~高坂あおはるー④~
相馬原駐屯地・訓練場。
冬の乾いた風が砂粒を舞い上げるころ、
第二波感染者の若い三人──佐久間(20)、高坂(23)、三輪(23)は、
射撃前の点検を終え、土嚢の陰で水分補給をしていた。
「……なぁ、二人とも。今日、体軽くね?」
三輪が自分の胸鎖関節をぐいと押しながら呟く。
「軽いっていうか、戻るの早すぎて“疲れた気がしない”んだよな」
佐久間が水筒を傾けたあと、息を吐く。
高坂も、帽子の庇を軽く指で押し上げながら同意する。
「呼吸数の戻り、明らかにおかしいよな。
昨日も夜、3時間しか寝てないのに、脈がいつもの範囲で安定して……」
三輪が笑う。
「お前、もう医療班みたいな言い方だな」
高坂は苦笑するしかなかった。
(だって……あの科の看護師さん達、モニターの数字全部言ってくるんだもん……
俺も覚えるに決まってるだろ……)
第二波感染者特有の代謝回転の速さ。
筋持久の異様な回復。
隊内ではまだ公式には共有されていないが、
彼ら自身は“自覚”し始めていた。
その時、遠くで非感染者の先輩隊員たちが
こちらをちらちら見ながら話している声が漏れた。
「……例の五人、今日も元気すぎじゃね?」
「訓練後の息の戻りが異常だろ。なんだあいつら」
「しかも例の“処置”受けてるって噂だろ……羨まし──」
三輪が眉だけ動かし、小さく笑った。
「聞こえてるっつーの」
佐久間も肩を揺らす。
「まあ、分かんないでもないけどな。
**“処置受けてる=あの科のナースが担当”**って誤解されてんだよ、絶対」
三輪「いや誤解じゃないだろ」
佐久間「確かに」
高坂「否定は……できない……」
言葉の温度が変に甘くなるのを自覚し、
三人は同時に咳払いした。
──その時、高坂の耳裏で、さっき聞こえた“噂”が再び蘇る。
(羨まし……の続き、絶対“羨ましい”だよな……)
非感染者から見たら、
第二波の排液処置は恐ろしく生々しい“誤解”を生む。
“毎日あの看護師さんが担当で処置してくれる”
──それだけで妄想は暴走する。
だが実際には、
医療用語が飛び交う硬い空間で、
処置は純粋な医療だ。
甘さなどひとつもない……はずなのに。
佐久間が突然、肘で高坂の脇腹をつつく。
「お前さ……今日のあれ、マジだったの?」
「な、何がだよ」
「唯さんの“ご立派ね事件”」
「やめろ思い出させるなっ!!」
三輪が腹を抱えて笑う。
「俺はあいかさんが“取り乱した”って話の方が気になるわ」
「取り乱した訳じゃなくて!
あれはその……唯先輩が乱入したからで……!」
「で、“彼は私のです!!”って?」
「違うって言ってるだろ!! 担当って言いたかっただけだ!!」
三輪も佐久間も、
高坂の反応を見るのが面白くて仕方ない様子。
だが、ふいに佐久間が真面目な声になった。
「……でもさ、高坂。
お前、やっぱ変わったよな」
「え?」
「だって今日さ、走っても崩れない。
筋持久も跳ね上がってるし……
何より“自信”出てきてない?」
高坂は否定しようとして、
喉奥で言葉が止まった。
(……唯先輩が囁いたあれ……
『あいかちゃん、君のでも大丈夫みたいよ?』
あれ、効いてる……)
意識していないつもりでも、
確かに、心の底で何かが変わってしまっていた。
三輪が腕立て伏せの姿勢を取りながら言う。
「よし、高坂。第二波感染者の筋持久、見せてもらおうか。何回いける?」
佐久間「やる気満々じゃん」
高坂「やめろって……!ここ訓練中……!」
しかし、腕を下ろした瞬間──
身体が軽い。
本当に軽い。
呼吸が乱れない。
関節の可動域が妙に広い。
地面を押す反動が素直に跳ね返る。
三輪が目を丸くした。
「……おい、嘘だろ。まじで何回いけんだよそれ」
佐久間も苦笑する。
「これ……非感染者が見たら嫉妬で泣くぞ」
高坂自身も実感していた。
(あいかさんが“無事に処置できたから大丈夫だよ”って言ってくれて……
そこからだ……身体が、心が……軽い……)
自衛官としての身体。
第二波としての生理反応。
そして、担当ナースの言葉が与える精神的影響。
三つが重なると、人間はここまで変わるのか。
その変化に、
当の本人たちはまだ気づいていなかった。
──ただひとつ。
「あいかさん……俺……もっと……」
喉奥で呟きかけた言葉を、
高坂は砂の音でかき消した。
まだ言葉にできない気持ちが、
胸のどこかで熱を持って揺れていた。
◇
午後訓練の合間。
冬の冷たい空気が営内の乾燥室に流れ込み、整然と吊るされた迷彩服の裾をわずかに揺らしていた。
三人──高坂、佐久間、三輪は、朝の訓練で消費したエネルギーを補うように、
プロテインバーをぼりぼり噛みながら座っている。
「……にしても、お前らほんっと息の戻り早いな」
近くを通った非感染者の先輩が呟いていく。
「第二波ってやっぱ違ぇんだな。羨ましいわ」
「処置受けてるからじゃねーの?」
「毎日ナースと個室だろ? ずりぃよなぁ」
その“ずりぃよな”の語尾だけ、やけに湿った嫉妬が混じっていた。
三輪は半眼になり、佐久間は鼻で笑う。
高坂は……聞こえないふりをして、視線を落とす。
(……まただ。誤解されるの、今日だけで何回目だよ……)
本当は機械音と医療用語ばかりの無機質な空間。
「個室」という単語が勝手に“変な想像”を呼ぶだけなのだが、
それを説明するのも虚しい。
「でもよ、聞いたか?」先輩隊員の声がまたひそひそと聞こえてくる。
「第二波5人のうち1人、“なんか特徴すごい”って噂……」
「へいへい出たよ噂話」
「筋力か? 回復速度か? どれだよ」
「いや、そこがさ……“違う場所”らしいんだよな」
──高坂の喉が瞬間的に締まる。
しかしすぐに佐久間があくびしながら言った。
「くだんねぇな。男ってほんっと暇だと馬鹿な噂流すよな」
三輪も同意するように肩をすくめた。
「“違う場所”って言ったってあれだろ?
どうせ、排液処置がどうだとか、そういう恥ずかしい連想だ。
絶対、誰かが盛って話してんだよ」
「な?どいつもこいつも暇で醜い“男の嫉妬”だって」
佐久間が笑う。
三輪は机を軽く叩いて言った。
「でもまぁ……分からんでもないけどな。
俺ら毎日動けすぎて、“異常だろ俺ら”って感じだし」
高坂は「異常」という言葉に僅かに反応した。
(……いや、“異常”なのは俺のほうじゃ……)
しかし胸の内で呟くだけだ。
佐久間は先輩隊員たちのひそひそ話に向けて、
わざと聞こえるように言った。
「つーか! 第二波のこと気にする暇あったら腹筋しろ! 腹筋!!」
「そうそう!疲労回復早いのは事実だけどよ、
筋肉は勝手につくわけじゃねぇっての」
三輪が笑いながら追加する。
「噂する暇をトレに回せば、お前らも多少は動けるようになるんじゃね?」
非感染者たちが
「なんだとコラ……」と不満げに返す。
高坂は思わず口を挟んだ。
「あ、あの……ほんと、噂とか……
そんなの、ないですから……」
その必死のトーンが、逆に場を止めた。
「え? ないって何が?」
「……お前、なんか心当たりあんの?」
「な、ないです!! ないです!! 本当に!!」
高坂は全力で否定した……が。
三輪(こいつ……否定が必死すぎて逆に怪しい)
佐久間(……まさかな。でも面白ぇから黙っとこ)
ふたりは高坂が“噂の中心”だと、これっぽっちも思っていない。
けれど高坂の焦りは隠しきれてない。
先輩隊員たちは「……なんかあるな」と勝手に納得して散っていった。
三輪が首をかしげる。
「なぁ高坂。……お前、なんか隠してねぇか?」
「な、ないっ!!」
「じゃあそういうことでいいけどよ、お前の焦り方、
完全に“濡れ衣を着せられた人”じゃなくて“図星つかれた人”の反応だったぞ?」
「違うって!!」
佐久間が肩を叩きながら笑う。
「ま、いいじゃねぇか。“噂の中心”が誰かなんてどうでもいい。
俺らは俺らで訓練して、数値出して、ちゃんと生活してるんだからよ」
そして三輪が最後にまとめる。
「噂なんか気にすんな。俺ら感染者は“数字で証明されてる強さ”がある。それだけで十分だろ?」
高坂は少しだけ呼吸が楽になった。
──彼らはまだ知らない。
本当に噂の中心にいるのがこの“高坂”その人であることを。
◇
21時。点呼後の営内は、静寂が降りていた。
廊下を通り抜ける暖房の低い唸り声と、数人がシャワー室に向かう足音が遠くに聞こえるだけ。
高坂、佐久間、三輪の三人は、二段ベッドの下段に腰を並べていた。誰もスマホを触らない。
ただ、今日一日の違和感が胸に残ったままだ。
沈黙を破ったのは三輪だった。
「……さ。今日さ……お前ら、なんか“変わった”って思わなかった?」
佐久間が上を向いたまま答える。
「変わった?もうずっと前から変だろ。
朝から無限に動けるし、筋肉痛ほぼゼロだし……第二波ってのは、こういうもんなんだろ」
「いや、それだけじゃなくてさ」
三輪は膝を抱え、視線を落とした。
「俺……今日の噂聞いて思ったんだ。 “ああ、俺らもう、普通の隊員じゃないんだな”って」
高坂は僅かに肩を震わせた。
今日、噂の中心に名前こそ上がらなかったが、“特徴がある”と誰かが言うたび、心臓が跳ねた。
「普通じゃなくなるって……なんか、怖くねぇか?」
佐久間は息を吐く。
「怖い? まぁ分かるけどよ。でも、“怖いまま働くしかねぇ”のが俺らの仕事だろ。
自衛官って、そういうもんじゃん」
三輪「それはそうなんだけど……」
高坂が、ためらいながら言葉を挟む。
「……俺、今日……噂のやつ……ちょっと自分かと思ってビビった」
二人が同時に振り向く。
「は?」
「なんでお前なんだよ」
「いや、なんでって……あの……」
高坂は口をつぐむ。“手首サイズ”なんて言えるわけがない。
自分でも把握しきれていない現象を、どう説明すればいい?
三輪がにやりと笑う。
「高坂、お前……“なんかある”って思われてるの自覚してるんだな?」
「ち、違うっ!! そうじゃなくて!!ただ、その……唯先輩が処置中に乱入して……!」
佐久間が吹き出す。
「あれか、“ご立派ね事件”」
「やめろぉぉぉぉ!!」
三人の笑い声が、営内の静けさに吸い込まれる。
しかし、笑いが落ち着いたあと、佐久間がまっすぐ高坂を見る。
「でもな高坂。お前が怯えてても、誰もバカにしねぇよ。俺ら、仲間だし」
三輪も頷く。
「そうだ。噂なんかより、俺らが“どう動けるか”のほうが大事なんだよ。
第二波で変わっていく自分を、怖がるな」
高坂は、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
「……うん。ありがとう……」
三輪がふっと笑う。
「しかしよ。あの科のナースさん達……特にあいかさん、本気でお前のこと気にかけてるよな?」
「なっ……!!?」
「今日なんかさ、処置後にお前のことずっと見てたぞ」
佐久間が続ける。
「“大丈夫かなぁ……”みたいな顔で」
「そ、それは……俺が、第二波……だからだろ……?」
「いや、男から見ても分かるわ。あれは“特別扱い”だな」
「違うってばぁぁぁ!!!」
三輪が枕を投げる。
「でもまぁ……羨ましいよな。お前、ほんとに“青春してる”感じするもん」
「青春……?」
「そう。俺らみたいな仕事してるとさ、仕事と訓練だけで人生終わること多いだろ。
でも、お前……なんか、“誰かに気にされる”ってやつを味わっててさ」
その言葉が、高坂の胸に静かに刺さる。
(……あいかさん、俺のこと……本当にそんなふうに……?)
言葉に出せない感情が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
佐久間が大きく伸びをする。
「よし! 明日も走るぞ。第二波の力っての、上官に見せつけてやろうぜ」
三輪「おう!」
高坂も、少しだけ迷いが晴れたように言う。
「……うん。頑張る」
──この夜、三人とも気づいていなかった。
高坂だけが、“別ベクトルの異常”を抱えていることを。
そして、まだ誰も気づいていなかった──その日の出来事が後に影響を与えることを。




