覚に関しては愛生と委員長でもそう差はないが、嗅覚に関してだけは別だ。こればかりは簡単に鍛えられるものではない。彼女が泣いていなければもっと早く気が付けたかもしれないが、それに意味があるとは言えなかった。直後に八九郎が発した言葉がその意味を消したのだ。
「一階から四階までに火を放ってきた。これで逃げ場はない」
この男がこの廃ビルに着いた時点で退路は断たれていたのだ。
「わかったか、これが俺の覚悟だ」
一転して、八九郎は静かに告げた。
「亜霧。もう一度だけ言うぞ。こっちに来い」
「……」
委員長は何も言わない。ただ不安そうに愛生の後ろに隠れた。
「そうか。なら、力づくでもお前を帰すぞ」
八九郎が一歩を踏み出した。今、愛生たちと八九郎との距離は離れている。そうは言っても彼の能力ならこちらが一瞬で消し炭にされる距離ではあるが、しかし委員長がこちらにいる以上、不用意に炎は放てないだろう。彼女もそれをわかって愛生の後ろに隠れたのかもしれない。
一歩一歩、確実に八九郎は間合いを詰めてくる。委員長を帰すと言った以上、彼が取る戦略は接近戦だろう。愛生に近づき、愛生だけを燃やす炎で終わらせる。
想像するだけで身震いがした。あの炎で殺される自分の姿が容易に想像できた。しかし、打つ手がない訳ではなかったのだ。
「待ってくれ!」
愛生が右の手のひらを突きだすようにして八九郎に待ってくれと叫んだ。一か八かの、賭けのような行為だったが、八九郎は律儀にもその場に止まってくれた。
「なんだ、まだ聞きたいことでもあるってのか!」
「いや、ない」
「はぁ?」
八九郎は怒りをあらわにする。その燃え上がるような声に怯えながらも、愛生は精一杯強がった声で告げた。
「ただ、その位置が一番いい場所なんだ」
瞬間、愛生は右手に握っていたものを前方に投げつけた。それは右手に収まるほどの小さな石。前方に飛ばされたその石は八九郎の立つ場所のすぐ隣の柱に当たった。柱のヒビの隙間にねじ込むように石は入り込む。愛生の行為の意図がわからず、八九郎は柱を見つめて固まる。その隙に愛生は地面に落ちていた数少ない瓦礫の中で一番大きなものを拾い上げて投擲。左腕の力を一〇〇%使用した本気の投擲。まるで弾丸のごとき速さで宙を飛ぶ瓦礫は同じ柱の同じヒビの部分にぶつかる。すると柱が目に見えてずれたのだ。ヒビの部分から砕け、上と下を二分するようにして全体がずれる。同時に、ゴゴゴゴという地響きにも似た音とともに床が震えだしたのだ。床だけではない。廃ビル全体が泣き叫ぶように震える。
「お前の負けだ。ラボラトリ最強」
愛生の勝利宣言。その直後、八九郎のいた床に大きなヒビが走り、崩れ落ちた。床だけではない。柱が支えていた天井部分までもが崩れ、八九郎に降り注ぐ。
降り注ぐ瓦礫と共に八九郎は階下へと落下した。
++++++++++
落下は一階まで及んだ。瓦礫の重さによって各階の床は次々と崩れ落ち、愛生たちのいる八階から炎に包まれる一階まで見通せた。また天井が崩れ落ちたことによって上の階の床まで崩れ、天井から満月を覗くこともできた。
しかし、そんな参事を前にして、愛生たちがいる方、丁度ビルを縦に割った半分側では窓一つ割れることなく床もしっかりと残っていた。
圧倒的に自分よりも戦力の高い相手に狙われて、廃ビルに隠れたからもう大丈夫だろうと思えるほど愛生は楽観的にはなれなかった。だからこそ、最初から対策を練っていたのだ。
「どうして……」
委員長が茫然とした顔で階下に繋がる穴を見つめながら呟いた。愛生はそのどうしてを、どうして自分たちだけが無事で済んだのかという問いだと思い説明のために口を開いた。
「ここ、外からよく見ればわかるんだけど、基盤からして結構ガタがきてて、重心が傾いてるんだよ。そのせいで建物の半分側にかなり負荷がかかってしまっているんだ。だから半分だけ異常に脆いのさ。この部屋を選んだのも綺麗っていうのも確かだけど、部屋の入口が脆い部分だったからなんだ」
侵入されると同時に迎撃に移れるようにと、愛生は最初からそう考えていたのだ。
委員長はそんな愛生の淡々とした説明を聞いて、違う! と叫んだ。
「そうじゃなくて、どうして八九郎を……! あいつは…………」
「でも、こうでもしないと僕が殺されていた」
再び泣き出しそうな委員長の瞳から目を逸らしながら、愛生は言った。
「何か理由があったにしろ、嫌々だったにしろ、あの人は本気で僕を殺す気だったよ。それに、僕だけじゃない。委員長だって危なかったかもしれないんだ。委員長はきっと、最後まで僕を庇ってくれるだろう?」
彼女は何も言わなかったが、そうだろうという確信が愛生にはあった。彼女は優しい。きっとこんな自分ですら見捨てられないほどに。
「そうしたら、あいつは痺れを切らして委員長にも敵意を向けるかもしれない。そうじゃなくても、あいつの能力でとばっちりを喰らって死ぬなんてこともあり得るんだ」
「でも!」
と、何かを言いかけた委員長を制するように愛生は無理やりその顔に笑顔を浮かべて彼女を見た。
「酷いよね。だけど、こうするしかないんだ」
ごめんね、と小さく呟く。そんな愛生の顔を見て何に気づいたのか、委員長は声を出そうとして、それができずに言葉を失う。それでも何かに背を押され絞り出すように言葉を紡ごうとしたが、それを遮るような声を二人は聞いた。
「ハッ! ハッハッハッハッハッハッハッハッ!!」
それは地獄から響くような笑い声だった。確かにその笑い声は地の底――階下から聞こえてきていた。
そんな、まさか、ありえない。
次々と浮かんでは消える可能性をありえないと振り払いながら、しかし聞こえてきた声は本物だと誰かが言う。そう本物だ。委員長もありえない可能性を感じ驚きを隠せないでいる。
自然と早くなる胸の鼓動を感じながら、愛生は穴から下を覗き込む。するとそこにはあるはずのない光景が確かにあった。
火と瓦礫の海の中、その男は平然とそこに立っていた。
その体に傷はない。八階。二〇メートル以上の高所から落下したはずのその体には負傷した様子も疲弊した様子もなく、ただ当たり前のように男――――裏方八九郎はそこにいた。
「いいねぇ! 久しぶりにハイになっちまったぜ俺ぁよ!」
両手を広げて叫ぶ八九郎の顔に先程までの怒りや苦しさは感じられない。狂気すら感じさせる笑顔で八九郎は喉を潰すかのような声をあげる。
「無能力者殺すだけのクソみてぇな話かと思っていたが、いいじゃねぇかてめぇ、最高だ! この裏方八九郎の最期を飾るに相応しい敵だ!」
最期という言葉に違和感を感じながらも、愛生は一番の疑問を口にした。
「なんで……! なんで生きているんだ!?」
その質問に八九郎は一度首を傾げたが、すぐに意味を理解したのか狂ったような笑顔を戻した。
「ああ、もしかしててめぇ、亜霧から俺の能力について聞いたんだな。じゃあ間違えてもしかたねぇな」
「間違える? あんたの能力は火炎操作系じゃないっていうのか!」
「いやそれは違くはねぇよ。ただ完全じゃねぇんだ。俺の能力は単なる火炎操作系じゃない。亜霧とは一度能力の見せ合いっこしたからそう思っていたようだが、悪いな。うちの教師に能力を全て他人に話すことを禁じられてるんだよ俺は。だから途中までしか教えなかった」
騙して悪い、と八九郎は不気味なほど素直に頭を下げた。
「まあこの際だ! お前らには教えてやるよ! そっちの方が面白い。俺の能力には確かに火炎操作系も含まれるが、それだけじゃねぇんだよ。大抵の火炎操作系のやつらは自分の体が自分の能力で傷つかないように耐熱性の高い肉体を持ってるもんなのさ。能力に応じた肉体変化ってやつだな」
それは愛生も知っている。火炎操作系は耐熱、帯電能力者は耐電と、また飛行能力のある能力者は耐G等と、その能力に応じて能力者の体はそれぞれ独自に進化を遂げている場合が多い。いや進化というよりは順応が近い言葉だろう。能力を扱うために自身の体が最適化されていくのだ。
「当然、フェーズが上がれば耐熱性も強くなる。だがフェーズ7の俺の体は単なる耐熱性じゃねぇ。俺の体は熱に耐えうるのでなく熱を力に変える! 熱を帯びれば帯びるほど、つまり体温が上がれば上がるほど、俺の肉体は強化されていくのさ!!」
「……条件付きの強化能力か!?」
「能力学的に言えばそうだろうが、そこらの強化能力と一緒にするなよ。俺の強化には限界がない」
その通りだ。熱の大きさに限度がない以上、八九郎の強化にも限界はない。
炎を操り、更にその炎によってどこまでも強くなる肉体。
フェーズ7。ラボラトリ最強の男、裏方八九郎の真の力だった。
愛生は思いだす。一番最初、不意打ちで放たれた一撃を。あれは変な小細工も使わない、ただ炎を帯びた拳で殴り飛ばしただけのものだったのだ。そして相手は今、炎の海の中にいる。明らかに、あの時よりも体温は上がっているはずだ。
まずい。と、愛生の直感が告げていた。あの男は自分ではどうしようもないと。
「能力名《熱機関》! この火の海の中で、俺は最強だ!! 覚悟しろよ…………ここまで教えてやった以上。出し惜しみはしねぇ!」
そう言って、八九郎は右腕を大きく後ろに捻る。力をためるようにその体が一瞬沈む。
「滾れよ炎! 熱機関!!」
詠唱。裏方八九郎がついに本気を出したのだ。
瞬間、言葉と共に八九郎の拳が振るわれる。その拳から吹きだした炎は膨張し、膨れ上がり、一つの火柱となり上へと上がる。愛生は急いで穴から離れ、委員長を庇うように抱きしめた。炎を背にしてなるべく熱が彼女を襲わないよう楯となる。背中越しにみた火柱は天井を抜け天へと昇っていた。圧倒的な火力。だが、こんなものは彼の能力のほんの一部。八九郎の言葉が正しいのなら、むしろ真髄は肉体強化にこそある!
すると、火柱が上り続ける穴から、八九郎が飛び出してきた。一階から、当然のように八階まで飛び上がってきたのだ。ゴウゴウと音を立てて上り続ける火柱を背にして、狂った笑顔の八九郎が愛生を見つめてその顔を一層歪ませた。
まるで本物の地獄だと、赤に染まる視界の中で愛生は思った。地の底から地獄の鬼が這い上がってきたのだ。
八九郎は炎を帯びた右手の拳を見せつけるように振り上げて言った。
「てめぇの実力は理解した。だから亜霧がいようともう手加減はしない。…………頼むから、しっかり守ってくれよ。そいつはちゃんと、帰してやらねぇといけねぇんだからよ!」
最強の拳が、愛生の背中目がけて振るわれた。
++++++++++
窓ガラスの割れる音。それと同時に愛生の体は宙に投げ出された。背中にいくつか破片が刺さっていたが、それを気にする余裕もない。
初撃はなんとか避けきった。しかし、その一撃の威力は凄まじく、見ているだけで命を奪われる錯覚に陥った。愛生は恐怖したのだ。ラボラトリ最強の力を間近で見てしまい、隠しきれないほどの恐怖をその身に刻んでしまった。
次からの行動は滅茶苦茶だった。
委員長を抱えたまま、這いずるように床を移動し、何も考えずに窓から飛び降りた。とにかく逃げたかった。あの地獄の鬼と同じ空間にいるよりか、八階の窓から飛び降りた方がまだ生きていられると愛生の本能がそう叫んだのだ。
そうは言っても八階。二〇メートル以上高所からの落下。八九郎のような力のない愛生に耐えきれるものではない。なんとか落下の速度を落とそうと愛生は左手をビルの壁に伸ばして何かを掴もうとする。しかし外側も風化して脆くなっているのか、愛生の左腕が触れた瞬間、速度に耐え切れずにすぐに壊れてしまう。それでも必死に手を伸ばすと、何かを掴もうとした行為は壁そのものに手を突っ込むような行為へと変わる。左腕が軋み、肩の接合部分が痛んだが、その痛みに構っていられる場合ではない。ただなんとかしようと、何も考えずに手を伸ばし続けた。
幸いにも減速はできた。しかし無事に着地できる速度まで落ちたかと言えばそうでなく、ギリギリ愛生が死なない程度の速度まで落ちただけだった。落としきれなかった速度はそのまま衝撃となって愛生の背中を打つ。最初はただ、空気と共に全てを吐き出すかのような感覚が広がり、それが徐々に痛みとなり、愛生の感覚を塗りつぶした。
「ガ、ああっ!」
視覚嗅覚味覚聴覚触覚。五感全てを支配するような痛みに耐えかねて、愛生は擦り切れた声を出す。必死に守り抜こうと抱きしめていた委員長まで投げ出してしまう。
そうだ委員長だ。
痛みの嵐の中で、愛生は彼女の存在に意識を向けた。
委員長は愛生の隣で投げ出された状態のまま動かない。落下の途中で意識を失ったようだ。怪我はしていないはず。何も考えてはいなかったけど、委員長を守るために体は勝手に動いていた。
委員長は大丈夫。なら次はどうする。
自分に向けた問い。答えはすぐに返ってくる。
彼女を置いて逃げよう。
置いていくしかない。それが一番安全だ。愛生と一緒にいない彼女を殺す理由は八九郎にはない。むしろ一緒にいることの方が彼女にとっては危険だ。あんな男から愛生は彼女を守りきる自信がない。自分の命さえも守れるかわからないのだ。
立ち上がる。委員長にごめん、と聞こえるはずのない謝罪の言葉を口にしながら立つ。すると、瞬間的に臓器の全てが暴れ狂うように痙攣する感覚に襲われた。たまらず、胃の中のものを全てぶちまけた。夕飯も食べていない状態なので形のあるものはなく、ただ色の付いた粘性の液体が口から何度も吐きだされた。
酷い匂いと不快な味が広がる。口の端から涎と一緒に胃液が垂れるがそれを拭う余裕もない。ただもう吐き出すものもなくなった体を引きずるようにして前へと進ませる。しかし三歩先に進んだところで自分が吐き出したものに足を取られて前へと倒れた。いや違う、そもそも足が震えてまともに歩けないのだ。足だけではない。愛生の全身は落下の衝撃と、それ以上の恐怖によってガクガクと震えてまるで言うことを聞いてくれない。
「あ、ああ! くそ、畜生!」
立て。立て。立って走るんだ。早く逃げないと。早くあいつから逃げないと。
張り裂けるように鼓動する心臓が愛生の焦燥をよく表していた。早く早くと頭は急かすが、肝心の体は動かない。自分の中で生まれた意識の齟齬は焦りとなって更に愛生を追い詰める。
「おいおい。逃げるんじゃねぇよ」
背後から声がする。同時に、八九郎が宙から地面へと降り立った。八階から飛び降りてきたのだろう。しかし愛生のように命がけの落下ではなく、この男にとっては当然の些細な出来事だというように減速も行わず着地して見せた。大きな音と共にアスファルトが一瞬揺れたが、八九郎本人に怪我はない。平気な顔で愛生と距離を詰めてくる。
八九郎の足が植え込みの花壇に触れた瞬間、花や木々が炎を拭いた。触れるだけで八九郎は全てを焼き尽くすことができるのだ。それはまるで熱の鎧のようだった。
ただ歩いているだけにも関わらず愛生はより強く怯えた。八九郎の存在自体が愛生の精神を攻撃しているかのようだった。
「あ、あああああ!」
言葉にならない悲鳴をあげて愛生は八九郎から距離を取ろうともがく。必死に立ち上がり、数歩先でまた転んだ。そんな不様な行為をなんども愛生は繰り返す。立ち上がり、倒れ、また立ち上がる。そのスピードは歩くよりも遅く、簡単に八九郎は追い付くことができたが、しかし彼はその場で止まり忌々しげに鼻を鳴らした。
「ハッ。見込み違いだったか。不様にもほどがあるぜ、我王愛生ぃ!」
その怒声にまた震え、愛生は倒れた。なんとか道を挟んだ向こう側まで行けたが、それでも距離にして六メートル。簡単に詰められる距離だ。
「もういい。さっさと殺してやる」
冷えた声でそう言うと、八九郎はおもむろにアスファルトの地面に手を置いた。
「焼死っていうのは意外と辛いものなんだぜ。皮膚が焼け爛れて目玉まで焦げて気管が燃えても中々死ねない。だからせめてもの慈悲だ。てめぇは楽に殺してやる」
八九郎がアスファルトに置いた手に力を込める。すると、音を立ててアスファルトが割れる。八九郎はそこに手を突っ込み、そのままアスファルトを引っぺがして見せた。
剥がされたアスファルトの地面はまるで巨大な壁のようだった。
八九郎は無言で腕を振るい右手の炎を膨張させ、巨大な壁に当てる。勢いよく膨れ上がる炎はその推進力で壁を前方、愛生に向けて押し出した。高速で押し出された壁はまるでプレス機のように簡単に愛生の体をぐちゃぐちゃに押しつぶすだろう。その姿が愛生には簡単に想像できた。
逃げなくちゃ、殺される。殺される。
しかし壁は大きく、横に飛び退くには時間がたりない。上に飛ぼうにも八階から落下したばかりの愛生の体ではそれはできない。
恐怖が、死が、愛生の背中に迫っていた。
死にたくない死にたくない、と弱い自分が叫び散らす。その声は愛生の思考を散漫にさせていく。何も考えず、愛生は前に足を踏み出した。とにかく迫りくる恐怖から距離を取ろうとしたのだ。だがそれに意味はない。前に踏み出す足よりも速く壁は迫る。
怖い。怖い。怖い、怖い。
恐怖が思考を放棄させる。そしてそれは最後には生きる意志すら放棄させるものだ。ただ愛生はわけもわからず前に進む。もう何の為なのかもわかっていない。後ろから熱を持った何かが近づいているような気がしたが、そんなことはどうでもよかった。
我王愛生の世界が終わる。
――――――――その直前、愛生はありえないものを見た。
「愛生……!」
灰髪の少女。愛生が守ると誓った小さな女の子。リナリアが自分に向かって手を伸ばしていた。
その手を取る。小さく、弱い手。細い指が愛生の手を精一杯の力で掴んだ。
それは確かな感触。自分がここにいること、そして彼女がここにいることの証明でもあった。
次の瞬間、愛生の意識は覚醒する。放棄した思考を、手放した生きる意志を強引に引き戻し、我王愛生は自分の世界を保ったのだ。
何故、彼女がここにいるのか。思考は戻ったが、そんなことを考えている余裕はなかった。自分の背中からは熱を持った壁が迫っている。それは自分を傷つけるものであると同時にリナリアを傷つけるものだ。
守らなくては。
ただその想いだけで、愛生は拳を握りしめた。
「満たせぇええええええええええええええ!」
ただ一言を叫んだ。それは愛生の詠唱だった。力を使うために、己自身に語りかける言葉。自分という器を満たせと愛生は《黒》に語りかける。
愛生の左胸、丁度心臓の辺りにそれは現れた。ぽっかりと空いた穴のようにも見えるが、それは向こう側を見通すことはできない。ただ黒く塗りつぶしたような円形の穴。そこからドロリと《黒》が流れ出した。溢れ出したその《黒》はまるで生き物のようにうごめき、愛生の義手にまとわりつく。人工的で角ばった直線の刺青となった《黒》は愛生の義手にいくらかまとわりついたところで動きを止めた。
土山との戦闘で使った力が三割だとすれば、これはたったの一割の力。委員長を助け出した時に使ったものと同じだ。しかしそれだけあれば十分だった。たった一割だろうとも、この《黒》は十分すぎる力を愛生に与えてくれる。
迫りくる壁に愛生は振り向きざまに拳を当てた。すると、いとも簡単に壁は粉々に砕け散った。砕け散った壁の向こうには驚愕の表情を浮かべる八九郎の姿があった。
「どういうことだ、おい! てめぇは無能力者じゃなかったのかよ。なんなんだよそれは!」
八九郎の叫びを無視して愛生は構えた。もう何も言うべきことはない。彼女が後ろにいる。ならば自分はそれを守るだけだ。無論恐怖はなくならない。今だって逃げ出したいし、勝てるとも思えない。だがその恐怖を覆すだけの感情が愛生の中で爆発したのだ。
八九郎はしばらく気味の悪いものを見るかのような目で愛生を見ていたが、一度視線を伏してそれを戻した頃には、その瞳にただ冷徹さだけを浮かべていた。
裏方八九郎。
我王愛生。
二人の男が言葉を交わすことなく戦いを開始しようとしていた。




