プロローグ『穏やかな日々』
今日は素晴らしくツいていない日だと、少女は幾度目かのため息を吐いた。せっかくの休日だというのに能力の検査があると学校の保険医から呼び出されたていたというのがまず一つ。寝不足でボーっとする頭のまま学校に向かう途中に靴下の柄が左右で違うことに、というかそれ以前に便所スリッパで来ていてしまったこともそうだし、駅前の靴屋で急いで買ったシューズは微妙にサイズが合わずに靴擦れするし、しまいには正門前についたところで保険医からの『ごめーん、ちょっと駅前でいい男見つけたから今日の検査なかったことにして☆』という薄っぺらい謝罪の電話が鳴る始末。そして足の痛みを我慢しながら帰宅すると突然の雷雨によって干していた洗濯物&布団が全滅。トドメとばかりにお気に入りのシャツには鳥のフン。
「もーっ! どーなってるのよ!」
一人部屋で叫んでみても状況は変わらない。テレビでは今日の占いの結果が流れていたが、おひつじ座が一位だと自信満々に言っているので、彼女は二度とこの占いを信じないことにした。
「何が今日は最高の一日よ。最低の間違いじゃないの!? ラッキーカラーは淡い栗色って、そんな色見たことないっての!」
テレビに向かって文句を言うと、馬鹿らしさで沸騰した頭も落ち着いてきた。テレビに文句を言っても仕方ない。テレビは悪くない。悪いのは今日たまたま運の悪かった自分なのだ。あと色ボケ保険医だ。あれが全面的に悪い。
今度会ったらとっちめてやろうと固く心に決めた。そうすると、少しだけ今の気分も楽になる。楽になったところで、彼女は洗濯物を取り込むことにした。ベランダに出て、取り込んだ洗濯物を片っ端から洗濯機に入れる。フンの付いたシャツはクリーニングに出すことにするのでひとまず洗濯かごの中。最後にベランダの柵にかけてあった布団を取り込もうとしたが、これが中々困難だった。突然振りだし突然止んだ激しい雷雨のおかげで布団はびしゃびしゃ、水を吸ってしまって重いのだ。おまけに抱えて持とうとすると肌にべっとりと張り付いて気持ち悪い。しかしこのまま放置するわけにはいかない。彼女は意を決して思いっきり布団にしがみつくようにして抱えて引っ張り上げる。
その時。雨で濡れたベランダの地面が彼女の足を滑らせたのだ。
「え?」
普段ならベランダで転ぼうと柵があるので落ちるようなことはない。精々腰でも打って痛い目を見る程度だ。だがしかし、今日の彼女は非常に運が悪かった。柵にかけてあった布団に全力で抱き着き、持ち上げた瞬間に足を滑らせたおかげで、布団は彼女という支えを失って滑り落ちるようにしてベランダから飛び降りる。そして布団にしがみついていた彼女もまた布団と一緒に――
「ええええええええええええええ!?」
真っ逆さまに地上一七メートル。マンション五階の高さから垂直落下した。
え? 嘘! あたし死ぬの!? こんなところで!?
垂直落下の途中。徐々に近づく地面を見ながら彼女は自らの死を確信した。焦る思いとは裏腹に、どこかで冷静な自分がもう駄目だなこれは、と諦めて首を横に振っていた。
意外と走馬灯なんて見ないものだなー、と冷静な自分が冷静に感想を語る中、焦っている自分はいやあああああああああああああ! と悲鳴をあげ続ける。そして現実の自分は
「そうまとおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
色々混ざっておかしなことになっていた。これが自分の最期の言葉になるとしたら死ぬほど嫌だと思った、瞬間…………彼女は誰かの腕に抱きかかえられた。
衝撃なんて殆ど感じなかった。まるでさっきまでの垂直落下が嘘のようだと思ったが、続いてべちゃりと地面に叩きつけられた自分の布団が嘘じゃないぞと語っていた。
「び、びっくりした……空から女の子が降ってくるとか、びっくりしたぁ……」
彼女を抱きとめたのは少年だった。女の子のように可愛い顔をしていたが、声と体つきは完全に男の子で、何より彼女を抱く力強い腕が彼の男を強調するようで彼女は妙な安心感に包まれてしまった。そういえばお姫様だっこなんてされるのは初めてだな、と思っているとそれが目についた。
「淡い、栗色?」
少年のくりくりとした髪は間違いなく先程の占いが示したラッキーカラーだったのだ。
幸運……? いやでもこれどちらかと言うと不幸中の幸いというか……。
そこで初めて、彼女と少年は目があった。そして二人して同時に「あ」と気の抜けるような声をあげる。
「我王くん……?」
「委員長……?」
ベランダから墜落した挙句、クラスメイトの男子に抱きかかえられるなんて、やっぱり今日は最悪な日だと彼女は心の中だけで叫んだ。
++++++++++
愛生は悩んでいた。とある事情により一ヶ月半ほど前から居候している同居人のためにコンビニ弁当と外食だけに頼っていた食生活を改善、見事炊事を継続させることに成功していたのだが、その同居人の舌が段々と肥えてきたのだ。最初の頃はオムライスやハンバーグだとか、愛生にもギリギリその製法が理解できる可愛らしい料理をリクエストしてきたのだが、今日リクエストされたのは中華なのだ。
「自慢じゃないけれど、僕は中華なんて作ったこともないし、その製法も知らない」
オムライスなら殆どケチャップだけで作れるし、ハンバーグにしたって大根おろしとポン酢で和風ハンバーグだったりトマト缶にケチャップをぶちまけただけのグダグダ煮込みなどのお手軽ソースしか作ったことのない愛生だ。どうすればあの中華の味を出せるのかなんて検討も付かない。きっと自分の知らない製法か調味料を使用しているのだろうが、それがわからない。
愛生は悩んでいた。さてどうするべきかと。
場所はスーパーのレトルト食品などの並ぶ棚。そこにある『簡単! お手軽麻婆豆腐!』というパッケージの商品を手に取って、愛生は更に思案する。
自分の料理経験は一か月半もない。ならばこういうものに頼ってしまってもいいような気がするが……しかし愛生の中でそれは負けなんじゃないかという意味のない勝敗の基準が定まっている。なにより中華を食べたいと言った同居人に「任せとけ!」なんて大見得きってしまった手前こんなものを持って帰るわけには……それにこれレトルトと大差ないんじゃないか、いやでも豆腐は自分で用意するんだし……などと思考を巡らすが、一向に答えが出る気はしない。
「――というわけで電話したんだけど、千歳はどう思う?」
「はあ……」
携帯の電話口の向こうで素っ気ない返事を返すのは愛生の幼なじみである桜庭千歳。料理に関しては愛生にとって師匠のようなところが千歳にはあるので、とりあえず愛生は師匠の助言を聞くことにしたのだ。
「まあ、なんにしても任せとけなんて大見得きった以上、そんなレトルト紛いを買って帰ったらあの子は残念に思うでしょうね」
「やっぱそうだよなぁ……。でも僕が付け焼刃で作って美味しくないものが出来上がるより、こういうの使って無難にした方がいい気がしてさ」
「味についてはあまり気にしなくていいと思いますよ。場合にもよりますが、手料理というのは作ってくれたことが一番美味しいことですから」
千歳の言っている意味が分からず愛生は首を傾げた。その様子が向こう側からも予想できたのか、千歳はふふっと笑みをこぼした。
「あの子にとっては愛生が作ってくれたということが一番重要なことなんですよ。それでも美味しいものを作れるに越したことはありませんし、そうだとすると麻婆豆腐はやめた方がいいかもしれませんね。少々愛生にはハードルが高いでしょう」
「麻婆豆腐が駄目なら、あとは何があるんだ? 北京ダック?」
「作れるとでも思ってるんですか、あなた。そこは無難に回鍋肉とかにしておきなさい。味噌はあるんでしょうから、あとは鶏ガラとオイスターと……」
「おい、スター? 何言ってるんだ千歳、僕はスターなんかじゃないぜ」
「酷くつまらないボケですね。一七点」
「……先生からの一言コメントは?」
「死ね」
「直球すぎる!」
千歳から暴言をいただきつつ、指定された食材や調味料を買い込み、愛生はスーパーをあとにする。自炊を始める前は殆ど千歳の付添いくらいしかきたことのない場所だが、最近は特売狙いでよく顔を出すようになった。しかし買い物カゴを持って半額目当てにぶらぶらしていると、何故老けた気分になるのだろう。それに女性や主婦が買い物カゴを持つ姿と男が持つ姿は随分印象が違うように思える。前者はできる女のイメージだが、後者はくたびれたおっさんに見えてしまうのは本当にどうしてなのだろう。
荷物をスーパーの駐輪場に止めておいた自転車の前かごに入れる。高校の友人がいらないからと押し付けてきたおんぼろママチャリだったが、最近では買い物用として重宝している。歩くのも嫌いではないのだが、肉なども買い込んでいる以上あまり時間はかけられない。特に最近は日が沈んでからも十分暑く、注意が必要なのだ。おんぼろではあるが、しかし反面この自転車はとても使いやすかった。実用性一点ばりの自転車である。
「まあ別にそこはいいんだけど……」
問題は、車体の色が小豆と紫と緑を合わせたような見たこともない色をしていることである。雨風の浸食によってタイヤなどの部品は錆びついているが、車体のカラーだけは剥がれ落ちる事なく現役というのは、もう何かの呪いなんじゃないかと愛生は思い始めている。
しかし貰い物である以上文句は言うまい。何よりタダなのだ。これ以上何かを求めるのは強欲というものだろう。
ふと、タダより高いものはないという言葉が頭に浮かんだが、無視して愛生はペダルを漕いだ。
++++++++++
スーパーから自宅までは自転車で五分ほど。駐輪場に自転車を止めてロビー前で立ち止まる。そうして上を見上げてみる。馬鹿みたいに高い超高層マンション。それが愛生の自宅であった。入口にはドアマン。そしてフロントマンまでも常に配置されているマンション。パッと見は普通のホテルのようだが、中身は普通のホテル以上にお金持ち使用である。とある人物から割り当てられた自宅ではあるが、庶民的感覚の強い愛生にとっては微妙に住み心地はよくなかった。ちょっとコンビニから帰ってきただけでもドアマンから素晴らしいスマイルで「おかえりなさいませ。我王さま」なんて言われてしまうのだ。おかえりなさいませ、だけじゃなく名前まで呼ばれてしまう。最初はただの学生がこんなマンションに住んでいるのが珍しくて覚えられていたのかと思ったが、そういうわけではなくここの従業員は全部屋の住民の名前を暗記しているとのこと。合うたびに「はて誰だっかのう」と首を傾げる前に住んでいた寮のおじいさんとは大違いだ。
ただ、あれはあれで愛嬌があったし、愛生的にはそっちの方が過ごしやすいのだが。
そしてこれに関しても文句は言っていられない。同居人のためにはここで住むのが最善であるし、そもそもここの家賃を出しているのは愛生ではないのだ。住まわせてもらっているのだから、文句なんて言っては罰当たりだ。
いつものようにドアマンの「おかえりなさいませ。我王さま」という言葉を聞き流し、フロントマンがこちらに向けて頭を下げるのを見て見ぬふりをしてエレベーターへ直行。五階までたどり着くと、すぐさま自分の部屋に駆け込もうとして、広い廊下の真ん中を自分に向かって駆けよってくる人物を見た。
「おーい。愛生の旦那ー!」
手を振りながら駆け寄ってくるのはセミロングほどの黒い髪の活発そうな少女。スカートの長い正統派なメイド服を着こなしている。長いスカートをばっさばっさと揺らしながら少女は愛生のもとへとやって来た。
「はーい旦那! 買い物帰りですかい?」
快活な笑顔を向ける少女に愛生は向き合った。
「うん。今日の買い出しに行ってきたんだ」
「いやはや、今日も今日とて旦那の手料理とは、お嬢も幸せもんっすねー」
「別に、僕の料理なんか好き好んで食べるようなもんじゃないよ」
「わかってないっすねー、旦那。愛ですよ、愛」
彼女の言っている意味がわからず、愛生はとりあえず笑っておいた。
「それで、宝守ちゃんはお仕事中?」
「いえ! お仕事サボタージュ中っす!」
少女は大声で仕事をしていないことを断言した。愛生はまたとりあえず笑っておいた。
彼女の名前は宝守。このマンションの掃除のアルバイトをしている少女である。詳しい年は知らないが、愛生よりは年下らしい。プロ意識の行き届いた厳正なこのマンション従業員で唯一例外があるとすれば、この少女だ。掃除の腕事態は感嘆を覚えるほどだが、とにかく馴れ馴れしく騒々しく、廊下で下手くそな歌が聞こえたら大抵の住人は急いで自分の部屋に隠れてしまう。どんな人物にもふらふらと近づいて行くが、その実きちんと名前まで把握しているのは愛生と愛生の同居人だけらしい。どうして自分達だけ覚えているのかと聞くと、
『だって、旦那やお嬢以外、ここおっさんおばはんしか住んでないじゃないっすか。これから年老いていくだけの存在の名前を覚えるなんで脳の容量の無駄っす!』
と笑顔で言うのだ。ドアマンが効いたら卒倒しかねない。
どうしてこんな人物がアルバイトとはいえ採用されてしまったのか。何か経営陣の弱みを握っているのかもしれないなどと、愛生は至極真面目に考えている。
ナチュラルな無礼者はぶんぶんと手にしたモップを武器のように振り回している。
「あっし、仕事サボって新世紀少年アクターごっこしてるんすけど、旦那もどうでっすか?」
「いや、僕はその新世紀なんたらって知らないし」
「なら覚えておくといいっす! 今期の話題作でお嬢のお気に入りでもあるっす!」
「ちなみにどんな話なの?」
「新世紀少年であるアクターが宇宙をどーんでどどどどーんな話っす!」
「ああうん。わかった。後で自分で調べるよ……」
ぐるんぐるん回していたモップを宝守は『そうっす!』と叫んでから突然投げ捨て、懐からケースに入った一枚のBRを取り出した。
「これ、お嬢に貸す予定のアニメっす。旦那から渡しておいてくれると助かるっす!」
「ああ、いつも悪いな。今度なんかお礼するよ」
「いえいえ。あっしとしても同士が増えるのは喜ばしいことっす。でもどうしても旦那がお礼をしたいというのであればアイスが食べたいっす!」
了解、と言ってそれを受け取ると、宝守は別れの挨拶も無しに来た方向へ走って行ってしまった。
慌ただしい子だなぁ。
悪い子ではないというのはわかるので、好ましいタイプではある。
「あいつの相手もしてくれるしな」
呟きながら、愛生は自分の部屋に向かった。
扉に手をかける。指紋認証により、一つ目のロックが解除される。続いてカードキーをドアノブの上の辺りにかざすと、最後のロックが外れる。ガチャリという音の後に愛生は扉を開けて中に入る。
「ただいまー」
と声をかけると、奥の方から小さな声で「おかえり」という声がした。同居人はリビングにいるようだ。
風呂場とトイレのある廊下を抜けて、大きな二枚扉を開ける。するとそこに広がるのは手触りのいい高級絨毯が敷き詰められたリビング。その真ん中辺り、黒いソファに座ってテレビを見ている子供の影。近づいて、声をかける。
「テレビ、何か面白いのやってるか?」
テレビを見ていた子供は愛生に視線を向けると、首を横に振った。
「じゃ、丁度いいや。宝守ちゃんからお前にだ」
そう言って先程預かったBRを渡した。彼女はそれを受け取ると、少しだけ嬉しそうに微笑んだように見えた。
愛生の同居人は九歳の幼女だった。劣性形質の灰色の髪。精巧な人形のような細い四肢に年齢以上に小さな体。整えられた顔が浮かべる無表情は多くを語ることなく愛生を見つめていた。
「それ、新世紀少年とかいうやつか?」
宝守が駄目なら彼女に、と思って聞いてみたが、首を横に振られてしまった。
「これは、魔法少女ギリギリ真美子」
「ぎ、ギリギリ?」
また違うやつなのかと思っていると、彼女が取りだしたBRを早速プレーヤーに入れていた。よほど暇していたのだろう。彼女がアニメに見入っている間に夕飯を作ってしまおうと、愛生は台所に向かう。
「リナリア」
途中、立ち止まって愛生は彼女の名を呼んだ。灰色の頭がこちらを向く。その視線はじっと、愛生だけを見ていて、しかし愛生の目にはそこに何も映っていないように見えていた。
「今日はリクエスト通り中華だからな、楽しみにしてろよ」
リナリアと呼ばれた少女は頷くと、またテレビに視線を戻した。
よし、と愛生は自分に気合いを入れる。どうせなら、とびきり美味しい中華を作ってやろうと。
そうして今日が過ぎて行く。