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~高坂あおはるー⑦~

 午前中の演習は、いつもと変わらないはずだった。

 だが、高坂は二度目のダッシュを終えた瞬間、急に胸へ手を当て、わずかに肩を震わせた。


「高坂? 呼吸荒いぞ」

 真っ先に異変へ気づいたのは三輪だった。

 隊員は互いの体力差やコンディションをよく把握している。その三輪が眉を寄せるほど、今日は“おかしい”。


「……脈、速すぎる……午前のウォームアップで、ここまで……?」

 高坂の声は震えていた。

 第二波感染者特有の“急激な膨張圧の波”が内部で走っているのが、本人にもわかる。


 見守っていた佐久間が顔色を変えた。


「これ……待ったなしだ。三輪! タンカ!」


「取ってくる!」


 二人は背後の資材車両へ走り、陸上自衛隊式の簡易救急タンカを展開した。

 布地は強化合成繊維。軽量でありながら、成人男性を揺れなく支える強度を持つ。

 特徴的なのは取っ手の角度で、隊員が長距離を運ぶ際、前方が“視界と判断”、

 後方が“推進と安定”を担当できるよう設計されている。


 負傷者搬送の訓練では必ず教わる。

 前方(頭側)は状況判断のリーダー。

 後方(脚側)は力と安定のキーマン。


 この日の配置は自然だった。

 冷静な判断に優れた三輪が前、力強さと持久力が売りの佐久間が後ろへ。


「高坂、乗れるか?」

「っ……はい……すみません……」


 ふらつきながら横たわる高坂。

 その胸部に、内部圧の波が“跳ねるように”上昇するのを三人は肌で感じた。


(……これ、演習で済む状態じゃない)

 三輪は迷わず声を張った。


「搬送開始っ!! 佐久間、揺らすな!」


「了解!」


 タンカが持ち上がり、二人の息が合う。

 陸自の搬送訓練で最も重要なのは**「速度より全身の安定」**。

 揺れが強いほど、負傷者の状態が悪化する危険がある。


 砂利道を踏みしめ、一定のリズムで進む──その横を、白衣が風を切って駆け抜けた。


「あいかさん!? なんで演習場に……!」


 佐久間が叫ぶ。

 あいかは息を切らし、乱れた髪を押さえながらタンカへ並走した。


「急変の通知が……! 高坂くん、大丈夫!?」


「あ、あいか……さん……っ」


 あいかは走りながら脈拍センサーを装着し、即座に表示を確認した。

 数字を見た瞬間、表情が固まる。


「……速い……急激……これは危ない……!」


 声は震え、手袋を装着する指先がわずかに揺れていた。


「三輪さん、佐久間さん! このままの速度でヘブンズルームまでお願いします!」


「了解!」


 同時に、インカムへ指示を飛ばす。


『お美々! ジェル、温めておいて! 冷たいのは……彼、苦手だから……!』


 医療用ジェルは通常、室温保存だが、患者によって冷感がストレスとなり、

 痛み増強や排液工程の負担につながるケースがある。

 あいかは“高坂の負担を減らしたい”という思いで、毎回こっそり温めていた。


 基地の廊下に入り、三輪が速度をさらに上げる。


「佐久間、段差! いくぞ!」


「了解っ!」


 タンカの前後で声が飛び交い、揺れを最小限に抑えながら進む。

 その技術は、まさに訓練で叩き込まれる“実戦搬送”。

 息の合った二人の動きに、あいかは胸の奥が熱くなった。


(お願い……間に合って……!)


 高坂は痛みに眉を寄せ、呼吸が浅くなっていく。


「っ……あ……く……っ」


「高坂くん、頑張って……! すぐ処置に入るから……!」


 ヘブンズルームが視界に入り、三輪が最後の力を込めて走った。


「佐久間、持って行くぞ!!」


「任せろ!!」


 扉が自動で開く──

 その先には、唯、お美々、芽瑠が既に準備を整えて待っていた。


 気圧のような緊張が室内へ満ちる。


 あいかが叫ぶ。


「緊急排液処置──入ります!!」


 こうして、誰も予想しなかった“長時間の戦い”が始まった。



 ◇



 ヘブンズルームの緊急照明が落ち着いた青を灯し、

 複数のモニターが同時に起動した。

 処置台の上では、高坂が胸を上下させながら浅い呼吸を続けている。


「高坂くん、始めますからね……大丈夫、私が必ず支えます……」

 あいかは落ち着いた声を保とうと努めつつ、温めた医療用ジェルを準備した。


 芽瑠がモニター前に立ち、すぐに読み上げを開始する。


「脈拍一六四……膨張圧一九二……第二波平均値を大きく超過……

 波形、不規則……ピークの周期が短くなってる……!」


 数字ははっきり“危険域”を示していた。


「まず内部圧の一次調整から行きます……」

 あいかは慎重に手順を踏み、反応をうながしていく。


 数十秒後、芽瑠が声を上げた。


「下降反応、確認……内部圧、一段階低下……!膨張圧が一九二から一三八へ……!」


 第一処置は無事完了した。だが、誰も安堵しなかった。


(ここまでは順調……でも、問題は次……第二波は“二度目”が落ちない……)


 あいかは深呼吸し、表情を引き締めて次の段階へ移る。


「高坂くん……続けますよ。ゆっくり呼吸して……大丈夫だからね……」


「……はい……」


 第二処置が開始された。

 通常なら第一処置後に大きく低下するはずの内部圧だが──


「……あぃあぃ……これ……おかしい……」

 芽瑠の声が震える。


「膨張圧、一三八から……逆に上昇してる……!

 一五〇……一六二……一七八……波形が反転……!」


「第二処置中に上がるなんて……」

 唯が険しい表情で前へ出る。


 処置台の高坂が、苦痛をこらえるように歯を食いしばった。


「っ……く……あ……っ……!」


「高坂くん、大丈夫……! 内部圧の反応が遅いだけ……だから……!」


 あいかは励まし続けるが、数値は無情に跳ね続ける。


「膨張圧一九三……っ、ぎりぎり上限……このままだと危険域突破……!」


 芽瑠の声が震え、手が強く端末を握り込む。


「お美々、ジェル追加!」

「はい先輩っ!」


 温度調整されたジェルが次々に渡されるが、

 内部圧の反応は“下降”へ向かわない。


「……だめ……内部圧が均衡状態に入ってる……!

 このまま続けたら逆に張力が強まる……!」


 唯が即断した。


「ストップ! あいかちゃん、一旦止めて!これ以上は危険よ!!」


「……止める……?」

 あいかは手を止めた。


「内部圧が反転してるの! 今は“再調整のタイミング”じゃない!

 このまま進めたら、痛みだけ増して危険度が跳ねるわ!」


 唯の判断は正しかった。 第二処置は“未完了のまま”中断された。


 しかし──その瞬間。


「っあ……あああああ!! 痛い……っ、これ……中で、張って……!

 あいかさん……やめないで……お願いします……たすけ……て……!」


 処置台の上からあがった苦痛の声に、全員の呼吸が止まった。


 あいかの手が震え、瞳が大きく揺れる。


「こ、高坂くん……!?」


「止めないで……っ……破裂する……っ……苦しい……!」


 その叫びは、恐怖と痛みが混ざった、第二波特有の“圧迫痛の極点”だった。


「……唯先輩……」

 あいかの声はかすれていた。


「私……止められません……!

 高坂くんが、助けてって……あんな声で……!」


 唯も言葉を失う。


「でもあいかちゃん、内部圧のリスクが──」


「わかってます……! それでも……彼の痛みを見捨てられません……!!」


 その決意に、お美々も芽瑠るんも息を呑んだ。


(……あいか先輩が……唯先輩の判断より、患者さんの声を優先した……)


「あいかさん……っ……お願いします……!」


 処置台からの震える声。

 その声が、あいかの胸を強く締めつけた。


「……再度、処置を行います……!」


 あいかは涙をこらえ、両手を構え直した。


「芽瑠るん……内部圧の波形、逐一教えて……!

 唯先輩……危険域に入ったら必ず声をください……!

 お美々、ジェル追加準備!」


「はいっ!!」


 照明が再び強く輝く。


 緊急処置は──中断からの“再開”という異例の局面へ突入した。



 ◇



 処置が開始された瞬間、処置室の空気は一気に張り詰めた。

 白色照明は変わらず均一に天井を照らしているのに、影だけが濃くなる。

 循環ポンプの駆動音、モニターの電子音、消毒液の微かな香り。

 日常の医療室とまったく同じはずなのに、胸がつかまれるような緊迫感が漂っていた。


 高坂はストレッチャー上で呼吸が浅い。胸郭の動きが狭い。

 あいかは彼の肩に片手を置き、微かに震える声で呼びかけた。


「高坂くん……今から再開するからね……大丈夫……大丈夫だから……っ」


 言葉とは裏腹に、あいかの目は深い不安の色を帯びていた。

 冷静な看護師の仮面が今にも崩れそうで、しかし必死に保とうとしている。


「循環計、装着。尾美津、ライン再確認!」

 唯が短く指示を飛ばす。

 だがその声にも焦りが混じっていた。普段の軽度の冗談っぽさは消えている。


「ライン異常なし……血流抵抗、やや高めです唯さん!」

 尾美津が返す。


「ジェル温度保持、問題なし」

 お美々が追加する。


「……内圧曲線、また揺れてる……」

 芽瑠はモニター前で、眉を寄せたままデータを追い続けた。


 全員が理解していた。この処置は、もう“通常の排液対応”ではない。

 “圧の暴走”を食い止めるための、ほぼ救命に近い工程だ。


「……っ、あ……! あ……いか……さ……ん……!」

 高坂の声は震え、喉の奥で潰れそうになっていた。

 痛みの質が明らかに変わっている。表情筋の硬直、皮膚温の低下、四肢末端の冷え。

 どれもが“限界の兆候”だった。


「あいかちゃん、いったん止める!」

 唯が鋭く制止した。


「唯さん、でも……! 今止めたら圧が——!」

「分かってる! でもこの反応は危険域よ!」


 あいかの手が震える。

 一度止めれば、圧は跳ね返り、さらに増大する可能性がある。

 しかし続ければ、痛みの閾値を越え、高坂がショックに陥る危険もあった。


 そこで、弱々しい声があいかの胸を突き破る。


「……たす……け……て……あい……か……さ……ん…………」


 あいかの呼吸が止まった。

 涙が限界までせり上がる。


「……唯さん……わたし、続けます……! まだ……間に合う……っ!」


 震えながらも、声は強かった。


「行くわ。お美々、尾美津、全力で補助!」

「了解!」

「了解です!」


 処置が再開される。

 芽瑠はモニターに張り付いたまま、乱れる波形と数値を必死に追った。


「下降反応まだッ……! もっと深く……! 圧、あと0.3……いや0.2下がれば……!」


「高坂くん……大丈夫……大丈夫だから……わたしがいるから……お願い……応えて……っ!」


「……っ……あ……い……か…………」


 声は空気に溶けるように弱まり、

 高坂の眼差しから焦点が消え始めた。


「下降反応……きた……っ! 下降値0.4……0.5……っ——」


 芽瑠が叫びかけたその瞬間。


 モニターが跳ねた。


 波形が、乱れ、途切れ——


「……っ!? 唯さん、急落!!心拍、循環、全部……!これ……落ちる……!!」


「止めて!! あいかちゃん、ストップ!!」


「高坂くん!! ねぇ、高坂くん!! 返事して!! お願いっ……お願いだから……!」


 あいかの悲痛な叫びと同時に、高坂の胸郭が、ぴたりと止まった。


 次の呼吸は、来なかった。


 モニターの波形が一瞬だけ細かく震え、

 そして——


 ピーーーーーーーーーーーーーーーーーー。


 電子音が、処置室の世界を凍らせた。


 唯が息を呑む音。

 お美々の手が震え、尾美津が唇を噛み、

 芽瑠は画面に釘付けになったまま声を失った。



「高坂くん!! 返事して!!高坂くん!!!」


 あいかの必死の呼びかけにも、高坂は応えない。


「芽瑠るん……!! 波形は!? 心拍は!?お願い……何か……!!」


 芽瑠は青ざめたまま、端末を見て震える。


「……心拍……欠落……!!

 波形……平坦化……!!

 反応……ない……!!」


「嘘……嘘でしょ……!?

 高坂くん!! 聞こえる!? ねぇ!!」


 あいかの声が悲鳴に変わる。


「唯先輩!! 応援呼ばないと――」


「お美々!! 尾美津!!処置室入口の外、誰かまだいるはず!大声で――!」


 その瞬間。


 処置室の外で待機していた三輪と佐久間の耳に、

 あいかの張り裂けるような叫び声が突き刺さった。


「誰か――!!

 高坂くんが――っ!!

 お願い……助けて……!!」


 二人は同時に立ち上がり、

 処置室へ駆け込もうとしたところで――


 扉の向こうからもう一度、あいかの絶叫が響き渡った。


「いやぁぁああああ!!! 返事してぇぇぇぇぇ!!!!!」


 処置室の前で、三輪も佐久間も動けなくなった。


「いま……あいかさんの声……!?」「嘘だろ……何が……」


 重い沈黙の中、

 ただ機械の警告音だけが冷たく延々と鳴り続けていた。



 ピーーーーーーーーーーーーーーーーー。


──暗転。

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