7.路地裏と過去への決別
数日後の午後、リアムはカルディナ家の紋章入りの籠を抱え、市場を歩いていた。
中には新鮮な果物と、セレナが好む香草の苗。屋敷の仕事にもようやく慣れはじめ、彼は少しだけ誇らしい気持ちだった。
母の薬も、屋敷の使者が週に一度届けてくれていると聞いた。
ようやく“安心して生きていける”という実感があった。
夕刻。用事を終え、帰り道を急いでいたときだ。
背後から、聞き覚えのある声がした。
「……おい、リアムじゃねぇか。」
足が止まった。
ゆっくり振り向くと、二人の少年が立っていた。
かつて一緒に悪事を働いていた、元の仲間。
十代半ばのリーダー格の“ジン”と、その取り巻きだ。
「へぇ……本当に貴族の屋敷に雇われたのか。」
ジンが薄笑いを浮かべる。「“従者”だって? 笑わせんなよ。犬の方がまだマシだろ。」
リアムは何も言わずに通り過ぎようとした。
けれど、ジンが腕を掴む。
「おっと、冷たいな。久しぶりに話そうぜ。いい話がある。」
リアムは静かにその手を振りほどいた。
「……俺はもうやらない。悪い仕事も、人を傷つけるのも。全部やめた。」
「へぇ、お貴族様にでも教わったか?」
ジンが笑い、周囲の陰から仲間が数人現れる。
「いい暮らししてるみてぇだなあ?なあ、昔のよしみだ。ちょっと手を貸せ。金はたんまり出る。ターゲットは金持ちの商人一人だ。」
リアムはきっぱり首を振った。
「……もう、そういうのは終わりにしたんだ。」
その声は震えていなかった。
だが次の瞬間、ジンの顔が歪んだ。
「裏切り者が……調子に乗るなよ。」
リアムの胸倉を掴み、裏路地へと引きずる。
細い路地に夕陽が差し込み、レンガの壁が血のように赤く染まる。
「一丁殴れば、昔を思い出すかもな。」
拳が振り上げられた。
リアムは目を閉じずに、真っすぐ相手を見た。
「何をされても俺は……戻らない。」
小さく呟いたその瞬間、風を切る音がした。
ジンの腕を何かが弾いた。
次の瞬間、黒い外套の男が背後に立っていた。
短剣を軽く構え、冷たい声で言う。
「カルディナ家の従者に手を出すとは、いい度胸だな。」
ジンたちは顔を青ざめさせた。
「貴族の……護衛だと……?」
男が一歩踏み出すだけで、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
静寂が戻る。
リアムは膝をつき、荒く息を吐いた。
男が振り向き、軽く片膝をついて目線を合わせる。
「リアム坊。セレナ様の命で、お前を見張っていた。……と言っても、疑っていたわけじゃない。」
「……じゃあ、なんで……」
「守るためだ。セレナ様はこう仰った。“信じているからこそ、守りたい”と。」
リアムは言葉を失った。
心臓の奥が熱くなる。
あの優しい瞳が思い浮かぶ。
“信じているから”ーーその言葉が胸に刺さった。
「……ありがとうございます。」
リアムは目を潤ませ深く頭を下げた。
護衛は短く頷き、薄く笑った。
「顔を上げろ。お前が道を選んだなら、もう二度と振り返るな。路地裏のお前とはもう決別した。そうだろう?」
ーーーー
夜。
屋敷へ戻ったリアムは、セレナの部屋の前に立っていた。
ノックをすると、すぐに中から声がした。
「どうぞ。」
扉を開けると、机の上で書き物をしていたセレナが顔を上げた。
その眼差しは、すべてを見透かしているようだった。
リアムは床に膝をつき、深く頭を下げた。
「……昔の仲間に、誘われました。でも、断りました。俺はもう、貴族の犬とか言われても構いません。セレナ様のためになら命でもなんでもかけられる従者になります。」
セレナは少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに微笑んだ。
「犬なんかじゃないわ。あなたは、誇りを持って生き直そうとしている人間よ。」
リアムは頭を上げる。
その目に迷いはなかった。
「……この命、あなたに捧げます。必ず、強くなって、なにがあっても守ってみせます。」
セレナは静かに立ち上がり、机越しに彼を見つめた。
「なら、今日から本当の従者見習いね。」
彼女は一歩近づき、言葉を添えた。
「でも、最初の命令はひとつだけ。――私の命より、自分の命を大事にすること。」
リアムは目を見開いたが、やがて真剣な顔で頷いた。
「はい。……セレナ様。」
夜明けの光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を淡く染めた。
リアムの影が、ゆっくりと伸びていく。
その姿は、もう少年ではなかった。
忠誠を誓う“従者”としての光を宿していた。




