強襲
日も沈んだ頃、愛生は大変なことに気が付いた。それは決して忘れてはならない重要事項であり、愛生にとっても、そしてリナリアにとっても欠かしてはならないことだった。特にリナリアはこの事実にとても悲しんでいるようで、いつもの無表情も若干俯き気味だ。
しまった、と愛生は悔しそうに呟く――――空っぽの冷蔵庫を見つめながら。
「買い物に行くのをすっかり忘れていた……」
ショーやら委員長とのことやらで頭の中から抜けてしまっていた。冷蔵庫の中には残り半分ほどになってしまったマヨネーズ等々、食材さえあれば輝くことのできるものばかり。
「しかし食材がないと……」
リナリアに視線を向けると、彼女は愛生の目をじっと見つめていた。「ご飯……ないの……?」と悲しむペットのようだ。その姿は無性に可愛かったが、そんなことを言っている場合ではない。
彼女を悲しませるわけにはいかないと、愛生はすぐさま行動。
「ごめんリナリア。今すぐ買ってくるから!」
そう言って愛生は部屋を飛び出した。エレベーターを待っている時間も惜しい。階段を飛び降りるようにして駆け抜け、通りにでる。自転車の鍵は忘れてきてしまったので走る他ない。たいした距離ではない。全速力のまま走って行って帰ってこれる距離だ。
とりあえずすぐに食べれる惣菜物を買ってそれでお茶を濁して……と頭の中でこれからどうするのか大急ぎで考えていると、ポケットの携帯が鳴った。走りながら画面を見ると、そこには《委員長》の三文字が。
そういえば随分前に連絡先を交換していたんだっけ。確か、同じクラスになってすぐに聞かれたんだ、今まで一度も何かやり取りをしたことはないけれど、とそんなことを思い出しながら操作する。電話ではなくメールのようだ。件名は書いていなかった。開いて読んでみる。
『今日は本当にありがとう。我王くんに話したら、なんだかすっきりしました。これからもよろしくね』
走りながらで手元がぶれているが、文章はきちんと読めた。なんだかんだとやっぱり真面目だなぁと感心していると、続けてまた委員長からメール。
『追伸。あんまり怪我はしないように』
ベランダから落っこちた人に言われたくないな、と愛生は苦笑。どうせだから思ったことをそのまま伝えてやろうと返信用の文面を打ち込もうとした――――その瞬間だった。愛生の視線の隅に赤色の何かがかすめたのだ。
それはとてもはっきりとした鮮やかな赤。
走りながら、首を傾げる。
こんな夜に赤色?
焦り過ぎて何か変なものを見たのかと思った。だが、愛生が見たというその赤は唐突に現れた。
愛生の頭を横側から打ち抜くように質量を持った何かが大きな熱を持って放たれたのだ。
突然の衝撃。愛生はそれを左の義手で防御した。しかし勢いを殺すことはできず、そのまま横に体ごと吹き飛ばされる。あまりに突然のことだったため、上手く着地することもできずに勢いをそのままに地面に叩きつけられ転がった。
かなりの距離を吹き飛んだが、痛みは少なかった。受け身も何も取れないと判断して無駄に抵抗をしなかったおかげで変に体を強打することがなかったのだ。
すぐさま立ち上がり、辺りを確認。そこは街灯一つないビルとビルの間の路地のような場所だった。狙いすましたかのようにその場所へ愛生は飛ばされたようだ。そして、さっきまで自分がいたはずの場所には自分ではない誰かが立っていた。その誰かは自分のもとへとゆっくりと歩を進めてくる。
「ハッ」
誰かが発した声なのか、笑うような、怒ったような声が聞こえた。
街灯一つない暗い真っ暗な路地だというのにも関わらず、その誰かの姿ははっきりと見ることができた。特徴的な赤い髪も、尖るようにしてたてられたヘアスタイルも、その猫背もはっきりと。
街灯はなかった。しかし、灯りはあったのだ。ごうごうと真っ赤な炎を上げる男の右腕が。
その誰かは昼間に委員長に連れられた施設で見た男だった。黒いズボンにもう夏になるというのに自身の髪と同じような色をした赤いレザージャケットを地肌の上から羽織っている。男の目はただ愛生を睨みつけていた。
どうしようもなく真っ直ぐな敵意。
「おっかしいな。俺の予定では今頃お前は顔面全焼で死んでるはずなんだがな」
男が不機嫌そうに呟く。
愛生は自分の左腕を見た。そこには燃えて剥がれてしまった包帯のわずかな残りと黒色に光る義手があるだけだった。
「義手、か。いやそれにしたって直撃くらって立ってられる時点でおかしいぜ。てめぇ、一体何しやがった」
男が話しかけてくるが、愛生は答えない。彼の言葉に応えるよりも、今自分が置かれている状況を理解するので精一杯だった。
何故? どうして? そんな言葉が頭の中で羅列する。
「……何が目的だ」
絞り出したのは漠然とした質問。男はそれに一言で答える。
「てめぇを殺す」
わかりやすいな、と愛生は場違いだなと思いながらも苦笑する。
理由はわからない。だがとにかくこの男は自分を殺しに来たらしい。そして燃える右腕を見れば一目瞭然、超能力者だ。おそらく火炎操作系だろうと予想。そこまでわかったら次にやるべきことは一つ。
「……逃走」
男に聞こえないように小さな声で呟くと、愛生はそのための考えを巡らす。
横はビルに挟まれている。ビルの壁に窓はない。正面、通りへの入口は男に塞がれている以上、逃走経路は後ろのみ。しかし後ろにあるのは道ではなく壁だ。左右のビルのものほど大きくはない。登れないこともないが、五秒はかかるだろう。
その五秒、あの男に背中を向けるのは危険だ。愛生の予想では男の能力は火炎操作系だが、わからないこともあった。先程自分を吹き飛ばした一撃。あの一撃、間違いなく愛生の左腕には形のある物体がぶつかってきた。それこそ砲丸のように、質量を持った何かがだ。しかし、それがなんなのかがわからない。
手の内がわからない以上、背を向けるのはあまりに危険だ。どうがんばった所で、自分なんてものは多少体が丈夫なだけの一般人でしかないことを愛生は知っている。それはいつも自分に言い聞かせているようなものだった。能力者なんてものを相手にする以上、一歩間違えればすぐに死んでしまうのだと知っていた。だからこそ、背は向けられない。
だけれど、打開策も見つからない。
「どうして、僕を殺すんだ」
とにかく思考のための時間が欲しかった。なんでもいいから男を引き付けようと言葉を漏らす。
「知らねぇよ。そんなこと、俺は知らない」
男の言葉に愛生は違和感を覚えた。
「つまり、お前は知らないけれど、お前以外の誰かは知っているんだな」
そう問い詰めると、男は何も言わずにただ愛生への視線を強めた。
「お前自身に僕を殺す意思はない。それは誰か別の奴の意思ってことか」
男が大きく舌打ちをした。
「小賢しい頭の良さは嫌いだ」
「そうか。僕も突然襲い掛かってくる赤髪は嫌いだよ」
「言うじゃねぇか」
圧倒的な敵意含んだ赤の瞳が愛生を狙う。愛生は震えそうになる膝を押さえつけながら、続けた。
「次からはとぼけるんじゃなくて嘘を吐いたほうがいい。馬鹿正直すぎる」
その瞬間、男の右腕で燃えていた炎が大きく膨れ上がった。それはまるですべてを飲み込まんとするかのように膨張し膨大し、愛生に襲いかかる。
まずい、咄嗟にそう声がでた。膨大した炎は右に左に、左右に広がり愛生が逃げる隙を奪っている。後ろの壁に上ろうにもたどり着く前に炎に飲まれてしまう。
どうするべきか、炎が愛生を飲み込むまでの刹那。殆ど瞬間的に愛生は判断し、動いた。右でも左でも後ろでもない、上だ。愛生は上に飛んだのだ。だが垂直に上に飛んだわけではない。それではまだ足りなかった。左右に膨大した炎は上にも伸びていたのだ。だから愛生は垂直ではなく斜めに、ビルの壁に向けて飛んだ。そして壁を蹴り、更に高く上へと飛んだのだ。
壁を台にして高く空にとびあがった愛生。その姿を男の目はしっかりと捕らえていた。
炎が過ぎ去ったあとの焼けた地面に愛生が着地する。着地の衝撃を消すために体を曲げての着地。それでも消しきれない衝撃は愛生の足に響いた。
痛みに一瞬だけ顔を歪める。その愛生の姿を見つめていた男が口を開いた。
「次からは口の聞き方に気を付けた方がいい。俺はそこまで寛容にはなれないぜ」
「覚えておくよ……」
皮肉げに呟かれた愛生の言葉。また男の癇に障ったのか、眉が吊り上る。
「口のへらねぇ奴だ。……だがそれにしても、壁ジャンプとは恐れいったぜ。一瞬ゲームに見えた。お前は無能力者だと聞いていたんだが、一体どういうことだ」
「別に、鍛えればこのくらいは誰だってできる」
強がってみるものの、愛生は自分でさえ成功したことに驚いていた。もう一度やれと言われて成功する保証はないし、そもそも体が持たない。無理な駆動は何より自分の体を傷つける。
もう一度、今の攻撃をされたら終わりだと、愛生はそう確信した。
愛生は焦る。手詰まりなのだ。逃げ道はない。相手の力は遥かに上。この状況を打破する術はないと、冷静な自分が語りかける。
考えろ。思いつけ。勝つ方法ではなく、生き残る方法を。
焦るほどに思考はまとまらず煩雑としていく。自らぐちゃぐちゃに脳髄をかき回している気分だ。額を流れる汗ですら思考の邪魔だと愛生は荒い手つきで拭い取る。
「……まあいい。お前が何者だろうと、俺はお前を殺す」
殺す、と覚悟を決めるかのごとく男が繰り返す。そうして男は燃える右腕を振り上げる。まるで処刑台のギロチンだと、愛生はそう思った。斬首刑ではなく火刑だけどな、とつまらない冗談が口をついてでた。
「遺言はそれでいいのか?」
「いや、きちんと考えたいから一晩待ってくれないか?」
「ハッ、口が減らねぇなぁおい!」
男が眉を吊り上げ、同時に腕を振るう。瞬間的に膨れ上がった赤い炎はまるで熱を持った壁だ。愛生の逃走を拒むかのように先程よりも大きく膨張する。
手はない。こうなったら一か八か後ろの壁に……。
半ば諦めのような策に打って出ようとしたその時、炎に追いかけられるようにして茶色の毛をした何かが愛生に向かって走ってきた。その何かをはっきりと視認することはできなかった。炎を前にして焦っていたのもあるが、何よりも速かったのだ。空気を、風を切るかのような速さ。迫りくる炎を当然のように振り切り、その何かは愛生目がけて一直線に駆ける。
新たな攻撃かと愛生は身構えるが、その何かの圧倒的な速さにろくな反応もできなかった。何かは愛生の腹部に突進。直撃するが、しかし痛みはなかった。混乱する愛生は何かの正体を確かめようと両手で抑え込むようにして触れる。
瞬間、愛生は何かの正体を悟った。隠せない驚愕が顔に現れる。だが驚いている場合ではない。愛生はその何かに咄嗟にしがみつく。
すると、何かは愛生の体重をものともせず殆ど先程と同じ速度で走り出した。その先にあるのはコンクリートの壁。何かはそれを一度の跳躍でゆうに飛び越えて見せた。
やった、と愛生が喜ぶのも束の間。後ろでは壁に遮られ、それでも溢れ出るように漏れ出した炎の一部が覆いかぶさるように迫る。しかしその炎に愛生が飲まれることはなかった。今愛生がしがみつくのは風を切る疾風。炎などではそれに追いつくことができるはずもない。
愛生を連れた疾風は更に速度上げて夜の闇に消えて行った。
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愛生のいなくなった路地で男は一人奥の壁を見つめていた。
「……」
愛生に向け、最期の一撃を放ったつもりだった。正真正銘の必殺。右も左も、上さえも逃げ場を奪った炎の大波。しかしそれを放つ瞬間、男の腋を抜けるようにして茶色い何かが過ぎ去ったのだ。そして炎が消えた後には誰一人残っていなかった。ただ焦げたような黒い地面と壁があっただけだ。
「まさか……」
あの茶色には見覚えがあった。風を切るようにして走るその姿を、男は一度だけ見せてもらったことがあるのだ。あの時も確か、あれは男から逃げるようにして遠ざかっていったはずだ。
だけど、どうしてあいつが……。
男は思わず思考に溺れそうになる自分を引き止めた。そんなことは考えるべきことじゃないからだ。
誰がいようと何があろうと、自分はあの男を殺す。絶対に絶対に、自分は我王愛生を殺すのだ。
「俺は、あいつを殺す」
言い聞かせるようにして、男は何度も呟いた。
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愛生がしがみついていた何かが動きを止めた。もうどれだけ走ったのかを愛生は覚えていなかった。さっきまで自分がいたはずの路地は遥か遠く、右へ左へ縦横無尽に走り回った果てに着いた場所は似たような路地。だがこの路地には街灯があり、完全な暗闇にはなっていない。
何かから手を放し、街灯の下に座る。すると、何かも愛生の横に寄りそうように近づいてきた。
それは犬だった。茶色の毛をした大きな犬。愛生を乗せて疾風となったのは大きな犬だったのだ。犬好きの愛生はそれがボルゾイと呼ばれる犬種であることがすぐにわかった。しかしそれにしても大きい。標準的なボルゾイよりも二回り以上はあるだろう。だからこそ、愛生をその背中に乗せた状態で駆け抜けられたのだ。
それにしても、何故この犬は自分を助けるような真似をしたのだろうか。そんな疑問がないわけではなかったが、今はとにかくあの男から一時的とはいえ逃げ切れた安堵が大きく、思考をするのも億劫だった。
茶色の犬は愛生の隣に座り、じっと愛生の目を見ていた。
「ありがとうな」
犬の頭を撫でてやる。すると犬は人が顔を伏せる時のように俯く。その動作に何か違和感を覚えた直後、犬の体に異変が起こる。
みしみしと何かが軋むような音と共に犬の体が縮んでいくのだ。長かった鼻は引っ込み、毛は無くなり、耳も小さく変形していく。牙や爪、動物を思わせるあらゆる部位が消滅していく。それは生物学上の変態という言葉を思い浮かべる光景だった。進化、あるいは退化の過程を早送りしているようだ。
そうして犬は瞬く間に人間の女になった。牙も爪も、毛もない人間。その変化に驚いた愛生は彼女の頭に置いた手を放せずにいる。彼女はその手を振り払うことはしない。ただ身にまとうもののない全裸の体を隠すように自分の体を抱いて小さな声で言う。
「あ、あんま見ないでよ、馬鹿……」
愛生をじろりと睨むような顔する彼女。それは愛生もよく知る人物、《委員長》に他ならなかった。




