12.記憶の影
翌朝。
庭には薄い靄がかかり、白い息が浮かぶほど空気が冷たかった。
リアムは目を開けた瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。
――あの夢。
暗闇の中で聞こえた、助けを求める女性の声。
自分の手のひらにまとわりついていた、生臭い“血の記憶”。
ありありと残るその感覚を、リアムは無理やり振り払った。
(…ただの悪夢だ。訓練の疲れだ…そうだろ?)
そう自分に言い聞かせ、ベッドから身を起こす。
鏡に映った自分の顔は、どこか強張って見えた。
一瞬だけ、“知らない誰か”の影と重なった気がした。
(…誰だ?)
胸の奥に、小さな棘のような違和感が残った。
⸻
「坊! 集中せんか!」
レオンの咆哮が響く。
リアムは木剣を構えなおし、必死に食らいついた。
だが剣が交わるたびに、頭の中で“血の匂い”がよぎる。
「…っ!」
木剣が弾かれ、リアムは膝をつく。
レオンは息ひとつ乱さず立ち、じっとリアムを見下ろした。
「今日のお前…目が死んどるぞ。」
「…す、すみません…ちょっとだけ寝不足で」
誤魔化したつもりだったが、声が震えた。
レオンは短く息を吐き、背を向けた。
「まぁええ。眠れねぇ夜くらい、誰だってある。…だがな、坊。」
リアムが顔を上げると、レオンは鋭い眼差しを向けてきた。
「どんな夜でも、立つのが従者だ。そこを忘れんな。」
大きな手が、ぽんとリアムの頭を叩いた。
その温かさが、不思議と胸に沁みた。
⸻
午後になり、セレナの部屋をノックすると、彼女は机から顔を上げた。
「…リアム。今日は少し顔色が悪いわね。」
その声はあまりにも優しかった。
だからこそ、嘘が痛かった。
「だ、大丈夫です…!」
セレナは本を閉じ、彼の前に歩み寄った。
「リアム。あなたは嘘が上手じゃないみたい。」
静かな声だった。
逃げ道を塞ぐほど優しい声。
リアムは、視線を伏せた。
(…言えない。…こんなこと)
だが、胸の奥が妙に苦しくなる。
――セレナ様だけは、騙したくない。
そう思った瞬間、喉の奥から言葉が漏れた。
「…昨夜、夢を見たんです。」
セレナは黙って頷き、続きを待った。
リアムは唇を噛みしめた。
「…誰かが…助けを呼んでいて…俺…その人を…」
言葉が詰まる。
「…1度目の時に…殺したんだと思います。」
セレナの瞳が揺れた。
怒りでも恐怖でもない。
それは、“痛み”に近い揺れだった。
説教も非難もない。
ただ、彼女は一歩、リアムに近づいた。
そしてその手を、そっと重ねた。
「リアム。」
細い指先が、震えている。
「そんな苦しい話をしてくれて、ありがとう。」
リアムは目を見開いた。
「…セレナ様?」
「あなたの1度目の過去を責めるためじゃないの。あなたが“向き合おうとしている”その気持ちが、知りたかったの。」
その言葉は、雷のように胸に響いた。
(向き合う…俺は…)
セレナは静かに続けた。
「その女性について、調べましょう。あなた一人が背負う必要なんて、ないわ。」
リアムは、涙を堪えきれなくなった。
「…俺なんかに…そんな…」
「なんかに、じゃないわ。」
そう優しく言って、セレナは微笑んだ。
⸻
セレナは羽ペンを取り、リアムの言った女性の名前を書き記した。
「まずは記録庫へ行きましょう。
古い名簿も事件記録も、全部調べられるわ。」
リアムは深く頷いた。
胸の奥のざわめきはまだ消えない。
だが、今はそれでいい。
セレナが横にいるのなら、きっと前に進める。
――この瞬間、リアムはまだ知らなかった。
その女性の名も、事件も、
この世界には“存在していない”ということを。
それが、
二人が生きる世界に刻まれた
最初の“ひび”となることも。




