依頼人
俺の名は堂林凛三郎。通称、何でも屋――しがない請負人だ。仕事ぶりはそつがないので、まあまあ繁盛はしている。
相羽瑞香という名の今回の依頼人は、約束の時刻よりも十五分遅刻して待ち合わせのカフェにやってきた。小柄な若い女で、ベージュの日よけ帽が肩口まで伸びる美しい栗色の髪をすっぽりと覆っていた。ストライプメッシュの腕カバーをはめた右手がクロエのサングラスをはずすと、マスカラをほどこしたあどけない瞳が俺の顔をじっと見つめていた。
「あなたがドウバヤシさん?」
「はじめまして」俺は丁重に挨拶した。
「わりとハンサムじゃん。探偵さんだっていうから、てっきりおじさんかと思ってたのよ」
「それはどうも。早速ですが、ご用件を伺えませんか?」
くだらない甘言は無視して、俺は本題を促した。
「あのね……」色白の小さい顔が急接近してきた。相羽瑞香の吐息からは、口臭予防のガムとかすかな煙草の匂いがした。「あたし、盗聴されてるの……、モトカレからね」
「なぜ、そう思われたのですか?」俺が問い返すと、
「この前のことよ。あたしがちょうどお風呂から上がった時に、あいつから電話がかかってきたの――、今晩の湯加減はどうだった、って」
「当て推量でいってきたんじゃありませんか?」
「そうかしら……?」女は首を傾げた。
「失礼ですが、あなた一人暮らしですか?」
「そうよ……」
「集合住宅?」
「光ヶ丘にあるアパートの三階に住んでいるわ」
「なるほどね」
ガムシロップ入りのアイスコーヒーをそっと一口すすると、女は話を続けた。俺は個人的にはガムシロップという甘味料が許せないのだが、そんなことはこの際どうでもいいことだ。
「あいつの名前は川本誠二というの。とっても頭がよくって、しっと深い奴よ」
「その川本さんという方も同じアパートの住民ですか?」
「まさか! もしそうだったら死んじゃうわ。あいつの家は虹ヶ台よ」
「光ヶ丘と虹ヶ台だったら、二キロばかり離れていますね」
「それがどうかしたの?」
「仮にあなたのアパートの住民でない第三者が、あなたの盗聴を試みたとします。するとそいつは物音を受信した後で、自分の居場所までその情報を送信しなくてはなりません。つまり、あなたの部屋には音の受信機と電波送信機の両方が仕掛けられていることになります」
「まあ、怖い……」女はうすら笑みを浮かべた。
「状況はわかりました。それでは明日の午後、お宅を訪問させていただきます」
必要事項を手帳に書き留めると、俺は握手して彼女と別れた。
相羽瑞香の部屋は典型的な女子大生風の空間であった。人気キャラクターの大きなポスターが貼られ、たくさんのぬいぐるみがあちこちに計算されて置かれていた。室内の電気機器といえば、薄型の液晶テレビと、コードレスの電話機、それにエアコンくらいなものだった。パソコンは置いてなかった。
「固定の電話機がありますね」
「親が置けってうるさいのよ! 携帯だけでも十分なのに……」
俺は人差し指を口元にたてて彼女に合図した。「話は小声でするようにしましょう。ひょっとして今も盗聴されているかもしれませんからね」
俺は鞄の中から自慢の電波検出器を取り出した。100キロヘルツから3000メガヘルツまでの広範囲の電波を隈なく探知できる優秀な代物だ。
「一旦全ての電気機器の電源を切らせていただきます。機器によっては内部タイマーの時刻などを設定し直さなければならなくなりますが、ご容赦ください」
「どうして、そんなことする必要があるの?」
「得てして盗聴の電波送信機は、家庭用電化製品やコンセントなどに設置され、そこからの電気を利用しているからです」
「わかったわ。どうぞ勝手にして頂戴」
相羽瑞香はベッドにどっかと腰かけると、ポケットから携帯電話を取り出した。
「ああっと――、申し訳ありませんが、調査の最中は携帯電話も止めてください」
「えー。メールもいけないの?」
これだから素人は困る、という台詞を俺はぐっと飲みこんだ。
手順に従って俺は電波検出の調査を行った。しかし、相羽瑞香の部屋から不審な電波は全く検出できなかった。
「ご協力ありがとうございました。調査は終わりましたよ」
「じゃあ、もうメールしてもいいのね。あー、死ぬほど退屈だったわ」
彼女は、ベッドの上でトンビ座りをしながら大きく背伸びした。健康的な細長い太ももが、カラシ色のショートパンツから露出している。
「それで、どうだったの?」
「どうやら、盗聴はされていないようですね。おかしな電波は何もありません」
「そんなはずないわ! もっとしっかり調べてよ……」
意外にも彼女の反応は不満げであった。
「自信を持って断言できます。ご満足いただけないのなら他の探偵社に依頼されてもかまいませんが、結果は同じだと思いますよ」俺はあっさりとかわすと、さらに一言付け加えた。「そもそもこの部屋の音が盗聴できたとしても、物音だけであなたがお風呂から出てきたタイミングを特定するのは難しくないでしょうか?」
「やだわ、探偵さん、知らないの?」相羽瑞香が呆れ顔をしていった。「今どきの盗聴は音だけじゃないのよ。超小型の隠しカメラを仕掛けることによって、映像だって撮れちゃうんだから――。それに、盗聴したデータをデジタル変換してインターネット上に送ってしまえば、どんなに離れた所にいても、携帯電話の画面を使ってその映像を受信することができるのよ!」
「随分とお詳しいですね」俺が感心すると、
「あいつは工学部の学生なのよ。機械に関する知識は豊富だし、その気になればそんな装置なんか簡単に作れちゃうんだから」彼女は得意げにいった。
「確かに盗聴機器やデジタル変換機、電波送信機などの装置は、今どき誰でも手に入れることができますね。しかし実際に盗聴するとなると、この部屋にそれらの装置を仕掛けなければ意味がありません。あなたの元彼氏にそのようなチャンスがありましたか?」
「きっと、合鍵を使って留守の間に忍びこんだんだわ。以前、部屋の鍵をうっかり渡しちゃったことがあるの」そういって彼女は大きくため息を吐いた。
「それはまずかったですねえ。彼にはこの部屋に忍びこめる可能性があるわけか……」
「女の子の部屋を覗き見するなんて最低の卑劣漢よ! これじゃあ、おちおち眠れやしない。絶対に許さないんだから!」と、相羽瑞香の声が、不意にヒステリックになった。俺はなだめるように説得した。
「ちょっと待ってください。たとえ盗聴のためにインターネットを利用したとしても、一旦はネットの回線上にデータを転送する必要があります。ということは、いずれにせよこの部屋から電波を送信しなくてはなりません。先ほど申しましたように、この部屋からは不審な電波は一切検出されておりません。すなわち、この部屋で盗聴や盗撮が行われていることは絶対にあり得ないのです!」
その時突然、固定電話の呼び出し音が鳴り響いた。相羽瑞香はゆっくりと受話器をとった。
「はい、相羽です……。――ちょっと、何よ……。もう電話しないで、っていったじゃない! えっ、何……?」
一瞬の間をおいて、「――あたしが今、誰といっしょにいようが、あんたに何の関係もないでしょ!」
そういい放つと、彼女は一方的に電話を切った。愛らしい眼がキッと俺を睨みつけた。
「ほうら、ご覧なさい。あいつが電話してきたわ。傍にいる男と何いちゃついているんだ?って……」固定電話の受話器を放り投げると、彼女はベッドに寝ころがった。
「きっとまた当て推量ですよ」俺は軽く流した。
「当てずっぽうにしちゃ、鋭過ぎない?」
レースのカーテンをサッと開けて、俺は窓の外を見下ろした。怪しい人影は特に発見できなかった。
「それならば、この部屋が見えるどこかから私たちのようすを観察して、電話してきたのでしょうね」
俺はこれで彼女が納得してくれるだろうと思っていた。この部屋での盗聴は科学的に否定されたし、川本のストーカー的な嫌がらせも彼が近辺でここを監視しているとすれば、合理的に説明ができるからだ。ところが、この直後の相羽瑞香のリアクションは、俺の予想の範疇をはるかに超えたものだった――。
「探偵さん、ちっともわかっていないのねえ。それだけは絶対にあり得ないから、さっきからずっと悩んでいたんじゃないの」
彼女はきっぱりと断定した。
「どうしてですか……?」
「だって……あいつ今、虹ヶ台の自宅でテレビ見てるんだから!」
その時、相羽瑞香はベッドに仰向けになっていて、手にした携帯電話の画面をじっと見つめていた。
(完)
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※ 些細な理由で、主人公の名前を「堂林凛三郎」に変更しました。