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~高坂あおはるー⑤~ ※挿絵あり

 午前中の演習を終えた相馬原駐屯地は、砂埃の残り香と汗の湿度を帯びた空気がまだ漂っていたが、

高坂の身体はそれを苦にしないほど軽さを保っており、第二波感染による体力回復の早さが、

むしろ不自然なほど自然に自分の身体に馴染んでいた。

射撃姿勢を崩さず走り続けた脚も、腕も、呼吸も、休憩を挟むたびに何事もなかったかのように整い、

以前の“疲れる自分”が遠い記憶になりつつあることを、高坂は複雑な感覚で受け止めていた。


 訓練後、昼食のために食堂へ向かう廊下を歩くと、ざわめきや金属音、

重い装具が机に当たる音が混ざり合い、いつもの隊内の生活音が広がっていた。

その雑多な響きのなかに、ふと自分の歩調を乱す声が紛れ込む。


「……だから“手首サイズ”だって……」

「若い第二波の隊員らしいぜ」

「もし本当なら……いや、正直こえぇよな」

「人間でそんな太さになるか? 信じられねぇって……」


 その何気ない噂話は、冗談めかした笑いも混じっていたにもかかわらず、

言葉の端が高坂の胸の奥で妙に重さを持って沈んでいき、歩みかけた足がほんのわずかに鈍る感覚が生まれた。

誰かに呼び止められたわけでもないのに、一瞬だけ世界の温度が変わる。

振り返りたくなる衝動と、振り返ってはいけないような直感が同時に走り、身体の内側を静かに揺らす。


(……手首、なんて……そんな話、あるわけ……いや、でも……)


 心の中で否定の言葉を並べたつもりだったが、それは思考の外側に触れただけで、

本心の部分では何か別の感情が濁っていることを、高坂は無意識に理解していた。

“最近の自分の変化”に気づいていないほど鈍感ではない。

毎朝シャワーを浴びるたび、視線を逸らすようにして確認せざるを得ない“あれ”は、

以前とは比較にならないほど変わっている。

しかし、それがどれほど異常なのか、その基準は持ち合わせていなかった。

第二波反応の一種と考えて黙ってきただけで、医療者側があえて詳細を伝えない優しさに、

自分が気づけていなかっただけかもしれない。


「高坂ー! どした、早く座れ!」


 明るい佐久間の声が背中を叩くように届き、高坂は短く返事をして席へ向かった。

三輪と佐久間が向かい合って座っており、昼食の湯気が二人の表情を柔らかく包んでいる。

だが、自分がトレーを置いても、心はどこか食堂に馴染めず、箸を持つ指先がやや強張っているのが分かった。


「お前、さっき廊下で変な顔してたぞ。疲労? それとも噂のせいか?」


 軽い調子の問いかけに、胸の奥で小さな痛みが走る。


「……噂、って……なんのことですか」


 自分でも驚くほど声が硬かった。佐久間が苦笑交じりに言う。


「“第二波の誰かが手首サイズ”って例のやつだよ。くだらねぇから気にすんな。

 そんなもん実在するかっての」


 三輪も大袈裟に肩をすくめる。


「だよな。手首サイズなんて、もう怪物ネタだろ。人間でそんなのありえない」


 その言葉は笑いに混じった軽口でしかないはずなのに、

高坂には、胸腔の内側を少しずつ締め付けてくる重石のように響いた。

三輪や佐久間に悪意がないのは理解している。

しかし、その“当たり前の反応”こそが、自分がいま抱えている現実を鏡のように突きつけてくる。


(……俺は、人間として“ありえない側”のほうなのか……?)


 箸を動かすたびに、胸の奥がざわつく。

 自分が噂の中心である可能性を完全に否定できない事実が、心を静かに追い詰めていく。


 さらに最悪なのは──

 この噂が、医療側や処置に関わるナースたちの信頼まで揺らす可能性があることだ。


(……あいかさんまで、変な目で見られたら……そんなの絶対、嫌だ)


 午後の処置を思い浮かべる。

 いつも丁寧で、優しくて、必要以上にこちらを気遣ってくれるあいかの顔が浮かび、

 胸の奥で決意が形を作り始めた。


(……逃げずに聞こう。あいかさんに……

 俺の起点は、本当に……“噂の通り”なのか。

 第二波の変化として正常なのか、異常なのか……

 そして──女性から見たら、やっぱり“化け物”なのかどうか……)


 怖い。

 けれど、このまま曖昧にして噂が膨らめば、もっと嫌な結果を生む。


 昼食を終え、外気に触れると、冬の冷たさが肺に入り、ようやく呼吸が深くなる。

 高坂は手のひらを固く握り、午後の処置へ向かう廊下を、意識して一歩一歩踏み出した。


(今日……あいかさんに全部聞こう。どんな結果でも、逃げない)


 そう決めることで、胸の揺れが少しだけ静まった。


 

 ◇



 昼食を終え、三人は歩調を合わせてヘブンズルームへ向かった。

 相馬原駐屯地の廊下は、午後の静けさを帯び始めており、外の冬光が窓辺で薄く揺れる。

 訓練を終えた隊員らがそれぞれの持ち場に散っていく気配が薄まり、

 次の勤務帯へと空気が切り替わる時間帯だった。


 ヘブンズルーム前に着くと、入口の自動扉が静かに開き、

 あいかが白衣の袖を整えながら迎えてくれた。

 

その微笑みはいつも通り柔らかいはずなのに、すぐに高坂は気づいた。

 彼女の視線が、ほんの一瞬、自分の表情を探るように揺れたことに。


「高坂くん、おかえり。午前中、演習だったんだよね? 大丈夫?」

「はい……問題ありません」


 返答はしたが、声の芯がどこか頼りない。

 あいかはその小さな揺れを見逃さない。


「……今日、なんだか元気ない、よね?」


 やわらかな問いかけに、高坂は少しうつむく。

 噂のことを口にしたいのに、胸の奥に溜まったもやが邪魔をして、

 言葉が滑り出てこない。


 準備台に横になり、機器が作動する軽い音が響く。

 ラインを整え、消毒を進めるあいかの手つきはいつもの通り丁寧で、

 その細やかな工程が、逆に高坂の沈黙を際立たせていく。


「痛かったら言ってね。無理に我慢しなくていいから」

「……大丈夫です」


 その返事もまた、どこか曖昧で、

 あいかは一瞬、眉を寄せた。

 それは医療者としての懸念ではなく、

 “彼が何かを抱え込んでいる”ことへの気づきだった。


(やっぱり……噂のこと、気にしてるんだ)


 あいかは心の中で小さく息をついた。

 唯に揶揄われることは分かりきっている。

 それでも──

 今日の高坂には、少し強めの支えが必要だと感じていた。


 処置を進めながら、あいかは自然な口調で言葉を落とす。


「……噂のこと、だよね?」


 高坂の肩が、わずかに震えた。

 否定しようとする前に、あいかが続ける。


「立派でいいじゃない。……素敵よ?」


 ためらいのない声音。

 それでいて、照れも迷いも抱えた“ひとりの女性”の温度が確かに宿っていた。


 処置室の空気が揺れ、

 処置室の空気が揺れ、唯が『……あいかちゃん?』と眉を上げた。


(あいかちゃん……今日ほんとに振り切ってるわね……)


 だが、唯の胸にも、噂が高坂をどれだけ傷つけたかが察せられた。

 その痛みがわかるからこそ、笑い飛ばすことはしない。


 処置が終わり、機器が静かに停止する。

 高坂が身を起こそうとしたその瞬間、

 あいかが清潔な白いタオルを数枚手に持って近づいた。


「高坂くん。演習で汗もかいてるでしょ?

 今、処置終わったばかりだから……私が身体、拭いてあげる」


 その申し出は、医療者としての気遣いであることは明らかだったが、

 同時に、周囲から見れば“甘やかし”そのものだった。


「い、いえっ……! そこまでは……自分で……!」

 高坂の耳まで赤くなる。


「気にしなくていいよ?

 午前中、すごく頑張ったんだから。ね?」


 あいかの声はやわらかい。

 けれど、その優しさは度を越していて、

 唯がつい額を押さえる。


「……あいかちゃん。その辺でやめときなさい」

「え?」

「ほら、高坂くん……完全に引いてるから」


 高坂は両手を振って否定するが、

 その焦りが、逆に“引いてる感”を増幅させてしまい、

 唯がため息をつく。


 けれど唯自身も、

 噂の内容がどれほど彼を追い詰めたかを知っていたため、

 最後は小さく微笑んだ。


「……ま、あれよ。

 あいかちゃんの気遣いって、こういう形になるんだから。

 悪気はゼロよ。むしろ百パー善意。

 だから高坂くん、気にしなくていいわ」


 その言葉が静かに落ち、

 処置室には柔らかな空気が戻っていった。


挿絵(By みてみん)



 ◇



 夕食後の相馬原駐屯地は静かだった。

 演習日特有の重たい疲労が漂うはずなのに、高坂の足取りだけは妙に落ち着かない。

 昼の処置室でのことが、何度も胸の奥で反芻されていた。


(……“立派でいいじゃない。素敵よ?”

 あいかさん……本気で言ってくれたんだよな……)


 励ますための言葉だったのは分かっている。

 だが、あの柔らかい声と、真正面から向けられた肯定は、

 噂で塗りつぶされかけていた自己否定を、一気に溶かしてしまった。


 唯一先輩の“意味不明だけど妙に効く励まし”も追い打ちになっていた。


(“あいかちゃんがGカップなんだから、あんたも手首くらい必要よ”って……

 いや、論理は完全に破綻してるけど……でも……なんでか、悪い気しなかったんだよな……)


 なぜか胸が軽い。

 昼まで感じていた“化け物扱いされてるんじゃないか”という不安が、

 ふっと薄れていく感覚があった。


 だが、なくなったわけではない。


 噂はまだ駐屯地に流れている。

 今この瞬間も、誰かが勝手に脚色しているかもしれない。


(……それなら。

 変に歪んで広まっていく前に、俺から正しく言ったほうがいい)


 そう思ったときには、もう身体が動いていた。

 寮の談話室の前に立ち、ドア越しに聞こえるテレビの音を確認する。


 中では佐久間と三輪が、ジャージ姿でカップ麺をすすっていた。

 いつもの光景。

 だが今日は、胸にひとつだけ“伝えなければいけないこと”があった。


「……あのさ」


 二人がほぼ同時に振り返る。


「おー、高坂。顔つき変わったな?

 昼の演習で悟りでも開いたか?」


「さっき処置終わったばっかじゃねーの? 疲れてねーの?」


 軽口。

 日常の空気。

 だが今は、その空気が逆にありがたい。


「ちょっと話、いいか?」


「なんだよ、改まって」


「深刻なやつか?」


 三輪と佐久間が姿勢を正す。

 高坂は息を一度整え、胸の奥に残っていた不安を言葉に変えた。


「……“手首級”って噂、あるだろ?」


「ああ、あるな。

 どこの誰か知らねぇけど、まあ誇張だろ」


「人間じゃねぇだろアレ。笑うしかねぇわ」


 高坂は、逃げずに続けた。


「……たぶん、それ……俺のことだ」


 テレビの音だけが残り、空気が凍る。


「………………は?」


「………………どういう意味だ?」


「そのまんまの意味だよ。

 俺の起点……第二波反応で……サイズが変わって……

 ほんとに“手首くらい”なんだ」


 佐久間が目を見開く。

 三輪の箸が止まる。


「お、お前……マジで言ってんのか?」


「ああ。

 今日の処置で測られた。

 ……あいかさんも唯先輩も、ちゃんと見てた」


「いやいやいや待て、待て待て待て……」

 三輪が額を押さえる。


「……つまりだ。

 噂の“手首級の化け物”って……お前なんか?」


「化け物は余計だ!!」


 言いながら、高坂自身も思わず笑った。

 昼間まで刺さっていた棘が、いつの間にか痛みを失っていた。


 佐久間が、唐突に笑い出した。


「……なんだよ……

 お前、落ち込んでたのってそのせいか!!

 言えよバカ!!」


 三輪も肩を揺らす。


「つーかさ。

 それだけで噂が暴走するなら……

 正しく広めてやれば逆に面白いんじゃねーの?」


「だよな。

 歪んで広がるくらいなら、本人公認のほうがスッキリする」


「お前の名誉のためにもな」


 その言葉に、高坂は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


「頼む。

 二人に……広めてほしい。

 脚色なしで。

 俺が言ったってこともまとめて」


「任せろ」


「しゃーねぇな、英雄扱いしといてやるよ」


「英雄じゃねぇ!!」


 三人の笑い声が、談話室いっぱいに広がった。


(……あいかさん

 唯先輩……

 俺、ちょっとだけ強くなれたかもしれない)

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