一人で勝手に
まったくどうしたものかと、千歳は悩んでいた。
場所は愛生の自宅。およそ高校生が住むにはふさわしくないほど豪華で広々としたマンションの一室で千歳は夕飯の支度をしていた。リビングと直結したシステムキッチン。黒を基調とした清潔感のあるスペース。余裕はあるものの、必要なものはすぐに取り出せるように計算された作りは悔しいほどに使い勝手がいい。千歳の学生寮では考えられないほど大きいオーブンやそんな限定されたシチュエーションで使うことがあるのかというほど多機能化された電子レンジ等々……。おまけにこのマンションは家具だけでなく各種の備品まで最初から用意されてあるので、包丁や鍋の種類もプロの料理人を呼んでも問題ないほどだ。無論愛生はその半分も使いこなせていないはずだ。刺身包丁で大根を切っていた時はさすがの千歳も絶句した。
もったいないと、千歳は素直にそう思う。これではキッチンが可哀そうだ。この二日ほどこの家で寝起きをしている千歳は余計にそう思うようになっていた。おまけにあの男はこんな素晴らしいキッチンを『なんか使いづらい』と言って文句まで零しているのだ。
もういっそ、私もここに住んでしまいましょうか……。
部屋は空いてるし、問題はないはずだ。今度真面目に愛生に相談してみようかと思って、ふとリビングのソファに目をやって色んな考えが吹き飛んだ。
そうだ、今はそんなことを思案してる場合じゃない。
自分が何に悩んでいたのかを思い出し、千歳はその悩みの種に目をやった。愛生が帝から貰ったという馬鹿でかいソファに膝を抱えて座っている灰髪の幼女。彼女の小さな体は膝を抱えることで縮こまり、まるでソファに埋もれているようだった。
「リナリアちゃん。そろそろご飯、できますよ」
キッチンから声をかける。リナリアは少しだけ間をおいて、はいと小さく返事を返した。
やっぱりどこか元気がありませんねぇ。
千歳は困ったなぁと言うように肩にかけたおさげを弄る。つい先日まではウェーブヘアーだったが、あまり愛生の評価がよくなかったので今度は思いっきり路線を変更して地味目なおさげにしてみたのだ。二つのおさげを両肩から垂らしたその髪型は、自分の縁の太い眼鏡も相まって随分と大人しげに見えるだろう。この髪型にするためにわざわざストレートパーマまでかけたのだから、早いところ愛生の感想を聞きたいのだが、その愛生は千歳がおさげに変更した次の日、今から二日ほど前から音信不通で帰ってきていない。
そう愛生。
そもそも千歳が自宅の学生寮を離れて、こうして愛生の家で寝泊まりしているのは彼に自分がいない間のリナリアの世話を頼まれたからだった。頼むだけ頼んでおいて、本人はどこへともなく失踪中。そして何より千歳がこの二日間頭を悩まされているのは置いて行かれたリナリアのことだった。
このリナリアという幼女はあまり感情を表に出さない子供だった。嬉しいことも悲しいことも全部まとめて口をつぐんでしまう。千歳は自分がかなりわかりにくい女だという自負はあるが、リナリアはその比じゃない。千歳でさえも彼女が考えていることはよくわからないのだ。だから最初は気づきもしなかったが、一日目を過ぎたところでようやく気が付いた。どうもリナリアは落ち込んでいるようなのだった。
落ち込んでいるとわかってしまえば、原因の方はすぐに予想がついたんですけどね。
それもまた愛生のことだった。聞けば愛生が音信不通になる直前にリナリアは愛生と話したようだった。必ず帰ってくると約束して、愛生はどこかへ行ってしまったという。
だがそんな約束、信じろというのが無理な話だと千歳は思う。これが他でもない帝や、そうでなくても他の人との約束ならまだ信じようがあるが、しかしこの約束の相手が愛生だとすると千歳でさえも信じられない。いやむしろ千歳だからこそ信じることができなかった。
リナリアもまた、彼との約束を信じることができないでいるのだろう。しかし彼女のことだ。それを信じてあげないのは愛生に対する裏切りのような気がして、罪悪感を覚えるが、だけどそれでもどうしても信じることはできなくて……そんな葛藤をずっと繰り返しているのだろう。元気も失くすはずだ。それは幼い彼女の心ではとうてい抱えきれるものではない。
いや、違いますか……。
私も中々酷い見解をするものですね、と自嘲気味に千歳は笑う。
そんな面倒な理屈を並べる必要はない。
リナリアはただ愛生のことが心配なのだと。
そして千歳はそんなリナリアのことを心配している。何もこの子悩む必要なんてないのだ。そもそも悪いのは全て愛生であり、むしろ怒っていい、いや怒って然るべきだとさえ千歳は考えている。帰ってきたら何をさせようかと、今から楽しみなくらいだった。だからリナリアもあの駄目男をどうやって虐めるのか考えてドキドキワクワクしながら彼の帰りを待てばいいと思うのだが。
いやさすがの私もそこまで鬼畜にはなれません。
そんなこと彼女に要求してどうするのだと自分でツッコミ。ただやっぱりこのまま放っておくわけにもいきませんよねぇとしばらく考えて、
「今日はリナリアちゃんの好きなオムライスにしてみたんです。どうです? 何かご要望があればケチャップで絵とか描いちゃいますよ、私。そうですねぇ、ここは可愛く『仁義』とか描いちゃいます? なんちゃって!」
しばらく考えて発表したネタは盛大に外した。リナリアから返事は聞こえなかった。慣れないことはするもんじゃないなと反省。めげずに次のネタを考え出すが、
私の持ちネタ『毒舌』はリナリアちゃんに向けて披露するにはリスキーですよね……。
あれはツッコミがいて初めて成立するものだ、リナリア相手に使ったら、ただ女子高生がいたいけな小学生を虐めている図にしかならない。
それはいけません。私が虐めるのは愛生だけです。
さてどうするべきかと考えながらとりあえずオムライスにケチャップをかける。リナリアからは無視されたが、一応猫さんくらいは描いておこうとして、何故か漢字でデカデカと『猫』と書いてしまった。
疲れてますね、私……。
リナリアの元気は別の方法で取り戻すことにして、千歳はとにかくご飯にすることにした。冷蔵庫からあらかじめ作っておいたサラダを取り出し、オムライスと一緒にリビングの机に並べる。最後にオニオンスープと付け合せの人参のグラッセをよそったら今日のご飯は完成だった。千歳が背の低いテーブルに向かい正座するとリナリアもソファから降りて真似をするように正座をした。リナリアに限らず子供というのは大人の真似をしたがるものだ。自分も昔はそういう時代があったんだろうなぁなんて考えながら千歳は両手を合わせていただきますと言った。リナリアもそれに続くようにいただきますと呟いた。意外にも愛生がその辺りの躾をきちんと行っているのか、そもそもリナリアができる子なのか、どちらかはわからないが彼女はこういう礼儀作法に関してはかなりきちんとしていた。食事時にテレビをつける癖は愛生譲りだろうが、それ以外のいただきますやごちそうさまは千歳の真似をするまでもなくやっていたし、食事が終われば誰に言われるでもなく自分の食器は自分で下げていた。
どんなに無口でも挨拶だけは欠かしませんし。
よくできた子だと思う。しかしそれと同時に何か違和感のようなものまで感じるのはどうしてだろうか。
「千歳」
するとリナリアが自分の名前を呼んだ。ボーっとしていたせいでらしくもなく慌てた声で「な、なんでしょう」と返す。今のを愛生に聞かれていなくてよかったと思いながら再度返す。
「どうしました?」
「ん。えっとね……」
そこで言葉を切ってリナリアは少しの間黙ってしまう。一つの一つの言葉が中々出てこない子だというのは愛生から聞いているし、彼女との会話の中でわかってきていた。なるべく聞き逃さないようにしっかりとリナリアの言葉に耳を傾ける。
「千歳は、どうして愛生と一緒にいるの?」
「えっと、それはどういう……」
再び沈黙。そしてまたリナリアから口を開いた。
「千歳は愛生や帝みたく、戦ったりする人じゃないんだよね」
「……まあそうですね」
少し迷ったが、素直に答えた。
「私はあの二人のように戦う人間じゃありません。そんな技術なんて持ってませんし、あくまでラボラトリに住む一介の超能力者ですよ」
「なのに」
なのにどうして愛生と一緒にいるの、とリナリアはそう聞きたいのだろう。
いや、これはもっと違う。愛生ならきっとそのままの意味では捉えない。そう多分これは、
こんな時どうしたらいいの、でしょうか……。
彼のことは心配だ。でも自分にできることはない。ただ待っていることしかできない。そんな時一体どうしたらいいのか、彼女はその答えを求めているのだ。それはまるで拙い言葉で告げられる『助けて』のような気がして、千歳は少し胸を痛めた。彼女にこんなことを言わせる前にどうにかできなかったのかと、そう思ってしまったのだ。
そんな思いを押し込めて、千歳はリナリアの問いに対する答えを探す。
どうして愛生と一緒にいるの。
こんな時どうしたらいいの。
それに対する答え。
そうですねぇ……。
「私は愛生の幼なじみで、初めて愛生と出会ったのは幼稚園のことでした」
不意に語られる昔話。リナリアはそれを黙って来ていた。
「当時の愛生はラボラトリには住んでいませんでしたけど、ラボラトリ内の教育施設に通っていました。私は純粋なラボラトリ住民で、私たちはお互いが通う幼稚園で出会ったんです。今はまあこんな図太い女に育ちましたが、昔はかなり臆病で大人しい女の子だったんですよ、私。幼稚園でも中々友達の輪に入れなくて……その時でしたかねぇ、愛生と会ったのは」
当時を懐かしみながら、千歳は続ける。
「でも別に一人で寂しそうにしていた私に愛生が声をかけてくれたとか、そんな格好良い出会いじゃないんですよ? 愛生も私と一緒で友達ができなくて……見かねた先生が私たちの間を取り持ってくれたんです」
「愛生、らしいね」
「ええ本当。当時からヘタレだったんですよ。女の子の私よりも大人しくて内気で……ああもうこれはしょうがない。私がしっかりするしかないって思ったものです」
その結果がこの性格だとすると、些か方向性を間違えた気がしないでもないが、それも愛生のせいにしておいた。
「そしてこれはリナリアちゃんも知っていると思いますけど、愛生が小学一年の時。空港爆破テロによって、愛生は両親を失います。そしてそこで帝さんに出会うんです」
だけどそのあとすぐに愛生は帝の養子になり始末屋の助手として働きだしたかと言えばそうではなかった。最初は帝も愛生の処遇を所定の機関に任せていたのだ。
「でもそれは今にして思えば間違いだったんでしょうね。それから二年の間、愛生は研究所の中に軟禁されてしまうのですから」
「軟禁……」
リナリアの表情が変わったような気がしたが、構わず続けた。
「テロ直後の愛生はそれはもう憔悴しきったようで、病院に入院していた彼に私は毎日お見舞いに行ったんですけど、その時だって愛生は一言二言話すだけで……あとはもう私の独り言でしたね」
それでも毎日賢明に通っていればいつか愛生は元気になると、千歳は幼い頭でそう考えていた。流行りのドラマみたいにいつか愛生は元気になって、幸せな人生を歩むのだと信じていた。
だけどある日突然愛生は千歳の前から姿を消した。
「研究所に連れて行かれたの……?」
リナリアの問いに千歳は頷きで返した。
「私は知りませんでした。愛生が研究所に預けられることなんて。てっきり、何かの施設に入るものだと思ってましたから」
どうして教えてくれなかったのだと看護婦や医者に詰め寄ったが、彼らは不思議そうな顔で言うのだ。聞いてなかったの? と。
「どうも愛生が自分から言うから私には秘密にしておいてくれと周りに頼んでいたようなんです」
「それって……」
「ええ。言い忘れたなんてことはないでしょうし、意図して隠されていたんでしょうね。私はその時、あの人に置いて行かれたんです」
医者に場所を聞き、研究所にも足を運んだ。だけど愛生には会えなかった。実験だったり体調だったり、職員たちは様々な理由をつけて愛生に会わしてはくれなかった。千歳の幼い頭でも、それが異常なことだというのは理解できた。中で一体何が行われているかも、子供ながらに予想はついた。
だから愛生を助け出そうとした。色んな大人に話をして、助けてくれとお願いした。でも誰も話を聞いてくれなかったし、私に任せておけと言ってくれた人もしばらくすると連絡がつかなくなってしまった。そんな不毛なことを二年も繰り返し、結局愛生を救ったのはまた帝だった。
「愛生のいた研究所内の現状を知った鋤崎さんが、帝さんに助けを求めたんです。よく知りませんが、面識があったみたいですね」
それで愛生は助け出された。ようやく終わったのだと、千歳は思っていた。これでようやく愛生は普通の生活に戻れるのだと。だけど、それも、また勘違いだった。
「愛生はすぐに帝さんの、始末屋の助手を始めてしまい。結局私が愛生といたのはほんの僅かな時間でした。まあ帝さんといる間は手紙なりテレビ電話なりで連絡は取り合っていたのですが、それでも私が二回も愛生において行かれた事実は変わりません」
だからもう置いて行かれたくないのだと千歳は語った。
「そうですねぇ、私が愛生と一緒にいる理由は結局それだけなのかもしれませんね」
「置いて行かれたくない、から?」
「ええ。あの人は放っておけば一人で勝手にどこかへ行ってしまいますから……それはまあ誰にも傷ついて欲しくないという優しさの結果ではあるのでしょうけど、置いて行かれる方はたまったもんじゃありません」
別に傷つくなとは言わない。ただ自分の知らないところで傷ついては欲しくないと千歳は思う。
「だから私はただの一般人のくせして、首を突っ込むのでしょうね。置いて行かないでと懇願しながら」
「……」
リナリアは何も言わない。彼女の望む答えが千歳の言葉のなかったのか。だがこればかりは仕方ない。千歳にもよくわかっていないことなのだ。いつもなら『私は愛生の幼なじみですから』と済ませるところだ。
「まあ、今回も結局置いて行かれてしまいましたが。でも別に私は愛生の心配をしているわけではないのですよ?」
そういうとリナリアはわかりやすく首を傾げた。
「心配じゃないの?」
「はい。あの人はいつも私を置いて行ってしまいますが、だけど必ず帰ってくるんです。無傷ではありません。心も体もボロボロになって、それでもちゃんと帰ってくるんですよ」
千歳はリナリアの小指をそっと握った。
「愛生と約束したのでしょう? なら問題ありません。その約束だけは愛生は絶対に守ってくれますよ」
二回も置いて行かれた。でも最後には必ず帰って来てくれた。
だから千歳もそれだけは信じているのだ。絶対に愛生は返って来てくれることを。待つことしかできないけれど、待つことだけは諦めたことはなかった。
「だからリナリアちゃんも諦めないでください。愛生は絶対に帰ってきますから、それだけは信じてあげてください」
千歳の真剣な眼差しにリナリアは驚いたように少しの間固まっていたが、やがてゆっくりと首を縦に振った。信じる、とそう小さく呟きながら。
++++++++++
狩場重正を殺害し、証拠隠滅やその他の後始末を乾に任せて愛生はその場をあとにした。
次に殺すべきターゲットはいない。残りの三人は皆現在ラボラトリ外か国外に身を置いていた。ラボラトリの外になってしまうと、乾ならともかく愛生の移動できる範囲ではない。もとより愛生の目的は管理会の崩壊ではなく、狩場重正の殺害と自らの力を見せつけること。これ以上は動かない方が良いといいのが、乾と話し合った結果だった。
愛生の戦いは終わった。
だからだろうか、緊張の糸が切れ、今まで忘れていた体の痛みを思い出したのは。
「はぁ……はぁ……」
街灯の電気も消えた頃。街全体が寝静まった生ぬるい空気の漂う夜の中、愛生は息を切らしながら自宅への帰路を歩んでいた。
体中が痛みを訴えていた。右腕は力を入れるのでさえ辛いし、足も引きずるようにしか歩けない。しかしそれは当然の結果だろう。あのラボラトリ最強との戦い。自らの手におえない四段階目の《黒》の発動。更にはそのあと自分の軽率さのせいで帝に投げ飛ばされた。そういった様々なダメージは当然愛生の体に蓄積されている。
不意に足が前に行くことを拒否した。上がらなくなってしまったのだ。バランスを崩し、転倒。受け身を取ることもできず派手にアスファルトに体をぶつけた。
「参ったな……頑丈さには自信があったんだけど」
いやむしろここまで耐えられたことが不思議なくらいなのだ。自分がやらなくてはいけないという焦りが痛みを麻痺させていたのだろう。本当は痛みも疲労も全て限界を超えていた。体だけではない。愛生は自身の心がとても疲弊しているのがわかった。その心の疲弊は間違いなく狩場重正との対話の結果だろう。彼女の憎しみに溢れた声や言葉はまだ愛生の中で響きわたっている。
「……」
左腕はなんとか動いた。道の真ん中で倒れていた体を左腕だけで端に寄せる。建物の壁を背に体を起こそうかとも思ったが、その気力もなく愛生はアスファルトに倒れ込んだままピクリとも動かない。
夜の空気さえ生ぬるい季節だが、アスファルトはひんやりと冷たく心地よい。熱を持った体を冷やすには丁度良かった。
このまま眠ってしまおうかと目を瞑った時、突然ズボンのポケットから音がした。それは千歳が勝手に設定した流行りだという音楽。彼女からの着信音だ。
それが千歳のものでなければ、もしかしたら愛生は疲労感に任せて無視をしていたかもしれない。しかし他ならぬ幼なじみからの電話。愛生はまるで決められた作業のごとく殆ど無意識の内に携帯を手に取った。




