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~高坂あおはるー⑥~

 午前中の演習は、第二波感染者が所属する小隊にとって、いつもよりざわついた空気のまま始まった。

昨日から基地内に広がり始めた“手首級事件”の噂は、もはや訓練内容よりも存在感を放っており、

教官でさえ微妙に機嫌が良さそうだった。


「お前らー、集中しろー。

 ……まあ、年上の巨乳ナースが担当なら、そりゃ手首くらい必要なんだよ。察してやれ」


 言った瞬間、空気が止まった。

 真顔でランニングをしていた隊員たちは一斉に振り向き、高坂も足がもつれかける。


 教官はまったく悪気がなく、むしろ励ましのつもりなのだろう。

 しかしその破壊力は最悪だった。


「……え、巨乳の看護師って……あいかさんだよな?」

「手首って……噂のやつ、マジなのか?」

「いや、待て。落ち着け。誰だよそのラッキーマン……」

「……高坂じゃね?」


 演習場の砂埃の中で、その名前だけ妙に鮮明に響いた。


(やめろ……やめてくれ……)


 高坂の心臓が跳ねる。

 周囲の視線が刺すように集まる。


 だが地獄はここからだった。


 午前の基礎訓練が終わると、休憩スペースで新たな噂が爆発的に広がり始めた。


「聞いたか? あいかさん…あの巨乳ナース、なんか裏があるらしいぞ」

「深夜でも呼んだらすぐ来るらしいぞ。“特別対応”ってやつ」

「手首サイズ限定サービスって噂だぞ」

「は?なにそれ。え、もうそういう……そういう職種?」

「いや、違うけど、ほら……“あの子は優しすぎる”ってことで有名じゃん? あれ絶対裏あるわ」


 完全に誤解であり、悪意と妄想が混ざった下劣な脚色だった。

 だが、噂というのはこうして形を持ち始める。


「しかも高坂専属らしいぞ」

「専属って……あの人、男の扱い慣れてる感じ出してたもんな」

「わかる。“お兄さん系に弱そう”みたいな雰囲気あるよな」

「いや、逆に“年下に甘すぎる”って線もある。あれ絶対人タラシだろ」


 どれもこれも、あいか本人とは無関係のデタラメだった。

 しかし、一度“色”のついた噂は簡単に増殖する。


「てかさ。噂聞いたか?

 高坂が呼んだらあいかさん…朝でも夜でもニコニコしながら、走って来るってよ」


「は?マジ?なんだよそのスーパー待遇。医官より対応早いじゃん」


「しかも聞いた話だと、“起点サイズに応じて対応が変わる”って噂だぞ。

 つまり……高坂は特大扱いってことだな」


「ふざけんなよ!! じゃあ俺らなんだよ、雑魚対応か!!?」


 怒号混じりの嫉妬があちこちで弾けた。

 一部の隊員は信じていないが、信じる者は本気で怒っている。


「高坂だけ優遇とかムカつく」

「ナースに気に入られてるんだろ」

「俺らには素っ気ないくせに……」

「いや、素っ気なくねぇよ?普通だよ。なんで色つけて話してんだよ」

「うるせぇ。嫉妬だよ嫉妬!」


 このあたりから内容はもはや下品な悪意の塊に変わっていく。


「やっぱあのナース、“男慣れしてる系”だわ」

「優しすぎる女は信用ならんて。絶対、裏で何やってるかわからん」

「高坂ってあいかさんのタイプだったんだな。羨ましいけど、ちょっと引くわ」

「ていうか、手首サイズじゃなきゃ構ってもらえないってマジ?」

「お前ら全滅じゃん」

「黙れ!!」


 すべて根拠ゼロ。

 だが、“それっぽく聞こえる言い方”だけで誰かの名誉が崩れる瞬間は、こうして生まれる。


 そして、何よりも耐えられなかったのは――


(……あいかさんの名前……こんな風に使われるの……嫌だ……)


 高坂自身が、あいかと“そんな関係”ではないことを誰より理解している。

 彼女は誠実で、真面目で、患者に対して誠心誠意で向き合ってくれただけだ。


 しかし、噂の中では

「深夜も呼べば来る」

「手首サイズ限定の特別サービス」

「デカいの大好き巨乳ナース」

という歪んだ悪意を帯びた人物像に変えられてしまっている。


 その歪みの中心に、自分がいるのが何より最悪だった。


(俺のせいだ……

 俺が噂を“広めてくれ”なんて言ったから……

 こんな形で……あいかさんが……傷つく……)


 胸の奥がぎゅっと縮み、昼食の味もよく分からないまま箸だけが動く。

 視線が刺さる。ヒソヒソ声がついてくる。


 食堂を出る頃には、心が重く沈んでいた。


(あいかさん……どう思ってるんだろう……

 こんな噂、絶対聞こえてるよな……)


 午後の処置時間が近づくにつれ、高坂の足は少しずつ重くなっていった。



 ◇



 午後の処置開始前、医務ブロックの空気はどこか落ち着かず、

ざわついた会話がお美々たちの耳に入り続けていた。

廊下を歩くだけで情報が飛び込んでくるほどには、噂が異常なスピードで広がっているらしい。

お美々はトレイを抱えたまま眉を寄せた。


「……また変な広がり方してますよ、これ。

 “特別対応があるらしい”とか……完全に尾ひれついてます」


 隣でカルテ整理していた尾美津も、ため息混じりに頷く。


「読めないデータは読めないのに……噂だけは見事に伝わりますね。

 しかも内容、医学的に一切整合性ありませんし」


「というか……悪意が強いです……」


 そこへ、颯爽とカフェの紙コップを掲げながら唯が入ってくる。


「来たわよ、最新の噂。高坂くん“手首級”事件が、ついに医務室にも正式上陸よ!」


「正式ではないです!!」

 あいかの声が一段高く跳ねた。


 皆の視線が一斉にあいかへ向く。それだけ、彼女の反応は珍しかった。

 頬はわずかに赤く、カルテを持つ指が少しだけ強ばっている。


「ほらほら、あいかちゃんが動揺してる。

 普段は冷静沈着なのに……珍しいじゃない?」


「ゆ、唯先輩。私は……動揺なんて……!」


「じゃあ聞くけど。

 “あいかちゃんは夜でも呼べばすぐ来る”って噂、どう思う?」


「そんな事実ありません!!

 深夜帯の対応は当番制です! ルールがあります!!」


「はいはい、知ってるわよ。

 でも噂って事実と別の場所で肥大化するのよねぇ……」


 唯はご機嫌な様子でコーヒーを啜る。

 芽瑠が端末から顔を上げ、やや冷静な声で補足した。


「第二波感染者の身体変化は個体差が大きいので……本来、騒ぎにする話ではありません。

 けれど……今回は噂の方向が“医学的ではない”。そこが問題ですね」


「そうなんですよ……」

 お美々が肩を落とす。


 しばらく沈黙が落ちる。その中で、あいかの口がゆっくりと開いた。


「……高坂くん。午前中、元気なかったんです」

「だろうね。噂あれだけ広がったら、そりゃ落ち込むでしょ」

「でも……それ以上に……私、心配で……」


「ほほう?“それ以上に”って、どういうことでしょう〜あいかちゃん?」


「ち、違っ……! あの、その……!!」


 唯はニヤニヤしながら口元を隠し、お美々と芽瑠が顔を見合わせる。

 誰も指摘しないが、“噂の中心に自分の名前がある” という事実は、

 あいかにとってかなりのストレスなのは明らかだった。


 そこへ、唯の追撃が入る。


「でもさ、あいかちゃん。昨日“立派でいいじゃない。素敵よ?”って本気のトーンで言ってたよね?」


「っ……!!あ、あれは医療者として、患者さんを勇気づけるためで……!」


「医療者の“所見”として言う言葉じゃなかったと思うけどなぁ?」


「唯先輩!!!」


 あいかの声が裏返り、胸元に抱えたカルテが揺れる。


 そのやりとりを見て、芽瑠は小さく息を吐きながら言った。


「とにかく、噂の拡散速度が速すぎます。内容に医学的根拠がない以上、高坂くんだけならまだしも……

 あぃあぃへの影響が懸念されます」


「……そうですね。私も心配です」

 お美々は同意するように頷く。


 あいかは胸に手を当て、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。


(私のせいで……高坂くんが困っている。そして……私自身も、変な誤解を受けている……)


 その胸のざわつきを振り払うように、あいかは記録端末を閉じて深呼吸をした。


「……私、行ってきます。今日の午後も担当ですから。高坂くん、落ち込んでませんように……」


 その背中を見送る唯が、ぽつりと呟く。


「……ほんと、わかりやすい子ねぇ」



 ◇



 午後の処置室は、午前中の噂とは対照的に静かだった。

 機器の駆動音だけが穏やかに響き、空気はやわらかく澄んでいる。

 そこへゆっくりと入室した高坂は、肩の力をうまく抜けず、あいかを見るなり小さく頭を下げた。


「……あいかさん。あの……本当に、すみません。

 俺のせいで……あいかさんの名前が変な噂に巻き込まれて……」


 その声音には朝から積もった悩みが詰まっていた。

 あいかはその表情を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと痛む。

 噂は確かにひどい。けれど、もっとつらい思いをしているのは高坂だ。


「高坂くん……顔、少し疲れてるね。午前中……大変だったでしょ?」


「いや、それより……あいかさんに迷惑が……」


「迷惑なんて思ってないよ」

 あいかは一歩近づき、その声は驚くほどやわらかかった。


「噂を信じる人もいるだろうけど……私は、私が見た“高坂くん”だけを信じてるから」


 その一言に、高坂は言葉を失う。

 真面目で、不器用で、だけど一生懸命な彼を真正面から肯定してくれる声。

 あいかのまっすぐな瞳が痛いほどに沁みた。


「だから……自分を責めないで」

 あいかは胸元にカルテを抱いたまま、そっと微笑む。


「それに……」

 ほんのわずかに頬が赤くなりながら続けた。


「私は平気だから。その……細いよりも、太いほうが、いいから、ね?」


 高坂の頭が一瞬真っ白になる。


「えっ……あ、いや……あの……!?」


「もちろん医学的な意味でね!」

 あいかが慌てて付け加える。だが声が小さく、説得力はほぼゼロだった。


「第二波の身体変化は個体差が大きいし、

 “太い”っていうのは、生理学的に問題がない範囲ならむしろ良好なの。

 だから……高坂くんの状態は……その……」


 視線が泳ぎ、言葉がうまく出てこない。

 そんなあいかの姿を見て、高坂の胸にあたたかいものが広がった。


「あいかさん……」


「じゃ、じゃあ……始めますね」

 照れ隠しのように声を整え、あいかは処置用の手袋を静かに装着した。


 灯りを調整し、計測機器を起動し、いつもの手順を、丁寧に、正確に。


 その一つひとつが、

 “噂で揺れても揺らがない彼女の誠実さ”を示しているようだった。


 あいかは起点部位を慎重に確認し、軽く触れて状態を測りながら、微笑む。


「うん……今日も安定してる。そして……高坂くんのは、やっぱり……立派ですよ」


 あまりに自然で、あまりに真剣な声だった。

 その言葉が“甘やかし”でも“慰め”でもなく、

 医学的な所見としての信頼だとわかるからこそ胸に響く。


「……ありがとうございます。あいかさんが、そう言ってくれるなら……俺、もう大丈夫です」


 高坂の声は震えていたが、そこには覚悟と前向きさが宿っていた。


「噂なんて……どうでもいい。俺、ちゃんと自分の身体と向き合います。

 そして……あいかさんに迷惑かけないように、もっと強くなります」


 あいかは一瞬だけ驚き、それから柔らかく微笑んだ。


「うん。大丈夫だよ、高坂くん。あなたは、ちゃんと前を向ける人だから」


 処置室に落ちる静かな光の中で、二人は小さな決意を胸に共有した。

はーい、唯でーす。今日の医務室? もう大騒ぎよ。

噂は勝手に育つし、高坂くんはオロオロするし、

あいかちゃんは相変わらず“過保護ナース”発動してるしで、

見てるこっちはずっと笑いこらえるのが大変だったわ。


でもね、一番びっくりしたのは本人よ本人。

「細いよりも、太いほうがいいから、ね?」

……あれを真顔で言っちゃうんだから、もうアウト。完全にアウト。

医療者モードのつもりでも、言葉の破壊力がすごいのよ。


あ、ちなみに私も同意ね♪

細いより太いほうが、見てて安心するじゃない。

医学的に、よ? 多分、ね。


次回も医務室は平常運転のカオスよ。お楽しみに。

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