第一章 逃亡の夜
一 異変
その日も、灰色の空が低く垂れこめていた。
朝の空気はいつもより重く、風の匂いに錆のようなものが混じっていた。
だが、安藤美里はまだそれを知らなかった。
いつもと変わらない朝――それが最後の「日常」になるとは。
父・安藤重雄は朝食の席でも無言だった。
新聞を読む手が、わずかに震えている。
母は何度か声をかけたが、彼は生返事を返すばかりだった。
兄の亮が冗談を言って場を和ませようとしたが、
父の表情はいつになく硬い。
「父さん、どうしたの?」
美里が問いかけると、
重雄はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……お前たちに謝らなくてはならない……!」
「謝る……?」
「嶋田興業の中にも、中華連合の目が入り込んでいる。
そして……レジスタンスの拠点の一部が漏れたらしい……っ」
母が箸を落とした。
「あなた、それって……っ⁉︎」
彼は小さく頷いた。
「そうだ。俺もレジスタンスの一員だ。だから仲間を、組織を守らなければならない。」
「すまないが俺が囮になるつもりだ。奴らが俺を追う間に、嶋田会長が他のレジスタンスの皆を逃がす
よう手配している。」
「レジスタンスの組織が生き延びる道は……それしかないっ!!」
美里は息を呑んだ。
兄の亮が声を荒げる。
「そんなの無茶だ! 父さんは囮になって死ぬつもりなのかよっ!」
重雄は息子を見つめた。
「それでもいい。それが俺が選んだ使命だ!……だが、お前たちは生きろ! 死ぬのは俺だけでいい!」
二 逃亡
夜。
外は雨が降っていた。
街の灯がぼんやりと滲み、遠くで汽笛が鳴る。
重雄は家族を小さな倉庫へと導いた。
そこにはすでに荷を積んだトラックが停まっている。
「嶋田会長の手配だ。これで郊外まで逃げるんだ」
母が不安げに問う。
「あなたは?」
「私は別の道を行く。――彼らを引き付けてる間にお前たちは出来るだけ遠くへ逃げるんだ!」
美里が泣きそうな声で言った。
「いやよ、お父さん!」
重雄は娘の頬に手を当て、
静かに言った。
「おまえの名は“美しい里”と書く。
それはかつて人の平等を目指した美しい故郷(国)を指している。お前はその故郷の志を忘れるな。
……たとえこの国が滅んでも……その意志を引き継いで生きるんだっ!」
トラックのエンジンが低く唸る。
亮がハンドルを握り、
母と美里を後部座席に乗せた。
雨の中、重雄は道端に立ち、
遠ざかるトラックを見送った。
その背中は、もう死の覚悟で震えていた。
恐怖ではない。自分の意志を守るための武者震いであった。
三 追跡
美里たちを乗せたトラックが郊外の検問所に差しかかると、
遠くでドーンという空気を激しく震わせる爆音が響いた。
火柱が上がり、空が赤く染まる。
爆弾による爆発だとすぐにわかった。
亮が歯を食いしばる。
「……父さんが、やったんだ……! 僕たちを逃がすために……っ!!」
爆発は嶋田興業の支部――
レジスタンスの拠点に突入した官兵を巻き込んだ爆発だった。
官兵隊は仲間の爆死に驚き指揮系統は一時的に混乱した。
安藤茂雄が身を犠牲にして囮となり官兵を拠点に引き込んでから自爆したのだ。
美里たちは父の死を悲しむより父の遺した言葉を優先して逃亡を急いだ。
美里の目には涙がとめどもなく溢れ出た。
「お父さん……お父さん……!」
その悲痛な叫びは徐々に小さくなっていく。
これが父の私たちへの愛情なんだ 父が私たちに生きろと望んでいるのだ。
美里は哀しみで嘆く中で自分に父を犠牲にしてでも生かされる価値があるのかと疑問を持つ。
私には父ほどの理想と信念は持ち合わせてはいない。
母のように父の理想を信じる強さもまだ足りない。兄のように父の意志を継ごうという決意もない。
娘というだけで父は身を犠牲にして私を守った。
それが罪悪感となって自分の身を締め付ける。
「ごめんなさい、お父さん……」
その懺悔の声はアクセルを強く踏むトラックのエンジン音にかき消されていく。
爆発音のする方向がどんどん遠くなる。だがそれでも逃亡路は安全ではなかった。
道路の先に、武装した官兵の影が見える。
「検問だ……!」
レジスタンスの包囲網は父親の予想よりずっと狡猾で用意周到なものであったらしい。
亮は舌打ちをする。
彼は検問の死角にある脇道にトラックを侵入させた。
すぐさま停車しライトを消す。
遠くにいる兵士たちは無線で何かを叫んでいる。
どうやら、重雄の名前が伝わっているようだった。
「――安藤一家。国家反逆の共犯と見なしたとの事だっ 家族は逃亡中っ捜索を急げっ!!」
どうやらトラックのライトはすでに気づかれたようだった。
母が震える声で言った。
「もう、これ以上は進むことが出来ないわね……」
亮は決意したように顔を上げた。
「裏の山道を抜けよう。古い神社がある。父さんと以前に行った事があるあそこなら官兵たちの目から
逃れられるはずだ。逃げる方法はそこで隠れてから考えよう……!」
四 別離
車を捨て、三人は闇の中を走った。
雨が森の枝葉を叩き、靴がぬかるみに沈む。
官兵の叫ぶ声が背後から聞こえてくる。
兵は確実に美里たち家族の逃げる方向を追ってきている。
「くそっこの雨じや靴跡が目立つのか!」
亮が荒い息で舌打ちをする。
官兵の軍靴の足音が美里の耳にも聞こえてきた。
(……もう逃げられない!)
絶望が彼女の頭によぎる。
公開処刑された人々の恐怖に歪んだ顔が脳裏に浮かんだ。
あんな死に方はしたくない・・・!
自分の足がもっと速く動かないのかともどかしく感じる。
気持ちが焦るほどぬかるみに足が取られた。
思わず体勢が崩れて膝をついてしまう。
「ダメッ……私を置いて逃げてお母さんっ!!」
「何を言うの! 諦めないでっさあこの手を掴むのよ!」
その時、数発の銃声が背後から響いた。
その銃弾は美里の頭上を掠めた。
美里に手を差し出した母の胸から鮮血が噴き出す。
その血が美里の顔を濡らした。
「お母さんっ!!」
母は苦痛に顔を歪めながら美里の顔に手を添える。
「逃げて……美里……必ず……逃げ切るのよ……」
母の手は力無く美里から離れていく。
美里の前で母は前のめりに倒れた。ぬかるみに血が広がって行く。
「いやあああああっ お母さんっ お母さーん!!」
美里の叫びに、亮は母の体に触れる。
母の鼓動はすでに感じられない。
亮は首を横に振って母の死を妹に知らせた。
「泣くな美里。母さんはそれを望まないぞ」
亮は震える声で美里を叱った。
亮は立ち上がり妹の手を強く握る。
「行こう。父さんも母さんも命を懸けて僕らを逃がそうとした。
こんなところで終わってたまるかっ!」
兄妹は必死で山中の森の中を走り抜ける。
山道から外れ獣道を枝葉で肌が切られて傷ついても気にせずに走り続けた。
木々を抜けわずかに人がかつて通った形跡がある地面が見えてきた。
自然の腐葉土で覆われた石の階段を見つけた時は兄妹ともに安堵の息を吐いた。
滑りやすい足元に気をつけながらは兄妹は石段を登っていく。
その頭上に木々の枝に囲まれた風化が激しい鳥居が見えてきた。
石段を登り切ると見窄らしいほど小さな境内がありその先には暗闇に溶け込むような 小さな神社があった。
本尊を納めているお堂らしい建物は汚れて朽ちているが、なぜかかつての荘厳さは
失っていないように見えた。
「ここだっ……あそこに隠れようっ!」
亮は荒い息で苦しそうに言葉を吐き出すと美里に振り返った。
だがその目が驚きで見開く。
境内から20メートルは離れている向こう側の崖に官兵の姿を見たからである。
境内と同じ目線の崖から官兵がこちらを指差して何かを叫んでいる。
「まずい……っ!」
亮は官兵が小銃を構えてこちらに狙いをつけた姿を見た。
その瞬間、銃口から閃光が走った。
亮は無意識に美里を庇うように飛び出した。
亮の胴体を数発の銃弾が貫く。
だが彼の背後の美里には弾が届かなかった。
「ぐはっ……!」
亮は口から血を噴き出して膝をついた。それでも両手を広げて美里を庇う姿勢は
崩さない。
「美里…お堂に隠れろ……早く……!」
口から血を吐きながら必死に美里に呼びかける。
「お前だけでも……生きろ……生きろっ美里……!!」
「あ……ああ……っ」
美里の声は言葉にならなかった。
兄が撃たれた。それが致命傷だということは美里も直感した。
体が動かなかった。銃弾の恐怖より兄を失うことに恐怖した。
現実を受け入れられなかった。
父が死に母も死にそして目の前で兄が死のうとしている。
そんな現実がとうてい理解できなかった。
昨日までの日常と比べて信じられないほど歪んでしまった目の前の現実。
そんな惨劇を15歳の少女が受け止めるにはあまりに過酷すぎた。
「行くんだ……美里……」
亮は口から溢れる血を無理矢理に押し留めて笑みを浮かべた。
その兄の側頭部を銃弾が容赦なく穿つ。
美里の目の前で亮の頭の一部が飛び散る。
亮はゆっくりと仰向けに倒れた。
美里は声を失ったままそれを凝視した。
「っーーーーーーーーっっtっ!!!!!」
その瞬間、大きく口を開けて美里は声にならない叫びを発した。
頭の中で兄の姿が回転している。目の焦点が合わずに眼前の景色が小刻みに
振動していた。
涙で兄の死に顔がぼやけていく。
自分は気が狂った。美里はただ泣き叫ぶ自分を別の自分が見つめてそう思った。
(私だけ……っ)
(私だけが……生きてどうするの……っっっ!!!!!!)
「あは……あはははっははっはっっはっはっっは……」
美里は狂ったように笑い出した。
彼女の精神はすでに限界だったのだ。
だがその笑いを止めたのも銃弾だった。
美里の肩を小銃が容赦なく撃ち抜いた。
五 神の間
激しい痛みが美里の脳裏を貫く。
銃弾を受けた衝撃で体は境内の地面に倒れた。
一発だけじゃない。腹部にも数個の銃痕が見えた。
痛さより熱い。撃たれたショックが痛覚以上に頭の神経を支配した。
(私も死ぬの……!?)
美里の息が次第に荒くなり視界が狭くなっていく。
美里の倒れた地面に血がドクドクと流れる。
美里に初めて強烈な生への執着が襲う。
ここで死んだら兄の死を無駄にしてしまう……
その思いだけが頭を支配した。
美里は腹から流れる血に構わず神社のお堂に向かって這い出した。
(お堂に行け…… それが兄の最期の言葉……)
それを守るのが今の美里の全てであった。
その行動に合理性はない。
美里の受けた傷も致命傷なのだ。お堂に着いても助かるものではない。
それでも全身の力が抜ける感覚に逆らいながら美里はお堂に這って行った。
美里がはった後の地面には筆で書いたように血が続いている。
官兵は兄妹の被弾を確認したのか崖から降りて境内へと向かい始めていた。
兄妹の死体を回収するためだ。
そうでないと上官から叱責を受けるのは間違いなかった。
反逆者の殺害と死体の回収が彼らの任務であった。
中華連合の兵に劣等人種たる日本人の子供を射殺するのに躊躇いはない。
だがその行動が美里をお堂に辿り着かせる時間を与えた。
美里は朽ちたお堂の扉を開けてその室内に這いながら進んだ。
朽ちた木の匂い、腐った床に湿った空気、そして――
お堂の奥、闇に包まれたその場所にそれはあった。
古びたご神体の石像。その足元は朽ちた床板を突き抜けていた。
そのせいで石像は前のめりに倒れている。
倒れた石像の頭は這ってきた美里の眼前にあった。
美里の目の前には頭から三本の角を生やした鬼の顔が横たわっている。
神社のご神体が鬼の異形である事に今の美里が違和感を抱く余裕はない。
美里は目的を果たしたことに満足した。
生きたい。でもそれが叶わないのはもう自覚している。
美里はもう死を迎えるのに恐怖を感じてはいない。
父や母や兄の元へ行けるのだ。
1人になる哀しさよりその方が何倍も良い。
死を恐れない。
それがとても自然なことに感じる。
美里の心はとても平穏であった。
それなのにその平穏は突如壊されたのである。
[死を受け入れるか……人間よ……]
その声が、彼女の意識をいきなり現実に引き戻した。
石像の彫られた眼の穴に光が灯っていた。
怪しく光るその眼は血のように赤かった。




