1.血に沈む夜
刃が胸を貫いた瞬間、世界が音を失った。
雨のような血のしぶきが視界を染め、冷たい空気が肺を満たす。リアムは、何が起きたのか分からなかった。
…痛い。
それだけが、確かな感覚だった。
倒れた体が泥に沈み、口の中に土の味が広がる。
遠くで何かが叫んでいる。
誰かの泣き声かもしれなかった。
けれどもう、耳もまともに働かない。
指先が冷えていく。
視界の端が暗くなる。
世界が遠ざかっていく。
ーーどうしてこうなった?
ーーあの夜に、あんなことをしなければ。
薄れていく意識の中で、彼は“最初の夜”を思い出した。
ーーーー
焚き火の煙が夜空に昇っていた。
古びた倉庫の裏手、貧民街のはずれ。
酒瓶を片手にした年上の連中が笑っている。
リアムは、九歳。
母と二人、今日食べるのもやっとの暮らし。
金を盗み、果物を盗み、時には祈りながら嘘をついた。
それでも、心の奥ではまだ“悪いこと”が何かを知っていた。一線は超えなかった。
けれど、その夜は違った。
「度胸試しだ」
最年長の少年が短剣を投げた。
「刺すだけでいい。泣き言言うなよ、ガキ。」
「一人殺せば、お前も“仲間”だ」
笑い声が響いた。
焚き火の光が刃に映る。
リアムは唇を噛みしめていた。
怖い。
けど、逃げたら笑われる。
“母の薬代”がもらえるとも言われた。
足が震えた。
手足を縛られた男が見えた。
旅の途中らしい。
金の入った袋が腰に下がっている。
リアムは呼吸を止めた。
頭が真っ白になった。
刃を突き出した。
…やわらかい
…熱い感触。
…世界が真っ赤に滲む。
次の瞬間、叫び。
男が崩れ落ち、仲間の笑い声が遠くで弾けた。
「やったな!」
「これでお前も一人前だ!」
リアムは立ち尽くしていた。
視界が揺れて、吐き気がこみ上げる。
手に残る感触が、どうしても消えなかった。
ーーー逃げよう。
そう思った瞬間。
通りの向こうで足音がした。
上等な靴。
黒い外套。
貴族の男と従者らしき影がこちらを見ていた。
仲間が叫ぶ。
「見られた!」
「殺せ!」
リアムは首を振った。
「いやだ!もうやめよう!」
「黙れ!逃がせば全部バレるだろ!」
腕を掴まれ、背中を押された。
再び刃を握らされる。
泣きながら振り払った。
気づけば、また赤。
泥の上に倒れた男が、かすかに痙攣していた。
従者が叫ぶ。
仲間が逃げ出す。
リアムはただ、立ち尽くした。
雨が降り出した。
血と泥が混ざり合い、足元が赤黒く染まる。
遠くで、女の声がした気がした。
けれど彼はもう振り返らなかった。
ーーー
あの夜から、全てが壊れた。
母は一年後、心労がたたり病で死んだ。
リアムは涙を流せなかった。
心のどこかがすでに死んでいた。
その後、裏社会に身を置いた。
汚れた仕事で金を稼ぎ、命令されるまま人を殺した。恐怖も、罪悪感も、もう何も感じなかった。
ただ、寝ているとあの“焚き火の夜”の光景が、夢に出る。
夢の中で血に濡れた手を何度も何度も洗って、
それでも、その赤は消えなかった。
ーーー
そして今。
この胸に突き立つ刃を見下ろす。
白い服の影が揺れていた。
少女だ。
まだ十代そこそこの、細い腕。
泣いているようにも、怒っているようにも見える。
リアムは何も分からなかった。
なぜ殺されるのか。
誰なのか。
どうして、そんな顔をしているのか。
けれど、彼女の震える手を見て思った。
ーーきっと俺は、誰かの…いや、この人の大事な人を殺したんだ。
胸から血があふれ、地面を染める。
空が明るい。
夜明けだ。
“もういいよ”と誰かが言った気がした。
それが誰の声か、分からない。
「……ごめんなさい。」
その一言だけを残して、リアムは目を閉じた。
空の端に、朝焼けが滲んでいた。
それは血の色よりも鮮やかで、
まるで、神がこの世を赦すような光だった。
ーーーもしやり直せるなら。
ーーーもう二度と、誰も殺したくない。
光が視界を覆う。
痛みが消えていく。
音も、風も、世界も、すべてが遠のいていった。




